幼馴染のガーディの炎に、いつも跳ね返された。
わずか一歩が埋まらない。
ただそれだけで、世界は遠くなっていった。
踏み出すたびに、自分だけが置いていかれた。
幻想郷――そう呼ぶにふさわしいほど、この世界は静かに整えられていた。風の行き先も、草の揺れも、まるで誰かの見えない手がそっと形を整えているようだった。
花の妖怪と別れてから、どれほど歩いただろう。デラシネの足音だけが、薄い夕光の中でぽつり、ぽつりと地面に落ちていく。
花の気配が薄れ、森の密度がほどけ、開けた風が頬をなでた。茜に染まる平地の先――木柵が影を落とし、その内側に人の営みの息づかいが広がっていた。瓦屋根が寄り添い、畑には残照が縞を描き、竈の煙が空へ溶けていく。日暮れの匂い。生活の匂い。
故郷のどこか片隅に残っていた“懐かしさ”に似た気配が、一瞬だけ胸を温めた。
(……あれが、人里、か)
しかし、腰のモンスターボールは、ひどく重かった。人の輪の中に踏み込むたび、その重さは増していくようだった。
近づくと、槍を持った門番が眉をひそめた。
「止まれ」
短く、風を断つような声。門番の影が夕方の地面に長く伸びていた。その目は、旅人を見るまなざしではなかった。知らぬものを量り、測り、判じようとする、硬い光。デラシネは思わず背筋を伸ばす。
「どこから来た?」
「えっと……森の方から……」
「“森の方”なんて答えは聞いちゃいねぇ。外来人か?」
その言葉が胸に触れた瞬間、デラシネの体のどこかがきしんだ。故郷では、彼は“根なし草”と呼ばれていた。しかしこの世界では、もっとはっきりと――“外側の者”と名指される。
地べたに腰を下ろすよう命じられ、膝が土の冷たさを吸い込む。わずかに吹く風ですら、周囲から向けられる視線の棘を孕んでいた。
畑帰りの母親は、抱えた籠を胸に寄せる。遊んでいた子どもたちは、理由の分からぬまま、風に怯える小鳥のように寄り添い合う。
「ねえ、よそ者だよね」
「髪の色……外の人かな」
「妖怪じゃないよね……?」
その囁きは声ではなく、薄い霧のようにデラシネの周囲へ降り積もった。
「(……こんなに、警戒されるものなのか)」
どれほど旅をしても、この感覚には慣れなかった。“自分の居場所でない場所”に立つときの、足元の頼りなさ。仮にジムバッチを見せても意味がないという確信があった。
「……はい。そうです」
答えた瞬間、門番は鼻をひくつかせた。外の花の甘い香りが、まだデラシネの服に残っていた。
「ふん……匂いが違うと思った。動くな。今、役人を呼ぶ」
背後の里へ向かって叫ぶと、門番はデラシネに目を戻す。
「お前……妖怪じゃねぇよな?」
「ち、違います! 僕は人間で……!」
「その格好だと判断つかん。まあ、いい。そこに座って待て。阿求様はお忙しいお方だ。すぐには会えん」
阿求。門番が“様”と呼ぶあたり、里でかなりの地位を持つ人物。
身動きするたび、腰のボールが鳴らぬよう気を張りつめる。仲間たちの名を呼びたくなる衝動が、喉の奥を焦がしていく。
十分、二十分……空の赤が深まり、影の輪郭が濃くなる頃。やがて、木札を下げた一人の役人が現れた。
「外来人と聞いて来た。立て」
その歩調は無駄がなく、声には体温がなかった。“記録するものとしての声”――感情の色が落とされていた。
「名前は?」
「デラシネ……です」
「……デラシネさん、でいいのかい?」
「はい。それで」
「歳は?」
「十四です」
「どこから流れてきた?」
「えっと……シン……オウっていう、地方で……」
「シンオウ? 聞いたこともない」
短い問いが、ひとつずつ、外界との縁を剥ぎ取っていくようだった。
「荷物を見せてもらう」
その瞬間、胸の奥で時間が止まった。ボールが、息をひそめたように冷たくなる。
(触れられたら……終わる)
嘘の理由を探す思考すら、紙のように薄く破れそうになる。
だが――。
「やめておけ」
門番の声が横から落ちてきた。それは救いではなく、“深入りするな”という里の理であった。
