紅魔館の夜は、いつもより重く沈んでいた。
『明日、決行するわ』
吸血鬼の主がそう宣言した前夜から、館全体の空気は確かに変わっていた。
蝋燭の炎は落ち着きを失い、廊下では妖精メイドたちがそわそわと羽ばたきをやめられずにいる。
大図書館では魔力が渦を巻いており、外の庭では美鈴が妙な気合いを入れていた。
まるで、館そのものが“主の気まぐれの余波”に震えているようだった。
◇
大広間では、十六夜咲夜が早朝から走り続けていた。
淡々とした動作の裏で、彼女の時間は既に何度も引き延ばされ、時には止められている。
壁には、返り血に見える赤黒い染み。
廊下には人型の骨らしき残骸。
昨夜から続く「館内の掃除」は終わりが見えない。
「お嬢様ときたら…本気で今晩霧を展開なさる気なのですね…」
独り言のように呟きながら、転がっている死骸からナイフを抜き取る。
骨の間に深く突き刺さっていた銀色の刃は、抜くたびにヌチュリ…と嫌な音を立てた。
「……捕食するのは自由ですが、後片付けの負担まで考えてほしいものです」
主への不満は、あくまで丁寧語のまま喉奥に沈められる。
咲夜は静かに時間を止め、散乱した骨と肉片を一度に回収すると、廃棄用の箱へと押し込んだ。
「今日ばかりは、時間魔法の無駄遣いを覚悟しないといないわね……」
小さなため息だけが、紅魔館の空気を震わせた。
◇
同じ頃、大図書館では小悪魔が走り続けていた。
「パチュリー様、あの、霧の循環図……あれ……どこに……?」
棚と棚の隙間に身をねじ込み、紙の束を抱えたまま急旋回する。
勢い余ってメモを一枚二枚と落とし、それをさらに拾おうとして余計に散乱させてしまった。
「明日決行なんて聞いてませんでしたぁ……っ!」
昨夜、パチュリーに淡々と告げられた“明日ね”の一言。
その冷静さとは裏腹に、準備はあまり整っていない。
小悪魔は紙の海に埋まりながら、泣きそうな声で叫んだ。
「パチュリー様ぁぁ……!! 書庫の循環魔法の式、私まだ覚えられてませんーっ!!」
書庫の奥で、静かに茶をすすっていたパチュリーが肩をひとつ揺らした。
「……静かにしなさい。魔力が乱れるわ」
「は、はいぃ……っ!」
パチュリーは眠たげな目を擦り、本を閉じた。
深い紫の瞳は、明らかな疲労を帯びている。
「霧の展開くらいなら私一人でもできるのよ……ただ、今日は体調が悪いの。咳で詠唱が途切れたら、霧が一気に暴走するわ」
「そ、それは……困ります……!」
「困るわよ。だから、無理してでもこうしてやってる…コホッ」
淡々と皮肉を返しながら、パチュリーは手のひらを軽く振った。
すると散乱したメモの一部が風に巻かれて一箇所にまとめられた。
「ン……あとは自分で整理しなさい。私は霧の魔力線を整えるから」
小悪魔は半泣きのまま深く頷き、また走り出す。
大図書館にも確かに緊張が満ち始めていた。
◇
紅魔館・正門。
紅美鈴は姿勢を正し、庭の紅い霧を眺めながら拳を握った。
昨夜、レミリアに何気なく言われた一言がずっと胸に残っている。
――『いい? 美鈴。巫女は食べてもいいのよ。昔から言い伝えがあるの』
信じきれない言い伝えに美鈴は深く考えてしまう。
(でも、お嬢様が言うなら……そういう伝承もあるのかもしれない……)
胸の内で複雑な葛藤が渦巻く。
妖怪としての本能と、門番としての理性が拮抗していた。
「……と、とにかく。今日来るのは博麗の巫女さん……。
だ、大丈夫……でしょう、多分……うん」
美鈴は自分に言い聞かせるように深呼吸した。
気合いの入った構えは、傍目にはまるで決戦前の武術家のようだ。
その様子を、紅魔館の窓からぼんやりと見つめる影があった。
レミリア・スカーレットだ。
小さな翼がわずかに揺れる。
「……? 美鈴、あんなに気合いが入ってるなんて珍しいわね」
首をかしげながら、紅茶を一口。
「何か……妙な勘違いでもしてるのかしら」
小さく呟いたが、それ以上深く考える気はない。
吸血鬼の主にとって気まぐれ以外の“重大”は、基本的にどうでもよかった。
◇
紅魔館内部のざわめきは、だんだんと強くなっていく。
主の命令一つで、館はこれほど騒がしくなるのだ。
だが、当の本人――レミリアは静かだった。
庭先の椅子に腰かけ、片脚を組み、指先で紅茶を揺らす。
昨晩よりも丸みを帯びた月光が窓枠に差し込み、彼女の白い肌を淡く照らしていた。
咲夜が報告に来る。
「お嬢様、館内の整理が完全には終わりません。
残骸が増えすぎていて、対処が追いつきません」
「じゃあ、時間を止めてやればいいじゃない」
「既に数度、行っております。ですが……限界はありますッ」
咲夜の額には珍しく薄い汗が滲んでいた。
パチュリーも顔を出す。
「霧の循環魔法は整えたわ。でも、今日の体調は、かなり悪いわ…
レミィ、あまり長期戦は無理よ」
「そんなもの望んでないわ。博麗の巫女は来るでしょうけど……
なに、遊ぶ程度でいいのよ」
「その“遊び”が問題なのよ……」
パチュリーはまた大きなため息をついた。
レミリアはそんな二人の言葉を、紅茶越しに半分だけ聞いていた。
力の巡りも上々。運命操作にも支障は出てない。
幻想郷中が紅色に染まる光景を思い描くと、胸がじんわりと温まった。
「――さて、始めましょうか」
主の一言が落ちると、周囲の空気は一気に張り詰めた。
咲夜が深く頭を下げ、気配をその周囲に張り巡らせる。
パチュリーは魔導書を握り、魔力の波を整え始める。
大図書館からは、小悪魔の悲鳴混じりの足音が遠く響く。
門の前では、美鈴が決意の呼吸を整える。
紅魔館が、一つの“異変の城”として動き始めた瞬間だった。
レミリアの指から赤い霧が、ゆっくりと、しかし確実に広がっていく。
「紅い、夜をね―――」
――紅霧異変。その幕が、ついに上がった。
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