中学一年の終業式の朝。
強い日差しの中を歩きながら、千尋はいつもの古びた雑木林の前で足を止めた。
赤茶けたコンクリートのトンネル――
薄暗いその口の前に、今日は工事の車と作業員が何人も立っていた。
「え……?」
何度も何度も、理由もなく気になって仕方がなかった場所。
近づくと胸がざわつき、離れると落ち着くような。
自分でも説明できない感情を、千尋は幼い頃から抱いていた。
「ねぇ、由美。あれ……どうして工事してるの?」
友達に尋ねると、由美は気の毒そうに肩をすくめた。
「聞いたよ。危ないから取り壊すって。
もう使われてないし、昔から不気味って噂だし……ほら、“おばけトンネル”って」
「……取り壊す……の?」
胸の奥が、ひやりと冷えた。
悲しいわけでも、寂しいわけでもない。
むしろ、もっと漠然とした――
何か、とても大事なものが失われるような不安だった。
理由なんて分からない。
けれど千尋は、自分の心が小さく震えているのを感じていた。
⸻
『川が呼ぶ声』**
⸻
川に着いた千尋は、初めて来たはずなのに――
胸がぎゅっと締めつけられるほど懐かしさを感じた。
(ここ……知ってる。はずないのに……どうして?)
理由もわからないまま、千尋は誰よりも熱心にごみを拾い続けた。
「千尋、真面目だね〜」
「そんな頑張らなくてもいいのに」
友達の声も耳に入らないほどに、心が勝手に動いていた。
その時だった。
ごう、と風が吹き、水面がざわつき、流れが急に早まった。
「きゃっ!」
友達が転び、片方の靴が川に流れた。
「あっ……!」
千尋は反射的に追いかける。
靴は木の枝にひっかかり、ぷかぷかと浮いていた。
「……あった!」
千尋が駆け寄って手を伸ばした瞬間――
まるで誰かに抱き上げられるように、身体が水の中へ引き寄せられた。
「っ……!」
水の中なのに苦しくない。
白い泡と光が、千尋の身体を包む。
やがて、水の奥に――
大きな顔が、ゆっくりと浮かび上がった。
千尋が、かつて油屋で出会った“河の主”。
泥とごみで汚れながらも、どこか優しい眼をした大河の神。
目が合った瞬間、千尋の胸がどくんと鳴った。
「……あなた……どこかで……会ったこと……ありますか?」
神様は、ゆっくりと千尋を見つめた。
言葉は発しない。
ただ、穏やかに、深く、じっと。
千尋の心の奥をのぞきこむように。
そして――
千尋の迷いと空白を悟ったように、静かに口を開いた。
『……忘れても、流れても。
大切なものは、必ず戻る……』
その声は、水底から響くような低く柔らかな声だった。
言葉と同時に、白い光が千尋を包み込む。
千尋の閉ざされていた記憶の扉が――
ゆっくりと、軋みをたてながら開き始めた。
油屋の匂い。
湯婆婆の大声。
釜爺の湯気。
リンの笑顔。
坊の泣き声。
銭婆の温かな手。
そして――
白い龍が、千尋を守るように飛ぶ姿。
少年の声。
名前を呼ぶ声。
あの、優しい瞳。
「……ハク……!」
千尋は、溢れ出る記憶と一緒に涙をこぼした。
川でのごみ拾いが終わり、集合場所に戻るころには、夕暮れの金色が川面に揺れていた。
「千尋、ありがとう! 靴拾ってくれて!」
「ホント助かったー!」
友達が口々に礼を言う。
千尋も笑う――けれど。
(……早く行かなきゃ)
焦りが胸の奥をひと突きするように広がっていく。
胸騒ぎじゃない。
もう“呼ばれている”ようだった。
気がつけば、足が走り出していた。
舗装が剥げた細い坂道。
夕日でオレンジ色に染まる電柱。
蝉の声が遠くで薄く震えている。
家とは全然違う方向。
でも、迷わなかった。
毎年、理由もなく惹かれていた道だ――足が覚えていた。
(行かなきゃ。行かなきゃ……!)
