征服王のマスターになった量産型ニケの話   作:福梅

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第一章
箱舟の地


 白い天井。

 そこへ無機質に配置された蛍光灯。

 鼻白むほどに清潔な消毒液の臭気が鼻腔を突く。

 規則的な電子音が、私の鼓動――コアのパルスと同期して、ピッ、ピッ、と鳴っている。

 

「……あら。ようやくお目覚めですね」

 

 白衣を纏った女性が、端末片手に私の顔を覗き込んでいた。セラフィム部隊のメアリー。アークの中央病院を取り仕切る、優秀だがどこか底知れない雰囲気を持つ医師だ。

 私は身体を起こそうとして、シーツに沈み込むような脱力感に呻いた。関節の駆動系が鉛で埋められたように重く、指一本動かすのさえ億劫に感じる。

 

「無理はいけません。ボディの修復は完了していますが、貴女のコアは……まだ出力が極端に低下していますから」

「ここは……?」

「中央病院です。……3日前、貴女と同じ分隊のソフィーさんとリアさんが、意識不明の貴女を担ぎ込んできたんです」

 

 ―――3日前。

 その言葉に、未だ混濁していた思考回路が凍りつく。

 

「右腕と右眼の損壊に、全身のフレーム歪曲。よくまあ、あんな状態で帰還できたものです。脳に損傷がなかったのが奇跡ですよ」

 

 メアリーは淡々と語っているが、細められた瞳の奥には隠しきれない疑念の色が浮かんでいた。

 無理もない。私は部隊から孤立してラプチャーの大群に包囲され、その上右腕をもがれて死にかけていた。それが五体満足で――いや、修理済みとはいえ――生きて戻っていること自体が、論理的な説明のつかない異常事態なのだ。

 

「ただ、不可解なのは……」

 

 メアリーは端末の画面を指先で弾きながら、首を傾げた。

 

「貴女が昏睡していた原因です。脳波も正常、ボディの接続も良好。なのに貴女は丸3日間、泥のように眠り続けていた。まるで、貴女のコアが突然"別の何か"にエネルギーを吸い上げられてしまったような……そんな異常な枯渇を起こしていました」

 

 エネルギーの枯渇。

 その言葉を聞いた瞬間、脳裏にあの光景がフラッシュバックした。

 

 崩落した天井から降り注ぐ紫電の雷。

 大地を踏み砕く神牛の蹄。

 そして、瓦礫の山に君臨した赤きマントの巨躯。

 

 ……いや、きっと夢だ。

 そうに決まっている。死の間際、恐怖に耐えきれなくなった私の脳が見せた幻覚。ありもしない願望が生み出した、都合の良い走馬灯に違いない。現実は、ソフィーたちが命からがら私を回収し逃げ帰ったというだけ。ただ、それだけ……。

 

「とにかく、安静にしていてください。後ほど、精密検査を行います」

 

 メアリーはそれだけ告げると、足音を響かせて病室を出て行った。

 自動ドアが閉まり、静寂が戻る。私は溜息をつき、重い頭を巡らせて窓の外を見た。

 アークの天井に映し出された作り物の空。そこには神秘も、奇跡もいない。昨日と変わらない、退屈で閉塞した現実だけが横たわっている。

 

「……はは。馬鹿みたい」

 

 乾いた笑いが漏れる。

 一体何を期待していたんだろう。

 いくら夢でも、あんな非現実的なものを見るなんて物語の読みすぎだ。

 

「……あ」

 

 ふと、あることに気付いて跳ね起きた。

 激しい立ち眩みに視界が揺れるのを無視して、サイドテーブルやロッカーを漁る。

 

 ない。

 ない。

 どこにもない。

 

「イリアス……!」

 

 あの一冊の本。

 私が拾った宝物。

 乾ききった私の心を満たしてくれた、あの古書が見当たらない。

 

「ああ、そっか……」

 

 糸が切れたように、ベッドへしがみついた。

 きっと、あの倉庫に置いてきてしまったのだ。

 ソフィーたちがあれを拾っているとも思えない。 

 

