綺麗な満月だ、と思った。
散歩に付き合えとの主の命に従って、笹名塚ツキはいつものように、彼女の影として付き添っていた。
その主人、漆御門ヒメコはなにぶん奔放な人であるので、どこへ行くかは彼女の気分次第。
そしてその彼女が今回立ち止まった場所は湖のほとり。
そこには黒々とした水面に、ぽつんと金色の輝きが一つ。
水月。
そして見上げれば、また同じ大きさの金色がもう一つ。
夜空と湖面、どちらも真黒に月と星を散りばめたその景色は、まるでそこだけ天地の境が無くなったかのようだった。
「神秘じゃのう」
「はい」
吸い寄せられるようにヒメコが歩いていくので、裾が濡れないようにツキがぎりぎりのところで立ち止まらせると、彼女はそのまましゃがみ込んでしまった。
濡れるとはいかずともいくらか土を擦った気がするのだが、我関せず。
今夜の主人は大変機嫌が良いせいで、服が汚れることは特にお構いなしのようだ。
仕方なくツキも横に寄り添って、共に空を見上げた。
「いまどきの都は明るすぎて、月はともかく星が見えんらしいぞ」
「・・・そう聞くと、この島のような場所も悪くないように思えますね」
「うむ。この島の空気は、妾たちの住んでいた所によく似ておる」
その言葉に閉口したことには、ヒメコには勘付かれていないようだった。
確かにここの雰囲気は良く似ている。
俗世と隔たれ、永く変わらないものだけが纏うことの出来る、古い気配。
海に囲まれていてごく僅かに潮っぽいながら、澄んだ自然の、清い気配。
そしてここでは数多の死があったらしい牢屋敷から発されるのか、どことなく薄暗く淀んだ、因縁めいた気配も。
幻想的に煌めく湖とは反対に、闇より黒い影となって夜景をくり抜いている牢屋敷を、ツキは見る。
自分達は例外的にそこに感傷は無いのだが、そこでなにがあったのかは聞いていた。
「どうかしたのか?」
「いいえ」
特に何も言わないツキを少し不思議そうに伺うヒメコに、首を振る。
ツキにつられて屋敷を眺めていたヒメコが、なんとなしに湖に視線を戻そうとしてその途中、ふとそこに広がるものを見やって言った。
「そういえば、もうすぐ収穫の時期じゃな」
「はい」
そこにはこれまた主人の意向でツキが主導した、畑と田んぼがあった。
どうにか形にして、種を植えるに間に合ったのは秋野菜の時期がぎりぎりのところだった。
そして幸いにして、協力的な他の子らの日々の世話もあってその生長は問題なく進んでいる。
「感謝しておるぞ、ツキ。おぬしが率先して畑を整えてくれたおかげじゃ」
「必要なことでしたから」
宝生マーゴの提案然り、主人の命令然り、それは本当に必要なことだったと思う。
自身の知識と蓄積が役立てたのなら、苦労があろうとも悪い気はしない。
そして多少誇らしくとも、努めて涼しげに当然と嘯いてみせるのが、ツキの思う従者たる態度だった。
「ほおん・・・そういうのを、
「はい?」
「いやなに、皆が使う片仮名言葉はややこしゅうてな」
「ああ、ええ」
蘇生した少女たちの中でも、いっそう飛び越えて古い時代の出身であるヒメコ。
マーゴがやっている社会学の授業にて、彼女が頻出する横文字に悪戦苦闘しつつ、その言葉自体には随分と興味津々であることをツキも知っていた。
「くーる。恰好良いという意味じゃな」
「おおよそは」
「うむ。ツキはまさしくそれじゃ。誰もがよく姫の
「
「お、おう、すまぬ」
うっかりツキの地雷を踏みかけたヒメコはひきつった笑みでこくこくと頷いている。
ツキは真顔で頷いて、次いでまた薄く浮かべた笑顔に戻る。
横文字と言えば、とその呼び水にそれは、今のツキにも都合のいい話題だった。
「姫様、言えるようになりましたか?チョコレート」
「・・・チヨッコレェト」
「78点ぐらいですね」
「おい従者、主を採点するとはどういう了見じゃ」
「70点にします」
「何故下げる?!」
分かりやすく憤慨している主人の様に、ツキはわずかばかり笑みを深くする。
ツキとてまったく馴染みのない言語には戸惑いを隠しきれずにいるのだが、その傍らでどの単語も楽しそうに繰り返すヒメコには意外な驚きを覚えるとともに、ある種の励みになっていたりもするのだった。
「ぬう・・・近頃は供して貰えんから舌が回らんのじゃ」
「関係ありませんよ。それにあれは嗜好品ですから、バレンタインのように特別な日だけにしてください」
「ぐぬ・・・」
「此処で虫歯や病気になったら悲惨ですよ。聞きましたよね」
「うぐ・・・」
こと現代医学に比してはまったくの無知と言えた二人も、生活習慣病なるものについて叩き込まれた。
他の子たちにとって窮屈なこの島であっても、二人にとってはこの時代はあまりにも生きやすい環境である。
故にむしろそのせいで「偏った食生活や菓子類」というものに我が主が堕落しやすいだろうことは容易に想定できたので、その辺りは特にツキからも厳しくしていたのだった。
ヒメコはすっかりしょげていた。
「ちよっこ、食べたいのう・・・」
「特別な日であれば良いですよ」
「じゃがあの祭日は年に一度じゃと・・・」
大体そこまでの話の流れはツキの予想の通りで。
彼女がそれを忘れていることも、予想の通りだった。
つまりちょうど用意していたそれを渡すには、良い頃合いなのだった。
「姫様、これを」
「む?」
手渡したのは、銀色の紐で結わえられた、淡い水玉色の巾着。
中には、件のもの。
「・・・ちよっこではないか」
ヒメコはすんと鼻を鳴らしてカカオの香りに気づき、当惑気味にそう呟く。
次いで視線を上げればその顔は、まだ分からない様子だったので。
ツキは微笑んで言った。
「御誕生日おめでとうございます」
「・・・おお!」