征服王のマスターになった量産型ニケの話   作:福梅

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先週、次回の投稿は日曜日か週を跨いだ月曜日になると言ったな?
―――――あれは嘘だ。
というわけで、何とか金曜日までに執筆を終えることができました。
そして、いつになく筆が乗ってしまい総文字数が1万4千字越えに……。


オケアノスの潮騒

 白濁した蒸気が、視界を覆い尽くしている。

 絶え間なく注がれる湯の音と排水溝へと吸い込まれていく水流の音が、静寂な空間に心地よい律動を刻んでいた。

 

 アーク中央政府軍管轄の宿舎、その一角に設けられた共同浴場。そこは選び抜かれたエリートのみが入室を許される一種の聖域であった。

 本来ならば高級将校や一部のエリート部隊のみに許された聖域(サンクチュアリ)。かつて薄暗い兵舎の狭苦しいシャワーブースで泥を落としていた私たちにとって、この場所はあまりにも広大で、そして眩しすぎた。

 

「……はぁぁ」

 

 湯船の縁に頭を預け、私は肺の中の空気をすべて吐き出すように深く嘆息した。

 全身の感覚器が、熱水の抱擁によって甘やかに麻痺していく。

 骨の髄まで染み込んだ疲労が湯の中に溶け出していくようだ。

 

「……信じらんない。これ、夢じゃないよね?」

 

 隣で同じようにとろけた顔をしているソフィーが、夢遊病者のような声で呟く。

 彼女は湯面から突き出した足先を、行儀悪くぱちゃぱちゃと動かして波紋を作っていた。

 

「夢じゃないよ。ほら、このお湯の感触も全部本物じゃん」

 

 リアが湯を掌ですくい上げ、それを自身の顔へと掛けた。滴る雫が、上気した肌を伝い落ちる。

 彼女たちの肢体には、クロウとの乱闘で負った痣や擦り傷がまだ生々しく残っている。本来なら修理を優先しなければならないのだが、この圧倒的な快楽の前では些細なことに過ぎない。

 この贅沢な空間には、私たちの他には誰もいない。貸し切り状態だ。

 

 だが、私の思考回路の片隅には、未だ外縁地区の兵舎に残してきた姉妹たちの顔がこびり付いていた。

 冷たいシャワーと硬いベッド、終わりのない資源回収の日々。かつては共にその苦境を分かち合っていた仲間たちを置き去りにして、私たちだけがこうして温湯に浸っている。その事実に、胸の奥底で罪悪感という名の棘がチクリと疼くのを禁じ得なかった。

 

「……悪いわね、みんな」

 

 独り言のように呟き、私は湯を掬って顔を洗った。

 普段であれば、ボディの洗浄はシャワーで済ませている。あの場所に置いてきた彼女たちに対する罪悪感もあるが、何より個室に据え付けられたシャワーを利用する方が入浴よりも手軽で簡単だったからだ。では、なぜ今はわざわざ浴場を貸し切りにしてまで入浴をしているのか?

 

 ――ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッ!

 

 不意に、浴場の静謐な空気を切り裂くような激しい摩擦音が響いた。

 優雅な入浴タイムには似つかわしくない執拗な音。

 音の源は、湯船の向こう側にある洗い場だ。

 

「……まだやってるのね」

 

 ソフィーが呆れたように視線を向ける。

 湯気の向こう、洗い場の鏡に向かって背中を丸め、一心不乱にスポンジを振るうジャンヌ・ダルクの背中があった。

 彼女はもう三十分近く、自身の身体を執拗に擦り続けている。

 

「うぅ……落ちません……!なぜ落ちないのですか……っ!」

 

 悲痛な呻き声が漏れる。

 彼女の輝くようなプラチナブロンドは無惨にもベットリと固まり、幾つかの房になって固まっている。

 その原因は明白だ。大魔女キルケーが放った宝具『禁断なる狂宴(メタボ・ピグレッツ)』。

 あの時、頭上から降り注いだ大量の食材。それらが混然一体となり、彼女の肌と髪をコーティングしていたのだ。

 アウターリムからのここへ帰ってくるまでの間、時間の経過と共に冷えて凝固した脂と糖分は、強力な接着剤の如く彼女の身体にへばりついてしまっていたのである。

 

「もうっ!これではルーラーの威厳も何もあったものではありません!」

 

 ジャンヌは涙目になりながら、ボディソープをたっぷりと含ませたタオルで二の腕を擦る。

 白濁した泡が瞬く間に茶色く汚れ、床へ流れていく。

 その姿は、さながら泥遊びをして帰ってきた子供を叱りながら洗う母親のようにも見えた。

 ―――もっとも、洗っているのは自分自身なのだが。

 

「……あの、ジャンヌさん?あまり強く擦りすぎると肌を傷めますよ?」

 

 リアが心配そうに声をかけるが、ジャンヌの手は止まらない。

 

「構いません!肌が赤剥けようとも、この屈辱的な臭いを纏い続けるよりはマシです!」

 

