【旧版】明治生まれの特級呪術師は、泥人形の夢を見るか? 作:須川ユイ
仮想怨霊との戦闘を終え、私は意識を離れに残しておいた本体へと戻し、ボロボロになった分身を帰還させていた。
「さて。成長を実感できたのはいいが、……ふむ」
蔵書を読み漁り、十分な鍛錬が積めた。衣食住を提供してくれたことだけは感謝すべきか。
私は手早く荷物をまとめていく。
術式研究のメモと、へそくりの端金。旅装なんて気の利いたものはないから、洗濯場から使用人の少年服を拝借した。
(……ん?)
ふと、帰還中の分身から
どうやら裏山を降りきり、屋敷の敷地に入った辺りで──最悪の相手に見つかったらしい。
「このような早朝から、一体何をしている? ……いや、何をしてきた、と問うべきか」
視界の先には、仕立ての良い制服を着た少年。
父親譲りの三白眼が、汚物を見るような鋭さでこちらを睨みつけている。
長兄だ。
「卑しい売女の娘が。俺の屋敷の敷居を跨いでいるというだけで吐き気がする」
(俺の屋敷? まだ親父のものだろうが。気の早いことだ)
咄嗟にそう毒づいたが、口には出さない。
私は思考する。
分身は戦闘で半壊しており、維持するだけでも呪力を食う。どうせならこのまま廃棄したいが、ただ消すだけでは芸がない。
(……いや、この状況。うまく使えるのではないか?)
彼女の唇が、暗い弧を描く。
嗚呼、それほど恨みなどないが、これまでの仕打ちを考えればこれくらいの
私は意識のリンクを最大まで上げ、泥人形の口を動かした。
◆ ◆ ◆
「……何を黙っている。言葉すら理解できぬほど愚かなのか。お前は」
最初に会った時から、
生理的な嫌悪。そして、理解し難い苛立ち。
何故、このような汚点が俺の側で生きているのか。
何故、こいつは俺に感謝せず息をしていられるのか。
彼は、自身の出自に誇りを持っていた。
類まれな商才と、勝機を逃さない嗅覚によって成り上がった父。その血を余すことなく受け継ぎ、学習院でも優秀な成績を収めた、選ばれた自分。
だが、世界は彼を正当に評価しなかった。
昔からの名家の跡取りには、影で「ぽっと出の飾代」と揶揄される。
教師たちからは「たかが商家の分際で」と、言葉の節々に含みのある視線を向けられる。
周囲にいるのは、父の金に群がる有象無象ばかり。
美辞麗句を並び立て、おこぼれに与ろうとする
彼らの思惑に気づけぬほど愚かであれば、また未来は違っただろう。
だが不幸にも、彼は聡明すぎた。彼らの仮面が、乱雑に塗りたくられた薄紙のような化粧であることに気づいてしまっていた。
自分より劣る者たちが、家柄だけで上に立つ不条理。自分を利用しようとする者たちの浅ましさ。
そんな黴臭く、煤けたような人間模様の中で、彼の人格が捻じ切れるのは必然だった。
傷ついた自尊心は、より弱いもの、自分より下であると確信できるものを求めた。
それが──この、飾代夜永だ。
「…………や、めて、ください」
ボロボロの衣服に、泥だらけの手足。
裏山へ忍び込み、土遊びでもしていたのか?
その薄汚い姿が、彼の神経を逆撫でする。俺はこんなにも清廉で完璧であろうとしているのに、同じ血を引く妹が、溝鼠のように泥を啜っている。
許せない。存在そのものが、俺への侮辱だ。
「やめろだと? お前はこの俺に指図するほど偉くなったつもりなのか?」
パシッ!
乾いた音が響く。手の甲で、その白い頬を強く打ち据えた。
衝撃によって倒れ込む夜永。彼はそれを見下ろしながら、更に追い打ちをかけるように腹部へ蹴りを入れる。
「ガハッ……。ゴホッ、ゴホッ」
軽い体は数
弱い。脆い。
その圧倒的な弱者としての姿に、彼は暗い優越感を覚えるはずだった。
だが。
「……ふざ、けるな。私が、あなたに何をしたって言うんだ」
よろよろと立ち上がったそれは、今までにない反応を示した。
土に汚れた前髪の隙間から、こちらを睨む視線。
そこに怯えはない。媚びもない。
あるのは──底知れぬ、憐れみのような冷たさ。
(なんだ、その目は)
まるで、檻の中で喚く猿を見るような目。
俺を見下しているのか? この、売女の娘が!
「そんなことも分からんのか! お前は飾代の血を、その高潔な一族を穢している! お前は存在するだけで害なんだよ!」
「……っ!」
俺の怒号を聞いた夜永は、バッと身を翻し、来た道を戻り始めた。
そのまま裏山へと逃げ込むつもりらしい。
「っおい! 待て! 勝手に逃げるな!」
制止の命令も聞かず、背を向けて走り去ろうとする姿。それは彼の中で、何かが切れる音を響かせた。
許さない。俺の話はまだ終わっていない。分からせてやる。お前がどれほど無価値な存在か、骨の髄まで理解させてやる。
彼は怒りに任せ、泥濘む山道を駆け出した。