〜狡噛慎也の視点〜
(水が出ない……?)
それは、ある日の夕方に起こった予期せぬ事件だった。原因は水道局のトラブル。これによって、寮全体の水が出なくなっていた。学校からのメールでは、暫く時間を要するらしく、最悪の場合、早朝までかかるとのことであった。
学校側の対応としては、水の配布を食堂で行うらしいが、一度に沢山の生徒が押し入って混雑することが予想されるので注意してほしいとの記載があった。また、その理由でコンビニは一時利用不可、ケヤキモールには無料で利用できるミネラルウォーターが設置されているが、ボトルに入れて持ち帰る事は禁止だそうだ。
俺はすぐに冷蔵庫を開けて飲み物を確認する。中には2ℓのペットボトル水が2本残っていた。これだけあれば、とりあえず喉の渇きには困らない。問題はトイレだ。タンクに水が溜まっているので1回だけ使用可能。それ以外にも、キッチンもシャワーも使えないわけで、
(今日は外で食うか………)
という結論に至った。こればかりはどうしようもならない。早く解決してくれる事を願いながら、俺は玄関を出た。
適当な店で適当な飯でも食おうかと思いながら、上の階から降りてくるエレベーターを待っていると、ポケットに入っていた携帯が一定の振動音をきかせていた。確認すると、それは坂柳からであった。
この状況で電話を掛けてくる理由は限られる。
『もしもし狡噛君』
「坂柳、もしかして水が無くて困ってるのか?」
『……はい、そうなんです』
単刀直入に聞いてみると、やはり当たっていた。
幸いにも水は余っている。1本あげても問題は無いな。
「余っているから持っていくよ。少し待ってろ」
『ありがとうございます』
電話から聞こえる坂柳の声は、申し訳無さそうにしていた。俺は電話を切ると、すぐに部屋に戻って冷蔵庫から水を取り出す。
戻って来ると、エレベーターは既に上の階に昇っていた。これでは上から降りてきたエレベーターに乗って、1番下のロビーに到着してから、また上に昇らなければならない。なら階段を使った方が早い。
俺は坂柳が住む階まで、階段を一段飛ばしで駆け上がっていく。そうして辿り着いた玄関ドアの横のインターホンを鳴らした。
ほんの数秒待つとガチャッと扉が開く。そこには、部屋着姿の坂柳が立っていた。
「こんにちは、狡噛君」
「おう、持って来たぞ。コレだけあれば十分だろ」
「助かりました。冷蔵庫の中を確認したら、コップ
一杯分の水しかなかったものですから」
それは危なかった。もし他の生徒に助けを求められていたら、俺はソイツに水を分け与えただろうし、坂柳の分の水は無かった。
坂柳は、俺が持って来た2ℓのペットボトル水に視線を落とした。
「後、お願いがあるのですがーー」
「運ぶよ。入ってもいいか?」
「はい。本当に、ありがとうございます」
坂柳から入室の許可を貰ったので玄関で靴を脱ぎ、短い廊下を歩いて部屋に進む。女子の部屋に入ったのはこれが初めてであり、わずかに緊張した俺だが、その緊張は、部屋の中に置かれたある物を目にした途端、少しだけ和らいだ。
「ぬいぐるみ……」
クマやウサギなど、動物のぬいぐるみである。まるで、入ってきた俺を歓迎するかのように両手を上げていた。いや、手じゃなくて足か。
「狡噛君、あまりジロジロと部屋の中を見るのは失礼ですよ」
「悪い」
勝手に人の冷蔵庫を開けるわけにはいかないため、俺はすぐ横に水を置いてやると、坂柳はそれを冷蔵庫の中に入れた。
「夕飯はどうされるのですか?」
「外で食うよ。いつ直るか分からないしな」
「それでしたら、ご一緒してもよろしいですか?」
「あぁ、いいよ」
