紅魔館の廊下は、魔力の霧が薄く揺れ、空気そのものが重たく感じられた。咳を抑え込みながら歩くパチュリーの足取りは確かだが、胸の奥の鈍い痛みだけはどうにも消えない。
「……っ、げほ……」
喉の中に、確かに残る氷の棘のような感覚。紅霧の流れの最中に紛れ込んだ、あの不自然な冷気。湿気とは違う、夏にはありえない鋭い冷たさだった。
(あれは……本当に、どこから来たのかしら)
思考が霞む前に、レミリアへ報告する必要がある。
パチュリーは扉を軽く叩いた。
「レミィ、入るわよ」「どうぞ」
扉の向こうでは、レミリアが窓辺に立ち、広がる紅霧を眺めていた。紅い光の反射が頬に薄く乗り、吸血鬼らしい静かな高揚が漂う。
「……紅霧の広がりはどう?」レミリアは振り返ることなく問う。
パチュリーは胸に手を当て、息を整えると、静かに言葉を落とした。
「……制御、できなくなったわ」
その一言で、レミリアがようやく振り向いた。
「あら、貴女にしては情けないこと言うのね」
「元々の体調がよくないのもあるけど……冷気混じりの湿気で、喘息が悪化したの」
パチュリーは咳で途切れかける声を押し戻しながら続ける。
「咳がそれから止まらなくて…詠唱が切れた。 そこから暴走…制御不能になったの。 監視できる範囲には落としてきたけど――」
レミリアはしばし沈黙し、窓の外へ視線を向ける。紅霧は、さきほどより濃く、速く、うねるように広がっている。
「……そう。計画を急いだ私にも非があるわね」
「ミス、と言われても仕方ないわ。でもこの冷気は…冷気、あの妖精の仕業…」
皮肉めいた言葉の裏に、苦い呼吸が漏れる。
そのタイミングで、壁際の影が揺れ、咲夜が姿を現した。
「お嬢様。館内はどうにか鎮圧しました。 ただ……外はもうひどい状態です」
レミリアは振り返らずに微笑を落とす。
「それで、状況は?」
「美鈴が対応中です。 ただ、この霧の濃度は……異常です」
レミリアはふぅ、と小さく息をついた。
「……まるで幻想郷全体が紅魔館の霧を吸い上げているようね」
パチュリーは胸元を押さえ、呟く。
「この霧は……もう、止められないわよ、レミィ」
レミリアは窓越しに、紅く染まる湖の方角を見つめる。その紅が深くなるほど、胸の奥の高揚が静かに波立つ。
「いいわ。元々止める気もなかったし、計画が早まっただけどお前ばそれはそれでいい」
静かな声だったが、霧の濃さに比例するように、その響きには吸血鬼の本能が微かに滲んでいた。
咲夜は一礼し、パチュリーも咳をこらえながら退室した。
部屋に残ったレミリアの肩へ、外の紅霧が淡い緋光を落とす。
――――この瞬間、紅霧は「異変」へ変わった。
◇
紅魔館の外周は、静寂の夜とはかけ離れた様相を帯びていた。霧はつい先ほどまで薄い膜のようだったはずなのに、ざらついた紅の層となって庭全体に広がっている。
低級妖怪の毛玉たちは、不安と苛立ちを混ぜ合わせたような声を出しながら跳ね回り、精霊たちは羽音を荒げて周囲を旋回していた。
その中心に立つ紅美鈴は、拳をつくり、静かに息を吐いた。門番として長くこの場に立ってきた彼女には、紅魔館の“普通”と“異常”の境目が感覚で分かる。その境界線を、今まさに変わろうとしていた。
「……刺々しい。霧そのものより、周りの“気”が荒れてますね」
その気配がまるで肌の下を針で突かれたような違和感として伝わってくる。
美鈴は足を開き、気を整える。湖側の紅霧が軽く揺れ、空気がひやりとする。
気配の中心から、数体の精霊が飛び出した。紅霧の濃度に当てられたのか、いつもより顔つきが鋭い。羽ばたきは乱暴で、まるで軌道が制御できていない。
「破ッ……!」
美鈴の拳に“気”が集まる。精霊が軌道を乱したまま突進した瞬間、美鈴は横へ弾くように拳を放った。衝撃波ではない。ただ、気を流し込んだ最小限の攻防だ。それでも精霊たちは、風に散るように門前の石畳へ転がった。
「……これで抑えられる程度なら、まだ楽に済みそうですけど」
