物心ついた時から、俺は自分が置かれた状況をすぐに理解した。この真っ白な施設で、自分が生き残るためにはどうしたら良いのかを。泣き叫んでも誰も助けてくれない。泣くことが無意味なことだとすぐに分かった。倒れた子供を大人達が連れて行く。連れて行かれたその先に、一体何があるのか、俺は考えたくなかった。単純に怖かったからだ。昨日まで横にいた奴が、明日にはいない。そんな日常が、俺は嫌で仕方なかった。だが俺には、選択肢など無かった。この残酷な世界を生き残るために、俺は周りにいる人間を全て蹴落とすつもりでいた。蹴落として蹴落として、最後に一人、俺が立っていればそれで良い。そうだ、それが正しい。それがこの世界の真理。そう思いたかった。そう思えれば、どんなに楽な事か。だが俺には、狡噛慎也には、感情を捨てる事は出来なかった。狡噛慎也には、『甘さ』を捨てる事は出来なかった。
「何をしている慎也。早くトドメをさせ」
「……………………」
目の前に、腹部を押さえて倒れ込んでいる子供。今まさに、俺が倒した子供だ。苦しそうな顔をしており、起き上がることも出来ない。もう終わりだ。
「先生、奴にはもう立ち上がる力はありません」
「だからどうした?徹底的に叩きのめし、意識を刈り取れ。早くしろ」
天井から、綾小路先生の声が聞こえる。あのガラス張りの場所から、俺のことを見ているのだろう。
「先生、これ以上無意味です。無駄な力を使うだけです」
俺は綾小路先生に反論する。だが先生は許さない。
「情けをかけるな、敵は完膚なきまでに潰すんだ」
「…………………」
俺はゆっくりと歩き始め、倒れた子供に近づいて行く。情けをかけるな、綾小路先生の言う通りだ。それは優しさではない、『甘さ』だ。その『甘さ』が、いつか俺の命取りとなり、倒れた奴と同じ運命を辿る。
「い、いあ……だ………や……だ………」
何か言っているが、俺にはよく聞き取れなかった。だが目からは、大粒の涙を流していた。それが全てを物語っていた。
助けて
俺には、そう言っているように思えた。だが俺には、その子供を助ける術を持っていなかった。だから俺は、せめて苦しまないように、優しく、その子供の意識を一瞬で刈り取った。死んではいない。眠りについた子供の顔が、年相応の顔に戻ったのは、俺の気のせいだろう。
「慎也、お前はまた、私の命令に逆らったな」
綾小路先生の怒りのこもった声が上から降ってくる。
「………すみません、先生」
俺はいつまで経っても、『甘さ』を捨てる事は出来なかった。何故、綾小路清隆には捨てることが出来て、狡噛慎也には捨てることが出来なかったのか。その答えが、いつか分かる日が来るのだろうか。
アラームが鳴る。昨日就寝する前にセットしたものだ。狡噛は、ゆっくりと瞼を開き、天井を眺める。
「嫌な夢を見た………………」
狡噛はベッドから起き上がり、洗面台へ向かう。顔をバシャバシャと洗い、鏡に映った自分と目が合う。
「………………………………」
狡噛は制服に袖を通し、玄関で靴を履く。朝食をとる気分にはなれず、早めに学校へ向かう。そういえば、今日はプライベートポイントが支給される日だった。狡噛はスマホを取り出し、支給されたポイントの額を確認するが、
「ポイントが振り込まれていない………?」
新たな波乱の幕開けである。
狡噛が教室に入ると、クラスメイトがザワザワと話していた。それを横目に、狡噛は自分の席に座ると、横から白石が声を掛けてきた。
「おはようございます、狡噛君」
「おはよう、白石」
「狡噛君、今月のプライベートポイントは支給されました?」
「いいや、振り込まれていない。クラスを見るに、皆も同じようだな」
学校側の何らかのトラブルが発生したのか?Aクラスだけ?それとも、もっと広範囲に及んでいるのか?
