彼方に憧れて -1-
綺麗な満月だ、と思った。
外灯もないので普段は真っ暗闇になる監獄島も今は、いつもより大きく明るいその月に照らされ、瞳に藍色の夜景を返している。
こういう日は散歩をすると心地いい。
星見カナタがそう思い立って外に出向いたのが、十分ほど前。
そうして特に何も考えず気ままに夜を謳歌しようとしていたカナタは今、島の外周で。
牢屋敷をぐるりと取り囲む石の塀を物憂げに見上げていた、一人の少女を見つけたのだった。
「・・・」
彼女の名前は、琴宮ルカ。
普段の言動、そして先日のちょっとした出来事によって、この島では割と知られる人物である。
知る少女達にとっては、賑やかな人、というのが恐らく共通認識。
しかし今、月明かりの下で独り立ち尽くしている彼女の様子は、そうした印象とは全く違った雰囲気を纏っていた。
カナタはその相手の様子、そしてこうして夜中の外で誰かに会うというシチュエーション自体を珍しく思って、声をかけてみることにした。
「こんにちは、ルカさん」
「ひゃいっ」
彼女はまさか誰かに声をかけられるとは思っていなかったのか、びくりと肩を跳ねさせて身をすくめていた。
それまでどことなく儚げだった面持ちは慌ててこちらに向き直った時には崩れていて、カナタに気づくとひどく狼狽していた。
そして彼女は暫く慄いていたが、それでも、しどろもどろに言葉を紡ごうとする。
「え、あの、えっと・・・」
その視線をカナタの頭のてっぺんから足の爪先まで何度か往復させて、それでなんとか落ち着きを取り戻したらしい。
・・・あるいはもしかしたら、カナタを幽霊かなにかと疑っていたのかもしれない。
「・・・ごめんなさい、どちらさま?」
どうにか屋敷に住む仲間の一人とは認識してくれたようだったが、ルカはカナタのことを知らないようで、ほんの少しの警戒を残したままそう問いかけてくる。
自分は中でも特に目立たないので無理もない、とカナタは別に気にすることもなく。
対してカナタは努めて落ち着き払った微笑みを浮かべてみせ、深くお辞儀をして言った。
「星見カナタと言います、よろしくお願いしますね」
「あ、カナタさん、ええと、はい、これはご丁寧に・・・」
素直にお辞儀を返しかけたルカは途中で、ちょっと不審そうに眉を寄せていた。
「って、なぜ私のことを知っているの?」
あなたは有名人ですから、という言葉を飲み込んで、カナタはただ微笑む。
「広くはない島で、もう結構な時間を共に過ごしていますから」
「そ、そう・・・そう言われると逆に知らなかったのが申し訳なくなるけれど・・・」
「いえ、私は影が薄いので」
どう反応したものか困った様子で曖昧に頷くルカ。
カナタは内心、またやってしまった、と思いつつ、興味のままに口を開く。
「ところで、こんなところで何をされていたんですか?」
「え?」
「もう規則はありませんが、夜間にこの塀に近づくのは・・・ともすると、なにか勘違いされてしまったりしませんか?」
「あ、ああ・・・そうね、ちょっと迂闊だったかも・・・」
ルカは塀にもう一度視線をやってから、ばつが悪そうに頬を掻いていた。
彼女は以前に島を脱走しようとした前科があり、そのせいでマーゴら管理体制側には要注意人物扱いされてしまっている立場だった。
カナタは特になんとも思っていないが、見る人が見れば、ここに居る彼女の姿は何か色眼鏡で見てしまうかもしれない。
「普段からよくここに来るんですか?」
「まあ、たまに。今日は夜でも明るいし」
同じ理由で散歩を思い立ったカナタは頷く。
今は二人とも塀に近すぎるため、月は半分ほどがその向こうに隠れてしまっている。
それでもその月光はカナタとルカの顔を照らしていて、塀の影がちょうど自分達の上半身を横切り、その身体を斜めに切り分けていた。
目を眇めて、ルカが言った。
「ちょっと、思いを馳せていたというか」
「というと・・・外に?」
「ええ、まあ・・・心配しなくても、思っていただけだから。外の世界は今頃どうなっているのかなあって」
なんということもないように言う彼女に、カナタはむしろ首を傾げることになった。
その様子が、それまで彼女に抱いていた印象と少し異なっていたからだった。
「島を出ることは考えていないんですか?」
「それは・・・」
そのまま口をついて出たカナタの疑問を受けて、ルカは少し気まずそうに口ごもった。
塀を見つめていた視線は、ゆっくりと壁面に沿って上向いていき、再び月へ。