 途端に、目の奥から熱いものがこみ上げ来た。ささやかな栄光への憧れは、やはり瓦礫のゴミとして朽ち果てる運命だったようだ。穴がぽっかりと開いてしまったかのような喪失感が胸を穿つ。

 …その時。

 

「――探していたのは、これか?」

 

 不意に、視界の端から一冊の本が“ニョキリ”と生えてきた。

 

「え……」

 

 私は涙で滲んだ目を瞬かせ、それを凝視した。

 見間違えるはずがない。ビニールで丁寧にラッピングされた革の装丁。

 私の『イリアス』だ。

 

「あ、ありが……!」

 

 反射的に礼を言いかけ――私の思考は、そこで停止した。

 本を差し出している、その“腕”の主を見上げたからだ。

 丸太のような剛腕。

 狭い個室病棟の天井に頭が届きそうなほどの巨躯。

 

 そして、アークの照明よりも眩しく、力強く輝く真紅の双眸。夢の中にいたはずのあの大男が、腕組みをして私のベッドの隣に立っていた。

 幻覚ではない。圧倒的な質量と、熱気と、威圧感を伴った“現実”として。

 

「うむ。目覚めたか、我が()()()()よ」

 

 男は豪快に口の端を吊り上げ、悪びれる様子もなく言い放った。

 

「まったく、惰眠を貪るにも程があるぞ。余は退屈で死ぬかと思ったわ!」

 

 男の問いかけに、私は沈黙するしかなかった。あまりの衝撃に言葉が出なかったのだ。

 

「………」

「どうした、マスター?」

「………」

「まだ身体の調子が悪いのか?」

「………」

「……おいおい。何か言ってくれないと、余も困るのだがな」

 

 男はポリポリと頬を掻き、困ったように眉を下げた。その仕草は妙に人間臭く、先ほどの威圧感が嘘のようだ。

 私は再起動したばかりの思考回路を総動員して、ようやく一つの疑問を口にした。

 

「………どうして、私をマスターと呼ぶんですか?」

「ん?余を召喚したのは貴様ではないか」

「え……?」

「とぼけても無駄だぞ。証拠は挙がっておる」

 

 男は顎でしゃくってみせた。

 

「貴様の右手を見てみろ。"令呪"が宿っているではないか」

 

 言われて、私は自分の右手へと視線を落とした。

 そこには――見覚えのない刺青が刻まれていた。鮮血のような赤。幾何学的な紋様。

 ニケのボディにはあまりにも不釣り合いな、呪術的な輝きを放っていた。

 

「……いつの間に」

「それが聖杯戦争の参加資格、マスターの証だ。貴様の願いが聖杯に届いた何よりの証拠よ」

 

 言葉を失っていると、男の視線がベッドに置かれた『イリアス』へと移った。

 

「それに……貴様もこの物語を気に入っておるのだろう?」

 

 その問いかけに、私は反射的に小さく頷いた。

 否定できるはずがない。私の命を救い、心を震わせた物語なのだから。

 

「ははっ、そうかそうか!余もこの叙事詩を敬愛しておったのだ!」

 

 男はニッと快活に笑い、大きな手で本を指差した。

 

「最初は何故、魔術の素養もなさそうな小娘が余を呼び出せたのか疑問であったが、この本を見て得心がいったわ。これこそが触媒だったというわけだ」

 

 ――共通の話題。

 

 その事実に、自然と頬に熱が集まるのを感じた。

 製造されてから今まで、自分の好きなものを共有できる「他者」など存在しなかった。

 仲間たちは私がガラクタを拾うのを呆れ、古い本を読むのを物好きだと笑った。だから、この本は私だけの宝物だった。誰にも触れさせず、理解されることも諦めていた聖域。

 だというのに。ラプチャーを一撃で葬るほどの圧倒的な力を放ったこの男が、私と同じ物語を読み、同じように「好きだ」と言ってくれている。

 そのことが、どうしようもなく嬉しかった。

 恐怖よりも、困惑よりも先に、胸の奥から湧き上がる高揚感が駆け巡る。

 

 もっと話したい。

 聞いてみたい。

 この人は、あの物語をどう読んだのか。

 

