毒使い   作:キタノユ

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ep. 52 早春の白露(2)

 渡り廊下から気配が近づき、控えめな声が響いた。

 

「お話し中のところ、失礼いたします。七重塔より、至急の伝令です」

 受付の医療士の声だ。

 

「……?!」

 卓上の地図に視線を落としていた青とハクロは、同時に顔を上げた。

 青は素早く額当てを引き、覆面を整える。

 

「何事だ」

 ハクロが問うと、閉ざされた引き戸越しに、医療士の落ち着いた声が続いた。

 

峡谷豺狼(きょうこくさいろう)上士がご来訪です。シユウ一師に、ただちにご同行を願いたいとのこと」

「峡谷上士が……? あ……」

「それは大変だ。すぐに行きなさい、青」

 

 椅子から身を浮かせた青の背を、ハクロの即答が押し出した。

 

「も、申し訳ありません……では」

 青は立ち上がり、椅子の傍らに置かれた床机の上から、畳まれた外套(がいとう)と刀を掴み取る。

 

「すぐに出ます。峡谷上士にお伝えください」

「承知しました」

 

 医療士の声が、玄関の方向へ遠ざかった。

 装備を身につけ、最後に外套を羽織る。青は手際よく身支度を整え、最後に目の前のハクロへと改めて向き直った。

 

「今日は……お会いできて良かったです。また、伺ってもいいですか」

 地図や紙で散らかったままの卓を名残惜しく一瞥(いちべつ)し、青は遠慮がちに妖鳥の面へ眼差しを向ける。

 

「もちろんだ。気をつけて行ってきなさい」

 師の深い頷きに、胸の奥に張った緊張が解けた。

 

「……はい」

 ふと思い立ち、青は覆面を顎下へ引き下げた。

 口元に笑みを湛える。

 妖鳥の仮面からも、微笑が返ったように感じた。

 

「では、失礼します」

 

 深く頭を下げ、青は迷いなく踵を返した。

 覆面はそのままに。

 

 渡り廊下へと駆けていく弟子の背を、ハクロは静かに、最後まで見送っていた。

 

 

「――悪い、急に」

 長廊(ちょうろう)を抜けた先、玄関口に豺狼の姿があった。

 青の姿を認めると、半歩、間合いを詰める。

 

「式を送るより、走った方が速いと思ってさ」

 碧い瞳が、一瞬、覆面を下げた青の口元を見やった。

 

「大丈夫。何か緊急事態が?」

 青は玄関に揃えられた脚絆鞜(きゃはんぐつ)へ素早く足を通し、一動作で金具を締める。

 

「翡翠の陣守村へ同行してほしい。事情は道中で話す」

「翡翠へ……?」

 

 青は息を呑んだ。

 医院を飛び出す前に振り返る。

 受付の医療士は、いつの間にか姿を消していた。

 

「分かった、すぐに――な、なに……?」

 青は足を止める。

 豺狼の視線が、自分の口元あたりに注がれていることに気づいた。覆面は顎下へと下げたままだ。

 

「顔色、良くなったな」

「そりゃあね」

 青は自慢げに頬を撫で、指先で肌の弾力を確かめる。

 

「薬術の神麒様の治癒と、麒麟・ハクロ特師お手製の滋養酒入り薬湯のおかげで」

 

 たった数日で、肌には艶《つや》が戻り、血色もよくなっている。自身でもその変化がはっきりと分かるほどだった。

 

「うわ、豪華。特士だってそんな待遇(たいぐう)、なかなか受けられないぞ」

 

 豺狼の端正な顔が、子どものようにくしゃりと緩んだ。釣られて青も「ふは」っと笑う。

 

「やっぱり半分でも見えると分かりやすくていい。今日はそのままでいろよ」

 満足げに頷きながら、豺狼は玄関の引き戸を開ける。

 

 早春の冷気が微かに入り込み、新たな季節の気配を帯びた風が、二人の頬をかすめた。

 

 

 翡翠の陣守村へ到着してみれば、まず耳に流れてきたのは、慌ただしく行き交う士官たちの声だった。

 

「こっちだ」

 先行した豺狼が外へと抜け、青も後に続く。

 

 堂の出入り口を守る若い警備兵の一礼へ、青は片手を軽く挙げて応じた。青の濡羽色(ぬればいろ)の外套の裾が、翡翠の春風に煽られる。

 

 石畳の道の両脇に並ぶ四阿《あずまや》の下では、駐屯兵や士官たちがせわしなく動き回っている。指示を飛ばす声が飛び交い、事態の収拾に追われていた。

 

 張り詰めた空気が辺りを覆い、ただならぬ事態の到来を物語っている。

 