  彼女は再びボディーソープを大量にタオルへ含ませると、親の仇でも討つかのような形相で首筋を磨き始めた。あの“豚の宴”とも呼ぶべき攻撃に巻き込まれたことは、彼女にとって単なる敗北以上の精神的な傷跡を残したようだった。

 私たちは顔を見合わせ、苦笑するしかなかった。

 サーヴァントといえど、乙女心というものは存在するらしい。あるいは、彼女の潔癖さがキルケーの宝具とは致命的に相性が悪かっただけなのかもしれないが。

 

 

 それから数分後。

 ようやく気が済んだのか、あるいは皮膚の限界を悟ったのか。

 ジャンヌは忌々し気にタオルを濯ぎ、洗面器の湯で全身を流すと、ふらつく足取りで湯船の方へと歩いてきた。

 肌は摩擦でほんのりと赤らみ、濡れた髪はしっとりと肩に張り付いている。

 

「……失礼します」

 

 消え入りそうな声と共に、ジャンヌはそっと湯船に足を入れた。

 ざぶり、と湯が溢れる。

 肩まで浸かった瞬間、彼女の口から長い長い溜息が漏れ出した。

 

「ふぅぅぅぅ…………」

 

 濡れた金髪が肌に張り付き、湯気の中に浮かぶ。

 その横顔はやはり絵画のように美しかった。

 ―――先ほどまでの鬼気迫る形相さえなければ。

 

「……災難でしたね」

 

 私がタオルを差し出しながら労うと、彼女は「ありがとうございます」と呟きタオルを受け取った。

 

「ええ、全くです。……サーヴァント同士の戦いにおいて宝具の応酬は常。傷つくことも、血を流すことも覚悟の上です。ですが……」

 

 ジャンヌは頬を膨らませ、湯面をパシャリと叩いた。

 

「まさか、豚の群れと食べ物の山に埋もれて窒息しかけるなんて……!あんなふざけた宝具が存在するなど、誰が想像できますか!?」

「まあ、確かに……あれは反則よね」

 

 ソフィーが同意する。

 物理的な破壊ではなく、精神面への攻撃を主とする宝具。……いや、そもそも宴と言っていた時点で、あの魔女にとっては"おもてなし"の一環でしかないのかもしれない。

 ともかく、ある意味ではラプチャーよりもタチが悪い。

 

「大魔女キルケー、次会ったら絶対にただでは済ませませんよ……」

 

 ジャンヌはブツブツと呪詛のように呟きながら天井を仰いだ。

 その様子は歴史上の偉人というより、理不尽な目に遭ってふてくされる少女そのものだった。

 

「……でも、まあ」

 

 私は湯の中で手足を伸ばし、彼女と同じように天井を見上げた。

 

「結果オーライ、ってことで。こうして無事に帰ってこられたし、お風呂にも入れたんだから」

「……そうですね」

 

 ジャンヌの表情から、ようやく険が取れた。

 彼女は湯の中で膝を抱え、少しだけ口元を緩めた。

 

「このお湯……不思議と心が安らぎます。生前、戦場に明け暮れていた頃には味わえなかった安寧です」

 

 彼女の独白が、湯気の中に溶けていく。

 私たちはしばらくの間、言葉を交わすこともなく、ただ湯の流れる音だけを聞いていた。

 

 これがつかの間の休息に過ぎないことは分かっている。

 けれど今だけは、この温もりに身を委ね、あの甘ったるい悪夢を洗い流してしまいたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どれくらいの間、湯舟に浸かっていただろうか。

 ふと、ジャンヌが静かにソフィーとリアに向き合った。

 

「……ソフィーさん、リアさん。申し訳ありませんでした」

 

 湯面にさざ波を立てることなく、ジャンヌは深く頭を垂れた。

 

「あなた方を守り切ることができなかったのは、ひとえに私の不徳の致すところです。裁定者(ルーラー)の名を冠しておきながら、あなた方を危険な目に遭わせてしまった……」

「え、ちょっと……やめてよ、ジャンヌさん」

 

 ソフィーが慌てたように手を振った。

 彼女はバツが悪そうに視線を泳がせ、隣のリアと顔を見合わせた。

 

「謝らなきゃいけないのは私たちの方。……勝手について行ったのは私たちなんだから」

「そうだよ。足手まといになるって分かってたのに、無理言ってついて行って……結果的に人質になっちゃって」

 

 リアも膝を抱え込み、湯の中に口元を半分沈めたまま、消え入りそうな声で続けた。

 湯船の温かさとは裏腹に、彼女の声は凍えているかのように震えていた。

 

「ジャンヌさんがいなかったら、私たちはどうなっていたか分からない。……むしろ、感謝してもしきれないくらいだよ」

 

 二人の言葉にジャンヌは顔を上げた。だが、その紫水晶の瞳に宿る憂いは晴れない。

 そしてソフィーは意を決したように私の方を向くと、噛みしめるように言った。

 

「……ごめんね、08。あんたの役に立ちたいって思ってたけど……結局、足を引っ張っただけだった。あの時、あんたが助けに来てくれなかったら、私たちは……」

 

 言葉が続かない。

 