「外の奴の道具なんか、俺たちが触ったって分かりゃしねえ。余計な詮索は怪我のもとだぞ」
「……ふむ。では阿求様の判断に委ねよう」
その言葉は、皮肉にもデラシネを守る壁となった。役人は木札を閉じると、小さく頷いた。
「ついてきなさい。面会の許可が下りた。ただし――」
振り返り、鋭い目でデラシネを射抜いた。
「阿求様の前で、無礼は許されん。言葉を選べ。仕草に気をつけろ。いいな?」
「……はい」
緊張で喉が鳴った。門番も最後に一言付け足す。
「ここまで来れただけでも運がいいと思え、外来人。軽く扱われる場所じゃねぇぞ」
その言葉が、ずしりと胸に落ちた。
筆録所の奥へ足を踏み入れた瞬間、湿った土の匂いが薄れ、墨と紙の香りが静かに広がった。灯明の炎が揺れ、影が淡く伸びる。
その中央に少女はいた。幼い姿なのに、目の奥には何度も世界を見送った者の静けさが宿っている。外界のどんな知識も、この少女に比べれば小さな灯火にすぎない――そんな威厳。
「……どうぞ。近くへ」
その声は優しく、しかし、座るべき位置をあらかじめ決めているような距離があった。デラシネは静かに膝をつき、深く頭を下げる。
「(……本当に、目上の人だ)」
「私は阿求。この里で記録を司る者です。あなたのような外来人の来訪は、稀ではありません。けれど――」
阿求の視線が、デラシネの服と持ち物を丁寧に追う。
「……あなたは少し、変わっておられますね」
「へ、変わって……?」
「匂いです。森の花の香りと……外界にはない、少し異質な草の匂いが混じっています」
「(やっぱり……匂いって、分かるんだ)」
「外来人がこの里に入れるのは、里の者があなたを“脅威でない”と判断したときだけ。つまり――門番たちは、あなたに危険性を見なかったのでしょう」
「危険性……」
「幻想郷は、外より狭く、外より脆い。少しの異物でも、均衡を崩す可能性があります。ですから、外来人は慎重に扱われます」
「(……僕、異物なんだ)」
さっきまで受けていた視線の意味が、言葉となって胸の奥に沈んだ。
「あなたは十四歳とのこと。子どもの外来人は珍しいのですよ。恐怖を与えるほどの力も、まだお持ちではない。だから安心してください。あなたは“守られる側”です」
阿求の声音は優しい。だが、彼女の“優しさ”は個人のものではない。里という共同体が外来人に向ける、制度としての配慮――それゆえに、どこまでも越えられない線がある。あくまで――里が外来人をどう扱うかという立場で話していた。
「(……守られる、か。僕は、自分の力で旅をしてきたのに)」
心にじんわりとした悔しさが滲んだ。これまで決して短くない道のりを超えてきた少年にとって屈辱だった。“守られる側”という枠に押し込められ、彼の自由だった足取りは、少しずつ重さを増していく。
「帰還についてですが――」
阿求は淡々と続ける。
「そう焦らないでください。順序としては、博麗神社の巫女様に相談することになります。ただ、祭事や儀式には費用や準備も必要で……少し大変な話になるかもしれません」
「お金、が……いるんですか」
「世の中の多くのことは、そうですね」
阿求は淡く笑う。その笑みは、どこか自嘲めいても見えた。その瞬間、胸の奥がぎゅっと締まった。
「そ、そんなに……?」
「ええ。外の世界は、ここから見ると“遠すぎる”のです。遠いものへ手を伸ばすには、相応の対価が必要になります」
優しい声なのに、突き放すような現実を突きつける。それが阿求という存在の“重み”だった。
言葉を交わすたび、デラシネの中で、外界での旅路が遠い記憶のように薄れていく。
湯飲みを片づけようと阿求が立ち上がった、その刹那。袖がかすかに触れ、金属の音が小さく震えた。
ボールが――揺れた。
心臓の拍が、胸の奥でゆっくりと大きく膨らむ。
「(だめだ……!)」
阿求の指が、球面にそっと触れる。光を吸うような静かな興味。
「外界の道具でしょうか。見慣れない形ですね」
