「む」
「こんにちは、アンアン。変わりないかな」
「・・・うむ。久しいな」
「ああ」
アトリエに顔を出したヒロは、変わらずそこに居座っていた少女に挨拶した。
曰く、ヒロの出迎えには直前まで乗り気だったのに、ノアがいざ連れて行こうとしたところでやっぱり面倒だと突っぱねたらしい。
肝心なところで若干ものぐさなのは彼女の相変わらずなところだ。
しかしアンアンはヒロのその姿をみとめるや、普通に心配そうな顔をした。
『なぜやつれている?』
「・・・ああ、ちょっとね」
端正だったヒロの髪の毛はぼさぼさで、整正だった服はよれよれだった。
やや嗄れた声でヒロが応じたところで、横からひょこっとノアが顔を出す。
「ヒロちゃんね、さっきまでファンのひとたちに囲まれてたんだよ~」
「・・・なるほどな」
アンアンは得心がいったと頷いてから、心の底から同情しているという風に、もう一度頷いていた。
「・・・ここは比較的、静かなところだ。ゆっくりしていくといい」
「ああ、そうさせてもらうよ・・・と言いたいところだったんだが」
ヒロの声色が変わったのを耳聡く察知したのか、アンアンは早速目を逸らした。
「マーゴやノアから既に聞いてはいたんだが、本当に酷い有様だな」
『善処はしている』
「これでか」
「・・・ぐぬぬ」
ヒロが言及したのは勿論、アトリエ内の散らかり具合についてだった。
机の上にはノアの落書きやアンアンの下書きが積み重なり、床にはそれらの失敗作であるくしゃくしゃに丸められた紙が転がっていた。
壁や床そのものが汚されていないのはせめてもの慰めだったが、それでもその隅々には細かいゴミや埃が目立つ。
「整理整頓は正しさの第一歩だ。何より生活環境は清潔に保たなければ体調はもちろん精神にも響く」
「うぅ・・・」
「・・・ということで、捨てられたくないものがあるなら後で拾っておくことだ」
「・・・?」
縮こまっていたアンアンは、怪訝そうに顔を上げた。
ノアもまた不思議そうな目でヒロを見上げていたので、ヒロは頷いて先を続ける。
「今日のうちに私が片付けておく」
「・・・いいのか?」
その説教が思わぬ短さで終わったことに、喜んでいいのかどうか分からないという顔だった。
結局不安だったのか、恐る恐る機嫌を窺うような上目遣いでそんなことを訊いてくるアンアン。
ヒロは肩をすくめて言った。
「マーゴからは、あまり叱ってやるなと言われたよ。屋敷での生活では君達なりに、誰の迷惑にもならない程度には分別を弁えているからと・・・な、ノア」
言ってちらりと見やれば、ノアは恥ずかしそうに微笑んでいた。
共用スペースに落書きをして回る悪癖のあったノアだが、マーゴ曰く以前に比べれば随分と鳴りを潜めている、らしい。
今は絵の練習に専念しているというのもあるのだろう。
とはいえ、偶に芸術心が自制心を負かせ、部屋の一部をカラフルにする事はあるそうだが。
「他の少女達にも概ね好評だからと言われてしまえば、もう部外者の私に怒る権利はないからな・・・他ならぬ君達の屋敷なのだし」
「・・・わがはいは、ノアの色使いには物申したいところはあるが」
「え~」
「・・・それは君達に解決を任せるよ」
嘆息して、ヒロは二人を軽く宥めながら言った。
「ともかく、君達に手伝えとは言わないが、今日は私が私のためにここの掃除をする。嫌だとは言わせない」
「わーい。ヒロちゃん、ありがと~」
「か、感謝する」
「だが何度も私はここに来ないし、マーゴ任せも正しくない。二人とも甘えないように」
「はぁ~い」
『善処はしている』
「・・・まったく」
片や呑気に手を挙げて宣うノアと、さっきと全く同じページを取り出して見せるアンアン。
手のかかる少女二人に呆れ半分の笑みを返しつつ、ヒロは腕を捲るのだった。
そして、掃除も半ば。
ヒロはふと拾い上げたものに視線を落とし、首を傾げた。
「これは?」
「あ、それアンアンちゃんのだ」
「う、落ちていたのか・・・縁起が悪い。そこに置いておいてくれ」
ややしょげてアンアンがそうぼやく。
一方、ヒロは他の雑多な紙片とは違う雰囲気を持つそれに少し興味を持った。
「随分と分厚いが・・・手書きの束?」
「アンアンちゃんは小説を書いているんだよ~」
「ほう・・・ちょっと読ませてもらっても?」
アンアンは少し意外そうな顔をして、次いでやや恥ずかしそうに視線を泳がせたものの。
それでも既にある程度の自信作ではあるのか、最後は挑戦的な目つきになって頷いてみせた。
「・・・構わない」
掃除の途中で見かけた書物を開いて時間を浪費する、ありがちな失敗である。
そんな愚行は本来ヒロなら正しくないとするところだが、アンアンの手書きというのなら、この屋敷に居る間しかお目にかかる機会がないのも確かだ。
ぱら、とめくると、そこには試行錯誤の末に紡がれたであろう、物語の断片が緻密に書きこまれていた。
ほお、という感嘆の吐息が漏れて、ノアが自分のことのように頷いてみせた。
「すごいよねぇ、アンアンちゃん・・・難しい表現いっぱいで、のあは読むと目が回るけど」
「これは、実際凄いな。ゆくゆくはどこかに出版を?」
「・・・ふん、あくまで趣味の範疇だ・・・が、誰も知らない離島に住む謎の文豪として名を馳せるのも、わるくないな」
この牢屋敷から本が出せるのかは正直未知数だが、そう語るアンアンは誇らしげだった。
ただ、ノアがそこでどこか不貞腐れたように言った。
「でもね、冒頭で
「・・・・・・ほう」
「のあ、あんまり
ちょうどそのページに目が留まり、真顔になったヒロに、アンアンはあくまで自慢げに語ってみせる。
「物語には意外性が必要だ。衝撃の展開でまず読者の心を掴むべきだろう」
それには頷いて、しかしヒロは意見した。
「いや、まったく正しくない筋書きだ。書き直しを要求する」
「話が丸ごと変わってしまうではないか?!」
貴様はどの立場で言うんだとアンアンは憤慨していたが、ヒロはそれに文句をつける正当な権利がある気がしていたのだった。