雑木林へ続く細道に入ると、空気がひんやりして、風の匂いが変わった。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
やがて、木々の隙間。
ぽっかりと口を開けた、あの古びたトンネルが姿を見せた。
入口には工事の資材。
囲いのための鉄骨。
黄色いロープが張り巡らされかけている。
――間に合う。
千尋はその隙間をすり抜け、トンネルへ飛び込んだ。
その瞬間。
風の音がふっと消えた。
湿った空気と、ひんやりした闇。
自分の足音だけが響く。
出口が、金色に染まっていた。
千尋は光の中へ駆け出す。
トンネルを抜けた先。
草むらがゆれている。
夕日の光が斜めに差し込み、草一本一本が輝いていた。
そして。
その草原の中央に――ひとりの少年の後ろ姿。
白い服。
黒い髪。
風にそよいで、小さく揺れている。
背中越しでも分かった。
胸が強く脈打つ。
あの夏に刻まれた記憶が、確かに呼び起こされる。
少年が、ゆっくりとこちらへ振り向く。
その瞳。
まっすぐで、深い湖みたいな緑の色。
その優しさと懐かしさに、千尋の心は一瞬で満たされた。
「……千尋?」
少し成長した声。
でも、間違えようがない。
「ハク――!!」
千尋は叫んで駆け寄る。
勢いのまま抱きついた。
ハクは驚いたように目を見開き――しかしすぐ、柔らかく千尋を受け止めた。
「千尋……思い出したんですね」
千尋は泣きながら何度も頷く。
「忘れてたの……ずっと……でも、全部思い出したの……!
あなたのことも、ここも……!」
ハクは千尋の背をそっと撫で、静かに微笑んだ。
「千尋が戻ってきてくれて……私は嬉しい」
その声が、涙を誘うほど優しい。
けれどその後、ハクの表情に影が落ちた。
「……千尋。ここはもうすぐ消えてしまう」
「……え?」
「トンネルが塞がれれば、人の世界とこちらは繋がらなくなる。
そうなれば……もう、千尋とは会えない」
千尋の息が止まる。
「……そんな……いやだよ……!」
また会えたのに。
やっと思い出せたのに。
千尋の涙がぽろぽろこぼれる。
ハクはその涙を優しく指先で拭った。
「泣かなくていい。
あなたが笑っていてくれたら……私はそれだけで十分です」
「……っ、でも……!」
「千尋。あなたに出会えて、守ることができて……私は幸せだった。
あの夏も。そして今日も」
夕日が二人を包みこむ。
「もうすぐ夜です。
千尋は、戻らなければいけない」
ハクは千尋の手を、ぎゅっと両手で包んだ。
「さよなら、千尋」
寂しさを抑えた、優しい声。
千尋は息を震わせながら、どうにか笑顔を作った。
「……バイバイ、ハク」
光が揺れ、視界が遠ざかる。
気がつけば千尋はトンネルの前に立っていた。
工事の音が響き、夏の風が吹き抜けていく。
現実はもう、動き始めている。
トンネルは日に日に塞がれ、あの場所へは戻れなくなる。
それでも――
胸の奥には、確かに残っていた。
あの夏の匂い。
守ってくれた白い龍の温もり。
名前を呼ばれたときの、心が満たされるような感覚。
忘れていた思い出は、
戻ってきただけじゃない。
千尋の中で、ちゃんと息をしている。
(ありがとう、ハク)
千尋はそっと胸に手を当てる。
涙はまだ乾かない。
けれどその目は、先ほどよりずっとまっすぐだった。
たとえ道が閉ざされても。
もう会えなくても。
あの場所で過ごした時間は――千尋を支えてくれる。
千尋は小さく息を吸った。
そして、夕暮れの道へと歩き出す。
ハクと油屋の思い出を抱いて。
千尋はまた、ひとつ前へ進んだ。