探るような声ではない。ただの好奇。しかし、それでも十分に危うい。嘘が喉元でひっかかり、息が苦しくなる。
「お、お手玉です!」
彼自身が驚くほどの大きな声だった。反射で生まれた声だったが、結果として彼を救った。
「……お手玉?」
「はい、その……集中力を鍛える、外の修行道具で……。ほら、手の中でこう……くるくる回したりして、気持ちを落ち着かせる、みたいな……」
デラシネが言葉を取り繕うたび、顔はもちろん耳まで熱くなる。どう考えても苦しい言い訳。
阿求は数瞬の沈黙ののち、小さく笑った。それは壁を緩めた笑みではなく、“興味を収める”ための笑み。
「まあ。外界には、そういうものもあるのですね。面白いです。もし、落ち着かれたら……いつか実際に見せていただけますか?」
「…………はい。機会があれば」
あまりに柔らかな声だった。それなのに、胸の奥でなぜか“ざらり”と痛んだ。安心ではなく――“恐れなかったという事実に安堵した”だけだったからだ。けれど、デラシネの心臓は、しばらく早鐘を打ち続けた。
「(……今のは、ただの“好奇心”だった。でも、もしあれが“恐怖”に変わったら……)」
彼女はデラシネをまっすぐに見つめ、静かに告げる。
「あなたは、今日から人里の客人です。身の安全は保証されます。ですが、ここはまだ“あなたの世界”でないことも、忘れないでください」
「(……世界が違うって、はっきり言われた)」
阿求の言葉には情がある。けれど、それ以上に“線”があった。
優しさの中に、絶対に踏み越えられない境界線。だからこそ――この人は里の中心にいて、権威を持つのだと分かる。
「今日は、きっとお疲れでしょう。借宿をご用意しますので、どうかゆっくりお休みください。戸は内側から閉めていただいて構いません。……ここでは、それが一番安全ですから」
「安全……」
「ええ。内側から戸を閉めることも、立派な“守り方”のひとつです。あと阿求様への面会の礼を忘れないように、と役人に言われませんでしたか?」
「あっ……言われました。“失礼のないようにな”って……」
「ふふ。きつい言い方ですが、あなたのためですよ。外来人は、まず“礼儀”で安心を与える。それが、人里の掟ですから」
阿求は静かに立ち上がり、襖へ向かった。
「では――どうか、良い夜を」
最後の一礼は美しく、そしてどこまでも遠かった。
その距離感こそが、“この世界の現実”を教えていた。
筆録所を出たとき、夕闇はすでに夜の衣をまとい始めていた。
阿求の丁寧な言葉の余韻とは裏腹に、風はどこか冷たかった。その冷たさは、“ここはあなたの世界ではない”と告げるようだった。
案内役と歩く道すがら、背後でそっと花の香りが揺らぐ。
その匂いが引き金となり、あの声が蘇る。
花畑。風が止まっているのに、彼女のスカートだけがそよいでいた。
『その子たち、まだ外へ出すつもり?』
幻想郷や外来人について説明の最中にふと、彼女は口にする。花々が、彼女の呼吸に合わせるように開く。幽香は日傘を肩に乗せ、花びらの隙間からこちらを覗き込んでいた。
『えっと……僕の仲間で……』
『ええ。仲間ね。だからこそ――隠した方がいいわ』
『隠す……?』
幽香は、笑っているのに冷たい目をしていた。花がひとつ、またひとつと、音もなく開く。
『美しすぎる花は、人を惹きつける。惹きつけすぎれば、人は怯え、折ろうとするのよ』
その声音には、情ではなく“自然の理”があった。
『人は“知らないもの”を恐れるのよ。あなたの世界でも、そうだったでしょう?』
家の蔵にあった物語集。かつて故郷がヒスイと呼ばれていた時代。突如として現れ、脅威の悉くを退けた外来の英雄とその末を思い起こす。
『守りたいなら、隠しなさい。折られた花は、二度と咲かないわ』
その言葉は、やわらかく包むようで、棘のように鋭く、心に刺さった。そしてそれは警告であり、祝福でもあり、呪いにも似ていた。
気づけば、借宿の門の前に立っていた。案内役の老人は、暗い灯りの下で足を止め、静かな声で告げる。
