紅魔館を覆う紅霧は、深夜の闇を飲み込むように重く広がっていた。
しかしその濃密な紅に混じっていた“もう一つの気配”――湖の冷気が、いつの間にか弱まっていることに、この館の住人たちが気づき始める。
◆
大図書館の灯りは、相変わらず紫の薄膜のように揺れている。
七曜の魔法陣は床で静かに脈動し、暴走のピークを越えて“安定した危険域”に移行していた。
パチュリー・ノーレッジは本棚にもたれ、胸元を押さえながらゆっくりと呼吸を整えていた。
先ほどまでの胸の痛みは、あの不自然な冷気のせいだった。
湿った水気と氷の粒が混ざり、肺を刺すように刺激した結果、喘息発作につながっていた。
けれど――
「……ふぅ……ようやく、落ち着いてきたわね」
魔導書を閉じる手はまだ震えが残っていたが、呼吸の乱れは確実に改善している。
小悪魔が駆け寄ってきて、ほっと息を吐く。
「パ、パチュリー様……顔色がさっきより良くなってます!
やっぱり、あの冷気……湖の氷妖精のせいだったんでしょうか?」
「おそらくね。あの子が退いたか、倒れたか……そのどちらかよ」
魔力視点で見ても、霧の中に紛れていた“純粋な冷属性”が消えている。
その気配が消えた瞬間、七曜の循環式も脈動を一定に出来た。
暴走していた霧の出力は依然強いが、増幅というより“高負荷安定”という状態になっている。
「このくらいの圧なら……監視していれば何とか持つわ。
放置すれば破綻するけれど、あと半日は……大丈夫でしょう」
「半日……。
でも、博麗の巫女がもう動いてるなら、その前に戦闘になりますよね」
その言葉に、パチュリーは一つだけ小さく笑う。
「そうね。問題は体力……と言いたいところだけど、
呼吸が安定すれば、詠唱ぐらいはこなせるわ」
小悪魔の顔に安堵と緊張が同時に走る。
「パチュリー様が戦えるなら安心ですが……でも、無理はなさらず……!」
「無理をしない魔法使いなんて、いないわよ。
それに、私は大図書館の主。戦うなら……ここで迎え撃つのが筋でしょう?」
小悪魔は、それ以上何も言えずに俯いた。
しかしその表情には、確かな敬意が宿っていた。
それでもパチュリーは視線を魔法陣へ向ける。
暴走が緩和されたとはいえ、紅魔館全体に均一に霧を送り続けているこの式は、まさに磁場が歪むほどの魔力密度だ。
「……式の微調整だけしておきましょう。
おそらく巫女がここに来る頃には、体調も戻っているはずよ」
「私も戦います! 少しでもパチュリー様のお役に立ちたいんです!!」
「あなたは役に立ってるわよ。
だけど、そこまで言われたら…私も本気を出さなきゃね」
パチュリーは小さく息を吐く。
「……しかしあの冷気のせいで本まで湿ったわね…
やれやれ、あとでまた乾燥魔法を掛けないと……」
しかし、その苦情じみた独り言にも、明らかな余裕が戻っていた。
魔法陣の光が穏やかに揺れ、図書館に静かな緊張が満ちる。
“戦える”という確信が、確かに戻ってきていた。
◆
一方その頃、紅魔館のメイド区画。
咲夜は長い廊下にしゃがみ込み、散乱していた破片を一つ一つ拾いあげていた。
「……ようやく暴れた妖精たちを落ち着かせられたわね。
後始末にしては、少しばかり量が多いけれど……」
しゃがんだ姿勢のまま、咲夜は胸の奥に違和感を覚えた。
時間が“完全には止まらない”ような感覚――いや、止められなくなっている。
「……時間停止の使いすぎたわ…感覚にズレが出てる……」
昔から、無理をすればそうなる。
止める時間が長すぎたり、回数が多すぎたりすると、彼女の体内時間そのものが負担を受け、世界とのズレが奇妙な揺らぎとして現れるのだ。
「この状態じゃ……もう、防衛の時しか使えないわね……」
紅魔館の廊下の窓に目を向けると、霧の色が微妙に変わっていた。
先ほどまでの鋭い冷気が薄まっている。
「……氷の妖精が倒れたのね」
その空気の変化に、咲夜は確信を持った。
湖のあの子――チルノの冷気は、魔力の波を冷やしすぎて紅霧に不純物を混ぜていた。
それが消えたことで、紅霧は再び“紅魔館本来の霧”へと戻りつつある。