しかし、視線を向けた先――湖の霧は、さらに深く紅く染まりつつあった。
◇
紅魔館の廊下は、妖精たちの暴れた痕跡を隠しきれていなかった。散乱した皿の欠片、折れた羽根、倒れた燭台。それらをせわしなく片付けながら、十六夜咲夜は深く息を吐く。
時間停止を何度も使ったせいで、額には薄く汗が滲んでいる。主の前では平静を装っていたが、疲労は確かに積み重なっていた。
「……これ以上の使用は支障をきたしてしまうわね…」
時間停止中に物が浮いて見える感覚が残る。あまり良い兆候とはいえない。咲夜は最後の欠片を拾い集め、エプロンのポケットに押し込んだ。
窓の向こうで紅霧がわずかに蠢いているのが目に入る。
「更に濃くなってる……? いやな予感しかしないわね」
レミリアの部屋でパチュリーの報告を聞いた直後だ。紅霧の広がる速度は、もはや人工的な計算の範囲ではない。自然と魔力の“混合事故”になっている。
咲夜はナイフを数本取り出し、腰に差し直す。館内の制圧を終えた以上、次の問題は外だ。
「……美鈴、大丈夫かしら」
その呟きを残し、咲夜は紅霧へ向かって足を速めた。
◇
紅霧の濃度はさらに上昇し、門前は薄赤の膜に覆われていた。美鈴が精霊たちの波をいなした頃、門の内側から気配が揺らぎ、咲夜が姿を現した。
「だいぶひどい状況ね」
美鈴は軽く頷いた。
「咲夜さん。今夜は……気の流れ全体が刺々しくて」
「館内も同じよ。妖精たちがほとんど暴れていたから」
咲夜は門の先、森の奥へ視線を向けた。見渡せる湖の上空は真紅のように染まっている。
「……やけに寒いわね。湖の方から“冷たいもの”が混ざってる」
美鈴も頷いた。
「私も感じました。霧の中に、氷の粒みたいな気配が……」
「……なるほど、それでパチュリー様があのようにおっしゃってたのね」
咲夜は真紅に広がる湖の奥を見つめながら、紅魔館へ踵を返す。
「美鈴、外は任せたわよ。博麗の巫女も時期に来る」
背中から美鈴の気の膨らみと、妖怪達のざわめきを感じながら紅魔館の最終準備へと戻る。
◇
紅魔館で最も高いバルコニーから、レミリア・スカーレットは広がる霧の海を眺めていた。つい先ほどパチュリーから聞かされた報告が、まだ指の中に残っているような感触を持っていた。
“紅霧の制御不能”“外部の冷気によりパチュリーの体調悪化”“重なり合った紅霧による妖怪や精霊達の暴走”
その言葉のどれもが、紅魔館の主を落ち着かせるものではなかった。
だがーー
紅霧が幻想郷の空気を塗り替えていく光景は、彼女の胸を妙に高揚させる。計画以上に進むことは、吸血鬼としては“刺激”でもあった。
「……この結果はむしろ、加速的に計画が進んでいる……そうとも取れるわね」
霧は湖を越え、森を覆い、人里方向へ細く伸びていく。紅い帯がどこまでも長く、静かに広がっていく様子は、まるで幻想郷そのものが紅魔館に飲み込まれつつあるかのようだった。
レミリアは手すりに手を置く。
「どう転んでも、面白くはなりそうね」
冷静さと高揚の境界を漂うような声音だった。
◇
その頃、神社の境内では、博麗霊夢が空を仰いでいた。里の上空にうっすらと紅い帯が流れている。徐々に広がるそれは鮮明な違和感となって彼女の思考を変えていく。
「……変な霧、これは……」
背後から、黒い影がひょこっと顔を出す。
「あー、なんか嫌な予感がするな、霊夢」
霧の匂いに反応するように、魔理沙が黒い帽子を揺らして空を見上げた。
霊夢は巫女服の袖を軽く整え、賽銭箱の隣に置いていた御札を数枚抜く。
「魔理沙、ちょっと見てくるわよ。 どうせまたなんか面倒事なんでしょうし」
魔理沙も箒を持ち上げる。
「ついでに遊び相手でも見つかるといいな」
二人は紅霧の広がる夜空へ飛び上がる。その先――紅霧に当てられたルーミアの待つ人里の方へと
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