「外来人は、まずここで身を休める。帰り道を急く者ほど、早く倒れるからな」
「でも……僕、帰る方法を――」
「考えるな」
あまりにもあっさりとした断言だった。
「ここに来た外来人は、皆そうだ。元の世界を追いかけすぎて、足元を見失い……季節さえ分からなくなって、消えていった者もいる」
胸の奥が冷たくなる。
「若いの。まずは息を整えろ。土地はすぐには馴染まん。焦るほど……土に拒まれる」
老人は、じっとデラシネの目を見つめた。
「今日はもう動くな。生きる気があるなら、まず“今ある場所”を踏みしめろ。それが……外来人が最初に学ぶことだ」
その言葉は、外界の旅で聞いたどんな忠告よりも重く胸に残った。それだけ言うと、老人は踵を返した。闇が、静かに降りてきていた。
部屋は狭く、しかし清潔だった。畳と古い箪笥。布団はひと組。
扉が閉じると、部屋には灯明がひとつ。炎の揺れが、外の世界の気配を遠ざける。
「(……落ち着く、はずなのに)」
それでも、胸のざわめきは静まらなかった。
阿求の視線。門番の警戒。人々の囁き。幽香の、花の奥に潜む冷たい真実。
「(……隠さなきゃいけないんだ)」
ボールへ触れた指先に、小さな震えが返ってくる。
「(シェイミ……)」
声をかけようとした、そのとき。
――カチリ。
光がほどけ、小さな影が畳の上へ転がった。
「きゅ……ぅ……」
震える体を抱いた瞬間、デラシネはようやく悟る。シェイミは、彼の恐れを感じ取っていた。ずっと、狭い球の中で怯えていたのだ。温かさが腕に染み、胸の奥を締めつけた。
「(本当は、こんな風に隠したくない……みんなと一緒に、外を歩きたいのに……)」
――そのときだった。
廊下の向こうから、ゆっくりと板を踏む音が近づいてくる。灯明の火が、足音に合わせてかすかに揺れた。
「(……誰か来る)」
息を潜めた瞬間、戸がコン、と控えめに鳴る。
「おい……大丈夫か?」
聞き覚えのある声だった。門で槍を構えていた男の、少し掠れた低い声。
戸がほんのわずかに開き、闇の隙間から男の瞳がこちらを覗く。灯明の淡い光が、その目の下に刻まれた疲れをうっすらと照らした。
視線が、デラシネに、そして腕の中のシェイミに触れる。一瞬、時間が止まる。
嘘の言葉を探そうとして、喉がひゅっと狭くなった。球だのお手玉だのというごまかしが、今度はまったく役に立たないことだけは分かる。
男は小さく息を吐いた。怒鳴り声でも、驚愕でもない。ただ、深く沈むような溜息だった。
「……そうか」
ぽつりとこぼれる声は、諦めとも、納得ともつかない。
「それが……“中身”か」
その言い方には、恐怖よりも先に、どこか懐かしさにも似た響きがあった。
「あの……これは……!」
言い訳は形にならない。男は手のひらを軽く上げて、それを制した。
「待て。俺は騒がねえ。理由は簡単だ――俺も外来人だからな」
「……!」
その一言が、灯明の火よりもはっきりと、部屋の空気を変えた。男は戸を大きく開けず、小さな隙間のまま、声だけを中に滑り込ませる。
「十年ほど前だ。気がついたら森の中で転がっててな。妖怪には食われずに済んだが、代わりに里に拾われた」
十年。それだけの時間があれば、街も、人も、空の色すら変わってしまう。
「……帰ろうとは、思わなかったんですか」
「思ったさ。最初のうちは、それしか考えられなかった」
男は、自分の言葉をどこか他人事のように吐き出す。
「帰ろうとしたが……金がなくてな。外に戻るには、阿求様が言った通り、博麗神社の儀式がいる。だが俺には払えなかった。目も飛び出るような大金がいるんだ。だからここで働いて……残るしかなかった」
“残るしかなかった”。その一言に、十年分の重さが沈んでいた。帰ることも、馴染むこともできないまま、ここに留まり続けた人の声。
シェイミが、デラシネの腕の中で小さく身じろぎする。その動きに合わせるように、胸の奥が痛んだ。
「いいか、坊主」
男の声がわずかに低くなる。囁きに近いその音は、灯明の明かりさえ細くさせる。
