紅魔館の最上階へ続く階段は、まるで別の世界へ続く回廊のように薄暗く、そして深かった。
途中まで響いていた地下からの気配も消えている。魔理沙がやったのだろうか。紅魔館という巨大な怪物が、息をひそめて“主”の場を守っているようだった。
階段を上り切ると、広いバルコニーを背に、紅に染まった月を見ている少女がひとり。
髪は、青みを含んだ淡い銀色。月光に照らされたそれは、金属にも霜にも見える独特の冷たい色だった。
ナイトキャップとドレスはレースの多いクラシカルな洋装。袖や裾のフリルが風に揺れるたび、その見た目の“幼さ”と“存在の重さ”が不気味なほど対照になっている。
瞳は深い紅で、中心で血が赤黒く渦巻く。
霊夢が歩み寄る前に、その少女はふっと視線だけを振り向かせた。
吸血鬼——レミリア・スカーレット。
「来たわね、博麗の巫女」
霊夢はお祓い棒を軽く構えつつ、息をひとつ吐く。「まぁね。霧の原因、全部あんたのとこから繋がってたし、雰囲気からしてあんたが親玉ってわけね」
レミリアは肩を揺らし、小さく笑う。「咲夜も美鈴もパチェも……よく頑張ってくれたわ。 でもあなたがここに来たということは、もう“夜の運命”は決まっている」
霊夢の眉がわずかに上がる。
「運命って便利な言葉ね。負けても言い訳にできそう」
「ふふ……そう思ってしまうのね。どこまで行っても、人間ね」
霊夢の想像通りの言葉に、紅い夜がその小さな笑みを鮮明に照らす。
レミリアは昂った感情のまま言葉を紡いだ。
「お腹もいっぱいなんだけど…月が紅いから本気で殺すわよ」
凡そ小さな身体から発せられるとは思えない量の殺気に、霊夢の瞳孔が小さく鋭くなる。
臨戦態勢を取りながら自身の霊力を研ぎ澄ましていく。
「…私も久しぶりに本気で行くわ」
レミリアは笑みを崩さぬまま紅い月に視線をやる。霊夢もその視線の先を視界に映す。
「そんなに緊張しないで…こんなにも月が紅いのに」
「そうね、今夜は…」
霊夢は戦う自分の姿を想像して
「楽しい夜になりそうね」
「永い夜になりそうね」
レミリアは素敵な夜を想像して、言葉が重なる
その瞬間、レミリアは膨大な妖気を発しながら紅い夜空に舞い上がる。紅霧がまるで心臓の鼓動に合わせるように波を打ちレミリアを迎え入れる。
空気が震える。
霊夢は即座に魔理沙との合流を計ろうとするがーー
レミリアが手をひと振りしただけで、空間の流れが“ずれた”。「逃げる道筋はすべて閉じたわ。 あなたと私が戦う未来を“運命”で固定したの」
霊夢は舌打ちをする。
「ほんとに面倒な妖怪ね……!」
その瞳は、血よりも深い紅だった。
「妖怪じゃなく吸血鬼レミリア・スカーレットよ。さあ、2人だけの夜を始めましょう。博麗の巫女――」
「博麗霊夢よ」
対峙する者の名を聞き、笑みを浮かべて吸血鬼の翼がはばたく。
紅い影が霊夢を突き刺しにかかり、紅く永い夜が始まる。
◆
一方その頃、大図書館から続く地下階段を、そろりそろりと降りる影が燭台の火によって細長く伸びている。
「霊夢が上でやってるんなら……私は下か? なんか、すっげぇ魔力感じるんだよな……」
小さく呟く魔理沙の声が、はっきりと聞こえるほどに紅魔館の地下は、静寂が支配していた。
音が吸われているような湿った空気。壁を伝う魔力の脈動。
やがて、魔理沙は突き当たりの“奇妙な扉”に行き当たった。
「……なんだこれ。結界?」
扉には、複雑な鍵をはめ込む様な魔法陣が描かれている。内側からは全く干渉できない奇妙な構造だ。
「特定な奴しか開けられない……? こんな作り、どんなヤバいのが中に入ってんだよ」
魔理沙は扉に手をかざし、魔力の流れを探る。
すると——
バチッと強い拒絶反応が走った。
「うおっ!? ……やっぱなんか条件があんのか? 私の魔力を弾く結界なんか初めてだぞ」
内側から、まるで獣の呼吸のような魔力が押し返してくる。
「地下に……こんな魔力の塊おいてるって、 悪魔でも閉じ込めてんのかよ……」
冗談めかして笑うが、その瞬間——
ドォォンッ!!!