 ――――もしも、助けが来なかったら。

 

 その結末を口にするのを恐れるように、あるいは想像すらしたくないとでも言うように、ソフィーは唇を噤んだ。

 

 沈黙が落ちる。

 私は首を横に振り、二人に近づいて湯の中で手を握りしめた。

 

「謝らないで。二人は私にとって、かけがえのない仲間(家族)だよ。助けに行くのは当然だし、無事でいてくれて本当によかったと思ってる」

 

 それは偽りのない本心だ。

 だが、その言葉が今の二人には重荷になっていることも、私は痛いほど感じ取っていた。

 

 ――――結局のところ、量産型はネームドのニケには及ばない――――

 

 量産型ニケとして製造された私たちが、骨の髄まで刷り込まれている呪い。

 エキゾチックのニケたちと対峙したことで、彼女たちはその呪いを残酷なまでに再認識させられてしまったのだ。

 

 『同じニケ相手にすら勝てない身で、果たしてこの先の戦いについて行けるのか』

 

 恐らく、彼女たちはそんな不安に苛まれている。

 

「……少し、よろしいでしょうか?」

 

 重苦しい沈黙を破ったのは、ジャンヌの静謐な声だった。

 彼女は姿勢を正すと、真っ直ぐに二人を見据えた。

 

「冷たい言い方になってしまうかもしれませんが、ソフィーさんとリアさんは本来、この聖杯戦争とは無縁の存在であるはずです」

「……ええ」

「今回の件で、敵対者たちは手段を選ばぬ者たちであることが分かりました。次はもっと酷いやり方で、あなた方を狙ってくるかもしれない」

 

 ジャンヌは淡々と、逃れようのない事実を告げる。

 

「ご自身の身を守るためにも……これからこの戦いとどう向き合っていくのか、今一度考え直された方が良いかと思います」

 

 彼女はそこで言葉を切り、視線を伏せた。

 ジャンヌは決して「関わるな」と言っている訳ではない。

 だだ、「これ以上何の覚悟もなく関わるのは危険だ」と伝えているのだ。

 

 ソフィーとリアは、ただ湯面を見つめていた。

 反論などできるはずもない。彼女たちは今日初めて、敵対心を持ったニケやサーヴァントという存在に対面したのだ。

 二人とも戦い自体には慣れている。伊達に資源回収の為に地上を彷徨って来たのではないから。

 しかし、ラプチャー以外の敵と戦った経験など一度も存在しない。

 ラプチャー以外の敵と戦う方法など、彼女たちは……いや、私自身も知らない。

 

 沈黙したまま項垂れる二人に掛ける言葉が思い浮かばず、私はただ立ち昇る湯気を眺めていた。

 思考が、黒い澱のように沈んでいく。

 

 ジャンヌの言う通りだ。

 これまでは「仲間だから」「一緒なら大丈夫」という甘い幻想で誤魔化してきた。

 だが、現実は非情だ。

 イスカンダルという規格外のサーヴァントがいても、ジャンヌという強力な協力者がいても、隙を突かれれば彼女たちは容易く連れ去られ、危機に晒される。

 このままズルズルと二人を巻き込み続ければ、次こそは取り返しのつかないことになるかもしれない。

 

(……それに、私自身は?)

 

 不意に、アウターリムでの光景が脳裏に蘇る。

 行く手を阻んだ武装したアウトローたち。

 彼らを排除しようと、私はイスカンダルと共に戦車(チャリオット)で突撃した。

 

 あの時――――もしジャンヌが止めていなければ。

 私は彼らを、生きた人間を、鉄塊の下ですり潰していたはずだ。

 

 あの時は、仲間のためなら鬼になれると思っていた。

 非道を為す覚悟があると、自分に言い聞かせていた。

 けれど、ジャンヌに止められた瞬間、心のどこかで安堵した自分がいたことも否定できない。

 『人殺し』という業を背負わずに済んだからだ。

 

(……覚悟なんて、最初からなかったんじゃないか)

 

 自問自答が、胸の奥を抉る。

 今回はジャンヌがいたから、誰も殺さずに済んだ。

 今回は運が良かったから、ソフィーたちを取り戻せた。

 

 だが、次は?

 もしまた、二人が連れ去られてしまったら。

 その時、相手を殺さなければ二人を救えないとしたら。

 私は迷わず引き金を引けるだろうか?

 あるいは―――その迷いの一瞬が、二人の命を奪うことになるのではないか?