「皆、席に着いてくれ」
ホームルームが開始する鐘の音と共に、真嶋先生が入室して来た。
「先生、今月のポイントが振り込まれていません」
クラスの一人が、手を挙げて発言した。真嶋先生は頷いて口を開く。
「皆知ってるだろうが、今月のプライベートポイントの支給が、1年生全体で遅れている。済まないがもう少し待っていてくれ」
どうやら1年生のみに、このトラブルが起こっているようだ。
「真嶋先生、このトラブルの理由は何ですか?」
次に葛城が挙手して真嶋先生に質問する。
「それを話すことができるのは、明日、または明後日になるだろう」
その後、つつがなくホームルームが終わり、授業が始まる。狡噛は、教卓に立つ先生の説明に耳を傾けつつ、今回のトラブルが何なのか、思考を巡らせていた。
(学校全体ではなく、1年生だけに起こったトラブル。これは、学校側の問題なのか、それとも生徒側の問題なのか……………)
狡噛は放課後、次に読む本を探すために図書館を目指して歩いていた。中間テストも終わり、生徒達が羽を伸ばしたいと思う時に限ってこのトラブル。不満の声はチラホラと聞こえていた。生徒達が不満を持つ大きな理由は、娯楽にポイントを使えないこと。遊び盛りの若者にとっては、それが何よりの痛手だろう。
「狡噛慎也、待ってください」
「森下」
狡噛は内心、面倒くさいのが来たな、と思っていた。後ろから森下が追いかけて来たのだ。
「何のようだ森下?」
「暇です、構ってください」
「知らん。他を当たれ」
再び歩き出した俺だったが、森下が腰に抱きついて離れなかった。
「オイ、離れろ森下。歩きにくいだろ」
「ひーまーでーすー」
お前は幾つなんだ?必死にしがみつく森下に俺はため息を吐いた。途中、すれ違う生徒達が、俺と森下を見て何やらヒソヒソと話している。あらぬ噂を立てられるのはゴメンだ。
俺は足を止め、振り返って森下と向かい合う。
「フッフッフ、ようやく足を止めましたね狡噛慎也。これも私の計算通りです」
「……森下、お前は読書は好きか?」
森下が何か言っているようだが、俺は軽く無視して問い掛けた。何か不満気な森下だが一言呟く。
「普通です」
「そうか、普通か………まぁいい。これから図書館に行くんだが、着いてくるか?」
「なるほど、狡噛慎也は私と一緒に図書館へ行きたいと。仕方ありませんね、この藍ちゃんが着いていってあげましょう」
「………………」
呆れた様子の狡噛は、スタスタと廊下を歩いて森下を置いて行こうとする。それに気づいた森下は、狡噛の歩くペースに合わせるため、歩幅を大きくして後ろから追いかけるように歩いて行った。
図書館では、私語は禁止とされていないが、騒がず、なるべく小さい声での会話を心掛けるよう、出入り口の側の看板に書かれているのだが、
(森下は、騒がないでいることが出来るのか?)
ついてくる森下の方をチラッと確認する狡噛だが、森下は図書館入った時から一言も発せず、ただ後ろをついてくるだけ。流石の森下にも、マナーを守る良心があったのかと感心した。
(さて、何を借りるか……………)
本棚にぎっしりと詰まった本の一つ一つに目を配る狡噛。何を読むか探すこの瞬間も、狡噛には楽しく思える。ふと狡噛は立ち止まり、ある一点を見つめる。そしてポケットから手を伸ばし、本を取り出した。
「何ですかそれは?」
訊ねてくる森下に、狡噛はタイトルが書いてある本の表紙を見せる。
「恩讐の彼方に」
森下は本のタイトルを読んだ。そう、俺が手に取った本は、菊池寛による短編小説『恩讐の彼方に』だ。
「それを選んだ理由は?」
「いや、特に理由はない。一度読んだことがある本、というだけだ」
森下は俺の手にあるその本を覗き込んで見ていた。
「気になるなら読んでみるか?」
俺は森下にその本を差し出す。森下は、俺と本を交互に見ていたが、ゆっくりと手を伸ばし、本を手に取った。
「面白いですか?」
「この本に限らず、面白いかどうかは読み手によって違う。お前自身が読んでみないと分からない」
その後、狡噛も借りる本を手に取り、係員に手続きをしてもらうために受付に向かうと、そこに生徒会長、堀北学の姿が。
「狡噛か」
「堀北先輩」
生徒会長と会うのは、あの日の夜以来か。
「お前は本を借りに来たのか?」
学は狡噛の手に持っているを本見てそう言った。
「はい。先輩もですか?」
「いや、俺は返しに来ただけだ」
