狡噛慎也が、高度育成高等学校に来て早5ヶ月程経った頃、夏休みを迎えた彼に待っていたのは、2週間の豪華客船によるクルージングの旅であった。生徒達は浮かれた気分になっており、狡噛もその例に漏れず、心躍っていたのだ。船内の探索をする者、一流シェフの料理を楽しむ者、船内プールで泳ぐ者、楽しみ方は様々だ。狡噛はというと、船のデッキで、潮風に吹かれながら、辺り一面に広がる海を眺めていた。
「………………」
ホワイトルームから外の世界へ飛び出し、新たな環境、そして新たな出会い、そして今は太平洋のど真ん中。彼は一体、何を思うのだろうか。
「こんな所にいたんですか?狡噛君」
名前を呼ばれた俺は、首だけを動かして声の主の方を向く。
「坂柳」
コツコツと杖をついて近づいてきたのは坂柳有栖。辺りには誰もおらず、一人だけのようだ。
「神室はどうした?」
「彼女もこの豪華客船を楽しみたいようですし、今は自由にさせています」
「そうか」
俺はそれだけ返して、再びこの海を眺めていた。太陽の光が反射して、海面がキラキラと輝いて見える。
「美しいですね」
坂柳が俺の横に立ち、同じ方向を見ながらそう言った。
「そうだな」
俺と坂柳はしばらくの間、立ち尽くしたまま、ずっと海を眺めていた。ただただ青い海を目に焼き付けていた。
「狡噛君は、今何を考えているのですか?」
「………何を、か」
坂柳の言葉に、俺はそっと瞼を閉じた。すると瞼の裏に、過去の記憶が鮮明に映し出される。泣き叫ぶ少年少女。俺と戦い、倒れる相手。隣で無機質な瞳で俺を見ている清隆の姿。
「随分、遠くに来てしまったな…………」
これが自由、なのだろうか。空を飛んでいるあの鳥達は、何者にも縛られず、ただこの広い海の上で羽を広げている。
「ホワイトルームにいた時には、考えられない光景ですしね」
「そうだな。あの場所じゃあー」
俺は数秒、思考が停止した。やっと思考が動き始めた時には、横に立つ坂柳へ首を思いっきり動かした。
「今……お前…………」
俺と清隆の間でしか、絶対に聞かない単語。聞くことができない単語。ホワイトルーム。それがクラスメイトの、この小さな少女の口から発せられた。
「坂柳、それをどこで………」
驚く俺を無視して、坂柳はデッキに設置されているベンチに腰を下ろした。そして、俺に見て微笑んだ。
「少し立ち疲れてしまいましたので、座って話しませんか?」
「………………」
何故坂柳がホワイトルームを知っているのか、それを知らなければならない。坂柳の言う通り、俺は彼女の横に座った。
「質問していいか?」
「どうぞ」
「何処で知ったんだ?」
俺は坂柳が口を開くのを待っていた。10秒か20秒か、それくらいの時間が経ったのち、坂柳はようやく口を開いた。
「私は一回、あの白い部屋に訪れた事があるんです」
坂柳は俺を見ず、何処か遠くを見て話し出した。
「そこで私は、貴方と綾小路君を見ました。沢山の白衣を着た研究者達に囲まれながら、チェスをしている所を」
「……………」
「たった一度きり、お父様に連れられて来ただけ。だけど私には、あの日の記憶が、今もなお鮮明に思い出せるんです」
坂柳の父は、ホワイトルームの関係者か。ならば、綾小路先生と繋がりがある人物。今の話、俺には坂柳が嘘を言っているようには見えなかった。俺以外にも清隆が出た瞬間に、坂柳の話は本当だろうと判断した。
「見ていたのか…………」
「結果は狡噛君、貴方の負けでしたね」
坂柳は俺を見てそう答えた。それに対して俺は、昔を思い出しながら、フッと笑い返した。
「そうだな。悔しいが、俺はチェスでアイツに勝つことは出来なかった」
「流石、ホワイトルームの最高傑作です」
「あぁ、そうだな」
まさか、こんな所で清隆以外にも、あの場所の話が出来る人物がいたなんて驚きだ。
「狡噛君を見た時、すぐに声を掛けたかったのですが、貴方は外の世界に来たばかり。慣れるのに時間が掛かったのではありませんか?」
「お前の言う通り時間は掛かった。だが、目に付くもの全てが興味の対象だった。退屈はしなかった」
「それは良かったです」
坂柳は自分の事のように、満足そうな顔をしていた。