「そいつは、この里の連中に見せちゃいけねぇ。妖怪に見える。異物に見える。“外の脅威だ”って思われたら……終わりだ」
「……終わり……」
「ああ。全部失う」
感情を挟まず、ただ事実だけを置くような口調だった。
「帰る道も、住む場所も失い、人に避けられ、野に放り出され――最悪、博麗の巫女に狙われる。ここは、そういう場所だ」
情けでも脅しでもない。“この世界の仕組み”を、そのまま説明しているだけの声。
「隠せ。守りたいなら、絶対にな」
男の視線が、デラシネとシェイミを順に射抜く。シェイミは小さく身を縮め、鳴き声にもならない吐息を漏らした。
「……でも、隠していたって、いつかは――」
「いつかは、バレるかもしれない」
言葉を遮るように、男はあっさりと言った。
「俺だって、それくらい分かる。それでも、“今すぐ”失うよりはマシだろう? 外の世界は広いが、この里は狭い。狭い場所は、異物に容赦しねぇ。その子を守りたきゃ……“まだ見せるな”」
狭い場所。そこに押し込められた声は、どこかやせ細っている。
「……はい」
返事は、自分の声とは思えないほど小さかった。
「戸は、ちゃんと内側から閉めとけよ。“中身”を守りたいなら」
カタン、と音を立てて戸が閉まる。その音は、外界との境界線を引く線のようだった。男の足音が、廊下の暗がりに溶けていく。最後に聞こえたのは、ほとんど独り言のような呟きだった。
「……俺みたいにはなるなよ」
それは慰めにも呪いにも、祈りにも聞こえた。足音が闇に消えていく。
静寂が、油を垂らされた水面のように部屋いっぱいに広がる。シェイミは、デラシネの胸に顔を押しつけたまま、小刻みに震えていた。その震えが、腕を通じて心臓の奥まで届く。
「……聞いたろ、シェイミ」
そっと背中を撫でる。柔らかな草のような感触が、指先にしがみつくように揺れた。
「守りたい。絶対に……君たち全部を守りたい」
言葉にした瞬間、その願いがどれほど心細いものかを、本人が一番よく分かっていた。それでも言わずにはいられなかった。震えが、少しだけ和らいだ気がした。
「だから……ごめん。もう一度だけ戻ってくれ。ひとりにはしない。必ず、呼ぶから」
約束は、目に見えない糸のようなものだ。それを結ぶたび、どこか別の場所がきしむ気がする。それでも、今この瞬間、彼にできるのは、その細い糸をひとつ差し出すことだけだった。
シェイミの瞳が、不安と信頼のあいだで揺れた。やがて、小さく頷いたように見えた。
「……ありがとう」
ボールの開口が静かに光り、小さな体が光へと溶けていく。光が閉じると、部屋は再び灯明の色だけになった。ボールは、何事もなかったかのように、ただそこに転がっている。
静けさが、耳鳴りのようにまとわりつく。灯明の炎は小さく揺れ、そのたびに影が壁を行き来する。
(……隠さなきゃいけない)
ボールを見つめる視線が、知らず強くなる。
(でも、このまま隠し続けて、僕はこの世界で本当に“やっていけるんだろうか)
問いは答えを持たないまま、胸の中で丸くなって沈んでいく。幽香の声が、花の香りを伴って蘇る。
『折られた花は、二度と咲かないわ』
あのときは“遠い場所の理”だと思って聞いていた。だが今は、部屋の隅々にまでその言葉が染み込んでいる気がする。
守るために隠す。隠すことで遠ざかる。遠ざかることで、居場所が分からなくなる。
悔しさと寂しさが、同じ色で胸の内側を塗りつぶしていく。布団にもぐり込み、灯明の火を背にする。瞼を閉じると、暗闇はすぐに幻想郷の夜色へと変わった。
遠くで、見知らぬ鳥の声が一度だけ鳴く。それきり、外の世界は何も告げてこない。
この夜、デラシネは浅く眠り、何度も目を覚ました。夢とうつつの境目で、何度もボールへ手を伸ばし、そのたびに、指先に触れる冷たさに胸を締めつけられた。
夜明け前の空気が、ふと変わる。闇と朝のあいだにある、短い無音の時間。その隙間に、彼の問いは静かに沈みこんでいった。
まだ、答えのないまま。