中間テストの範囲が変更された。勉強していた部分が出て来ないとなれば、時間を無駄にしていたと生徒達からの不満の声が飛び交う。だがテスト当日まで十分な時間があるので、今から勉強しても遅くはないだろう。勉強会に参加する人間も増え、葛城を支持する者も総じて増えてきた。5月初日から比べて、支持する人間が逆転しただろう。お昼休み、俺は坂柳に「大丈夫なのか?」と言葉を伝えたが、問題ないと一蹴されてしまった。どうやら、余計なお世話みたいだったようだ。試験範囲に該当する部分を教科書でパラパラとめくったが、難易度はそう高くない。このAクラスなら無事に乗り越えられるだろうと結論付けた。そう、Aクラスなら。
「何辛気臭い顔してるんだよ、狡噛」
「橋本……」
「これからプールだってのによ」
制服を脱いでロッカーに詰め込む橋本。狡噛も制服のボタンを外して着替え始める。
「まさか高校生にもなって、プールの授業があるとは思わなかったな」
「……そうだな」
適当に会話を合わせる狡噛。橋本の口ぶりから推測するに、どうやらプールの授業がある高校は珍しいようだ。
「お、おい、狡噛」
狡噛が制服の中に着る白シャツを脱いで、上半身が露わになった時、橋本の様子がおかしくなった。
「何だ?」
「お前、スゴイ体してるよな」
橋本の視線は、狡噛の首から下へとゆっくり下がっていく。発達した胸筋、盛り上がった上腕二頭筋、綺麗に6つに割れている腹部、橋下が狼狽えるのも無理もない。橋本以外のクラスメイトも、狡噛の筋肉に目を奪われていたのだ。
「お前ら、そんなに見られたら穴が空きそうだ」
「いや、マジでスゲェって。男の俺でも惚れ惚れしちまうぜ。なぁ皆んな?」
橋本の呼びかけに、狡噛を除く男子生徒達は一斉に頷いた。
「流石、イケメンランキングで第1位をとった狡噛さんだぜ!」
「何?……イケメンランキング?」
そんなランキング、一体いつ行われたんだ?というか俺が1位なのか?
「知らねぇのか?1年生の女子達が俺たち男子に秘密で作ったランキングだよ。まあ、当人の耳に入らないのはよくある話だよな」
なるほど、裏でそんな順位が決められていたとはな。だが秘密にしているのに、既に男子に把握されているのは良いのだろうか?
「ちなみに根暗ランキングとか、メガネランキングとかあったぜ。あっそういえば、読書が様になるランキングにも、おまえの名前があったぜ」
根暗ランキングとは、何とも不名誉な称号だな。だが気になるのは、メガネランキングとは何だ?メガネはメガネじゃないのか?
「さぁ行こうぜ、狡噛」
「ああ………」
まだ疑問が残っているが、そろそろ時間なので更衣室から出ないといけない。
更衣室から出ると、女子達は既に学校が指定した水着に着替え終わっていた。女子は身支度が長いと聞いていたが、水着に着替える場合は例外なのか。
「なぁ狡噛、何がとは言わないが、絶景だな」
「………そうだな」
橋本の言わんとするとする事が、狡噛にも伝わったようだ。目の前に広がる光景に、男子達は釘付けになっていた。女子の布一枚という姿。いつもは見られない夏限定の姿。こんなにも興味をそそられる事はない。
「やっと来たな男子、早く集まれ」
体育の先生に呼ばれて、男子達は駆け足で集合する。狡噛達は、体育座りでその場に座り、先生から授業の説明が行われた。その間、女子の何人かは、狡噛の方をチラチラと見ては頬を赤らめていた。狡噛はその視線を鬱陶しいなと思いながらも、先生に耳を傾けていた。
「この中で泳げない者はどのくらいいる?」
先生がそう言うと、ポツポツと手が上がりだした。恥ずかしそうに上げる者もいる。
「何も恥ずかしがる事はない。この授業を何回かした後は、皆んなが泳げるようになっている。今から実演するからよく見ておくように」
そう言って先生はプールの中に入り、クラスの前で適切な泳ぎ方を見せる。狡噛は先生から視線を外し、ベンチで座っている坂柳を見た。退屈そうに足をぶらぶらとしている様子に、狡噛はフッと笑った。その後、狡噛達もプールの中に入り、泳ぎ方をレクチャーされた。
「狡噛……お前、中学は何をやっていた?」
先生に声を掛けられ、狡噛は一旦泳ぐのを止める。
「中学はバスケ部でした」
適当に嘘を吐く狡噛。何もしていないと言えば、先生に怪しまれてしまうためだ。
「そうか。しかしお前、良い体してるな」