「……誰が」

「ん?」

「誰が、一番好きですか?この物語の中で」

 

 おずおずと、けれど聞かずにはいられなかった問いを口に出す。

 彼は即答した。

 

「それは当然、アキレウスであろう!神の如き駿足、万夫不当の武勇!余もかの英雄たらんと、生涯胸を熱くしたものだ」

 

 胸を張って断言する男を見て、私は――つい、口を滑らせてしまった。

 

「……アキレウスだなんて。随分と子供っぽいですね」

 

 それは長年、誰とも語り合うことのできなかった鬱憤の反動だったのかもしれない。

 

「……何だと?」

 

 空気が凍りついた。

 男が片眉を跳ね上げて私を睨め付けた。しまった、と思った時にはもう遅かった。

 だが、私の口は止まらなかった。一度溢れ出した熱情は、相手が誰であろうと止められない。

 

「だ、だってそうじゃないですか。拗ねて戦場を離脱したり、親友が死んだら怒り狂ったり……強さは認めますけど、精神的には未熟です」

「ほう、言うではないか小娘。ならば、そういう貴様は誰なのだ」

 

 男の眼光に射すくめられながらも、私はその名前を告げた。

 

「――ヘクトールです!」

「何故だ?奴はアキレウスに敗れた敗者だぞ」

「それがどうしたって言うんですか」

 

 私は一度、大きく息を吸い込んだ。

 脳裏に浮かぶのは、あの決戦の情景。神の武具を纏い、暴風の如く迫る最強の英雄アキレウス。対するは、死の予感に身を震わせながらも、愛する祖国と誇りのためにただ一人剣を構えたトロイアの王子。

 

「死ぬと分かっていても……勝てないと分かっていても、それでもアキレウスに戦いを挑んだ姿が、あまりにも鮮烈で、格好良くて……!」

 

 私は彼を真正面から見据えた。

 

「何より、()()()()()()。敗北の運命すらも受け入れて、それでも己の名を刻み込もうとするその生き様が、どうしようもなく眩しかったんです」

 

 一気にまくし立ててしまい、私はハッと我に返った。

 何を言っているんだ、私は。相手はあのアキレウスが好きだと言ったのに、それを真っ向から否定するような暴言を。

 

 ――殺される。

 そう身構えた次の瞬間、視界が赤に埋め尽くされた。

 

「――ッ!?」

 

 締め上げられるような圧力。

 男が、両腕を広げて私を抱擁していたのだ。

 

「分かっておるではないか!」

 

 感極まったような、震える声が頭上から降ってくる。

 

「そう、そこなのだ!アキレウスとヘクトールの決戦こそ、余が最も胸を躍らせた場面!あの時のヘクトールの生き様には、余も敵ながら感涙したものだ……!」

「ぐ、ぅ……くる、しい……」

 

 交換したばかりのフレームがミシミシと悲鳴を上げている。人間であれば今頃背骨が砕けていただろう。…けれど、その乱暴な抱擁から伝わってくる熱量が不思議と心地よかった。  

 

 それは、今まで感じたことのない感覚だった。

 同じ「好き」を共有できることの喜び。

 私の言葉が、思いが、誰かに届いたという実感。  

 私の身を蝕んでいた孤独が溶かされていくような――そんな温かさだった。

 だが、その暖かな窒息は、唐突な電子音によって破られた。

 

 ――ウィーン。

 

 病室の自動ドアが滑らかに開き、明るく弾むような声が飛び込んでくる。

 

「失礼しまーす!精密検査の時間ですよ~っ!」

 

 現れたのは、ピンク色の髪を揺らした小柄なニケだった。

 セラフィム部隊のペッパー。いつも笑顔を絶やさず、患者のためなら廊下を全力疾走することも厭わないというエネルギッシュな看護師だ。

 彼女は手元の電子カルテに目を落としたまま、軽快な足取りで部屋へと踏み込み――

 

「やっと目が覚めたんですよね!本当に良かったで……」

 

 そして顔を上げ――――狭い個室を圧迫する2メートル超の巨漢と、その腕の中で押し潰されかけている患者()を目撃した。

 