館全体が震えた。
「やべっ! もう始まっちまったのか!?」
慌てて階段を駆け上がり、魔理沙は上階へと走り出した。
残された奥の部屋の魔法陣がゆっくりと形を変えていることに気づかない。
◆
霊夢が身体ごと吹き飛ばされるように後退する。
蝙蝠の姿をした弾幕は、霊夢の張った結界を霧散させるほどの力であり、結界に使った肌が砕けながら空に舞っていく。
「いきなり本気ってわけね……!」
レミリアはゆったりと空中で旋回しながら笑う。
「あなた本当に強いわ。でも……今夜は私のもの」
紅霧がレミリアの背後に集まり、巨大な十字架のように形を成していく。その姿は天空を支配する夜の王に見えた。
霊夢は目を細め、冷や汗を流す。
「……あら、まだ本気じゃなかったってこと」
レミリアが翼を大きく広げ、指先で夜空を裂いた。「紅符 『不死城レッド』」
レミリアの背に巨大な紅の十字が皇后と輝き、レミリア自身の力が“何倍にも膨れ上がる”。紅い爪は鋭さを増し、浮遊する弾幕は光を強め、幼い姿からは想像もできぬ力が感じ取れる。
「これで終わりよ、博麗の巫女……霊夢!」小さな身体には不釣り合いな程の巨大な槍が、レミリアの右手に形をなしていく。全てを穿つかのようなそれは、数十メートルも離れている霊夢にもはっきりと見えるほどの輝きと力強さを感じた。「貫きなさい、運命の槍—— 神槍『スピア・ザ・グングニル』」紅い雷のような槍が霊夢へ一直線に走る。
霊夢は起動すら確認せず咄嗟に横へ飛ぶが——それでも遅かった。
槍の刃先が肩を裂き、紅い夜空とは別の赤い鮮血が弧を描く。「っ——ぐっ!!」
霊夢の肩を引き裂いたその光景に、レミリアの表情は何故か不安と不満が露わになっていた。
(どうして心臓を貫けなかったの? 当たる軌道、死ぬ運命だったはず……)
「……運命は、変えられないわ」
霊夢に言い放つその言葉は、まるで自分にすら言い聞かせてる様にも聞こえた。
紅の夜が震え、霊夢の足元に赤い魔方陣が広がる。
「さぁ、まだよ。永い夜は始まったばかりなのだから——」
次の一撃を放つため、再度右手に力を集中させる。
先程のものより一回り大きなそれは、最早槍というよりも一つの兵器にすら感じる。
自分の不安を払拭するかの様なその槍は、周囲の紅霧を吸い寄せ更に膨らんでいき、それに呼応する様に地鳴りのように大気が震え始め、周辺の木々すらその光景に怯えているかの様に揺れ始めた。
霊夢の肩口を裂いた鮮血が紅い夜へ溶ける。痛みよりも、鳴り止まぬ脈動のほうが厄介だった。
レミリアの視線は霊夢を確実に捉えて言葉を放つ。
「さぁ霊夢
貴方が運命を変えるその人なのか、はっきりさせて頂戴」
レミリアの視線は獲物を逃がす気のない捕食者のそれだった。右手には、紅霧を吸い寄せながら肥大化した第二の槍。槍というよりも、赤く燃える星を削り出したような巨柱。
周囲の空気が、灼熱にも似た圧力で圧し潰される。
霊夢は肩を押さえながら息を整えた。立っているだけで肺が押し込まれそうだ。だが、巫女の足は一歩も退かない。「……来なさいよ。吸血鬼。 あんたの“運命”がどうだろうと、私はただ異変を止めるだけよ」
レミリアは静かに唇を開いた。「楽しい夜よ、霊夢。 永い夜。 この力……この霧……全部、私だけの物語だったはずなのに」
その声音は、怒りでも驕りでもなく——微かな焦燥を帯びていた。「今度こそ。外さないわ」
紅い光が奔る。レミリアは翼を強くはためかせ、空間から紅い塊が消えた。
