放牧から戻る頃には、身体中がまだ走り足りないってうずいてた。
でも不思議と、心は妙に静かだった。
なんだろうな……
走っただけなのに、世界の輪郭がクッキリして見える。
「ほら、水飲め。バテたら困るだろ。」
佐藤が桶を置く。
いつもの仏頂面だが、耳がいい俺にはわかる。
コイツ、ずっとニヤニヤしてやがる。
(絶対楽しんでるだろ……)
まあいい。
とにかく喉がカラッカラだ。
桶に顔を突っ込むようにして水を飲む。
ゴク、ゴク、ゴク……
冷てぇ……うま……
水で冷えた喉と胸に、さっきの風の記憶がまたぶわっと広がる。
走りたい。
まだ走りたい。
そう思った瞬間、佐藤が俺の顔を覗き込んだ。
「……お前、目付き変わったな。」
その声はさっきとは違って、少しだけ真面目だった。
「ボー、お前さ……走ること、好きなんだな。」
(あたりまえだろ、今はそれしかない)
我輩は鼻を鳴らして、もう一度佐藤の目を見る。
佐藤はふっと笑った。
(そりゃもう……好きどころじゃねぇよ。中毒だよ中毒)
でも言葉にできるわけもなく、俺は軽く鼻を鳴らすだけだった。
「よしよし。
ま、今日はもうゆっくりしてろ。」
佐藤は我輩の首のあたりをポン、と軽く叩く。
人間だった頃なら「やめろよ」って言ってるところだが、
馬になった今は……なんというか、妙に安心する。
(…やべぇ、馬として丸くされてない?)
そう思いかけたとき、佐藤がぽつりと言った。
「最初からそんな顔して走るやつ、そういないぞ。」
(そんな顔?)
「なんつーか……
走れて嬉しいって顔だ。」
……そんなこと言われたら照れるだろ。
馬でも照れるんだぞ?
我輩は顔をそらすようにして藁をむしゃむしゃし始めたが、心の奥では、さっきの風がまだ生きていた。
走ると、胸の奥が熱くなる。
足の裏がうずく。
世界が合図してくるみたいに。
もっと行けるぞ。
そんな声がどこかから聞こえてくる。
でも、今はまだ走らない。
走らなくていい。
走りたいけど、
体の奥が「まだ楽しみに取っとけ」って言ってる。
変な話だが……
今はただ、初めてその感覚を知っただけの馬なんだ。
佐藤は我輩の顔をしばらく見てから、にやっと笑った。
「ボー、お前…… 絶対これから変わるな。」
(変わる?何が?)
問い返すように首を傾げる我輩を見て、佐藤は笑うだけだった。
「ま、今はわかんなくていいよ。」
そして馬房の扉を閉める。
静かになった空間で、
我輩はゆっくり呼吸を整える。
藁の匂い、身体に残った風の記憶、
まだ熱い胸の奥。
(……もっと走りてぇけど)
今日は、ここまで。
馬として生きる一日目の、
ただの“余韻”を噛み締める。
さっきまでざわざわしていた心がふっと静まった。
馬房の中は静かだった。
外では風が柵を鳴らす音がして、ときおり遠くの馬のいななきが響く。
昼間あれだけ走ったのに、心のどこかがまだざわついている。
(……落ち着けって。今日はもう終わりだって。)
そう思って藁を噛む。
ぽり、ぽり、と乾いた音が口の中に広がる。
少しずつ、その音が自分の鼓動と重なっていく。
ぽり……ぽり……
どくん……どくん……
まるで身体の奥で、
走ったときのリズムがまだ残っているみたいだった。
(……ほんとに、走るための身体だな、これ。)
人間のとき、
“気持ちいい疲労”なんて、
運動部でもなければあんま味わわない。
でも今は違う。
筋肉一つ一つが生きてて、
熱くて、
「お前は走る生き物なんだぞ」って言ってきやがる。
(……たしかに、走ってるときは最高だったけど)
ふと、換気の隙間から冷たい夜風が入り込んで頬を撫でた。
その瞬間、背中の毛がふわっと立つ。
思い出した。
昼間のあの感覚。
風を切ったときの匂い。
世界が後ろに落ちていくスピード。
足が勝手に前へ、前へって伸びていくあの喜び。
(……あー、やっぱ走りてぇ)
思わず溜息の代わりに鼻を鳴らしてしまった。
その音に、隣の馬房の馬が反応して、
「ヒヒン?」
と短く鳴く。
(あ、悪ぃ……起こしたか?)
返事をするように、
その馬が鳴いた。
(……なんか、仲良くしてくれそうだな)
走ることの楽しさを知った者同士の、
静かな挨拶みたいなものがあった。
我輩は軽く壁に鼻先を押し当てて、
返事みたいに小さく鳴いた。
「……ヒヒ……」
自分でも驚くくらい柔らかい声が出た。
隣の馬も満足したのか、藁を噛む音が再び聞こえてきた。
そのリズムが心地よくて、
さっきまで疼いてた身体の熱が、
ようやくゆっくり落ち着いていった。
(……明日も走れるかな)
走らなくてもいい。
でも、走りたい。
そんな矛盾した気持ちを抱えながら、
我輩は目を閉じた。
藁の匂いと、
遠くの夜風の音と、
新しい世界の気配に包まれながら――
少しだけ笑ってしまうほど、心が軽かった。
風はどこを旅しているのだろう。
全ては星だけが知っている。