「あ」

 

 ペッパーの動きが、コマ送りのように停止する。

 数秒の沈黙。 病室の空調の音だけが、やけに大きく響く。

 自らを征服王と名乗った巨漢は、ペッパーの存在になど気付かぬ風体で、あるいは気付いていても意に介さぬ様子で、ワッハッハと豪快に笑ったままだ。

 

「…………」

 

 ペッパーの瞳孔が極限まで収縮する。

 彼女の脳内で、『患者』『大男』『抱擁(物理的圧迫)』という情報が処理され、一つの結論へと至る。

 

「き……ききき」

「き?」

「きゃあああああああああっ!!ふ、不審者ぁぁぁぁぁっ!!!」

 

 病棟の窓ガラスをビリビリと震わせるほどの絶叫が木霊した。

 ペッパーはカルテを取り落とし、脱兎のごとき速さで廊下へと飛び出していく。

 

「誰かー!誰か来てくださいーっ!変な人が!凄く大きくて変な人が患者さんを襲ってますーっ!!」

 

 遠ざかっていく悲鳴と足音。

 後に残されたのは、キョトンとした顔の私と、腕を組んで不満げに鼻を鳴らす大男だけ。

 

「……な、なな、何てことを……!」

 

 私がようやく拘束から逃れ、あたふたと扉の方へ手を伸ばす。

 まずい。

 どう考えてもまずい。

 病室に無断侵入者がいるというだけでも大ごとなのに、それが規格外の巨漢となれば、A.C.P.U.はおろか、最悪トライアングル部隊まで出動しかねない騒ぎになる。 そうなれば、当然私も彼の関係者と見なされる筈だ。

 絶対にただでは済まないだろう。

 降格処分、記憶消去、インキュベーター送り、最悪の場合は――廃棄処分。

 

「ど、どうしよう……!あ、貴方、早く隠れて……いや、その図体じゃどこにも隠れられないし……!」

 

 狼狽する私を見下ろし、男は「やれやれ」といった風情で顎を撫でた。

 

「ふむ、見られてしまったか。この時代の民草は随分と威勢がいいな」

「感心してる場合ですか!捕まったらどうするんですか!」

「案ずるな。雑兵共に後れを取る余ではない、が……」

 

 そこで彼は一度言葉を切り、ふっと真面目な顔つきに戻る。

 

「無用な混乱を招くのは本意ではない。それに、今の貴様には余を現界させ続けるだけの魔力の余裕もなかろう」

「え?」

「霊体化して傍に控える。安心しろ、姿は見えずとも、余は常に貴様と共にある」

 

 ――霊体化。

 その聞き慣れない単語の意味を私が理解するよりも早く、世界から“質量”が消失した。

 黄金の粒子が舞い上がるかのように、巨軀が輪郭を失い、霞のように薄れていく。

 圧倒的だった存在感、熱気、威圧感が、嘘のように大気へと溶け込んでいく。

 

「ちょ、ちょっと……!」

 

 私が手を伸ばした時にはもう、空調の風に揺れるカーテンがあるだけだった。まるで、最初から誰もいなかったかのように。目の前で起きた非現実的な現象に、私はただ口を開けて立ち尽くすしかなかった。

 

 ――ドタドタドタッ!!

 

 直後、廊下の方から複数の重い足音が殺到してきた。

 

「急げ!305号室だ!」

「確保しろ!逃がすな!」

 

 乱暴にドアが押し開けられ、武装した人間の男性警備員たちが雪崩れ込んできた。拳銃を構える彼らの後ろから、メアリーと涙目のペッパーが姿を見せた。

 

「こ、ここです!この部屋に、赤いマントの熊みたいな男の人が……!」

 

 ペッパーが叫びながら部屋を指差した。 警備員たちは即座にベッドの下、ロッカーの中、バスルームへと散開し、クリアリングを行う。

 だが、当然そこには誰もいない。不審者どころか、侵入の痕跡一つ、足跡一つ残っていない。

 あるのは、ベッドの上で呆然としている私と、サイドテーブルに置かれた古びた本だけだ。

 