学はチラッと俺の横にいる森下に視線を向けた。森下はすぐに頭を下げる。学はそれを見て視線を外し、再び俺を見た。
「入学して3ヶ月程経ったが、この学校はどうだ?」
「早くも後悔しています。俺は平穏な学校生活を送りたかった。それはアイツも同じです」
狡噛は不満な気持ちを吐露する。アイツ、というのは綾小路の事だと学はすぐに理解した。
「そうも言ってられないぞ狡噛。お前は必ず、争いの中に身を投じることになるだろう。聞いたところによると、お前のAクラスは今、派閥争いが行われているとか」
「俺はどこの派閥にも所属していません」
「一匹狼か……今はそれでもいいが、今後戦いが激化すれば無関係ではいられなくなる」
「やけに俺を争いに参加させたいようですね?」
「争いは、自然とお前の方へ近づいて来る。その時になっても、同じようなことが果たして言えるか?」
見つめあう両者。先に視線を外したのは学である。用が済んだようで、踵を返して図書館を出て行った。狡噛は、学の姿が見えなくなるまで、彼の背を見つめていた。
「堀北学、中々の凄みを感じました。ですが、この藍ちゃんを恐れをなして、どこかへ行ってしまったようですね」
「……………………」
Aクラス 1004 cp
Bクラス 663 cp
Cクラス 492 cp
Dクラス 87 cp
翌日、朝のホームルームにて、ポイントが支給されなかった理由を、真嶋先生がクラスの生徒達に説明した。
「先日、学校でCクラスの生徒とDクラスの生徒の間にトラブルがあったようだ。端的に言えば喧嘩だ」
ざわざわし出す教室。
「訴えたのはCクラスだ。一方的に殴られたという事らしい。だが、Dクラスの生徒はこれを否定した。Cクラスの生徒に呼び出され、喧嘩を売られたと。だが証拠が無いため、学校側は目撃者を探している状況だ。何か知っていたら、職員室まで来て欲しい。以上だ」
暴力事件とは、清隆も大変だな。このトラブルの結果次第で、クラスポイントが削減されることもあるのか。やっとクラスポイントが87にまで増えたのに、0に逆戻りする可能性もある。
「皆、少し良いだろうか?」
真嶋先生が教室から出ると同時に、葛城が席から立ち上がった。そしてクラスメイトにこう呼びかける。
「CクラスとDクラスで起こった問題に、Aクラスは関与しないことにしたい。たとえ、目撃者探しに手伝って欲しいと言われても、拒否してくれ」
狡噛には葛城が考えていることが読めた。今のAクラスの現状としては、他三クラスから追われている状態にある。そんな中、下位ニクラスの争いに首を突っ込むメリットは無い。助けても一文にもならないからだ。
「葛城君の言う通りです。コチラとしても、他クラス同士が潰しあってもらう方が好都合です。下手に温情をかけても、彼らからは何も返ってきません。何か言って来ても、無視して頂いて結構です」
この瞬間、葛城と坂柳の意見が一致したことによって、Aクラスはこの問題に関与しないことが決定された。反対意見など出よう筈もない。
狡噛は放課後、日用品売り場に足を運んでいた。ティッシュやシャンプー、トイレットペーパー等がそろそろ無くなるので補充として買いに来たのだ。
(ん?)
狡噛は買い物中、足に何かが当たった感触を覚えた。視線を下に落とし、足元を見ると、
(熊?)
アクリル板の熊のストラップが落ちていたのだ。狡噛は熊のストラップを拾うと、周りを見渡した。しかし、狡噛の他に学生の姿は見られなかった。
(店員に預かってもらうか………)
狡噛はレジで商品を買った後、店員に熊のストラップを渡し、寮へと戻った。
真嶋先生から暴力事件の事を聞かされてから、二日が経った日のことである。狡噛が昇降口で靴を履き替えていた時、後ろから誰かが声をかけて来たのだ。
「あのー、ちょっと良いかな?」
狡噛は、靴をしっかりと履いてから後ろを振り返る。そこに居たのは、ピンク髪の女子生徒であった。狡噛はこの女子生徒に見覚えがあった。
「Aクラスの狡噛慎也君だよね?私、Bクラスの一之瀬帆波、よろしく」
「ああ、よろしく」
一之瀬帆波、Bクラスのリーダーでありながら、他クラスの生徒との親交もある人物。クラス内での人望は厚く、困っている人を、クラス構わず手を伸ばし助けようとする善意の塊。橋本からそう聞かされていた。
「俺に何か用か?」
「えーとね、私、暴力事件の目撃者を探しているんだけど、Aクラスの狡噛君は何か知っていることはない?」
Bクラスが何故、目撃者探しているんだ?