先生は狡噛の体を上から下へ、また下から上へと目を動かしていた。何か身の危険を感じた狡噛は、再び泳ぎ始めて先生から距離を取った。
「よし、今日はここまでだ。授業のチャイムがなるまでの間は自由時間とする」
授業が終わるまであと15分ほどある。クラスメイトの大半は、プールに入ってはしゃいでいた。狡噛はその様子を、地面に座って眺めていた。
「狡噛くんはプールに入らないのですか?」
「ああ、もう十分だ」
白石は、狡噛の側まで近づくと隣に腰掛けた。
「私も疲れてしまいました」
「運動は苦手なのか?」
「ええ、体を動かすのは苦手でして。狡噛くんは、言わなくても分かります。得意そうですね」
白石は俺の顔ではなくその下、胴体の部分を見てそう言った。
「別に、可もなく不可もなくと言った感じだ」
「ご謙遜を。その身体を見れば誰であっても、私と同じ発言をするでしょう」
うふふと笑う白石。
「…………………」
狡噛慎也は、目の前の女子生徒、白石飛鳥が気になっていた。別に白石が好きだという話ではない。狡噛は気がついていないフリをしているが、白石は時々授業中に、狡噛を観察するような目を向けているのだ。それが狡噛には分からない。今もこうして笑っているが、その瞳の奥には、どんな反応をするか見ている、狡噛はそんな気がしてならないのだ。
「なぁ白石」
「はい?」
「お前…………」
狡噛が口を開いたその時、狡噛の顔に水が飛んできた。せっかく乾いてきた髪の毛がずぶ濡れになり、水が滴り落ちる。
「森下………おまえ何のつもりだ」
狡噛はプールの水を飛ばして来た森下を睨み付けた。
「無様ですね狡噛慎也。私の攻撃が避けられない程、白石飛鳥に夢中になっていた事が証明されました」
「チッ、せっかく乾いてきたってのに…………」
悪態をつく狡噛に、白石はまた笑った。チャイムが鳴り、今日のプール授業は終了となった。森下のせいで会話を遮られたので、白石の事は、また今度ということとなった。
それは夜の出来事だった。狡噛は夜風に当たりたいと思い、寮の外へ散歩していた。外の世界へ来て1ヶ月弱。変な学校に入学してしまったが、思いのほか悪くはなかった。普通の高校生活は送れそうにもない、というのが残念だが。
(あれは…………)
寮の外に設置された自販機の明かりが目立つ。その明かりに照らされ、一人寂しく佇んでいる人物を、狡噛慎也は知っている。昔からずっと。
「清隆」
狡噛に名前を呼ばれて、綾小路が振り向く。
「慎也、こんな夜にどうしたんだ?」
「散歩だ。お前こそ何してるんだ?」
「似たようなものだ………」
久しぶりに話した綾小路は、相変わらず無機質な目と抑揚のない声をしている。狡噛は変わりない綾小路にフッと笑う。
「Dクラスは大変そうだな。もしポイントで困っているならやるが?」
「いや、まだ大丈夫だ」
「そうか…………」
狡噛は綾小路と話しながら、自販機に売られている飲み物を眺めていた。別に買うつもりは全くない。
「友人は出来たか?」
「オレにできると思うか………?」
「前に図書館で勉強しているのを見かけたが、横にいた黒髪の女子は友達じゃないのか?」
「堀北のことか、アイツはただ席が隣というだけだ」
「堀北……?」
確かこの学校の生徒会長も堀北だった筈、単に苗字が同じなだけか?
「お前はこれからも、事なかれ主義を貫くつもりなのか?」
「それは……………ん?」
とても小さな声だった。夜は声が通りやすいと言うが、普通の人間なら聞き逃してしまうような声。だが狡噛と綾小路は、しっかりとその声が耳に届いていた。二人は互いに顔を見合わせ、声がした方へゆっくりと歩いていく。寮の建物の裏手にいたのは………
「待ってください、兄さん」
「鈴音、何度も言わせるな。この学校を去れ」
(生徒会長と…………あれは、清隆の隣にいた……)
入学初日に出会った生徒会長、堀北学。そして、その生徒会長を「兄さん」と呼ぶ女子生徒。その時点で、二人は兄妹である事を理解した。
「もう、兄さんが知っている頃の、駄目な私じゃありません。追いつくためにきました」
「追いつく、か。お前はまだ、自分の欠点に気付いていない。この学校を選んだのは失敗だったな」
「すぐに、Aクラスに上がってみせます。そうしたら、「無理だ」…………絶対に上がってみせます」
兄妹のデリケートな話をこのまま盗み聞きするのは良くないと思い、狡噛は気付かれないようにその場から去ろうとする。だが、綾小路に手を掴まれてしまった。
(清隆?)