「……クリア。不審者、いません」

「バスルーム、クリア。窓も施錠されたままです」

「おい、どうなってるんだ?」

 

 警備員たちが困惑の声を上げ、銃を下ろす。

 張り詰めていた空気が急速に弛緩し、そして気まずい沈黙へと変わっていく。

 その沈黙を破ったのは、メアリーの冷ややかなため息だった。

 

「……ペッパー」

「は、はいっ!?」

「貴女、また徹夜で『怪談』でも読みすぎたのではありませんか?」

「ち、違います!本当にいたんです!信じてください!」

 

 ペッパーは必死に食い下がる。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた 。

 

「本当に、天井につきそうなくらい大きな男の人が!こう、彼女をギュッてしてて……!」

「そもそも、この部屋は完全な密室です。入り口は私たちの目が届く廊下側にしかありません。一体、どこからそんな人間が入れるというのですか」

 

 メアリーは淡々と事実を並べ立てる。

 彼女は続けて私の顔を覗き込み、探るような視線を向けた。

 

「貴女も、何も見ていませんね?」

 

 私は一瞬言葉に詰まった。真実を言えば、ペッパーの汚名は晴れる。けれど、そうすれば私は「正体不明の怪物を連れ込んだ危険因子」として、即座に処分対象になるだろう。

 喉の奥が引きつる。

 視界の端、何もない空間から、フッと彼が笑う気配を感じた気がした。

『共犯者になれ』と、あの男は言っているのだ。

 

「……はい。私はずっと寝ていましたから」

 

 心の中でペッパーに謝りながら、私は首を横に振った。

 

「そ、そんなぁ……」

 

 ペッパーが崩れ落ちるように肩を落とす。

 警備員たちは「なんだ、誤報か」「人騒がせな」とぼやきながら、そそくさと撤収していく。

 メアリーはもう一度だけ鋭い眼光で室内を一巡させた後、やれやれと首を振った。

 

「ペッパー、後で始末書ですよ。……お騒がせして申し訳ありません。引き続き安静に」

「うぅ……本当にいたのに……幻覚じゃないのにぃ……」

 

 メアリーに背中を押され、ズルズルと退室していくペッパーの姿は、見ているだけで心が痛むほど哀れだった。

 パタン、とドアが閉まり、再び静寂が戻る。私は大きく息を吐き出し、天井を仰いだ。

 

「……とんでもないことになっちゃった」

 

 苦笑いが漏れる。右手の甲、そこに刻まれた刺青――あの男は"令呪"と呼んでいた――が、微かに熱を帯びているのを感じた。

 誰もいないはずの空間。けれどそこには確かに、“あの男"の力強い気配が満ちている気がした。

 

 

 

 

 

 

 その後、メアリーによる精密検査が行われた。しかし、当然のことながら、私のボディにも、そしてコアにも、異常な数値は何一つ検出されなかった。まるで嵐が過ぎ去った後の水面のように、私の機能は平静を取り戻していたのだ。

 医学的な問題がない以上、これ以上の入院は必要ない。私はその日の夜に退院許可を得て、住み慣れた――そして少しだけ懐かしく感じる、外縁地区の兵舎へと帰還した。

 

「08ッ!!」

 

 部屋の扉を開けた瞬間、私は二つの影に押し倒されそうになった。

 

「よかった……!本当によかった……!」

「馬鹿!心配させないでよッ!通信も切れて、反応も消えて……もう駄目だって、私たち……!」

 

 ソフィーとリアだった。

 いつもは軽口を叩き合うだけの関係だった二人が、今は私の首に抱きつき涙を流している。

 二人の体温と軋むフレームの感触に、私はようやく自分が“生きて”戻ってきたことを実感した。

 

「……ごめん。勝手なことして」

「本当だよ!なんで勝手に隊列離れたりしたのさ!」

「あんなラプチャーだらけの場所で、一人ではぐれるなんて自殺行為だよ!」

 