 

 自分の手を見る。

 ふやけて白くなった指先。

 この手は、誰かを守るための力を持っているのだろうか。

 それとも、ただ破滅へと導くだけの、哀れで傲慢な鉄屑の手なのだろうか。

 

「…………」

 

 湯面の中に揺らめく自分の顔が、ひどく頼りなく、そして恐ろしいものに見えた。

 私は逃げるように視線を逸らし、ただ深く湯船に身を沈めた。

 熱い湯は、冷え切った心までは届かないことを痛感しながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 脱衣所へ出ると、ひやりとした冷気が火照った肌を撫でた。

 空調の効いた乾燥した空気が、まとわりついていた湿気を急速に奪っていく。

 私たちは各々身支度を整え、ロビーへと続く暖簾をくぐった。

 

「……おう、出てきたか」

 

 ロビーのソファを占領していた巨岩のような影が、ニカっと白い歯を見せて笑った。

 イスカンダルだ。

 彼は上機嫌に足を組み、その大きな手には数本のペットボトルが握られていた。表面にびっしりと結露を浮かべた、鮮やかなオレンジ色の炭酸飲料だ。

 

「イスカンダル……?ちょっと、それどうしたんですか?」

 

 私は慌てて周囲を見渡した。幸い、他に人の気配はない。

 だが、ここは中央政府軍の管轄区画だ。見つかれば大騒ぎになるどころではない。

 

「誰かに顔を見られたりしてませんよね!?霊体化して待機していてくれとあれほど……」

「安心せい。誰の目にも触れておらんわ」

 

 私が詰め寄ると、彼は悪びれる様子もなくボトルを掲げて見せた。

 琥珀色の液体の中で、炭酸の気泡がシュワシュワと踊っている。

 

「そこの自動販売機とやらから購入しただけのことよ。機械相手に姿を隠す必要もあるまい」

「……お金は?」

「それは貴様の財布からくすねたが」

 

 ガハハハ!と、ロビーの天井を震わせるような豪快な笑い声。

 私は脱力し、ガックリと項垂れた。

 この王にかかれば、マスターの財産権など無いに等しいらしい。

 

「ともかく、こんな地下空間でこれほどまでにキンキンに冷えた甘露が手に入るとはな!何たる贅沢!余の生きた時代からは考えられんわ!」

「……分かりましたから。早くあなたもお風呂に入ってください。貸し切り時間はまだ残っています」

「応とも」

 

 そう言って立ち上がったイスカンダルは、手に持っていたボトルの一本を無造作に私へと放った。

 

「っ、と……はい?」

 

 反射的にキャッチしたボトルの冷たさに、掌が驚く。

 

「貴様の分だ。それを飲んで、少しは頭を冷やせ」

「え……」

「ほら、お前たちの分もだ」

 

 イスカンダルは残りのボトルを、ソフィーとリア、そしてジャンヌへと次々に放り投げた。

 

「わっ!いいの!?」

「うわぁ……!冷たい!ありがとう!」

 

 ソフィーとリアが歓声を上げる。

 微発泡性の果実炭酸水。嗜好品の中でも高級な部類に入るそれは、全くとまでは言わないものの、あまり口にできない代物だ。二人の沈んでいた表情が、パッと花が咲いたように明るくなる。

 

「えっ……?私にまで?」

 

 ジャンヌは豆鉄砲を食らったような顔で、渡されたボトルを見つめていた。

 予想外の施しに、彼女は目を丸くして立ち尽くしている。

 

「構わん。勝利の美酒……とまではいかんが、まあ苦い戦いの後の口直しぐらいにはなろう」

 

 イスカンダルは満足げに頷くと、マントを翻して男湯の暖簾へと向かった。

 

「それ、私のお金なんですけど……」

 

 私の小さな抗議は、彼の分厚い背中には届かなかったようだ。

 彼は暖簾をくぐる直前、足を止めて振り返った。

 

「……ルーラーよ、貴様もこやつ等と共に部屋へ戻るのだろう?」

「ええ。そのつもりです」

「分かった。小娘どもを頼んだぞ」

「はい。……お任せください」

 

 ジャンヌが短く答えると、イスカンダルはニヤリと笑い、湯気が立ち込める脱衣所へと姿を消した。

 ロビーに静寂が戻る。

 手の中にあるボトルの冷たさが、熱を持った思考を少しだけクールダウンさせてくれた気がした。

 

「……リア、貸し切り時間はあとどれくらい?」

「えっと……多分、あと一時間もないくらいかな」

「分かった。先に行ってて」

 

 私の言葉に、帰る支度を始めていた三人が動きを止めた。

 

「え?どこ行くの?」

 

 ソフィーが怪訝そうに首を傾げる。

 私はボトルをベンチに置き、努めて何でもない風を装って言った。

 

「ちょっと野暮用。すぐに追いつくから、心配しないで」

「ホントに?」

「本当だってば。遠くに行ったりしないから、信じて」

 

 疑わしげな視線を向けるソフィーに対し、私は苦笑いで返した。

 しばらくじっと私を見つめていたリアが、小さくため息をついてソフィーの袖を引いた。

 

「……行こう、ソフィー。08にも、一人になりたい時があるんだよ」

「むぅ……分かった。ちゃんと帰ってきてよね」

「もちろん」

「08さん、くれぐれもご無理はなさらぬよう」

 

 ジャンヌが心配そうに、けれど深く追及することなく頭を下げた。

 三人の背中が自動ドアの向こうへと消えていくのを見送った後、私は大きく息を吸い込んだ。

 

 そして、踵を返す。

 向かう先は出口ではない。

 男湯と書かれた暖簾の向こう。

 湯気が立ち込める、王のいる場所へ。

 

