女王モルガンが玉座で果て、多くの厄災で崩壊するブリテン。カルデアが奮闘した物語の裏。
一人の妖精と、一人の人間の、最期の物語
終焉は、唐突な轟音ではなく、世界が息を止めたような静寂を連れて訪れた。
大いなる災いは去った。世界を焼き焦がす黒い獣も、世界を呪う大いなる影も、遠くに聞こえる奈落の声も今は遠い。
だが、ブリテン島という揺り籠の崩壊までは止めようがなかった。地脈は断絶し、マナの大気は霧散していく。かつて妖精たちが舞った地上の楽園は、今や赫く錆びついた鉄のような夕暮れに沈もうとしている。燃え盛る街の爆ぜる音が、遠い潮騒のように鼓膜を撫でた。
海岸沿いに穿たれた岩陰。そこは、世界の終わりのための特等席に他ならない。。
「……傷が、開きますよ。アルデン」
鈴を転がすような、けれどひどく掠れた声が響く。
彼女の纏う薄紅色のドレスは、かつては春の花弁のように鮮やかだっただろうが、今は煤と泥に汚れ、見る影もない。
声の主──コーラルは崩れた岩盤に背を預け、鎧からおびただしい血を流す青年──アルデンの頬に手を伸ばした。
背にある風の氏族の誇りたる蝶の翅も、片方が無惨に砕け、鱗粉が血のように輝きながら舞い散っていた。
「…痛みなど…。貴女が無事であれば…」
血濡れた髪と顔。アルデンは、主人の指先を包み込み、痛む口元を歪めて穏やかに微笑んだ。
彼の鎧は、無数の爪痕によって鉄屑同然に剥がれ落ち、肉に食い込み赤黒く色づいている。
かつて、槍の選定の儀において、パーシヴァルと競り合ったほどの剛剣。その腕は、ただこの一人の妖精の逃避を守るためだけに振るわれ、そして砕かれた。
彼を「愛玩動物」として拾い上げ、近衛まで生かし、育てた紅く美しい妖精は唇を噛む。
「私を守る、だの。恩返し、だの……。人の身で分不相応な大望を抱くから、そんな無様な姿になるのです」
コーラルは、青年の砕けた鎧の隙間から覗く傷に、痛ましげに指を這わせた。その言葉は棘だらけだったが、声色は風に揺れる若草のように震えている。
「あの時……選定の儀で敗れたあなたを拾ったのは、ただの……そう、ただの気まぐれだったというのに」
それは、彼女なりの自嘲だった。暇つぶしで拾った玩具に、まさか自分の命運を握られることになるとは、という嘆き。だが、アルデンは血の滲む口元を緩め、眩しいものを見るように彼女を見つめ返した。
「そうですか……。貴女にとっては、そうだったのかもしれませんが…」
彼は、薄れゆく意識の中で、あの日の光景を反芻する。泥に塗れ、夢破れた敗北者を見下ろした、冷たくも美しい瞳。差し伸べられた白い手。
「はは、は…私にとっては、鮮烈でして…ね…」
アルデンは口元を歪め、乾いた笑いを漏らした。それは自らを嘲る、昏い愉悦の響き。しかしその色に後悔はない。
「…傑作ね。ソールズベリーの執務官ともあろう者が、混乱の極みにある街を捨て、あまつさえ『下等種族』の手を取って逃避行だなんて」
彼女は、自らの汚れたドレスと、それを支える人間の手を交互に見つめた。
かつて彼女は、人間を資源として管理し、秩序こそが全てだと信じていた。その彼女が今、職務も、誇りも、氏族の教えもすべてかなぐり捨てて、一匹の人間と泥にまみれている。
「地に落ちたもの。……オーロラ様が見たら、呆れてお笑いになるでしょう」
そこで言葉を切り、コーラルは虚空を見上げた。その瞳の奥に宿っていた光が、ふっと揺らいで消える。
「……いいえ。きっと笑いもしないわ。あの方は、もう私を見ない」
そこにあったのは、長年仕えた主君への思慕ではなく、底冷えするような絶望の理解だった。
「……あの方の物語には、あの方以外の登場人物なんて初めからいなかった」
捧げた忠誠も、削った命も、彼女を慕う臣民ですら、すべてはあの無垢なる自己愛の前では無価値だった。
