綺麗な満月だ、と思った。
あえて人と被らない時間帯を狙った、遅い夕食と風呂。
それらを終えて自室へ戻ろうとしていたところ、ふと空を見上げてその明るさに気づき、そのまま暫くぼんやりと月を見つめていた。
何かを綺麗だと思える情緒が、まだ自分の内にあったとは。
数分も経ってからそんな気づきを得て、ふっと自嘲して視線を外す。
そんな感傷に浸ることそのものは、くだらないと思ってしまう。
そうして、自身が寝泊まりするゲストハウスのドアに、手を伸ばした時のことだった。
「こんにちは、ダリアさん」
背後からかけられた声の主を想起して、牧島ダリアは振り向くべきか、無視するべきかをたっぷり五秒は黙考した。
「・・・またあなたなの」
努めて冷たい視線をやって、努めて固い口調で応えを返したダリアは、そこに後ろ手を組んで立っている人物を見下ろした。
そいつが浮かべている表情を見咎めて。
明るい静かな夜だったのに、とダリアは嘆息した。
そんなダリアの溜息を受けて、明石ナナは敢えて朗らかに挨拶した。
「先日はどうも」
いつもと変わらないにこやかな笑みを浮かべてみせる。
対するダリアもまたいつもと変わらず。
一片の笑みもない無表情だ。
「・・・何の用?」
「冷たいなあ。僕と君の仲じゃない?」
「私とあなたの仲だから何の用かと訊いたの」
にべもない。
肩をすくめて、ナナは正直に己の用事を告げる。
「別に用というほどのことは。ただ外が明るいなと思っていたら、そこに君を見かけたから」
「見かけたからここまでついてきたの?」
「探偵は気になったものがあれば追いかけるのが習性だからね」
なんて悪趣味な、とダリアの顔に書かれていく様子までナナには見える気がした。
「私の・・・私の何が気になったっていうの」
「寂しそうな背中に見えたってところかな」
「余計な、お世話、よ」
はっきりと区切った一語ずつに、力の限り苛立ちが込められていた。
それでもナナは、むしろ笑ってしまった。
そうして分かりやすく感情表現してくれる様は、一周回って以前より親しみやすく感じてしまったのだ。
牧島ダリアとこうして話すのは、マーゴに依頼され、固く閉ざされていた彼女の心に踏み入って以来のことだった。
その時のやり取りを思えば、こんな軽口を叩いても無視されたり物を投げつけられたりしないだけ、彼女の態度は優しいと言えるだろう。
確かに彼女は渋面いっぱいに嫌厭の意を示し、ナナを鬱陶しそうに見ている。
しかしそれは暗く隠れていた彼女の顔が、今はよく見えるということでもあった。
その瞳には炎も闇もなく、ただ丸く小さく、月の光を映していた。
ナナはダリアが今入ろうとしていた場所、三つ並んだゲストハウスのひとつを見上げて、口を開く。
「屋敷であまり見かけないと思っていたけれど、ダリアさんはここに住んでいたんだね」
「・・・そうよ。あなたに知られたくはなかったけれど」
「こんな時間になっても中に人の気配がないってことは、もしかして一人暮らし?」
「悪い?」
別に悪くはない。
ただ、少女達の住まいは人数が人数なので、牢屋敷内の各所、ちょっとでもスペースがあればそこを活用し、必要に応じてシェアしているような状態だった。
今でこそある程度の人数が島を離れたために多少マシになったが、当初はまさしくぎゅう詰めといった感じで、方々から不満が出たのもむべなるかな。
ラウンジや娯楽室の割合柔らかいソファで寝られる子がいる一方、牢屋や懲罰房などを使う羽目になった子が大反発したのはまあ当然で、妥協案として交代制になったりした経緯がある。
そして中でもゲストハウスは別荘みたいな趣があるので人気だったのだが、それを一棟独占しているとは中々に贅沢な身分だ、とは思った。
「お隣の
「はじめは・・・はじめは
そこでほんのちょっとだけばつが悪そうに視線を滑らせ、ダリアは言った。
「・・・追い出したわ。私と居ると気が滅入るそうよ」
「なるほど、分かるよ」
「あなたも追い払われたいの?」
苦々しそうに吐き捨ててから、ダリアは視線を落としていた。
ナナはその元同居人に同情しつつ、一方でダリアのことも気の毒に思った。
彼女はここ最近までとても他人に気を配れるような状況ではなかったので、そういうトラブルは避けられなかったのだろう。
「今は・・・今は少しは、反省しているわ」
「誰彼構わず棘々しく拒絶したことを?」
「やっぱり私あなたのこと嫌い」
「ごめんごめん、でも探偵は嫌われることには慣れていてね」
「だからそういう・・・はあ、もういいわ」
一瞬見せた怒りはすぐに萎んで、彼女は溜息を吐いていた。
ナナは肩をすくめる。
最初に会った時に比べれば、やはり彼女の態度は多少なり軟化しているように思えた。
それはどちらかといえば、感情を沸かせるだけの燃料を失ったという方が近いのかもしれないが。
そこでナナは、っくしゅ、と、不覚にもくしゃみを一つ。
夜の秋風は冷たく、ナナは厚着をしてこなかったことをやや悔いる。
すると。
「入る?」
「・・・えっ?」
ナナは素で訊き返した。
彼女は一瞬言ったことを後悔したような顔をしつつも、しかしその手はドアノブの方に伸ばされ、視線はナナの方に向いている。
「ダリアさんが?僕に?自室に入ってもいいって?」
「・・・」
つらつらと形容されてダリアは凄く嫌そうな顔をしたが、それでも意を翻すことはしなかった。
「だって・・・だってあなた、立ち話で満足するようには見えないから。私だって風邪をひきたくないもの」
「僕が風邪をひいたら看病しなくちゃいけないし?」
「ぜったいにしないけれど・・・いいから、入れば」
つっけんどんに言って、ダリアはそのまま扉を開け、ゲストハウスの奥へと入っていってしまった。
なんとも。
ナナは驚き半分、感動半分の半笑いを浮かべたまま、その招待に預かることにしたのだった。