断る理由もないしな。
「少し着替えるので、先に外で待っていて下さい」
「おう」
俺は部屋を出る際、ふとキッチンへ目を向けた。そこには調理器具らしい物が、一つとして置かれていなかった。中にしまってあるだけかもしれないが、
「坂柳、お前は料理をしないのか?」
玄関に移動した俺は、靴を履きながら尋ねた。
「えぇ。私は料理をした事がありません」
それは案外、あっさりと返ってきた。
「朝はどうしてるんだ?」
「前日の夜に買った物を食べています」
それでは毎月の食費が高くつくだろうに。それに来月から、葛城と龍園の契約により、Cクラスに2万ppも支払っていく必要がある。自炊した方がポイントの消費も抑えられる。
「余計なお世話かもしれないが、料理をした方がポイントは浮く。もし良ければ、俺が教えようか?」
「狡噛君が、ですか……?」
「あぁ」
坂柳は予想外の申し出に戸惑った表情を浮かべると、しばし思案するように黙り込んだ。お節介が過ぎたのかもしれない。
「………そう、ですね。そこまで仰ってくださるのでしたら、ぜひ教えて下さい」
坂柳はそう言って微笑んでくれた。
「分かった」
そして、俺も薄く笑みを浮かべる。
「時に、狡噛君はいつから料理を? ホワイトルームでは料理も学ばれるのですか?」
「いいや、この学校に来たからだ。やってみると案外面白いぞ。今じゃあ、レシピを見ずに自分なりにアレンジしてる」
「ふふふ、流石はホワイトルーム出身ですね」
「それ関係あるのか……?」
俺と坂柳は、寮から歩いてケヤキモール内にあるイタリアン風レストランへ足を運んだ。入ると、店内は食事を楽しむ大勢の生徒で賑わっていた。やはり、考えることは皆んな一緒ってわけだ。
「しばらく待とう」
「そうですね」
整理券を取った俺は、テーブルが空くまで坂柳と待合席に腰を下ろした。さてこの時間、一体何をして潰そうか。こういう場合、何でもいいから話題を振って、相手を退屈させない事が重要だと、朝比奈先輩が以前言っていたな。
「坂柳」
「はい」
「お前は何故、この学校に入学したんだ?」
話題としてはまぁまぁ、いや違うか。俺の脳内の朝比奈先輩が腕でバツを作っている。しかし、気になっていたのは事実だ。この学校に入学しなければ、俺は坂柳と出会うことはなかった。
「実は、私の父はこの学校の理事長なんです」
「理事長……?」
俺は素直に驚いた。まさか坂柳の父親が、この高度育成高等学校の理事長だったとは。
考えていた。俺と綾小路がこの学校に入学出来たのは、松雄という執事の計らいによるものだ。先生の手から逃れる唯一の手として提示され、俺達はそれを飲んだ。入学の手続きから何まで、松雄が全て用意してくれた。本当に深く感謝している。
だが、俺と綾小路は一度でも学校に通ったことがない。どんな履歴書を学校に送ったのか。得体の知れない人間を、この学校が入学を許可するのか。それとも松雄が偽装した? 上手く誤魔化せたというのか。
一介の執事である松雄に、それが可能だったのか。
坂柳の父親はホワイトルームを知っている。そして勿論、俺達のことも知ってる筈だ。ならば、そもそも入学を認めてくれたのは、坂柳の父親………………。
一度、会って話をする必要があるな。
「なぁ坂柳」
「なんでしょう?」
「お前の父親とコンタクトを取ることは可能か?」
「難しいですね。今の私は、この学校の一生徒でしかありません。それに、お父様はいつも多忙な身の上です。そう易々と会うことは出来ません」
坂柳は顎に手を当てて考えたが、すぐに返ってきた。
「そうだよな………」
「何か、気になる事でもありましたか……?」