綾小路は首を横に振る。「行くな」ということ。
「Dクラスに振り分けられた妹、恥をかくのはこの私だ」
堀北学は、堀北鈴音の腕を掴むと、そのまま学生寮の壁に押し付けた。堀北鈴音の顔が痛みによって歪んだ。
「お前には、上を目指す力も資格もない」.
堀北学は、右腕をゆっくりと上げ、堀北鈴音の腹部に打ち込む構えを見せた。その瞬間、綾小路が走り出し、あわやというところで、堀北学の腕を後ろから掴んで止めた。
「綾小路君!」
「アンタ、今本気で打ち込もうとしただろ。彼女を離せ」
このまま何事もなく終わるとは思わない。そう思った狡噛は、学校側から支給されたスマートフォンを片手に録画ボタンを押した。
「危ねぇっ」
堀北学の裏拳が、綾小路の顔目掛けて飛んできた。綾小路は一歩下がりこれを回避。続く急所を狙った鋭い蹴りが綾小路の髪を掠めた。堀北学の右手がまっすぐ綾小路目掛けて伸ばしてきた。掴まれば最後、地面に叩きつけられる。それを左手の裏ではたくようにして流す。
「そこまでだ」
狡噛の声で、綾小路と堀北学の動きがピタッと止まる。狡噛は三人に、特に堀北学に見せつけるようにして、スマホを掲げた。
「今の一部始終を動画で撮らせてもらった。生徒会長の暴力行為、これを学校に報告すれば、いかに生徒会長と言えど、処罰は避けられないだろうな」
「狡噛か………」
堀北学は、眼鏡をクイッとし狡噛を睨んでいた。そしてその視線を、狡噛から綾小路へと移す。
「良い動きだな。何か習っていたのか?」
「……ピアノと書道なら」
「ふん、ユニークな奴だな。鈴音、お前に友達がいたとは驚きだな」
堀北学は妹に話を振るが、首を横に張った。
「彼は友達ではありません。ただのクラスメイトです」
その返答に、堀北学はハァと軽くため息を吐いた。
「相変わらず、孤高と孤独の意味を履き違えているようだな。それから、綾小路と呼ばれていたな。お前がいれば、少しは面白くなりそうだ」
そう言うと堀北学は、綾小路と堀北鈴音から離れ、狡噛の方へ歩いていく。
「その動画は学校側に提出させるわけにはいかない」
「いえ、この動画は削除します。生徒会長の動きを封じるために撮ったものですから。よかったらご自分の手で」
狡噛は自分の端末を堀北学に差し出す。その行動に堀北学はフッと笑った。受け取った堀北学は、狡噛の端末を操作して動画を削除する。だが、空いている片手でポケットから自分の端末を取り出して、何か操作し始めた。
「狡噛、お前は甘い男だな。こういう時は、相手に何か要求をするものだぞ。この学校ではそれが常だ。覚えておけ」
操作し終えた堀北学は、狡噛に端末を返した。狡噛はそれを受け取ると、画面に表示されたのは、現在の自分のプライベートポイントの数値。その額は、35万ppまで増えていた。
「アンタ………」
「動画を削除する代わりに、プライベートポイントを支払ったという事にする。受け取っておけ」
堀北学は狡噛の横を通り過ぎて、去って行った。それを見送った狡噛は、綾小路と堀北鈴音の側に近づいた。
「俺はいらなかったんじゃないか?」
「保険だ」
「あ、あなた、誰なの?」
同じクラスメイト以外にも、自分の情けない姿を見られた事に、堀北鈴音は顔を歪める。
「後のことは俺がする。済まなかったな」
「そうか…………ならいいが」
狡噛は堀北を一瞥したのち、寮へと戻って行った。自分の財布が潤ったこと。狡噛としても嬉しい誤算だ。いつもよりも豪華な食事が出来るかもしれないと、心躍っていたのだった。