「狡噛君、是非一度、私とチェスで勝負しませんか?二人の対局を見てから私は、チェスを嗜むようになりまして」
坂柳は勝負を持ち掛けてきた。断る理由なんて無い。きっといい勝負になる。そんな気がする。
「ならその時は、清隆も呼んで3人でやるか?」
カラーン、と坂柳が杖を落とした。俺を見て驚いた表情のまま、坂柳は動かなくなった。
「坂柳?」
俺はベンチから立ち上がり、落ちた杖を拾い、坂柳に渡そうとするが、彼女は一向に受け取らない。
「彼が、いるんですか………?」
坂柳の動揺が目に見えてわかる。
「おい、坂柳」
「この学校に、綾小路君が…………」
ピーンポーンパーンポーン
『これより、当学校が所有する孤島に上陸します。生徒達は30分後、全員ジャージに着替え、デッキに集合して下さい。私物は全て部屋に置いてくるようお願いします』
そんなアナウンスが船内に流れた。どうやら、プライベートビーチへの上陸が近いらしい。
「どうやら、試験が始まるようですね」
平常心を取り戻した坂柳が、俺から杖を受け取り立ち上がった。
「坂柳、大丈夫か?」
「ご心配をおかけしました。今回の試験、私は不参加となっています。次に会うのは、少し先になってしまいますね」
この口振から察するに、坂柳は今回行われる試験がどのような試験なのか、学校側から話されているようだ。
「狡噛君」
小柄な坂柳は、俺の顔を見上げている。
「何だ坂柳」
「この特別試験が終わった後、少しお話があります。時間を作ってはもらえますか?」
坂柳は、今までにない真っ直ぐな目を俺に向けてきた。只事でない、俺はそう感じたのだった。
「あぁ分かった。お前が何を思い、どうしたいのか、この試験が終わった後、教えてくれ」
俺の返答に坂柳はコクリと頷いた。俺はジャージに着替えるために、坂柳を置いて部屋に戻る事にした。
(清隆、済まない。お前の平穏を、俺は奪ってしまうかもしれない………)
あの時、坂柳が何を言いたかったのか、俺には何となく分かった気がした。いや、それしかないと思った。坂柳はきっと…………。
船を出て、孤島に足を踏み入れた俺たち1年生は、先生達によって直ぐに整列させられた。何かが始まる。そんな気がしていた俺たちの前に、メガホンを持った真嶋先生が壇上に立つと、こんな暑い太陽の下、冷酷な一言が発せられた。
「只今より、本年度最初の特別試験を行う」
真嶋先生の言葉を聞いて、生徒達がざわつく。今までただの旅行だと思っていた者たちに襲い掛かる不意打ち。夏のバカンス、そんなものは幻想に過ぎなかった。
「期間は一週間、8月7日の正午に終了となる。君たちはこれから一週間、この無人島で集団生活をしてもらう。この特別試験は、実在する企業研修を参考にして作られた実践的かつ、現実的なものであると言っておく」
真嶋先生の説明が続いていく。いまだ何が起こったのか分からず、理解が追いつかない者、覚悟を決めた者様々だ。
「この試験のテーマは『自由』。まず大前提として各クラスには、試験専用のポイントの300ポイントを支給する事になっている。このポイントを上手く使うことで、一週間の特別試験を乗り切る事が可能だ。そのためのマニュアルも用意してある」
「このマニュアルには、ポイントで入手できる物のリストがすべて載っている。堅実な計画プランを立てれば、無理なく一週間を乗り切る事ができる」
最初から300ポイントを支給されてからのスタート。このポイントが、一週間の生活の鍵を握るのか。
「特別試験終了後、各クラスに残っているポイントは、各クラスのクラスポイントに加算された上で、夏休み明けに反映される」
クラスポイントが増える。そうなれば、毎月に振り込まれるプライベートポイントの額が増える事になる。ならば、多少無理してでもポイントを抑えようと努力しようと考えてしまうだろうが、それは罠だ。
「特別試験のルールでは、体調不良などでリタイアした生徒が出た場合、そのクラスにはマイナス30ポイントのペナルティが与えられる事になっている。よって、今回の試験で欠席がいるAクラスは、270ポイントからスタートする事になる」
