その日の夕方、リオは家に帰るとすぐ、ランドセルを置いて洗面所へ向かった。
鏡の前に立ち、自分の姿をじっと見つめる。
黒と青の耳。 ふわりと揺れる尻尾。 波導が揺らぐと、自然に耳が動き・尻尾の先が光る癖──。
(……こいつを、まず“止められるようにしないと”)
今日、浅海先生に気づかれたのは、波導そのものより──
“耳と尻尾が感情に連動しすぎてる”ことが一番の原因だった。
これは隠密に鍛えるうえで致命的だ。
(波導ONの時は耳がピンと立つ。 OFFの時はゆるむ……わかりやすすぎる)
幼児の体は正直すぎる。
(これ制御できないと、訓練の意味がない)
そう判断したリオは──
初めて、自分の波導を意図的に“殺す”試みを始めた。
深呼吸をひとつ。 波導の流れをゆっくりと感じて……中心へ引き戻す。
(……静かに。 光らせるんじゃなく、閉じる。 広げるんじゃなく、畳むんだ)
波導は“見る力”より“感じる力”の方が先に発現していたため、 普段は常に周囲の感情が流れ込んでくる。
それを止める感覚は、目を閉じても光がまぶしい世界で、 “まぶしさそのものを消そうとする”ようなものだ。
けれど──
「……っ、く」
耳が震え、尻尾がざわりと逆立った。
(ちがう……まだ外に漏れてる)
波導のON/OFFは、スイッチじゃない。 息を吸って、吐くように“調律”が必要だ。
心臓の音に意識を合わせる。 ひとつ、ふたつ…… その間に波導を沈めていく。
すると──
鏡の中の耳が、すっと動きを止めた。 尻尾も揺れない。
(……消えた?)
一瞬、完全に波導が“静寂”になった。
視界が軽く暗くなる。 世界から色がひとつ消えたみたいな感覚だ。
だけど──これは正しい。
(やった……! 完全OFF……!)
喜びがこみ上げた瞬間── 耳がピクリと動き、尻尾がふわっと光った。
(あ、戻っ──)
ドタドタッ。
廊下から小さな足音が響いた。
「りおー? おかあさん、洗濯ものしまうから手伝ってー」
(やべっ!!)
リオは慌てて鏡から離れる。
(今の動き……完全に耳立ってた!? いや、光ってた!?)
母がドアを開けようとする影が見える。
(落ち着け……落ち着け……!)
浅海先生に気づかれはじめている今、母に疑われるのは絶対にまずい。
(OFF……OFFにしろ……!)
胸の奥に意識を沈めるように。
息をゆっくり吐いて──
耳がゆるりと垂れ、尻尾の光が消えた。
そのタイミングで扉が開く。
「りお? 鏡の前でなにしてたの?」
「……おみみ、みてたー」
自分でも驚くほど自然な子供の返答だった。
母は笑ってリオを抱きしめる。
「ほんと、かわいいお耳だねえ。 お父さんにそっくりだよ」
(よかった……バレてない)
波導OFFのままで抱きしめられると、 逆に周りの“ノイズ”が少なくて安心する。
(……これ。ちゃんと出来るようにならないと)
母の腕の中で、リオは固く決意する。
母の寝静まった後。 小さな自室の布団の上で、リオはひとり座る。
(次は……ONのコントロールだ)
波導を完全に殺した状態から、 少しずつ指先に“灯すように”出力する。
青い光がほんのわずかににじんで── 耳がピク、尻尾がふわ。
(……弱いけど、これが“最低出力”か)
“感じる力”は強すぎるのに、 “扱う力”はまだ幼児の体では弱すぎる。
でも──
(トガのあの波導……あれを助けられるようになるには、 絶対、強くならなきゃいけない)
思い出すと胸が痛む。
あのすれ違いの一瞬。 笑っているのに、内側は血がにじむみたいな孤独。
(次に会った時までに……守れるくらいの力を)
指先の光をそっと消す。
(もっと繊細に、もっと静かに。 でも確実に強くなる)
幼い身体とは裏腹に、 波導ON/OFFの訓練は、 リオの中で“初めての本格鍛錬”になっていった。