 心臓の鼓動が早くなる。

 けれど、このまま何も言わずに部屋へ戻ることだけは、どうしてもできなかった。

 確かめなければならない。

 私の覚悟を。

 何より、私と彼の行く末を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 男湯の暖簾をくぐると、女湯よりも幾分か殺風景な空間が広がっていた。

 視界を白く染める湯気。天井の高いドームに反響する水音。

 その最奥。湯気が最も濃く淀む場所に、彼は鎮座していた。

 

 イスカンダルは洗い場の椅子――彼にとってはあまりに窮屈そうなプラスチックの台座――に腰を下ろし、豪快に身体を洗っていた。

 筋骨隆々たる背中。幾多の戦場を駆け抜け、数え切れぬほどの矢弾を受けてきたであろうその肉体は、あたかも歴戦の城塞の如き威容を誇っている。

 

「…………」

 

 私は気圧されそうになる足を叱咤し、湿ったタイルを踏みしめて彼へと近づいた。

 一歩、また一歩。

 距離が縮まるにつれ、胸の鼓動が高まっていく。

 だが、あと数歩というところで足が止まった。

 ……なんて声を掛ければいい?  

 ここに来たのは衝動的な決断だ。明確な言葉を用意していたわけではない。

 私が逡巡し、口籠もっていると――不意に飛沫を上げる音が止んだ。

 

「ほう?余の背を流しに来たか。殊勝な心がけだ」

 

 振り返りもせず、野太い声が湯気を震わせた。

 

「……気づいていたんですか?」

「当然であろう。戦場において背後の気配に鈍感な者は、等しく屍を晒すのみよ」

 

 彼はニカリと笑う気配を見せ、自身の背中を親指で指した。

 

「さあ、背中は空いておるぞ。遠慮なく磨くが良い」

「……そういうつもりで来たわけじゃないんですけど」

 

 私はため息交じりに呟きつつも、彼が差し出したタオルを受け取った。

 拒絶する理由もない。それに、正面から顔を突き合わせて話すよりも、こうして背中越しに語りかける方が今の私には都合が良かった。

 私は桶に湯を汲み、泡立てたタオルを彼の背中へと当てた。

 

 硬い。

 鋼鉄のワイヤーを束ねたような筋肉の質感。岩盤のように強固な皮膚。

 これが英雄の肉体。人類史にその名を刻んだ征服者の器。

 思わず指先が震えそうになる。

 

「……力加減、大丈夫ですか?」

「うむ、悪くないぞ」

 

 私は無心でタオルを動かした。

 ごし、ごし、と。ぎこちない手つきで背中を洗い進めていく。

 掃除というよりは土木作業に近い感覚だ。

 肩甲骨から脊柱へ。

 そして脇腹のあたりへ差し掛かった時、指先がごつごつとした“異物”に触れた。

 

「……っ」

 

 思わず手が止まる。

 そこにあったのは、真新しい裂傷の痕だった。

 赤黒く腫れ上がり、皮膚が捲れている。

 

 ―――アウターリムでの銃撃戦。

 彼が私を庇い、その身を盾にして受けた銃弾の痕跡だ。

 

「……痛みますか?」

 

 無意識のうちに、私の指はその傷跡をなぞっていた。

 指先から伝わる熱。もし彼が私を庇わなければ、この傷は私のボディに刻まれていたはずのものだ。……いや、量産型の装甲など容易く貫通し、コアを破壊されていたかもしれない。  

 私の問いに、イスカンダルは事もなげに笑った。

 

「気にするな。サーヴァントの肉体は魔力で構成された霊体だ。この程度の傷、魔力さえあればすぐに塞がる」

「……でも、傷跡が残ってます」

「勲章のようなものよ。名誉の負傷というやつだ」

 

 彼は豪快に笑い飛ばすが、私の指先は震えていた。

 その傷跡を、無意識になぞる。

 ザラリとした感触。

 それは、私の弱さが刻んだ刻印だ。私が身体がもっと頑丈だったならば、私がもっと早く敵に気づいていれば、彼の体に傷をつけることなどなかったのに。

 

「…………」

 

 ごし、ごし……。

 単調な作業。流れる湯の音。

 その反復が、澱んでいた私の思考を少しずつ整理していく。

 

 桶に入れた湯をかけ、石鹸の泡を洗い流す。

 白い泡が傷跡の上を滑り落ち、排水溝へと吸い込まれていく。

 その流れを見つめながら、私は堰を切ったように口を開いていた。

 

「……私、怖くなったんです」

 

 声が震えないように、奥歯を噛みしめる。

 

「ソフィーとリアのことです。あの子たちは、私と同じように特別強くもないし、特別な武装も持っていません」

「うむ」

「今回は助けることができました。貴方とジャンヌさんがいてくれたおかげで。……でも、もし次に同じようなことが起きたら?もっと強大で、もっと悪意に満ちた敵が、あの子たちを狙ってきたら?」

 

 脳裏に浮かぶのは、クロウの冷徹な眼差し、キルケーの底知れない魔術、そして未だ正体すら掴めていないアサシンの影。

 私たちの及ばない領域で、敵は確実に牙を研いでいる。

 