 彼女たちの叱責は痛いほど真っ当で、そして――温かかった。

 騒ぎを聞きつけた他の分隊のニケたちも、次々と私たちの周りに集まってくる。五体満足での生還。しかも、あのような絶望的な状況からの帰還。それは、消耗品でしかない量産型ニケ(私たち)にとっては、奇跡以外の何物でもなかった。

 誰もが私の無事を祝い、信じられないといった表情で私の身体を検分し、そして安堵の息を漏らした。私は喧騒の中で曖昧に笑いながら、右手に刻まれた不気味な刺青をそっと手袋で隠した。

 

 ――奇跡なんかじゃない。

   あの男が何かをしたのだ。

   何をしたのかは分からないが、本当にあれが現実だったのなら……

 

 夜が更け、消灯ラッパの電子音が鳴り響く。

 興奮冷めやらぬ様子だった姉妹たちも一日の疲労には勝てず、やがて眠りに落ちていった。

 静寂が戻った部屋の中で、私は一人、寝台を抜け出した。

 

 

 

 

 

 

 兵舎の裏手、無機質なコンクリートの壁に囲まれた狭い路地。そこから見上げる空には、青白い満月が浮かんでいる。アークの天井に映し出された虚構の空―――エターナルスカイ。

 私は冷たい夜風に当たりながら、その作り物の月をぼんやりと眺めていた。

 

「あれも作り物の夜空だと言うのだろう?少々信じがたいな」

 

 不意に、背後から野太い声がかかる。

 驚きはなかった。予感していた通りだ。

 

「……やっぱり、いたんですね」

 

 振り返ると、月明かりの下にあの男がいた。あぐらをかいた姿勢で、ごく自然にコンクリートの地面に腰を下ろしている。その手には、どこから調達したのか、封を切ったばかりのクラッカーの袋が握られていた。

 

「常に貴様と共にあると言ったではあるまいか。それに、姿を消したままでは味気ない。やはり現世の空気は肺で味わってこそだ」

 

 ボリボリと音を立ててクラッカーを咀嚼する姿は、昼間の威圧感が嘘のように砕けている。

 一体、どういう技術を使っているのだろう。

 光学迷彩の類なのか、それともセンサー類をハッキングしているのか。

 私は意を決して、彼に向き直った。

 

「あなた、何者なんですか」

「む?」

「昼間も名乗っていましたけど……()()()()()()って何ですか?データベースを調べた限り、アークにそんな名前の人間はいません」

 

 私の問いに男はきょとんとした顔をした後、愉快そうに喉を鳴らした。

 

「余は征服王イスカンダルである」

「だから、その"征服王"って何なんですか。王様だとでも言うんですか」

「ふむ、イスカンダルという通り名は、この時代、この場所ではあまり知られておらんのか」

 

 男はクラッカーの粉がついた指で顎を撫で、少し思案する素振りを見せた。

 

「東方では恐怖と崇拝を込めてそう呼ばれたものだがな……。まあ良い」

 

 彼は居住まいを正すと、私を真っ直ぐに見据えた。

 

「ならば答えよう。余はマケドニア王フィリッポス二世が子、"アレクサンドロス三世"」

 

 ――アレクサンドロス。

 その響きが、脳内に蓄えられた知識にヒットした。

 

「マケドニア王国第26代国王にして、史上初めて西方世界と東方世界を一つに繋いだ王である」

 

  マケドニア。

  ギリシアの北方。

  アリストテレスを師とし、『イリアス』を枕元に置いて眠ったという若き王。

 

 私の中で、断片的な知識が急速に結合し、一つの像を結んでいく。

 

  ペロポネソス戦争。

  ペルシア帝国への遠征。

  そして――――世界の果て「オケアノス」を目指した、史上最強の征服者。

  私が愛読した『イリアス』の英雄アキレウスを自らの祖と称し、その再来と謳われた男。

 

「――って」

 

 思考回路が焼き切れるかと思った。

 目を見開き、私はその巨人を指差して叫んだ。

 

()()()()()()()()()じゃないですか!!」

 

 私の絶叫が、夜の静寂を切り裂いた。

 その反応を待っていたかのように、イスカンダル――アレキサンダー大王は、ニヤリと満足げな笑みを浮かべた。

 

