子ども心に、悟っていた。
いつしか
それよりも、考え方を変えることにした。
ハクロは薬術の高位者、彼からしか学べないことは多いのだ。
それは正しく、ハクロに師事することで、毒術の表側とも言える薬術や治癒術、医療に触れることができた。
ハクロが龍の位、さらに
その一方、その頃の青にとっての毒術の学び舎は、藍鬼の小屋だった。
藍鬼が遺した書物や材料や道具の数々、積み重ねられた知と技の断片――それらは、当時の青にとって唯一の、毒術の師であった。
朱鷺との出会い、それは新たな可能性との邂逅でもあった。
「毒は火力になる」
朱鷺の言葉を耳にした瞬間、文字通り、青は頭の中で頑丈な錠前が解かれる音を聞いた。
同時に、なぜ、今までその考えに至らなかったのか。己の発想力のなさを呪うほどだった。
神通術への苦手意識が、自らの思考を閉ざしていたのかもしれない。
術と毒の融合――その研鑽に伴い、青の製薬技術も飛躍的に向上した。
喉から手が出るほどに望んでいた火力、実戦での有用性、さらなる利便性を求めるため、毒薬、毒物の学びにのめり込む。
結果、自ずと年齢にそぐわない造詣《ぞうけい》を深めていった。
朱鷺に
ひとつは、左腕の「鍵」の痛みが、以前にも増したこと。
発作のように訪れる、皮膚の奥を焼くような痛みのきっかけは、不規則であり、体調との
しいて言えば、それが「任務の最中」であることが多い。
もうひとつの異変は、術と毒を掛け合わせた際、発動した術が漆黒へと転じるようになったことだった。
朱鷺の手本とは明らかに異なる。
青が繰り出した術が、
「一師……」
思い悩んだ末、青は朱鷺に相談を持ちかけた。
「最近どういうわけか、
青が虎の位へ昇格して間もない頃。
師弟は、生体調査のため
道中、青の問いに、朱鷺は面の嘴を小さく震わせ、ふっと笑う。
「ふふ……焦げたって……お料理の失敗みたい……」
「やはり、何か失敗しているのでしょうか……」
「え??」
「え??」
師弟はそろって疑問符を撒き散らし、自然とその場に足を止めた。
「……詳しく」
長い嘴の面が、ゆっくりと片側へ傾いた。
「は、はい。つまり、一師のような深い緑ではなく、汚泥のような濁った色や、真っ黒に変容してしまうのは、術の融合に失敗しているからではないかと……。ですが、何が悪いのかが分からなくて……」
「……シユウ君、それ……」
「は、はい……!」
師弟は向き合ったまま、しばらく沈黙した。
「あぁ……そう……」
やがて朱鷺がぽつりと呟く。
嘴が大きく上下に揺れた。
「……自覚、なし……」
「ど、どういうことですか?」
青が前のめりになるほど、朱鷺の面がじりじりと後退していく。
「教えたほうがいいのかしら……でも、規則違反になる……? いや、そもそも……」
「あ、あの、一師……?」
困惑する青を置き去りに、朱鷺は身体を揺らしながら独り言を続け、くるりと背を向けた。そのまま地面に腰を下ろすと、黒い外套がふわりと膨らみ、さながら
「……ごゆっくり」
こうなってしまうと、朱鷺が「戻って」くるまで待つほかない。
朱鷺の独り言をかき消すように、
青はふと、陽だまりに群れ咲く女郎花《おみなえし》に目を留めた。
乾燥させれば、
「また薬を作って、届けに行こう」
青は折にふれ、こうした家庭薬を作っては、南の森の陣守村へ届けていた。
それは自然と藍鬼から引き継いだ、ささやかな習慣だった。
「あのね」
唐突に、「戻って」きた朱鷺が、くるりと身を翻した。
「は、はい!」
青が振り向くと、長い
「シユウ君、それは――」
*
「ほう……」
青の「言い訳」がひととおり終わり、月
白玄は初めから一切の動きを崩さず、ただじっと、青を見据えていた。
張り詰めた空気の中、山吹が
「つまり、だ」
湯呑みを離した山吹の口元で、薄布がふわりと揺れる。
「朱鷺から毒と術の掛け合わせを学んだことがきっかけで、お前さんは無自覚に秘術である『呪毒』を発動させるようになっていた、と」
「
任務報告書でたびたび記載のあった、「黒い毒水」や「水術の黒龍」。発動した術に色と性質の変異が生じるのが、その特徴だ。
