根無し草は幻に花を咲かせる   作:夜照

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 隣町に、眩しい少女がいた。

 あの子の隣には、若葉のポケモンがいて、迷いなく土を踏みしめていた。

 それを見るたび、少しだけ息が詰まった。

 憧れていた。羨ましかった。目を逸らせなかった。

 だから、同じ若葉を欲しがった。

 ――それで、同じになれると思ってしまった。


息のしやすい場所

 人里の暮らしは、静かだった。 静寂の中で、呼吸の音だけが、場違いなほど大きく聞こえた。

 

 朝の鐘に合わせて息を吸う。けれどその音は、まだ身体に馴染まない。霜を踏むたび、足音だけが季節の外側に響くようで、自分だけ別の温度を生きている気がした。

 

 寺子屋の雑務を任された日、墨を磨る手は震え、筆は言うことを聞かず、黒い滴が紙に落ちた。

 

「……ご、ごめんなさい……!」

「いいのよ。最初から上手くいく子なんて、いないもの」

 

 声は低く、穏やかだった。責めるでも、慰めるでもない。

 

「手が震えるのは、真面目だからでしょう。今日はそれで十分よ」

 

 でもそのやわらかさの向こう側には、人と人のあいだにどうしても残る“境界線”が、薄く光って見えた。

 

 薪を割っても腕は震え、井戸水を汲めば桶を傾け、胸がちくりと痛んだ。自分の無力さを嫌でも痛感する。

 

「(……知っている生活の形が、ひとつもない)」

 

 腰のボールが、かすかに揺れた。仲間たちが、声のない方法で伝えてくれる。

 

「(ごめん……外に出せなくて)」

 

 その言葉は、喉の奥で形になる前に、しずかにほどけた。

 

 


 

 

 数日が過ぎ、外へ出る仕事を任された。薬草を探し、山道を歩き、風の匂いを浴びる仕事。

 

 土は温かく、風は優しく、草の揺れは、忘れかけていた呼吸の仕方を思い出させてくれた。

 

「お前、見分けが早いな。こりゃ助かる」

 

 同行の里人は驚いたように言った。

 

「えっ……そ、そうですか?」

「この辺は生えてる草が似てるんだ。慣れないと、毒草を混ぜちまうもんだが……お前は一度も間違えねぇ。匂いで分かるってやつか?」

「……まあ、そんな感じです」

 

 本当は、匂いだけではない。腰のボールから伝わる、柔らかな“揺れ”が導いてくれていた。

 

 ドダイトスは地面の水脈を読み、

 フラージェスは薬効の強い花の香りを共有し、

 メブキジカは季節の移り目を知らせ、

 ノクタスは危険植物の棘の響きを警告し、

 チェリムは陽光の強弱で成長度を示し、

 シェイミは薬草の周囲に漂う微かな“癒し”を探り当てる。

 

 姿を見せることはできなくても――仲間たちは、いつも共に歩いていた。

 

「(……ありがとう。みんな)」

 

 胸の奥でそっと呟くたび、ボールがひとつ、小さく温かく脈打つ。

 

 その日は、いつもより遠い場所まで任された。里から離れたほうが、空気は澄み、草は自由に生えている。風の通り道も広く、どこか懐かしい“野”の匂いがした。

 

 足が自然と軽くなっていく。

 

「(やっぱり……ここが一番、息がしやすい)」

 

 


 

 

 春の匂いが濃くなり始めた正午だった。薬草採りを終えたデラシネは、谷を越え、陽だまりの斜面を抜けたとき――花の色が急に深くなった。陽光に照らされた白い花弁が、あたり一面に漂うように揺れている。野の花畑。

 

 花畑で腰を下ろしピクニックの準備を整えると、デラシネは鞄から手慣れた動作でポケモンフーズを配り始めた。種類ごとに袋が分かれているが、鞄は全く重くない。それどころかボールにきずぐすり、わざマシンに自転車をはじめとしたたいせつなものを詰め込んでも大きさすら変わらない。ヒスイを由来とする謎の圧縮技術。

 

「ドダイトスはこれ。大粒のやつね」

「グォン」

「フラージェスは……蜜ベースのソフトタイプ」

「フレェ〜♪」

「ノクタスは辛口」

「ノッ」

「メブキジカは季節ごと……今日は春用っと」

「ブルル!」

「チェリム、甘いのいくよ」

「チェリッ!」

「シェイミは少なめ……わ、もうくわえてる……!」

「きゅー!」

 

 ここまで六匹。手が自然に“次の一袋”へ伸びた――その瞬間。七つ目の袋を取ったところで、デラシネはふと違和感を覚えた。

 

「(……ん? 七つ……?)」

 

 気配が――増えている。花が揺れた。ゆっくり顔を上げる。

 ――幽香が座っていた。

 

 花畑の真ん中で、当然の顔で、ポケモン達と一緒に輪の中に。デラシネの手は反射的に動いた。

 

「あっ……幽香さんも……どうぞ……?」

 

 差し出される小袋。幽香、無言で受け取る。ポケモンたちが一斉に固まる。デラシネも固まる。

 

「(……あ、やっちゃった)」

 

 数秒の沈黙のあと。幽香は袋を指先でくるくると回しながら、微笑んだ。

 

「これは……“私を何だと思っているのかしら”って聞くべき?」

「す、すみません!! 癖で……いや、その……!」

「ふーん。あなたの“癖”って、妖怪もポケモン扱いなのね?」

 

 淡々。声のトーンは穏やか、しかし周囲の花が一瞬だけ“ザァッ”と揺れる。耳まで熱くなるデラシネ。ポケモンたちがそわそわ視線を交わす。幽香は袋の匂いを少し嗅ぎ、一言。

