【旧版】明治生まれの特級呪術師は、泥人形の夢を見るか? 作:須川ユイ
西暦1900年、明治33年。
日露戦争の開戦を4年後に控えた、冬のこと。
私はこの世界の「情報」を吸い上げることに、幼少期のすべてを費やした。
生家の名は、
呪術の歴史とは無縁の、海運業で成した金で爵位を買おうとしている新興財閥だ。
私が産み落とされた場所は、その広大な屋敷の敷地内ですらない、外れにある元茶室の「離れ」。
私の立場は、父である当主の「愛妾の娘」。
母は、元々本邸の召使だったらしい。それが旦那様の食指に触れ、愛玩動物としての地位を手に入れたのだ。
母は「狙って」父の愛人になったようだ。ただの従僕で終わるより、体を売ってでも良い暮らしがしたい。その上昇志向自体は、まあ、分からなくもない。
だが、その結果がこれだ。
元同僚からは嫉妬と軽蔑の目で見られ、本妻である奥様からは排斥され、本邸に入ることも許されず、この隙間風の吹く小屋で飼い殺されている。
(……哀れな人だ)
母に悪気はない。彼女は本気で、それが娘の幸福だと信じている。
旦那様の玩具として囲われ、狭い小屋で一生を終えることに、疑問すら抱いていない。この人は、自分を取り囲む檻が見えていない。「幸福な奴隷」なのだ。
周囲からは「浅ましい女」と指をさされているが、私にはただ、哀れな弱者にしか見えなかった。
◆ ◆ ◆
これが、生まれ落ちてから数年で得た、この家の実情だ。
まあ、まともではないが、マシと割り切れる範囲だろう。なにせこの時代で貧民として生まれたなら、それこそ苦労が絶えなかったはずだ。
私はこのように情報を集めつつ、傍らで呪術の鍛錬を行っていた。
この家で呪力を知覚しているのは私だけだ。
こう考えるのは、原作において4級未満──
父も、母も、使用人も。彼らの肩に醜悪な蟲が止まっていても、誰も気づかない。
やはり、ここは「非術師」の家系なのだ。
ならば好都合だ。
誰にもバレることなく、私は私の力を完成させられる。
こうして身動きの取れなかった赤子の私は、己が才を磨くことに時間を費やしていった。
そして、6歳。
私は、自身の生得術式の輪郭を掴み始めていた。
生得術式──『
基本的にできることは、泥を媒介に自分と同一の肉体を作り、操作すること。作り出した肉体を本体とすることも可能である。
恐らく、原作にも登場していた分身術式の呪詛師と同様か、それに近いものであると考えられる。
あの
この術式において最も有力な特色として、本体と分身の入れ替えがある。自分がやられそうになったら分身と入れ替えて逃げる事ができる。
索敵としてもかなり優秀な部類だ。情報は共有され、牽制も容易に行える。
ただ、術式自体に攻撃力がないのは考えなければならない。
術式だけで攻勢に出るとしたら、原作同様、数の有利で囲んで叩くぐらいしかないのではないだろうか? あの呪詛師も、結局は逃走能力にかまけて、五条悟という規格外に押し切られたのかもしれない。
ここは要改善といったところか。
(……試してみるか)
ある日の夕暮れ。
私は術式の練習がてら、生成した「泥人形」を離れの外へと送り出した。
本体は布団の中で寝たふりをしつつ、視覚と聴覚を分身へとリンクさせる。
狙うは、本邸。
父と、その正妻が住まう洋館だ。
◆ ◆ ◆
泥の体は軽い。足音も気配も、庭の闇に溶け込んで消える。
私は警備の目を盗み、本邸の応接間の床下へと潜り込んだ。
頭上の床板越しに、重々しい男の声と、ヒステリックな女の声が聞こえてくる。
「……あなた。あのような卑しい女と娘、いつまで敷地内に置いておくおつもり?」
「そう言うな。最近は船の買い付けで忙しいんだ。あそこの娘──夜永と言ったか。あれの処分を考える暇もない」
父と、本妻の会話だ。
どうやら私の処遇について揉めているらしい。
興味がない。私が耳をそばだてたのは、その後の会話だった。
「それに、今は時期が悪い。京都の方で、妙な噂が流れているのを知っているか?」
「京都? ……ご実家の方ですの?」
「いや。あの
(……!)
床下で、私の泥の体がピクリと反応した。
加茂家。
「なんでも、先代の当主──
「まあ、おぞましい……。陰陽師の家系だか何だか知りませんが、血が腐っているのではなくて?」
「全くだ。古臭い連中だよ。これからは科学と貿易の時代だというのに」
夫婦は下世話なゴシップとして笑い合っている。
だが、盗み聞きしていた私の背筋は、泥でできているにも関わらず凍りついていた。
加茂家。加茂憲倫。九回の堕胎。
間違いない。
それは、原作にも登場した特級呪物──『呪胎九相図』が産み落とされた事件そのものだ。
(確定だ。ここは『呪術廻戦』の世界)
それも、最悪の術師が活動した痕跡が、まだ生々しく残る時代。
非術師の成金が「科学の時代」などと浮かれている裏で、呪いの異形や、特級呪詛師が跋扈している。
私は静かにリンクを切り、意識を本体へと戻した。
離れの布団の中で、静かに瞼を開く。深海のように静まり返った瞳の奥で、小さく、けれど確かな決意の火が灯ったのだ。
猶予はない。
このまま「愛妾の娘」として飼い殺されていれば、いずれ時代の波か、あるいは呪いの余波に飲み込まれて死ぬ。
生き残るには、強くならなければ。
この術式を完成させ、誰にも脅かされない「力」を手に入れなければ。
天井のシミを見つめながら、私は覚悟を決めた。