呪毒は法軍において秘術扱いとなっており、禁書にのみ、その記述が見られる。
そして禁書の閲覧が許されるのは、総合職位なら特士、技能師では龍以上に限られた。
「それで、朱鷺は、お前さんにどう説明したんだい」
ゆっくりと湯呑みを卓へ戻し、山吹は
「……えぇと」
まるで悪戯《いたずら》を
闇の性質は、毒の効力を増幅させる。
例えば、六花のような腐敗を促進させる毒薬には「腐食」「崩壊」「消失」。
痺れをもたらす毒薬には「束縛」「侵蝕」「無力化」、など。
闇と毒、その性質は相似し、結びつく。闇の性質を具現化させたものが毒物、毒薬であり、故に闇の里・
「ですから、毒物や毒薬の効能と成分をつぶさに把握し、何が闇のどの性質と結合しやすいのかを常に模索し、開発、製造、材料選択の段階から突き詰めることが肝要……と、ご教示くださいました」
青の声に重なって、山吹が深く息を吐く。
「禁書の内容、そのまんまだねぇ……」
諦めにも似た乾いた笑いが、山吹の口元からこぼれた。
「あ、いえ、朱鷺一師は禁書の秘術であるとは一言も――」
「中身をしゃべっているのだから、同じことだろう」
慌てて否定しかけた青の声を、低い声音が遮る。
白玄が腕を組み、じっと青を見据えていた。
「……仰る通りです……」
青は目を伏せる。言い訳の余地は、ない。
「まったく、あの子は……」
山吹は
その表情には、呆れと同時にどこか楽しげな様子も滲んでいた。
「私も龍の位を賜り、禁書を
青は、慎重に言葉を選ぶ。
「そりゃそうだよ。だから禁書っていうんだ」
「ふっ……」
白玄が、どこか
「毒術の奴らは問題児が多くて、飽きが来ないものだな、山吹殿」
「やかましいよ、白玄」
頭巾の影で、山吹の眉が跳ね上がった。
「……事情は分かった。そんなことだろうとは思ったがね」
一息をはさみ、山吹は改めて青へと向き直る。
「もう、分かってきただろう。その『鍵』の役割を」
その声音は、問いかけというより、確信をもって導く者の響きを帯びていた。
「藍鬼がお前さんに印刻術を施した時、符を使っていたはずだね」
別れの日、小屋の前で――あの時、藍鬼は青の手を取り、腰の道具袋から、一枚の符を取り出した。
それを青の腕に貼り付け、上から手のひらを強く押し当てる――直後、焼けるような激痛が走り、鍵が刻み付けられた。
「それはね、ハクロの光を封じ込めた符。ホタルが作ったものだ」
山吹が続ける。
「ハクロの光をもって、お前さんの闇の性質を封じ込めるためのものさ」
「……あの符が……」
青は、そっと左腕を撫でる。
毒術の神麟が教え、薬術の獅子が持つ光の力を、式術の獅子が符に封じ、そして毒術の龍が刻んだ。
それぞれの道を極めんとする技能師たちの技と、力と、想いが込められている。そのすべてが結晶となり、十数年ものあいだ、青の左腕に息づいているのだ。
「それほどまでに師しょ……藍鬼一師も、ハクロ特師も、私が毒術の道を選ぶことを望まなかったのでしょうか……」
幼い頃に抱いた疑念を、いま改めて問い直す。
「そりゃあね。今の毒術師道を思えば」
山吹の声音には、わずかに苦みが滲んでいた。
「茨に覆われた険道……さらにその頂きは死地、そこへみすみす弟子を送り込もうなんて、どこの師匠が思うんだい」
「……」
青は押し黙る。
己も今や龍の位に就き、後進を導く立場となった。
藍鬼やハクロが何を思い、何を案じていたのか――かつては見えなかったものが、少しずつ輪郭を持ちはじめている。
「……だけどね、弟子の成長を願わずにいられないのも、師ってやつなんだよ」
山吹が言葉を切り、深く、長い息を吐く。
「――さて。お前さんは、どうする?」
山吹の声音が、改まった響きを帯びた。
さらりと衣擦れの音が微かに響き、ゆるりと持ち上がった袖が、青の左腕を指し示す。
「その『鍵』、無理くりに引き剥がすこともできるが……どうしたい?」
「え……」
思いがけぬ提案に、青はわずかに息を呑む。
無意識に、左腕を庇うように右手で抱き込んでいた。
「お前さんが禍地とやりあえるかどうか。可能性があるとすれば、その闇の力の強さと、その性質をいかに使いこなし毒術の精度と火力を高められるか……だと、わたしらは考えている」
