【旧版】明治生まれの特級呪術師は、泥人形の夢を見るか? 作:須川ユイ
息が切れる。肺が焼けるように熱い。
だが、彼は足を止めなかった。
怒りという燃料が、彼を突き動かしている。
「ハァ、ハァ……ッ! 待て、逃げるな!」
山道を抜け、視界が開ける。
そこは、屋敷の裏手にある断崖絶壁。
かつて土砂崩れが起き、柵も設けられずに放置された危険地帯だ。
行き止まり。
崖の縁、ギリギリの場所に、妹は立っていた。
背後には、遥か下の谷底を流れる急流の音が轟いている。
「……行き止まりだ。観念しろ」
彼は荒い息を吐きながら、ゆっくりと歩み寄る。
妹は逃げ場を失い、背を向けて震えているように見えた。
いい気味だ。
さっきの生意気な態度はどこへ行った? 泣いて謝れば許してやる。いや、許さない。二度と俺を憐れむような目で見ないよう、徹底的に分からせてやる。
「こっちを向け。俺の目を見ろ」
彼が手を伸ばした、その時だ。
妹が、ゆっくりと振り返った。
恐怖に歪んだ顔を期待していた彼の目に映ったのは──
「──では、あなたの望み通りに。ご機嫌よう」
美しく弧を描く、三日月のような笑みだった。
「あ?」
思考が停止する。
直後、妹の足元の地面が、不自然なほど脆く崩れ落ちた。
まるで、最初からそうなるように仕組まれていたかのように。
「──ッ!?」
彼は咄嗟に手を伸ばした。
だが、指先は虚空を掻いただけだった。
ヒュッ、という風切り音。
小さな体が、重力に従って吸い込まれていく。
スローモーションのように見えたその光景の中で、落下していく妹は、まだ笑っていたように見えた。
ドォォン!!
数秒後。
肉塊が岩に叩きつけられる、鈍く湿った音が谷底から響いてきた。
「あ、あ……あぁ……」
彼は腰を抜かし、四つん這いになって崖下を覗き込んだ。
遥か下、岩場に引っかかった「それ」が見える。
首がありえない方向に曲がり、手足はひしゃげている。動かない。どう見ても、助からない。
「し、死ん……だ? 俺が、殺した……?」
違う。俺は触れていない。あいつが勝手に落ちたんだ。
だが、俺が追い詰めた。「消えろ」と願った。だからあいつは──「望み通りに」落ちた。
吐き気が込み上げる。
殺人者。その烙印が、彼の輝かしい未来を塗りつぶしていく。
「う、うわぁぁぁぁぁぁっ!!」
彼は悲鳴を上げ、転がるように来た道を逃げ出した。
父に言わなければ。何とかしてもらわなければ。
自身の保身だけを考えて。
◆ ◆ ◆
その日の夜、飾代家の「離れ」から、一人の少女の痕跡が消えた。
父の対応は迅速かつ冷徹だった。
長男の将来に傷がつくことを恐れた彼は、警察に届け出ることもなく、信頼できる手下の男たちを使って、谷底の回収へ向かわせた。
だが、死体は見つからなかった。
現場に残されていたのは、岩場にへばりついた
おそらくは、血の匂いを嗅ぎつけた野犬に持ち去られたか、増水した川に流されたのだろう。
父にとっては好都合だった。
死体がないなら、「行方不明」として処理できる。
対外的な説明は「神隠し」。
妾の子一人が消えたところで、世間は誰も気に留めない。
「……そうですか。あの子は、お星様になったのですね」
母は、父のついた嘘を疑いもしなかった。
少しだけ寂しそうな顔をしたが、すぐに「でも、あの子は体が弱かったですから」と、自分を納得させるように微笑んだ。
彼女の世界は、旦那様の言葉が全てだ。そこに疑問を挟む余地はない。
こうして、飾代夜永という少女は、飾代家の歴史から抹消された。
──同時刻。
屋敷の裏門から、一人の少年──男装した夜永が出ていく姿があった。
(最後の最後に、感謝するよ。
背負った風呂敷包みには、最低限の金と、書き溜めた研究録。
振り返ることはしない。
あの家には、もう未練も、学ぶべきこともない。
夜風が冷たい。
だが、その冷たささえも心地よかった。
今の私は、誰の所有物でもない。
「さて……帝都見物といこうか」
10歳の少女は、闇夜に紛れて歩き出す。
目指すは東京の中心。
泥を啜り、血を吐いてでも生き抜く、長い夜の始まりだった。