【旧版】明治生まれの特級呪術師は、泥人形の夢を見るか?   作:須川ユイ

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第六話:共犯者は未だ知らず(後編)

 

 

 

 

 息が切れる。肺が焼けるように熱い。

 だが、彼は足を止めなかった。

 怒りという燃料が、彼を突き動かしている。

 

「ハァ、ハァ……ッ! 待て、逃げるな!」

 

 山道を抜け、視界が開ける。

 そこは、屋敷の裏手にある断崖絶壁。

 かつて土砂崩れが起き、柵も設けられずに放置された危険地帯だ。

 

 行き止まり。

 崖の縁、ギリギリの場所に、妹は立っていた。

 背後には、遥か下の谷底を流れる急流の音が轟いている。

 

「……行き止まりだ。観念しろ」

 

 彼は荒い息を吐きながら、ゆっくりと歩み寄る。

 妹は逃げ場を失い、背を向けて震えているように見えた。

 

 いい気味だ。

 さっきの生意気な態度はどこへ行った? 泣いて謝れば許してやる。いや、許さない。二度と俺を憐れむような目で見ないよう、徹底的に分からせてやる。

 

「こっちを向け。俺の目を見ろ」

 

 彼が手を伸ばした、その時だ。

 妹が、ゆっくりと振り返った。

 恐怖に歪んだ顔を期待していた彼の目に映ったのは──

 

「──では、あなたの望み通りに。ご機嫌よう」

 

 美しく弧を描く、三日月のような笑みだった。

 

「あ?」

 

 思考が停止する。

 

 直後、妹の足元の地面が、不自然なほど脆く崩れ落ちた。

 まるで、最初からそうなるように仕組まれていたかのように。

 

「──ッ!?」

 

 彼は咄嗟に手を伸ばした。

 だが、指先は虚空を掻いただけだった。

 ヒュッ、という風切り音。

 小さな体が、重力に従って吸い込まれていく。

 

 スローモーションのように見えたその光景の中で、落下していく妹は、まだ笑っていたように見えた。

 

 ドォォン!!

 

 数秒後。

 肉塊が岩に叩きつけられる、鈍く湿った音が谷底から響いてきた。

 

「あ、あ……あぁ……」

 

 彼は腰を抜かし、四つん這いになって崖下を覗き込んだ。

 遥か下、岩場に引っかかった「それ」が見える。

 首がありえない方向に曲がり、手足はひしゃげている。動かない。どう見ても、助からない。

 

「し、死ん……だ? 俺が、殺した……?」

 

 違う。俺は触れていない。あいつが勝手に落ちたんだ。

 だが、俺が追い詰めた。「消えろ」と願った。だからあいつは──「望み通りに」落ちた。

 

 吐き気が込み上げる。

 殺人者。その烙印が、彼の輝かしい未来を塗りつぶしていく。

 

「う、うわぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 彼は悲鳴を上げ、転がるように来た道を逃げ出した。

 父に言わなければ。何とかしてもらわなければ。

 自身の保身だけを考えて。

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 その日の夜、飾代家の「離れ」から、一人の少女の痕跡が消えた。

 

 父の対応は迅速かつ冷徹だった。

 長男の将来に傷がつくことを恐れた彼は、警察に届け出ることもなく、信頼できる手下の男たちを使って、谷底の回収へ向かわせた。

 

 だが、死体は見つからなかった。

 現場に残されていたのは、岩場にへばりついた大量の血痕(泥の肉片)と、千切れ飛んだ着物の切れ端のみ。

 

 おそらくは、血の匂いを嗅ぎつけた野犬に持ち去られたか、増水した川に流されたのだろう。

 

 父にとっては好都合だった。

 死体がないなら、「行方不明」として処理できる。

 対外的な説明は「神隠し」。

 

 妾の子一人が消えたところで、世間は誰も気に留めない。

 

「……そうですか。あの子は、お星様になったのですね」

 

 母は、父のついた嘘を疑いもしなかった。

 少しだけ寂しそうな顔をしたが、すぐに「でも、あの子は体が弱かったですから」と、自分を納得させるように微笑んだ。

 

 彼女の世界は、旦那様の言葉が全てだ。そこに疑問を挟む余地はない。

 こうして、飾代夜永という少女は、飾代家の歴史から抹消された。

 

 

 

 ──同時刻。

 

 屋敷の裏門から、一人の少年──男装した夜永が出ていく姿があった。

 

(最後の最後に、感謝するよ。兄上殿(共犯者)

 

 背負った風呂敷包みには、最低限の金と、書き溜めた研究録。

 

 振り返ることはしない。

 あの家には、もう未練も、学ぶべきこともない。

 

 夜風が冷たい。

 だが、その冷たささえも心地よかった。

 

 今の私は、誰の所有物でもない。

 

「さて……帝都見物といこうか」

 

 10歳の少女は、闇夜に紛れて歩き出す。

 

 目指すは東京の中心。

 泥を啜り、血を吐いてでも生き抜く、長い夜の始まりだった。

 

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