山吹の声が、静かに青を試すように響く。
「鍵を消して力を解放したところで、果たして藍鬼の見立てを超えるのか、それとも及ばぬのか……分からんがね」
「禍地特師に抗《あらが》えるかどうか……?」
その名を唇が呟くごとに、青は腹の奥で熱が灯るのを感じた。
袖《そで》越しに触れた二の腕の皮膚には、まだ薄らとみみず腫れの感触が残る。
卓を挟んで黙していた白玄が、口を開いた。
「凪
「こ、このままで……!」
反射的に口をついた言葉に、青ははっと息を呑む。
思わず左腕を守るように身を引いた。
「これは……私にとって御守りみたいなものなのです」
別れの日から、「鍵」は青にとって藍鬼との唯一の繋がりであった。
その時々の体調や気分によって表情を変える印が、まるで自分を見守る眼差しのように思えた。
そして今、その中にハクロの力も刻まれていると知る。
「……そうかい。それが良い」
山吹と白玄が、ちらと視線を交わし合う。
薄布と、白銀の髪が、わずかに揺れた。
「だがね」
卓の上に添えられている袖から、細い指先がのぞき、小卓を軽く叩く。
「『漏れ』方を見る限り、時間の問題かもしれない」
禍地に対して青が
その時、全身から湧き出すように表出した、黒い靄。
「鍵の効力が衰えているわけではないんだ。お前さんの闇が、ハクロの光と藍鬼の術力に拮抗しはじめているのさ」
「……
左腕を庇《かば》うように抱いた青の指先に、自然と力が
「藍鬼は、お前さんが己を超えるかどうか、それに賭けたのだろうね」
それは、印刻術の指南を乞うため、藍鬼が庵を尋ねたあの日のこと。
いずれ「鍵」は破られるかもしれない。
そう忠告した山吹へ藍鬼が返した言葉は
――そうなれば、俺の勝ち。
「……」
青は言葉を失ったまま、口を開けていた。
「お前さんが他の道を歩んだならば、それも藍鬼やハクロにとっては本望。毒術を選んだとて、その『鍵』が破られない限りは麒麟誅殺適任者には選ばれることはない。だけどもし、お前さんがそれを破ったとしたら……」
己が斃《たお》れようとも、弟子が己を超える毒術師へと成長したならば――それすなわち、禍地に対する勝利宣言なのだ。
「それならば……ますますこの鍵を、誰かに外してもらうわけにはいきません」
青は左腕を押さえる手に力を込めた。
「これは、私が麒麟を目指すに相応しいかを測るもの。己の力で破らなければならない」
言い切った青の瞳を、頭巾ごしの山吹の視線が、じっと見つめる。
「その日こそ、お前さんにとって真の独り立ちとなるのかもしれないね」
鍵を解く先にこそ、麒麟への道が開かれるのだ。
「ちょいと癪《しゃく》に障《さわ》るが、朱鷺のしてやったりな顔が思い浮かぶようだよ」
山吹は、あーやれやれ、とぼやきながら、籐椅子へ深く身を預けた。自然に白玄が土瓶を手にとり、山吹の湯呑みへ新たに薬湯を注ぐ。
「年寄りのくせに喋りすぎたな」
「うるさいよ、そっちだって中年だろうに」
二人の神麒麟の憎まれ口の応酬を、青はどこか現実感のない心地で聞いていた。
この庵を訪れて、まだわずかな刻しか経っていない。
それなのに、胸の内を何度も掻き乱され、過去に封じ込めた記憶と想いが次々と引きずり出された。
同時に、これまで置き去りにしてきた疑問や葛藤の数々が昇華されたような、穏やかな晴れやかさがあった。
「……これまでに歩んだ道と……これから進むべき道が、鮮明に見えてきた気がします」
青は静かに、長く、聞こえない息を吐き出す。
気持ちが凪いでくるごとに、薬湯の草の香が、淡くやさしく満ちていくのを感じた。
「ああ、そうだ」
淹れたての薬湯を一口
「近々、ハクロを訪ねるといい」
「ハクロ……特師……っあ」
新たな記憶が、青の眼前に蘇る。
――君が龍となり、力をつけたその時には
――ゆっくりと話をしようぞ
獅子に昇格したその日、朱鷺の見舞いに駆けつけた医院内で、ハクロと交わした約束。
神麟・山吹、そして神麒・白玄に目通りがかなった今であれば、ハクロもその約束に応じてくれるだろうか。
「はい! 必ず」
来訪した時よりも回復した青の顔色に、神麒麟の二人は目を細めた。