風切り音とともに、紅い巨槍が霊夢の胸元へ一直線。軌道は完璧。視線を合わせる暇すらない。
避け切れない——そう判断した刹那、足元の札を飛び上がると同時に弾けさせ、霊夢の体を遥か上空へ押し上げた。
槍が霊夢の足首をかすめ、空間が裂けるほどの光柱が地面へ深々と刻まれる。
(また外れた……もう運命では、決まる勝負ではないということね)「……ふふ! 楽しい、愉しいわ霊夢!!」レミリアの笑いは高く、美しく、しかし狂気じみていた。「そんな小細工じゃなく私をもっと楽しませて頂戴!!」
「お楽しみのところ残念だけど、私は異変を解決することが仕事なのよ」霊夢の両脇に陰陽玉が浮かびあがる。紅い十字架の光に負けないほどの霊力が、空へ集束していく。
レミリアが眉をひそめた。
「その光……?」
「……気づいた? 博麗の本気、見せてあげるわ」
霊夢の手元に集まる霊力が、渦となり、光の塊となる。
レミリアも迷わず呼応した。紅い巨槍を放り捨て、両腕を広げる。
「——紅魔の真髄も見せてあげる。
これが私の“本気”よ」
紅霧が爆ぜる。巨大な赤の魔法陣がレミリアの足元に展開され、空気が圧力で悲鳴を上げる。
「「レッドマジック」」
その発生を皮切りに、紅の奔流が現れる。夜を焼き切る魔力の海。霊夢の周囲を、紅いというひとつの色だけが支配する。
霊夢はその中心に立ち、陰陽玉に両手を添えた。「……あんたの運命が何色だろうと関係ない。 私はこの幻想郷を守るだけ」
息を吸う。息を吐く。
「霊符——」
世界が閃光で染まり、
「夢想封印!!!」
無数の霊弾と札が光の輪となり、レミリアへ殺到する。紅魔の奔流と白い霊気が空中で激突した。
爆音ではなく、世界そのものが震えるような衝撃。紅い夜空と白い光が混じり合い、紅魔館の最上階が一瞬、昼にも似た光で埋め尽くされる。
レミリアは紅霧の中で腕を交差し、防御の構えを取った。しかし——
「……っ、これが……博麗の、巫女……!」
霊夢の夢想封印が紅霧を裂き、彼女の結界を破壊していく。
足元の魔法陣が砕け、翼の片方が霊弾に貫かれた。「まだよ……! まだ、私の夜は……!」
レミリアの叫びは、霊夢の霊弾群によってかき消された。
最後の衝撃——小さな幼き身体が紅霧ごと吹き飛ばされ、バルコニーの奥へ叩きつけられる。
光と霧が一斉に収束し、静寂が訪れた。
紅霧が崩れるように消えていく。赤かった空気は透明に戻り、夜の風が頬を撫でた。
霊夢は肩口を押さえながら、崩れ落ちたレミリアを見つめた。
幼い身体はゆっくり呼吸している。命はある。「……今回はこのぐらいで許したげる。次、また異変を起こすようなら…容赦はしないわ」
そう言って、霊夢は乱れた髪をかき上げた。
まるでタイミングを測ったかの様にバルコニーの階段から、軽い足音が響く。「おーい、霊夢!」魔理沙が顔を覗かせ、肩に焦げ跡と埃をつけながら駆け寄ってくる。
「もう終わっちまったのか? ……お前、また派手に暴れたなぁ」
霊夢は肩を竦めた。「そっちこそよ。今の今まで何してたのよ」
「へへ、まぁ色々とな?」魔理沙は倒れたレミリアを見て、深く息を吐く。「ま、とりあえず……終わり、か?」
霊夢は空を見上げた。紅い月はまだ浮かんでいるが、その光はもう薄い。「ええ。 永い夜は終わりよ」
風が吹き抜け、紅魔館を包んでいた霧の匂いをすべて持っていった。
幻想郷の“夜”が戻っていく。
紅霧で支配されていた夜が嘘の様に静かさを取り戻し、異変の解決を幻想郷に伝えているかの様だった。