雪崩込むモース。暴徒となる妖精。止まらない悲鳴。笑い声が木霊した街が、怨嗟によって塗り替えられる様を知って尚、彼女は己が成した事の重大さを知らない。興味もなかった。
そこでコーラルの中で何かが決壊したのだ。
「……だから、逃げた。あの目が潰れるほど眩しい光から。主役のいない、薄暗い泥の中へ」
吐き出された言葉は、懺悔のように重く、そして泥のように惨めだった。それは、彼女がこれまで築き上げてきた全て──誇りも、責務も、氏族としての生き方さえも。自らの手で投げ捨てたことへの、痛切な告解に他ならなかった。
だが、その自罰を遮るように、静かな声が響く。
「いいえ…。いいえ。……それは違います、コーラル様」
アルデンは、口から鮮血を溢れさせながら、優しく、けれど断固としてその罪を否定した。
「命令を無視し、民を守るべき剣を捨て、貴女を無理やり連れ出したのは……他ならぬ、この私です」
彼は、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、その穢れなき忠誠心で彼女の罪を塗り替える。
「貴女が逃げたのではありません。……この私が、貴女を拐かしたのです」
その必死な嘘に、コーラルは力を失ったように苦笑した。彼女は、汚れた騎士の胸板にそっと額を押し付ける。
「……貴方のその腕に甘んじ、心地好い熱に絆されて『役割』を放棄してしまえば……それは、逃げたことと同義よ」
彼女は自身の罪を誤魔化さない。けれど、その声には自嘲と共に、どうしようもない安堵が混じっていた。
「そう…卑下…なさらないで…」
彼は、ひしゃげた胸当てに預けられた彼女の震える温もりを、愛おしむように受け止めた。その胸の奥底には、紛い物であろうと世界を救う座を競い、そして敗れ去った男だけの、静かな誇りと確信があった。
「……あの日、選定の儀で敗れたことを、私は誰よりも感謝しています」
アルデンは、自身の胸元の傷。かつて英雄になれなかった敗北の証を、まるで勲章のように噛みしめて告げた。
「もし…あそこで勝ち、聖槍に選ばれていれば……私は『世界』を救うための礎となって死んでいたでしょう。……いいえ、名の残らぬ屍として野垂れ死んでいたに違いない」
彼は、彼女の乱れた髪を、畏れ多くも優しく撫でた。それは、英雄には決して許されぬ、敗者だけが許された愛おしい時間。
「私は負けた。負けて、地を這い、泥に塗れたからこそ……こうして世界よりも大切な、たった一人の貴女に見つけてもらえ、盾になることができた」
──守れたのかは、怪しいところですが。アルデンはコーラルの姿を見て、目を伏せるように苦笑する。
それは、飼い犬としての従属ではない。一人の男が、自身の魂の在処を定めた、強烈な自我の告白だった。
「だから…貴女がもう『役割』を持たぬ妖精だとしても、歴史の徒花と嘆こうが、構わない。……私のじかんは、貴女という世界を愛するためだけにあったの、だと…」
アルデンの言葉は、祝詞のように、彼女を縛り続けてきた冷たい鎖をひとつ、またひとつと解いていくようだった。
コーラルの時が、止まる。
完璧な「風」であろうとして心を凍てつかせ、数百年もの時を孤独に滑空してきた彼女の胸。その空っぽだった空洞に、たった数十年で燃え尽きる「人間」という生き物の、刹那にして暴力的とも言える生命の熱が、雪崩れ込んでくる。
それは本来、天地が裏返ろうとも交わるはずのない、禁忌の熱だった。神秘を纏う高貴な妖精と、泥土に塗れる脆弱な人間。だが今、彼の手のひらから伝わる鼓動は、彼女の凍てついた心を焼き切るほどに熱く、無遠慮で、そして涙が出るほどに愛おしい。
自身の命すら顧みず、ただひたすらに目の前の「私」だけを映し、守り抜こうとするこの愚直な心音。
「……やはり、人間は愚かな下等生物よ…。……これでは、家畜扱いされても、文句は言えない……」
