【旧版】明治生まれの特級呪術師は、泥人形の夢を見るか? 作:須川ユイ
明治43年(1910年)、立冬。
これは、浅草地下水道の呪霊と対峙する、数ヶ月前の話。
「ギッ……!」
泥が波のように押し寄せ、呪霊を壁際へと拘束する。
私は懐から生成した泥の軍刀を抜き放ち、無造作に突き刺し、切り上げた。
「ギィキャッ!!??」
致命的な斬撃。
準二級相当の呪霊は、断末魔をあげて黒い霧となって消滅する。
呼応するように私が張った帳が上がり、夜のようだった廃屋に、窓から朝日が差し込んだ。
「……ふぅ。
外で待機していた軍属の人間に報告し、今回の任務は終了となる。
『鵺』の人間には、大抵監視兼移送担当の人間がつく。
私の場合は契約による所属だが、他の隊員の多くは訳ありや犯罪者あがりだ。逃走は即ち極刑。こいつらは、その監視役(看守)というわけだ。
(……まったく。夜が明けてしまったな。早く戻って朝飯でも食うか)
私は泥に汚れた軍服を払い、迎えの車へと乗り込んだ。
◆ ◆ ◆
帰還後。
向かいからは、パリッとした制服に身を包んだ数人の男たち──抜刀隊の新人らしき連中が、こちらをジロジロと見ながら歩いてくる。
「フン、朝っぱらから泥遊びとはご苦労なことだ。汚れ仕事はお似合いだな」
すれ違いざま、嘲笑と共に肩をぶつけられそうになる。
黙って通り過ぎればいいものを、いちいちちょっかいをかけなければ生きていけないのだろうか。彼らの自尊心というのは、随分と燃費が悪いらしい。
「ええ。おかげで、あなた方の綺麗な軍服が汚れずに済んでよかったですね」
丁寧な口調で皮肉たっぷりに返してやれば、男は分かり易く表情を急変させた。
「なんだと、この……ッ!」
逆上して腕を伸ばしてくる。
対応するのも面倒だ。私はその手をひらりと躱し、興味なさげに手を振ってその場を去った。
背後で喚いているのが聞こえるが、犬の遠吠えと変わらない。
(あいつら、早々に消えそうだな。人員不足に嘆く上役方もご苦労なことだ)
彼らの身体から漂う「死臭」のような隙を感じ取り、私は冷めた頭でそう結論づけた。
食堂の暖簾をくぐる頃には、もう彼らの顔など忘れていた。
◆ ◆ ◆
食事を済ませ、泥のように眠った私が目を覚ましたのは、夕暮れ時だった。
ここからが、私の本当の時間だ。
私は身支度を整え、施設内にある図書資料室へと向かう。
ここは陸軍の研究施設を併設しているだけあって、蔵書量は膨大だ。
実家では学べなかった、より専門的な手印の意味、呪詞の起源、呪印の構成……。
それら全ての知識が、ここにはある。
私は棚から数冊の専門書を抜き出し、閲覧机に広げた。『金剛界曼荼羅・解題』、『阿修羅の図像学』、そして『結界術・応用編』。
(……今のままじゃ足りない)
公称術式『
だが、それはあくまで「雑魚狩り」の話だ。
いずれ遭遇するであろう特級クラス、あるいは『零研』の魔の手から逃れるには、決定打に欠ける。
私はページを捲る。
目に留まったのは、四本の腕を持つ阿修羅像の挿絵と、特定の空間を「聖域」として区切る結界術の理論。
(単純な
腕を増やす。空間を体内と定義する。
それらを発展させた、まだ頭の中にあるだけの仮説。
だが、理論は組める。私の泥の特性と、この古臭い呪術の知識を掛け合わせれば──。
「……まだ、やりようはある」
静かな図書室に、私の小さな独り言が溶ける。
誰にも見せない場所でだけ、私は爪を研ぐ。
この泥濘むような日々を生き抜き、いつか全てをひっくり返すために。