 

「まあ。思ったより悪くない香りね」

「食べるんですか!?」

「食べないわ。私は花であって、獣ではないもの。……でも」

「でも?」

「あなたのをちょうだい」

「……僕の……えっ? 僕のサンドイッチ!?」

 

 幽香は伸ばされたデラシネのサンドイッチをごく自然動作で奪い取った。幽香はそのまま小さく一口かじった。

 

「…………ふむ」

「ど、どう……ですか?」

「悪くないわ。外の世界にはこういう味があるのね。気に入ったわ。今日のところは“これ”で許してあげる」

「許すって……それ僕のお昼……!」

「花の妖怪に餌を出すなんて、普通は命懸けよ。あなた面白いわね」

 

 人里の資料にも風見幽香の情報はあり、非常に危険だとあった。だがデラシネにはその言葉がどうにも馴染まなかった。悪戯っぽく微笑み、幽香はほんの少し機嫌良さそうにサンドイッチを食べ続けた。

 

 デラシネはしばらく黙り、やがてポケモンたちに向かって呟いた。

 

「……ごめん。誰か、ひと口ちょうだい……?」

「きゅ!」

「チェェ……」

「ブルル」

 

 言葉は通じずとも分かる。拒否された。

 

 


 

 

 サンドイッチの本体は食べられたものの、パルデア流の上のパンをのせないスタイルが功を奏し、デラシネも食事にありつく。その後ドダイトスの背に寝転がる。背に根付く大樹が日陰になり、頬を撫でるやさしい風が心地いい。

 

「――里の人間達、あなたを“外での仕事”に回したでしょう? ずいぶん慣れた手つきね」

 

 風見幽香は一通りポケモンたちを愛でた後、デラシネのとなりに腰を下ろす。

 

「あ……はい。まあ、その……慣れてるというか……」

「謙遜するほどの採り方じゃないわよ。根を痛めず、若芽も残してる。誰かにみっちり仕込まれたみたいに整ってるわ」

 

 幽香の言い方は、ほめ言葉なのにどこか刺さる。デラシネは苦笑して肩をすくめる。

 

「みんなのおかげです。ほら、ドダイトスは鼻がいいし、フラージェスは花に詳しくて……みんながいなかったら、こんなに早く終わりませんでした」

「そうね」

 

 幽香は軽く笑った。

 それでいて人を試すようで、どこか嬉しそうでもあった。

 

「里は狭いもの。異質な子どもを、どう扱えばいいか分からない。だから外に出す。――それ自体は、悪いことじゃない」

 

 デラシネの胸が小さく揺れる。

 彼が言葉を探すより早く、幽香はさらに一歩だけ近づいた。

 

「そして外で草と一緒にいれば、あなたが息をしやすいのも分かる」

「っ……」

 

 幽香は周囲の花をそっと撫でた。

 風が通る。

 

「今日は、風が軽いわね」

 

 幽香の視線は、花畑全体をなぞっている。

 

「春の中でも、少し落ち着いた風。こういう日は、香りが遠くまで運ばれるの」

「……そう、なんですね」

 

 思わず、答えてしまう。

 

「花はね、咲いている場所より、風の通り道で覚えられることも多いのよ」

 

 幽香は、日向と日陰の境目に咲く花を見た。

 

「この花、日陰のほうが色が深いでしょう?」

 

 確かに、影の中の花は濃い色をしている。

 

「日向に出せば、もっと早く咲く。でも……色は薄くなるわ」

 

 一拍置いて、

 

「どちらが正しい、という話じゃないの。花期には、向き不向きがあるわ」

 

 幽香は穏やかに続ける。

 

「咲き急ぐ花もあれば、風待ちのまま春を終える花もある」

「……終える、んですか」

「ええ。でも、それで失敗とは限らない」

 

 幽香は、花弁に触れずに言った。

 

「咲かない春があるから、咲かない春があるから、次の年に“咲く理由”を持つ花もあるのよ」

 

 しばらく、二人とも黙る。

 

「この辺りの花はね、人が多く来ると、少し背を低くするの」

「……踏まれないように、ですか?」

「ええ。風じゃなくて、足音に合わせてね」

 

 小さく、楽しそうに微笑む。

 

「賢いでしょう?」

 

 やがて、幽香は立ち上がった。

 

「そろそろ戻りなさい。里の人間は、日が暮れると騒ぐもの。」

 

 デラシネは荷籠を抱え、名残惜しそうに振り返る。

 

「あの……幽香さん」

「何かしら?」

「また、来てもいいですか?」

 

 幽香の微笑みは、春そのものだった。

 

「またいらっしゃい。春は短いわ。迷うなら――迷えるうちに来ることね。」

「また……お話、してくれますか?」

「ええ。いつでも」

 

 そう言って幽香は花の奥へ歩き出すと、花々が道を譲るように揺れた。幽香の姿が色彩の中に消えるまで、デラシネはしばらく動けなかった。胸に刻まれた言葉が、静かに温かかったからだ。

 

 


 

 

 帰り道、採取籠がずしりと重く感じた。だがその重さは、不思議と心地よかった。

 

 足元の草の影が、ぽつぽつと揺れる。ボールの中で仲間たちが、彼の安堵に反応している。

 

「(……ありがとう、みんな)」

 

 夕暮れの山道で、デラシネはそっと息を吸った。草と風の匂いが胸いっぱいに満ちていく。

 

 その香りは、まだ名前のない未来への入口のように、静かで、優しく――そして、まだ名前のつかない深さだった。

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