「うむ!ようやく気付いたか。まったく、余の顔を忘れるとは教育がなっとらんぞ、この時代は」

「う、嘘でしょ……?」

 

 私はへなへなとその場に座り込んだ。

 信じられない。信じられるわけがない。

 教科書の中の人物。それも数千年前も昔の偉人だ。

 それが今、目の前でクラッカーを食べているなんて。

 ニケの技術でも、死者の蘇生なんて不可能だ。脳の保存はできても、歴史上の人物を肉体ごと復元するなんて聞いたことがない。

 

「夢……?まだ私、夢を見てるの……?」

「夢ではない」

 

 男は力強く断言し、夜空を指差した。

 

「貴様の渇望が、時空を超えて余を招いたのだ。誇るがよい、我がマスターよ。貴様はこの征服王イスカンダルを再び覇道へと駆り立てたのだからな」

「……な、なんで!」

 

 私は震える唇を無理やり動かし、その問いを絞り出した。

 

「なんで、過去の偉人が現代に蘇ってるんですか!!歴史の教科書に載っているような人が、どうしてここに……!?」

 

 私の混乱ぶりに対し、イスカンダルは怪訝そうに片眉を上げた。

 

「む?()()()()()()とはそういうものであろう?」

「は、はい??」

 

 ――サーヴァント。

 またしても聞き慣れない単語に、私は首を傾げた。

 

「我らは『英霊の座』に刻まれた英雄だ」

「えい、れい???」

「……何だ、それすら知らないのか」

 

 イスカンダルは「全くどうなっておる」と、呆れたように頬をボリボリと掻いた。

 

「英霊とは、世界中の英雄・偉人が死後、人々の信仰によって祀り上げられて精霊の域にまで昇華した存在だ。本来であれば、人の身で触れることすら叶わぬ力ある霊体よ」

「はあ……」

「そしてサーヴァントとは、その英霊を現世に喚び出すための(クラス)()()()()に際してマスターとなる魔術師に召喚され、聖杯を得るために協力して戦う使い魔のことだ」

 

 情報の奔流に、処理落ち寸前の脳が悲鳴を上げる。

 精霊、魔術師、聖杯……。

 どれもこれも、科学と機械で構成されたアークには存在しないはずのオカルト用語ばかりだ。

 けれど、その中で一つだけ、私の思考を凍りつかせた単語があった。

 

 ――聖杯戦争。

 

 その不穏な響きが、背筋を冷たく撫で上げた。

 私たちニケにとって戦いとは日常であり、存在意義そのものだ。

 だが、彼が口にしたのはそれとは違う。もっと異質で、得体の知れない響きを含んでいた。

 

「…まあ、貴様が意図せずマスターとなったことは理解した。魔術の素養もなさそうだしな」

 

 イスカンダルは残ったクラッカーを口に放り込み、月を見上げたまま淡々と続けた。

 

「だが、そもそも貴様がマスターとなり、この余が召喚されたということは即ち―――この街でも()()()()が始まったことを意味するであろう」

「え……」

 

 何気ない顔で告げられた事実に、私は硬直した。

 つまり、彼のような存在は一人ではないということか?彼のような歴史上の英雄たちが、この狭い地下都市に蘇り、これから"聖杯"とやらを奪い合うために殺し合いを始めるというのか? ラプチャーの攻撃すら通じない、物理法則を無視した“神秘”の力を持った者たちが?

 

 ……事態は、私が思っていたよりも遥かに深刻だった。

 生き延びたいと願ったあの瞬間、私はパンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。

 

「……」

 

 青白い偽物の月明かりの下。

 豪快に笑う征服王と、言葉を失う量産型ニケ。

 あまりにも不釣り合いな主従の影が、コンクリートの地面に長く伸びている。

 アークで、何かとてつもないことが起きようとしている。

 逃げ場のない地下の鳥籠で、名もなきニケは、己が背負ってしまった運命の重さを悟り――ただ、震える右手を握りしめた。

 

 

 

 

 




最後まで読んでいただきありがとうございます。
ストックはありますので、しばらくは毎日(21時頃に)更新していく予定です。
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