それは、かつての執務官としての驕りではなく、愛しさゆえの降伏宣言だった。アルデンは、困ったように、けれど幸せそうに目を細める。
「はは……何も、言い返せませんね……」
震える声と共に、冷徹な執務官の瞳から、真珠のような涙が零れ落ちる。一人の女として流した、最初で最後の、火傷しそうなほどに熱い雫だった。
──その刹那。頭上の空を圧するような重低音が、二人の静寂を引き裂いた。
涙に濡れた瞳で見上げた先。崩落する夕雲を突き破り、巨大な鉄の塊が飛翔していく。彼らはその船の名を知らない。誰を乗せ、どこへ還るのかも知らない。
だが、その尾を引く推進光は、滅びゆくこの世界には決して存在し得ないはずの、夜明けの明星のように眩く、そして残酷なほどに「異質」だった。
そのあまりに鮮烈な輝きに、二人は不思議なほど明確な、ある確信を抱いていた。 あれは、ここではない何処かへ往くものだ。この閉じて燃える絵画の中から、唯一飛び去ることのできる、未来への方舟なのだと。
「ああ……征くのね」
コーラルは眩しげに目を細め、茜空を裂いて飛翔するその光を仰いだ。 不思議と、そこに羨望も嫉妬も湧かなかった。ただ、自分たちがこの未来から置いていかれることを、静かな諦観と共に受け入れていた。
「はは…空飛ぶ、鉄の塊とは……」
アルデンが、呆気にとられたように、けれどどこか憑き物が落ちたような声で漏らす。
「いいものが見れた……。美しい、です、ね…」
その感想は、あまりに素朴で、滑稽で、そして真実だった。船は、光の彼方へと小さくなっていくそれは、汎人類史という「正史」の幕が下り、この異聞帯が完全に切り離されたことを意味していた。
残されたのは、脚本にも記されていない、名もなき二人の演者だけ。奇跡は起きない。救済の光も届かない。この先にあるのは、海へと崩れ落ちる大地と、冷たい宵闇だけだ。
「では我ら、も……参りましょう、か…。コーラル様……」
アルデンは、去りゆく希望から視線を外し、崩れゆく地平線へと向き直った。
「日が沈みます。……この世界の、最期を見届けに…」
コーラルは、差し出されたその手を強く握り返した。
かつては飼い主として冷徹に握っていた手綱ではない。今は対等な、ただの一人の女と男として、その無骨な指に自身の指を絡め、祈るように握りしめる。
──……あぁ。もっと時間があれば
もっと早く、あの空虚な輝きから目を逸らし、目の前の彼のことだけを見ていたなら。
彼の抱える孤独や、その不器用な優しさの輪郭を、真に理解し合える日々を紡げただろうか。
後悔はいつだって、終焉の波打ち際に遅れて打ち上げられる。
けれど今は、その胸を焼く苦い痛みさえも、彼と共に在る証として飲み込もう。
「……ええ。ええ。共に…行きましょう、アルデン」
二人は、一歩を踏み出した。眼前に広がるのは、瓦礫の稜線が墓標のように黒々と浮かび上がる、滅びの荒野。
煤けた薄紅色の裾が、乾いた風になびく。かつて空を舞った蝶の翅は、今や地に堕ち、ガラガラと音を立てて引きずられている。けれど、彼女の歩みは揺るがない。それを支える、傷ついた騎士の肩に、その身のすべてを寄り添わせて。
夕陽が、燃え尽きる蝋燭のように、水平線の彼方へと沈んでいく。その最後の輝きは、絶望も、崩壊も、かつての栄華も、すべてを等しく黄金色に染め上げて。
美しい、と彼女は息を呑む。世界の断末魔がこれほどまでに静謐で、残酷なまでに美しいものだとは、長い妖精の生において、誰ひとりとして教えてはくれなかった。
絶対的な絶望の中で、寄り添う二つの影だけが、互いの体温だけをよすがに、静寂な黄昏の向こう側へと消えていく。解けていく。なくなっていく。
けれど、彼らが最期に交わした眼差しと体温だけは、この異聞帯の歴史のどこにも記されずとも、確かにそこに在ったのだ。
その先にあるのが虚無だとしても。
堅く繋がれた手と手だけは、
いつまでも、いつまでも、いつま────