「私と一緒にいれば、あの子たちは必ず巻き込まれる。……いつか、私の目の届かないところで、壊されてしまうかもしれない」

 

 言葉にするだけで、心臓が凍りつくような恐怖が走る。

 だが、それ以上に恐ろしいのは―――

 

「それに……私自身のことも、信じられないんです」

 

 私はタオルを握りしめ、彼の背中に額を押し当てた。

 熱い背中。その温度だけが、今の私を繋ぎ止める命綱だった。

 

「あの時……アウターリムで道を塞ぐアウトローたちを前にして、私は貴方に突撃を指示しました。彼らを轢き殺してでも進むと決めたんです」

「ああ」

「でも、ジャンヌさんに止められて……ホッとした自分がいたんです。『殺さずに済んだ』って」

 

 情けない告白。

 覚悟を決めたつもりでいて、その実、土壇場で他人の介入に救いを求めていた卑怯な自分。

 

「このまま彼女たちを巻き込み続ければ、いつかまた、選択を迫られる時が来るでしょう。誰かの命と、仲間の命を天秤にかける時が。その時、私には……引き金を引く覚悟があるのでしょうか」

 

 脳裏に過るのは、逃げ惑う男たちの背中。

 もしあのまま車輪の下ですり潰していたら、肉が弾け、骨が砕ける感触を、私は一生背負うことになっただろう。

 ニケにはNIMPHがある。本来なら人間に危害を加えることはできない。

 だが、あの瞬間の私は、その禁忌すら乗り越えようとしていた気がするのだ。

 それが恐ろしい。自分の中にある歯止めが、壊れていく感覚が。

 

 ニケにとって、人間への攻撃は最大のタブーだ。

 それはシステム的な制約だけではなく、私たちの存在意義、アイデンティティに関わる問題でもある。

 

 『勝利の女神』

 『人類の希望』

 

 私にそんな大層な肩書があるとは微塵も思ってもいないが、そもそもニケという兵器は始まりからして「人類を守る」という宿命を背負わされている。

 そして私自身、本当にただの端くれであるものの、NIKKE(ニケ)という名前を冠した存在でもある。

 それを破った時、私は私でいられるのか。

 量産型としての微かな誇りすら失った怪物に成り下がってしまうのではないか。

 

「もしも私が一線を越えて、手を血で汚してしまったら……私は、今まで通りソフィーたちと笑い合えるのでしょうか。人殺しになった私のことを、彼女たちは受け入れてくれるのでしょうか」

 

 言葉にするたび、胸が締め付けられる。

 孤独だった私にできた、初めての家族。

 その関係性が、私の“汚れ”によって壊れてしまうのではないかという恐怖。  

 

『ご自分の魂を、もっと大切に扱いなさい』

 

 ジャンヌの言葉が、混濁した脳裏にリフレインする。  

 

「……私は、弱いです。身体も、心も。とても、貴方やジャンヌさんのような英雄にはなれない。……ただの、臆病なニケなんです」

 

 そこまで言って、私は口を閉ざした。

 これ以上話せば、涙声になってしまいそうだったからだ。

 洗い場に静寂が戻る。

 イスカンダルは身じろぎもせず、私の懺悔を背中で受け止めていた。

 

 

 

 しばらくした後。

 彼はおもむろに手桶を取り、自身の頭からザバリと湯を浴びた。

 そして、ゆっくりとこちらを振り向いた。

 

「―――貴様、余という人物についてどう認識しておる?」

 

 唐突な問いであった。

 私はタオルを握りしめたまま思案した。

 

「……イスカンダル、即ちアレクサンドロス大王。マケドニアの王にして、ギリシアからインドに至る広大な領域を征服した、史上最大の覇者……ですよね?」

「うむ。世間一般では、そのような耳触りの良い英雄譚として語られておるな」

 

 彼は自嘲気味に鼻を鳴らし、分厚い胸板を親指で指した。

 

「だが、見方を変えればどうだ?余は欲望の赴くままに他国を蹂躙し、数多の王を処刑し、その民草を隷属させた。粉砕した国家の数、流させた血の量は計り知れん。……即ち、余は史上稀に見る大量殺戮者でもあるのだ」

「そんな……!」

 

 私は思わず反論しようとした。目の前の男が、ただ血に飢えただけの残虐非道な怪物だとは、どうしても思えなかったからだ。

 だが、イスカンダルは太い指を立ててそれを制した。

 

「否定するな、マスター。どれほど綺麗ごとで着飾ろうと、征服という事業には夥しい血が流れる。そしてその血は、民のためでも正義のためでもなく、ただこのイスカンダル個人の夢と覇道のために流された血なのだ」

 

 彼の言葉は重く、そして冷徹だった。

 感傷も、弁解もない。ただ厳然たる事実として、彼は己が業を肯定している。

 