「いい傾向だわ。
お嬢様の魔力も安定するでしょうし……パチュリー様の呼吸も戻るわ」
そう呟きながら、箒を手に立ち上がる。
しかし、次の瞬間――
咲夜の視線がふっと宙を彷徨った。
「……来たわね」
どこからともなく漂う、霊力特有の波。
それと並走する、魔法使いの激しい魔力。
博麗の巫女と魔法使い特融の力の波動。
この二人の来訪は、霧よりも確かな予兆として伝わってくる。
「美鈴は外。
パチェは図書館で魔力温存。
お嬢様は……最上階で待機中」
その役割がはっきりしていることが、不思議と安心にも近い落ち着きを与えた。
「……さて、掃除を急がないと」
しかし、時間停止が使えない状態のため、咲夜は普通の速度で片付けを進めるしかない。
静かな焦りが、胸の奥に重い感覚をし越し残した。
――巫女が館へ踏み込む前に、メイドとしての務めを果たさなければ。
迫りくる気配を伝えるために、一度庭先へ向かうことにした。
◆
紅魔館前庭。
美鈴は石畳の中央に立ち、深く呼吸を整えていた。
紅霧の濃さは変わらないものの、あの刺すような冷たさが消えたことで、体の芯に力が戻ってくる。
「……不思議なものですね。
冷気が消えるだけで、お嬢様の霧が紅魔館の“魔力”として落ち着いて見える……」
精霊たちは相変わらずそわそわしているが、暴走して襲いかかるほどではない。
美鈴は軽い足運びで庭を巡りながら、気の流れを調整していった。
そこへ、空間の歪みとともに咲夜が姿を現した。
「外は静かになったわね、美鈴」
「ええ、だいぶ。
でも……何かが近づいてきてます。すごくはっきりした“気”が」
咲夜は目を細める。
「博麗の巫女達よ。
紅霧の発生源を辿って、ここへ一直線に向かってきている」
「あれが……そうなんですね」
美鈴は軽く伸びをして、深く息を吸い込んだ。
「咲夜さん。
お嬢様は……?」
「最上階。運命操作の行使中よ。
パチュリー様は冷気が消えたおかげで呼吸が戻って、戦闘に備えてる。
あなたがここで時間を稼げば、万全の布陣になるわ」
美鈴は笑った。
「時間稼ぎなら任せてください。門番って、そういう役目もありますしね」
その笑顔は軽く見えて、決して油断がない。
彼女は正門を守る誇りを胸に、拳を握りしめた。
咲夜は背を向けながら言葉を残す。
「無茶はしないで。
あの二人は、そこら辺の妖精や妖怪とは違うわよ」
「分かってますよ。あんなのに正面から突っ込むほど、私も無鉄砲じゃありません」
そう言いながら、美鈴は拳を鳴らした。
その音は、紅霧を震わせるほどの確かな気合が乗っていた。
◆
霧の湖上空。
霊夢と魔理沙は紅霧を切り裂きながら、紅魔館へ迫っていた。
「うわ……随分濃いわね、これ。
目が痛くなる濃度よ」
魔理沙は帽子を押さえながら叫ぶ。
「紅魔館の方向から真っ直ぐ吹き出してる。
完全に“異変”の中心だぜ!」
「あの吸血鬼の仕業でしょ。………何かいるわ、魔理沙」
二人の姿が紅霧を突き破ると、美鈴が眼前に姿を現す。
美鈴は一歩前へ進み、両足を構えに落とす。
「背水の陣とはまさにこのことですね。
私は紅魔館の門番・紅美鈴。お二人のお名前をお聞きしても?」
霊夢と魔理沙は軽く戦闘態勢をほどく。
「門番がいるってことは……やっぱり確信犯ね
私は博麗の巫女。博麗霊夢よ」
「私はただの通りすがりの魔法使い。霧雨魔理沙だぜ」
美鈴はふと、レミリアに言われたことを思い出す。
「巫女……巫女は食べてもいい人種って言い伝えを聞きました」
「言い伝えるな! そんなのあるわけないでしょ!! もう、さっさとやっちゃうわよ、魔理沙!」
紅霧が、三人の気配に反応して赤黒く揺れた。
そして――紅魔館の最初の防衛戦が始まろうとしていた。
◆
その頃、最上階のバルコニーでは、レミリア・スカーレットが紅い月を見上げ、静かに笑んでいた。
「……来たわね、博麗の巫女。
面白くなってきたじゃない……」
紅霧が夜空を染め、紅魔館がまるで生き物のように脈動する。
外来者の到来――
紅霧異変は、いよいよ本格的な幕を開ける。