「いや、いい。何でもない」
坂柳の言う通り、ただの生徒では無理だろうが、
生徒会役員ならどうだ? 接触できる可能性はあるかも知れない。ここで考えても何も出来ない。ゆっくりと、機会を伺うとしようか。
「ふむふむ、よし。今日の夕飯はカルボナーラに決定しました。坂柳有栖は何を食べますか?」
「では私も同じものを。狡噛君はどうされますか?」
「……グラタン」
「決まりましたね。なら狡噛慎也、早くボタンを押して下さい。今この瞬間にも、別の客が注文するかも知れません。私の空腹を満たす為に、さぁ早く……!」
俺は言われるがまま、ボタンを押して店員を呼ぶ。そして一人ずつ、自分が食べる物を頼んだ。注文を受け取った店員が厨房へ歩いて行く、俺はその後ろ姿を眺めていると、
「女性のお尻ばかり見て、狡噛慎也は変態の極みですね。あーやだやだ、こんなケダモノがクラスの中にいるなんて。常に身の危険を感じずにはいられません」
コイツ、本当に何処にでも現れる。
持っている整理券の番号を呼ばれ、窓際のテーブルに案内されると、俺は一先ずトイレに行って席を外した。そして帰ってくると、何故か森下が座っており、坂柳と楽しく会話していた。
「狡噛君、顔が怖いですよ」
「……あぁ、悪い」
「とうやら狡噛慎也は体調が悪いみたいです。今なら注文をキャンセル出来ます。部屋に戻って休んだらどうですか? あっ、でもポイントは置いていって下さいよ」
「……坂柳、どうしてコイツを同席させたんだ?」
俺は不満な顔を隠さず、坂柳を咎めるような視線を向けた。
「狡噛君は、森下さんとは仲が良いと聞いていましたから。余計なお世話でしたか?」
「当たり前だ。つか、誰から聞いた?」
「橋本君ですよ」
あの野郎。余計な事言いやがって………。
「私と一緒に食事が出来て、狡噛慎也は照れているんですよ。そうでしょう?」
「…………」
俺は否定するのも面倒になり、何も言わずに窓の外へと視線を向けた。料理が運ばれてくるまでこうしていよう。
「ふふふ、狡噛君がこれほど嫌がるとは、
森下さん、貴方は一体彼に何をしたんですか?」
「皆目見当もつきません」
「それは困りましたね」
俺は外を歩く人々の姿と、窓ガラスに反射して映る彼女達の姿を交互に眺めていた。
「狡噛慎也もようやく、クラスメイトと同じく、坂柳有栖の命令を聞く従順な配下になったようですね」
チラッと森下が俺の方を見た。
「配下だなんて、私はクラスメイトをそんな風に思ってはいませんよ。森下さん」
「私は狡噛慎也ほどの使い道があるかどうかは分かりませんが、どうぞ良くして下さい」
「えぇ、こちらこそ宜しくお願いしますね」
坂柳がそう言い終えると、俺の袖に手を伸ばして何度かクイクイと引っ張った。
「そろそろ会話に混ざりませんか?」
「……あぁ」
俺はそう言ってテーブルの水を一口飲んだ。
「初めは、坂柳有栖、葛城康平、狡噛慎也、この三人の内の誰かがクラスを引っ張って行くものだと思っていました」
「柄じゃないと言った筈だが」
5月初頭、俺はクラスメイト全員にそう告げた。
「腹の内は誰にも分かりません。密かに企んでいるのかと考えていましたが、どうやら違っていたみたいです。狡噛慎也は、坂柳有栖の後ろを歩くのが好きなようです」
いつも一言多いなコイツは。
「俺は、誰かの上に立つ人間じゃない。誰かの下っ端くらいが丁度いいさ」
「最初の頃は狡噛慎也も人気があったんですよ。勉強会に参加していた者達は、狡噛慎也がリーダーでもいいとか言ってましたし」
勉強会に参加してたのは誰だったか………、
吉田や帆足あたりか?