「それはあのルーラー、ジャンヌ・ダルクとて同じことよ」

「え……?ジャンヌさんが?」

「うむ。救国の聖女などと祭り上げられてはいるが、本質は変わらぬ。彼女は『神の啓示』という己が信じる正義のために旗を掲げ、多くの兵を死地へと駆り立てた。彼女が救った命と同じくらい、あるいはそれ以上に、彼女は敵味方の血をその手に吸わせておるのだ」

 

 イスカンダルは私の瞳の奥底を見据え、そう断言した。

 

「英雄とは、その根端からして血に塗れておる生き物よ。誰かを救う手は、同時に誰かを殺める手でもある。……清廉なだけの英雄など、おとぎ話の中にしか存在せん」

 

 言葉が出なかった。

 あまりにも苛烈な事実。けれど、否定しようのない真理。

 私が言葉を失って立ち尽くしていると、熱を持った掌が私の肩をガシっと掴んだ。

 

「――そも、貴様の願いは何であった?」

 

 腹の底に響くような、力強い問いかけ。

 私は反射的に、あの倉庫……彼と出会ったあの場所で叫んだ言葉を口にした。

 

「栄光ある死を……です」

「そうだ。栄光ある死とは、即ち『意味のある生』への渇望と同義であろう?」

「……そう、かもしれません」

「では問おう。貴様にとって、意味のある生とは何だ?」

 

 ――――意味のある生。

 私は記憶の引き出しをまさぐる。

 

 あの日、瓦礫の中で『イリアス』を拾った時の震え。

 ただ消費され、朽ちていくだけの運命に対する抗い。

 誰にも顧みられず、スクラップとして破棄されるのではない。

 たとえ一瞬であろうとも、鮮烈な光を放つ“個”として世界に爪痕を残したいという渇望。

 

「……未来永劫語り継がれる、偉大なことを成し遂げること……だと思います」

 

 それを聞いたイスカンダルは、ニヤリと凶悪なまでに不敵な笑みを浮かべた。

 

「そうだ。では考えてみるが良い。歴史に名を遺した人間たちは、清廉潔白な聖者ばかりであったか?」

「………」

 

 私は再び記憶をまさぐる。

 人類の歴史。戦いの歴史。

 アークに残された人類史の記録、そして私が憧れた神話の英雄たちの詩。

 そこに記されていたのは、輝かしい功績だけではない。

 裏切り、謀略、殺戮、狂気。それら全てが渾然一体となり、歴史という大河は形作られていた。

 

「……いいえ。寧ろ、そんな人間は一人もいなかったと思います」

 

 アキレウスも、ヘクトールも。

 彼らは敵を殺し、友を失い、怒り狂い、そして死んでいった。

 そこに「正しさ」だけがあったわけではない。彼らは皆、己の欲望と信念のために他者を踏みつけにした罪人でもあったはずだ。

 

「……先ほどの話を聞いて、はっきり分かりました」

「ああ、その通りだとも。多くの人間を殺した、暴虐の限りを尽くした、数多の国々に傷跡を残した……そんなことは、人の歴史という悠久の尺度から見れば大した問題ではない」

 

 イスカンダルは豪快に腕を組むと、彼方を見つめるように語った。

 その視線は浴場の壁を突き抜け、遥か遠い時空を見ているかのようだ。

 

「真に重要なのは、その行いに"意味"があったかどうかだ。余はあの時代において、強大なペルシア帝国を打倒し、史上初めて西方世界と東方世界を一つに繋いだ。あの聖女であれば、滅亡の淵にあった祖国を起死回生の如く立て直した。そこに、倫理や道徳の良し悪しなど関係なかろう?」

「……はい」

「恐らく、貴様は今まで意識してこなかった"仲間"という存在を得たあまり、失うことを恐れて少しばかり臆病になっているのであろう」

 

 ……図星だった。

 孤独だった頃は、自分の命など惜しくなかった。失うものがなかったからだ。

 けれど今は、守りたいものが増えてしまった。その重みが足枷になっているのかもしれない。

 

「余に言わせれば、仲間とはどんな艱難辛苦であっても共に肩を並べて立ち向かう存在だ。倫理的、道徳的に間違っているかなどどうでも良い。たとえ悪逆を成したとて、共に背負ってゆくのが道理だ。そうでなければ、仲間とは呼べない」

「……それは、王であっても同じなのですか?」

「無論。清濁含め、臣下と共に歩んでこその王であろう」

 

 ――――悪逆すらも共に背負う。

 泥を被り、血を浴び、それでもなお隣で笑い合うことこそが、真の絆であると彼は言っているのだ。

 あまりに豪快で、それでいて残酷なまでに純粋な理論。

 私は思わず呆れたように笑ってしまった。

 

「やっぱり、あなたに言わせるとどんな深刻な問題でもちっぽけに思えてしまいますね」

「そうか?余から見れば、なぜ貴様がそのような些細なことで悩んでおるのかと甚だ疑問であるがな」

 

 彼は不思議そうに首を傾げた。その瞳には、一点の曇りもない。

 この男にとっては、世界の命運を左右する決断も、今日の夕食の献立も、等しく己が意志で決めるべき事象に過ぎないのだろう。そのあまりに強固な自我の前では、私の悩みなど路傍の石ころのように小さく感じられた。

