弱OFFが成功した日の帰り道。
夕方の商店街を歩きながら、リオは満足げに深呼吸していた。
(弱OFF……うまくいったな)
(完全OFFより繊細だけど、日常用としては十分)
喧騒の中を歩きながらも、自分の存在が自然に馴染んでいるのを感じる。
父は隣で嬉しそうに、今日はカレーにしようかなどと話していた。
そのとき──
ふっ と。
ごく微弱な“ひっかかり”が波導の奥に触れた。
(……なに?)
足が止まりかける。
父の手の中で、リオの小さな指がすこしこわばった。
雑踏のざわめき。
夕方の風。
排気ガスやパン屋の匂い。
その全部にまぎれるようにして──
あの痛さ が混ざった。
(まさか……また、あの子?)
母との外出のときにすれ違った
“笑っているのに、泣いているような波導”。
胸の奥にざらっと刺さる、血のにおいにも似た感覚。
(……遠い。でも、たぶん“同じ”だ)
波導は誤魔化せない。
匂いみたいに、人それぞれ固有の“色”がある。
その痛みは鮮明に記憶に刻みついている。
だが今回は──
(痛さ……薄い?)
前より“弱い”。
完全に壊れる前の、揺らぐだけの痛み。
つまり。
(まだ……取り返しはつく)
幼児の心臓が、どくんと跳ねた。
リオは弱OFFを切り、ほんの少しだけ波導ONにする。
周囲の気配を読み取りながら、痛い波導の方向を探る。
(この……方向……? でも……弱すぎる)
痛みはすぐに風に溶けた。
波のように揺れたまま、消えてしまう。
(……追えない)
今のリオでは、数百メートル範囲の心の動きしか拾えない。
まだ“線”のように辿れるほどの精度はない。
ほんの数秒で痛みは途切れ──
そのあとに残ったのは、かすかな孤独の空気だけ。
リオは無意識に呟いた。
「……いまの、だれ……」
父がしゃがんで覗き込み、心配そうに聞く。
「ん? リオ、どうした?」
「なんか……いた」
「ん〜? 犬か猫でも見えたか?」
違う。
でも説明できるはずもない。
リオは首を横にふるだけにした。
父と母に気づかれないように、夕飯の準備中もリオは思考を巡らせていた。
(また同じ波導……。やっぱり、あの子はこの街にいる)
ただし──まだ遠い。
まだ何も壊れていない。
血を求めている波ではない。
(トガ……なのか? 違うのか?)
原作を知っている“元大人の感覚”と、
今の幼児としての小さな心が入り混じる。
(助けられる……はずなんだ)
でも。
(名前も、年も、家も……なにも分からない)
この世界で探しようがない。
(今の俺は、せいぜい“近くにいた”って気づける程度……)
歯がゆくてたまらなかった。
それでも──波導は嘘をつかない。
(……いまなら、まだ……救える)
その焦りが、小さな胸の奥で熱く燃え始める。
布団に入り、目を閉じても眠れなかった。
(もっと強くならないと……トガかもしれないあの子を助けられない)
波導の精度。
OFFの自動化。
ONのノイズ除去。
距離感の把握。
すべて足りない。
(“痛い波導”を辿れるように……線みたいに感じ取れるように……)
初めて会ったあの時の衝撃が、胸に蘇る。
あの子の笑顔は、助けを求めていた。
誰にも届いていない叫びだった。
(絶対……間に合う。間に合わせる)
幼児らしからぬ、しかし確かな決意が
小さな拳をぎゅっと握らせた。
(波導の精度を……次の段階へ)
翌朝から新しい鍛錬が始まる。
“遠くの波導を細く掴む技術”──
後の“波導の糸”の前段階となる訓練だった。