「狡噛君はクラスメイトに慕われていますね。もしかして、本当にリーダーの座を奪いに来るとか?」
坂柳は、意地の悪い笑みを浮かべた。
本当の所はどうなんだ? と俺を揶揄うように。
「よしてくれ。俺にそんなつもりは無い」
「なら、坂柳有栖が退学した場合は?」
ピシッ、急に空気が張り詰めた。先ほどまでの軽い雰囲気が、一瞬にして消え失せた。それを引き起こしたのは、俺の隣に座る坂柳だ。
「森下さん。貴方は私の能力をお疑いですか? 私が間抜けにも誰かの策略に嵌り、退学の道に追い込まれてしまう、なんてお思いですか?」
坂柳は据わった目で森下を見つめていた。
「いいえ、そうではありません。気分を害したのなら謝罪します。ですが、この学校の性質上、いつ、どこで、何が起こるのか誰も予測出来ません」
森下は怯まず、ハキハキと喋り続ける。その不測の事態に、坂柳が不運にも巻き込まれることを森下は危惧しているのだろう。
「森下、お前の心配は分かる。だがな、そうならない為に俺や神室、橋本がいるんだ。俺達は坂柳の盾だ。坂柳の身に危険が降り掛かる前に、まず俺達が肩代わりする、それが役目だ」
俺は自分の役割を再確認するように、森下に言った。
「……素晴らしい忠誠心です。既に狡噛慎也の尻には尻尾が付いているように見えます。しかし、そう思っているのは狡噛慎也だけだと思います。誰もが他人のために自分を犠牲に出来ません」
今日はいつにも増して饒舌だな。確かに森下の言う通りだろう。誰だって自分が一番だ。災害に巻き込まれた時だってそうだ。他人の命より、自分の命を優先する。それが人間として、ごく自然な判断だ。
「たとえ神室や橋本が自分を優先したとしても、俺は責めたりはしない。俺がなんとかすればいいことだ。俺には何も無いんでな」
俺は空っぽだ。自分の物なんて何一つない。
すると、森下の見えない位置で坂柳が俺の裾をグッと掴んだ。
「森下さん、貴方の懸念は理解出来ました。改めて、そういった事態に陥らないよう最大限の注意するよう意識します。それと一つ、私が皆さんに指揮できない状態に陥った場合、代役として狡噛君を立たせます。このような答えで宜しいですか?」
坂柳は"退学する場合"とは言わなかった。坂柳自身、自分が退学するなんて毛ほども思っていない。そうでなくてはならない。坂柳にだって役割はある。あの綾小路に勝つという、役割が。
「はい。私は、坂柳有栖の能力を疑っているわけではありません。今までの発言を許して下さい」
森下はテーブルに手をつくと、そのままドゴッと額をテーブルにぶつけた。これには坂柳も目を丸くして驚いた。
「そこまでしてくださらなくても大丈夫ですよ」
「いいえ、これは私なりのケジメ。どうぞ、
ゆっくりじっくり舐め回すようにご覧下さい」
舐め回すってなんだよ。相変わらずよく分からん奴だ。その後、注文した料理を運んできた店員が、森下を変な目で見ていた。
レストランを出ると、森下は一人何処かへ走り去って行った。他に行く所があるんだと。
「ったくアイツは、食べたら直ぐに何処かへ行きやがって。何がしたかったんだ?」
「彼女なりに、クラスを心配しての行動なんでしょう。それに、2学期に入る前に、これからリーダーとして率いる私と会って話したかったのでは?」
「まぁ、そう言うことにしておくか」
俺は坂柳と共に、寮に向かって歩き始めた。
「一つ、許せないことがあります」
坂柳は立ち止まって俺に身体を向けた。そして手を伸ばし、俺のポケットに入っていた手を取り出すと、そのまま強く握りしめる。
「"俺には何も無い" ーーそうおっしゃいましたね?
確かに何も無いのかも知れません。しかし、それはあくまで今の段階の話です。これから先、狡噛君にとって大事な物がきっと見つかります。その為に、貴方はあの場所から飛び出したのではないのですか?」
坂柳は、真剣に訴えかける強い目をしていた。
「私の盾になると言ってくれたこと、本当に感謝します。ですが、私の駒だと言うのなら、私は貴方に命令を与えます。二度と、その言葉を使うことは許しません。それと、もっと自分を愛して下さい」
「坂柳………」
俺は、本当にどうしようもない。坂柳然り、鬼龍院然り、俺は大事なことを人から教えられてばかりだ。あの白い部屋の大人達からは、決して教えてもらえなかったことを。彼女達の言葉には、温かさがあった。
「もう言わない。約束する」
「言質、取りましたよ?」
坂柳はそう言い俺に微笑みかけてくる。
「あぁ」
本当にこの学校なら、俺は変われるかもしれない。
綾小路、お前も、もしかしたらきっとーーー。