容赦のない通告。坂柳が欠席した事によって、俺たちはスタートする前から他クラスよりも支給されるポイントが減ってしまった。坂柳の身体では、一週間も無人島で暮らすなど到底出来るわけもない。こればかりは仕方ない。この事に関して、俺のクラスからは不満を漏らす生徒なんて…………。
「そんな!嘘だろー!?」
一名いたようだ。戸塚弥彦、葛城を慕う葛城派閥の筆頭。坂柳のいない今、この特別試験は、葛城の腕の見せ所だな。
「今から全員に腕時計を配布する。この腕時計は試験中、外す事なく身に付けておくように。この腕時計は時刻の確認だけでなく、その人間の体温、脈拍そしてGPSも備えている。万が一に備え、学校側に非常事態を伝えるための手段も搭載されている。緊急時には、迷わずそのボタンを押してくれ。それは時に、君たちを命を守る物だ。許可なく外した場合は、ペナルティを与えるので気をつけるように、以上だ」
ようやく真嶋先生の長い説明が一通り終わりを告げ、各クラスはそれぞれ集まって動き出していたが、俺たちAクラスはというと、
「よしお前ら、葛城さんの言う通りに動けよ」
「おい戸塚、なんで葛城が仕切る事が確定しているんだよ」
「おい文句があるのかよ。坂柳がいない今、誰がAクラスを指揮するんだよ。葛城さんしかいないだろ?」
Aクラスで二分された勢力。葛城派閥と坂柳派閥。坂柳派閥の生徒は、葛城が指揮をする事に不満を持っているようだ。
「全く、話が進まないな。なぁ狡噛?」
「橋本、お前は葛城がクラスを指揮をするのに不満はないのか?」
後ろから歩いてきた橋本が、俺に肩を回してきた。
「不満はないぜ。姫さんが居ない今の状況だと、葛城が指揮をするのが妥当だ。それに、今、戸塚に文句を言っていた奴は仕込みなのさ」
なるほど。流石は坂柳、手が早いな。こうなる事を想定していたのか。
「皆んな聞いてくれ。俺がクラスを指揮するのに不満を持っている者もいるのは分かっている。だが今回は、力を合わせて協力しなければならない。今問おう、俺が指揮をするのに不満を持つ者は手を挙げてくれ。その者が代わりにクラスを指揮してくれるならば、俺は譲るつもりだ」
葛城はクラスの目の前で演説する。そうすると誰も手を挙げる者はいなかった。先程まで文句を言っていた者もすんなりと受け入れている。これで一時的だが、クラスは一つとなった。
「オイ狡噛、一匹狼を気取っているお前も、今回は葛城さんに従ってもらうからな」
俺は戸塚に指をさされ、名指しして呼ばれてしまった。
「あぁ、俺は誰が指揮しようが構わない」
「何だと?」
戸塚は俺を睨みつけてきたが、俺は涼しい顔をして無視してやった。
「ははは、お前は相変わらずだな」
橋本が笑っているが、そろそろ肩を回すのを止めろ。
「このマニュアルは葛城、お前に渡しておく。さっきも言ったが、一冊しかないので大切にな。まだ、この特別試験での特殊なルールが詳しく記載されているので、皆もよく読んでおくように」
俺たちの様子を見守っていた真嶋先生が、近づいて葛城にマニュアルを渡した。特殊なルールか、気になるから後で葛城に借りるか。
「先生、質問なんですが、この腕時計は水に濡れても大丈夫な物なんですか?」
「ああ、たとえ海水に濡れても問題はない。だが、転んだ衝撃で内部のセンサーが壊れてしまう、なんて可能性もある。十分注意するように。他に質問はないか?」
真嶋先生は葛城の質問に答えると、クラス全体見渡すようにして確認する。
「はい、質問があります」
「何だ?狡噛」
橋本は俺が手を挙げたのに驚いていた。皆の視線が一ヶ所に集まる。俺はその中で、疑問を思った事を真嶋先生にぶつける。
「自分たちのポイントが0よりも下、マイナスポイントになることはあるのでしょうか?」
「それは無いと断言しよう。もし仮に、おまえたちお前たちのポイントがゼロとなり、そこへペナルティが与えられたとしてもゼロのままだ」
ポイントはゼロより下はないのか。少し緩いと思ってしまった。
「ではお前たち、健闘を祈る」
真嶋先生は、船に近くに建てられたテントへと歩いて行った。
「それじゃあ、今から生活に必要な物を買っていく。何か意見があれば何でも言ってくれ」
ついに始まった無人島サバイバル。Aクラスは無事に乗り切る事が出来るのか。
(はぁ、出来るならリタイアしたいな)
面倒な7日間が始まった。