 

 私は彼から視線を外し、足元のタイルを見つめた。

 石鹸の泡が、渦を巻いて排水溝へと吸い込まれていく。

 

「……あの子たちは、たとえ私が人を殺してしまったとしても、今まで通り接してくれますかね」

 

 震える声で問う。

 

「心配するでない。貴様のような社会のはみ出し者を、あそこまで必死に心配しておった者たちなのだぞ?それくらいのことで見放す器ではあるまい」

 

 ――お前みたいな変人を気に掛けるお人好し共が、そんなに狭量なはずがない。

 

 そう言外に告げる王の言葉に、胸につかえていた何かがフッと軽くなった気がした。

 そうだ。彼女たちもまた、清廉潔白な聖人ではない。

 泥にまみれ、傷つきながら、それでもこの理不尽な世界を生き抜こうとする姉妹だ。

 

「……これからも、私は私でいられるでしょうか?」

 

 最後の不安を吐露する。

 それを聞いたイスカンダルは、怪訝そうに目を細めた。

 

「それは、何に対する不安だ?」

「私の存在意義です。勝利の女神(ニケ)……私が口にするのもおこがましいですが、私は仮にもその名を冠した存在です。もし道を踏み外せば、このまま行けば、その名に対する僅かな誇りさえ失ってしまうのではないかと……」

 

 ニケは人類を守る存在だ。

 勝利の女神として、人類の希望として。

 たとえ量産型であっても、その存在意義だけは守らなければならない。

 それを失えば、私はただの殺人機械に成り下がってしまう。

 だが……。

 

「そんな物、捨てるが良い」

「……はい?」

 

 一刀両断だった。

 あまりに無造作に放たれたその言葉に、私は理解が追いつかず間の抜けた声を漏らした。

 

「おぬし、見かけによらず外面を気にするのだな?勝利の女神……、余もこの街の歴史には詳しくないが、その称号は恐らくアークという社会で形作られた既製のものなのであろう?」

「ええ、まあ……」

「そんなもの、余に言わせれば取るに足らん飾りよ。貴様の存在意義を、どこの誰が決めたかも分からん称号ごときに規定されて良いのか?」

「………」

「己が生き様は、己自身で決めてゆく。称号などというものは、その生き様に対して自ずと後から付いてくるものだ。余は貴様の生き様が、既成の称号ごとき枠に収まるなどとは思っておらんぞ?」

 

 イスカンダルの眼差しが、湯煙を裂いて私を貫く。

 

 私は思わず彼から目を背けた。

 充満する蒸気の熱さのせいだけではない。彼に、この羞恥と歓喜で熱く火照った頬を見せたくなかったからだ。

 彼は本気で、私のことをただの量産品や消耗品としてではなく、一人の「個」として――いや、一人の「覇者」たる可能性を秘めた存在として見てくれている。

 その事実に、どうしようもない喜びを感じてしまっていた。

 

「……それに、余は貴様がどんな名を得るのかも楽しみにしておるのだぞ」

「え?」

「だからこそ、余は今まで貴様のことを()()()()()()()()()()()では呼ばなかったのだ」

 

 ハッとして顔を上げる。

 イスカンダルと目が合った。

 彼はいつものように、太陽のような笑顔を浮かべていた。

 

 ……そうか。

 彼は、単に呼びにくいから呼ばなかったわけではない。

 彼は、ずっと待っていてくれているのだ。

 私が「プロダクト08」という枠を超え、己が手で名を成すその時を。

 

 ――コアが震える。

 とっくの昔に失ったはずの心臓がそこにあるかのように。

 胸が歓喜で躍動している。

 

 製造番号ではない。

 私が私として獲得する、私だけの名前。

 それを、彼は求めてくれている。

 

「まあ、案ずるな。貴様には余が付いておるのだ。いざとなれば、余が貴様の矛となり、盾となる。とるに足らん土着の心配事など捨てるが良い」

 

 彼は濡れた大きな掌を差し出し、私の頭を乱暴に撫でた。

 

「貴様の行く末にどんな未来が待っていようと、余が共に付いておる。貴様の覇道を、貴様の生き様を、余に見せてはくれまいか?」

 

 ああ、本当に。

 本当にこの人は。

 どうしてこんなにも大きいのだろう。

 どうしてこんなにも温かいのだろう。

 私の小さな迷いなど笑い声一つで吹き飛ばし、道を示してくれる。

 

 この王に導かれるならば。

 この王と共に征くならば。 

 きっと私は、地獄の底だろうと、修羅の巷だろうと、笑って歩いて行けるだろう。

 

 目からどめどなくこぼれだす雫を、濡れた手で乱雑に拭う。

 湯気と涙で視界が滲む。

 けれど、私の心にもう迷いはなかった。

 

 私は顔を上げ、精一杯の笑顔で応えた。

 

「……っ、はい!勿論です!」

 

 

 

 

 




これにて第ニ章完結となります。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
第三章ではいよいよあの宝具が解放される予定です。
皆さん、いつでも王の招集に応じるご準備を!
ではまた来週!
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