「いや、済まないが分からない」
「…………本当に?」
一之瀬は少し溜めてそう言った。
「…………どうしてそんな事を聞く?」
「ええっと、それは…………」
俺が言い返すと、一之瀬は困ったように視線を逸らす。なるほどな、この短い会話で、何故一之瀬が俺に接触して来たのかが分かった。
「他のAクラスの生徒には、相手してもらえなかったか?」
「あ、あははー、まぁそうなんだよね」
図星のようで、一之瀬は無理に笑って返答した。
「俺に接触して来たのも理解できる。俺がAクラスの中で、特殊な立ち位置にいるからな」
狡噛だけが唯一、二つの派閥のどちらにも所属していない。ちなみに森下は坂柳の派閥である。
「そこまで分かっちゃうかー、流石Aクラスの生徒だね」
「残念ながら、俺は何も知らない。それに、今回の暴力事件で、Aクラスが裏で糸を引いていたり、なんて事も無い」
「そうなんだ……ありがとう、教えてくれて」
別に大した事は言っていないが…………まぁいい。だが、少し疑問に残ることがある。
「俺から一ついいか?何故、Bクラスの生徒のお前が、暴力事件の目撃者を探すのを手伝っているんだ?」
「それはね、頼まれたからだよ。Dクラス生徒に」
「頼まれた?………何故引き受けたんだ?」
「え?」
そんな事を言われるとは思わなかったのか、一之瀬は目を丸くしている。
「敵対しているクラスに塩を送る真似をする理由はなんだ?」
Aクラスと同じく、Bクラスもこの件に関与する理由がない。
「クラスは関係ないと思うの。こういう事件は、いつ誰に起こるか分からないよね?しかもこの事件、冤罪の可能性もあるらしいの。嘘をついた方が勝つなんて大問題だよ。個人としても見過ごせないかなと思って」
俺は一之瀬を観察する。嘘をついているようには見えない。本気でそう思っているのか?
「……………聞いていた通りの人間だな」
「き、聞いていた通りって?」
「お前の人柄だ。誰であっても手を差し伸べる優しさを持っている、素直に尊敬する」
善意の塊、橋本から聞いた時は、本当にそんな奴がいるのかと思ったが、世の中にはいるようだな。まぁ、俺は外の世界に来て日が浅いから、そう思っているのかもしれないが。
「そんな尊敬なんて……これくらい普通のことだよ」
謙遜して笑い返す一之瀬だったが、その瞳は、何処か違うところを見ているようだった。一瞬だが影を落としたように見えた狡噛。
「…………一之瀬、少し質問してもいいか?」
「何?」
「例えば、お前がバスに乗っているとしよう。乗客はお前だけじゃなく、全ての席が埋まっている状態だ。お前も席に座っている一人だ。そんな時、一人の老婆がバスに乗車して来た。席が埋まっているので、仕方なく吊り革を掴んで立っていた。だが、その老婆は立っているのがキツそうな状態だった。一之瀬、お前はその時どうする?」
「そんなの、席を譲るに決まっているよ」
即答だった。考えるまでもない。そんな感じで一之瀬は俺の質問に答えた。
「そうか、流石だな」
「流石って、当然の事だよ」
何を当たり前なことを?という感じで首を傾げている。
「どうやらこの世界は、一之瀬が思う『当然』が出来ない人間の方が多いようだ。その時、優先席に座っている人間は、目の前の老婆に譲ろうとはしなかった」
「………それでお婆さんはどうしたの?」
「最後は見るにみかねて俺が席を譲った」
一之瀬が俺の言葉を聞いた途端、クスッと笑った。何かおかしな事を言ったか?
「私の事を尊敬するって言っていたけど、狡噛君も私と同じだよ。困っている人に手を差し伸べる、優しいし、それでいて素敵な事だよ」
「…………………………」
一之瀬には、俺が優しい人間に見えるのか?だがそれは節穴だ。俺は優しい人間ではなくて、『甘い』人間なのだから。
「ごめんね、時間取らせちゃって。あ、もし良ければなんだけど、連絡先を交換しない?」
「俺でいいのなら」
狡噛はポケットから端末を取り出して、一之瀬と連絡先を交換することになった。段々とアドレス帳に人が増えてきた。これが青春というものだろうか。
「じゃあね、狡噛君」
立ち去って行く一之瀬。狡噛はその後ろ姿を見つめていた。Bクラスの生徒、そのリーダーとの出会いは、狡噛に何をもたらすのか?
「なずな、良かったね。ストラップが見つかって」
「うん、これ気に入ってたんだ。落とした時はどうしようかと思ったよ」
手に握られたのは熊のストラップ。今度は落とさないようにしっかりとカバンに結びつける。
「それで、見つけてくれた生徒は分かったの?」
「まだ分かんない。けど、店員さんは一年生って言ってたよ。去年まで見た事ない顔だったからって」
「一年生って言うけど160人もいるよ。性別は?」
「男子生徒だって。後、めっちゃイケメンって言ってた」