すると僅かばかり、いつもの調子を取り戻した横顔で、彼女は答えた。
「私は、あの同じ月の下にヒロ様が眠っておられると思うだけで・・・それで良いっていうか」
なるほど、とカナタが頷けば、そこで会話は終わりだっただろう。
最初にこの島を離れた少女、二階堂ヒロに彼女が入れ込んでいることは勿論カナタも知るところだったし、その台詞はいかにも彼女らしいものだったから。
しかし。
普段そういう時に彼女が見せるはずの
「ちょっと、らしくないですね」
「え?」
意識したことではなかったらしく、ルカは呆けてこちらを見る。
対してカナタは感想の続きを口にする。
「貴方は、一刻も早く島を出たいと息巻いていると思っていました」
「それって・・・いや、それ、どういう意味・・・?」
名を知られていたこと以上に怪訝そうな顔をするルカ。
その疑わしげな態度の内訳は、何故そう思ったのかではなく、何故そんなことを口にするのか、という疑問の方が割合多くを占めているようだった。
実際ルカ目線でのカナタの台詞は、よく知らない人に面と向かって急にそんなことを言われたら、馬鹿にされているか、さもなくば喧嘩を売られているかと勘繰るのも無理のないものである。
しかしカナタからするとその答えは、正直なところ。
言葉を選ばず、思ったことそのままを何の加工もせず出力しているに過ぎなかった。
「自分の【好き】にどこまでも正直な、貴方の行動力には見習いたいものがあると思っていたので」
聞いて、ルカは目を丸くする。
依然として、何故そんなことを口にするかという疑いは残っているようだったが、しかし。
カナタがまったく何の衒いも無く、真顔で言ったせいもあってか。
それが純然たる本心から出た、飾らない本音だ、ということは伝わったらしかった。
「・・・そんなこと言われたの、初めて」
ほう、と息を吐いて、ルカは肩の力を抜いていた。
面映ゆさを誤魔化しているつもりか自らの頬を軽くつまみながら、彼女は視線を泳がせる。
「らしくない、か・・・そうかも」
「知ったような口を利いてすみません」
「いやほんとにね」
今更ながらの謝罪にルカは素直に笑っていた。
カナタは知る由もないが、それは琴宮ルカが珍しく見せる、彼女の素の姿だった。
「正直ね、ちょっと諦めていたの」
手を後ろに組んで、彼女は敢えて明るい調子で言ったのだった。
「私はこんなだし・・・私はもともと、人と直接関わるのがとても怖くて」
そうして、彼女はその理由も語ってくれる。
かつてルカが持っていた魔法は人の感情を操るものだったが、自分に向けられるそれには使えなかったのだという。
同じく人付き合いが得意とは言えないカナタには、よく分かる。
それはやがて、嫌われることへの恐怖だけを大きく育てていったのだろう。
「だからヒロ様が遠くに行ってしまったことには、私・・・逆に安心していたのかも」
「そうだったんですか・・・でも、バレンタインの時には」
「あれは後先考えてなかっただけなので!」
今や本人にとっても黒歴史らしく、慌ててカナタの言葉を遮ったルカは両手を挙げて降参の意を示していた。
カナタが素直に頷いて引き下がると、ルカは気を取り直すように言った。
「・・・憧れるって、その人に近づきたいって気持ちとはイコールじゃなくて・・・むしろ遠い存在だからこそ憧れるっていうか」
「分かる気がします」
「偶像化って言うのかな・・・あのね、私も分かってるの」
と、そこで首を振るルカ。
まだ何も言っていないカナタを先んじて制するように、彼女は言う。
「今を生きてて、望んでもない人に勝手にそんな気持ちを抱くのは変だって。
「それは・・・」
そうした気持ちを抱いたことのないカナタは、それを肯定も否定もできなかった。
少なくとも、聞いていて別に悪い事だとは思わなかったけれど、と。
カナタは自分がもう少し口が上手ければ、そう答えられたかもしれないとも思ったのだが、
しかしどちらにせよ、それも本人にとっては違うようで。
「そもそも結局、それは別に推しとかじゃなくて、誰に対しても変わらなくて・・・だから今更この島を出ても、絶対、苦労の方が多いだろうなって」
そうして紡がれた言葉は、それが彼女にとって長く抱えているものなのだと気づかせるに十分な重みを持っていた。
「私は、嫌いなものはもちろん、好きなものでさえ、遠ざけていたい。そうしていなきゃって思っちゃうのが多分・・・私の【禁忌】だから」