 前回の訪問時には、どこか花見でもしているような和やかさが見られたが、今日はさながら全ての四阿が軍議場と化していた。

 

 机の上には大判の地図が広げられ、各所に設置された掲示板は、びっしりと紙で埋め尽くされている。

 士官たちは深刻な表情で書面を見つめては、声をかけあっていた。

 

「……あれは?」

 

 転送陣の堂を構える敷地を抜け、石畳の遊歩道を過ぎた先の、農村風景が広がる畦道《あぜみち》。

 その左右に、前回は目にしなかった小さく簡素な天蓋(てんがい)が、点在していた。

 

「避難してきた翡翠の人々だ」

「あぁ……」

 

 この光景には見覚えがあった。

 滴りの森の、難民村のそれに似ている。

 

 道中に豺狼から受けた説明によると、露流河(つるがわ)およびその支流に次々と異変が発生したのだという。

 急激な氾濫《はんらん》で流された村もあれば、未知の獣や妖に襲撃された集落もあるとのこと。

 

「この辺りでは棲息していないはずの爬虫属(はちゅうぞく)が、目撃されるようになっている」

 

 兵舎前広場に設置された本部の巨大天幕で、一色上士から改めて詳細が伝えられた。

 机上には翡翠を中心とした広域地図が広げられ、目印用のコマがいくつも置かれている。

 それぞれの地点には被害状況を記した書き付けが添えられ、紙面には各所の被害状況が、荒い筆致《ひっち》で記されていた。

 

「……南から北上してきた蜥蜴(とかげ)属でしょうか」

()の事変を、知っているのですね」

 地図を見つめる青の低い呟きに、一色が即座に応じた。

 

 机を囲むのは――チョウトクを代表し、隻腕(せきわん)東雲天陽(しののめてんよう)准士。

 翡翠開拓隊から、猪牙上士と獣血人の檜前(ひのくま)准士。

 

 久方ぶりの顔ぶれではあったが、再会を喜ぶ余裕はない。

 挨拶もそこそこに、一色を中心に、机上の地図を囲んだ軍議が始まっていた。

 

「支援任務で、滴りの森の難民村を訪れたことがあります」

 

 青は、そこで蜥蜴族の襲撃を受けたこと、長から聞いた炬の現状と、翡翠の真南に位置する黒緋(くろあけ)ノ國との関係性、および河の下流の枯渇(こかつ)現象――それらを簡潔に説明した。

 

 一色は頷き、地図の数ヶ所を順に指し示す。

 

「現在、支流を含めた河川周辺で、被害の出ていない集落に士官を派遣し、地元の自警組織と協力して警邏(けいら)を強化しています」

 

 翡翠のような小国において、防御環境が整った集落は稀だ。

 露流河の支流沿いの山間や深森には、小規模な村々が点在し、それぞれが心許(こころもと)ない自衛手段のみで生き延びている状況だ。

 

「幸いにも、自発的に周辺地域と連携を取ろうとする村落もあります。ここは比較的、自警組織が整っていて――」

 

「……」

 青と豺狼の視線が交錯(こうさく)する。

 一色の指が示す場所――それは、かつて青と豺狼が元チョウトクの自警団長・コウと出会った村だった。

 

 机を囲む天陽へと目をやりそうになる衝動を抑え、青は意識的に一色へと顔を向ける。

 

「解毒薬や解呪要員は足りていますか。相手が爬虫属となれば、強力な毒を持つ個体が多いはずです」

 

 青の問いに、一色は頷きながら帳簿を手元から押し出した。

「まさに、そこを相談したかったのです、一師」

 青は帳簿を受け取り、表紙を(めく)る。

 そこには、翡翠で活動する隊に支給されている解毒薬、解毒符、解呪符の在庫数と支給状況、さらには解呪を扱える「毒術・乙」以上の資格を持つ士官の名簿が記されていた。

 

「毒術師が足りない……ですね」

 書面に目を走らせながら、青は額当ての下で眉間に皺を寄せる。

 

 陣守村に常駐する治癒師、薬術師や医療士はいるものの、各地に派遣される隊に随行(ずいこう)できる人材の数が、あまりに心許ない。

 

「何人か、後輩に心当たりがあるので、早急に当たってみます。それから、解呪符の備蓄(びちく)も不足していますね。こちらも追加手配を進めます」

「ありがたい……!」

 

 心から安堵した様子の一色を前に、青も内心で胸を撫で下ろした。

「心当たりのある後輩」とはすなわち、この三月(みつき)ほどで指導を施してきた後輩毒術師たちに他ならない。

 

 不摂生に体を壊しかけたものの、死に物狂いで鍛えた日々は無駄ではなかった。

 青は静かに息を吐き、改めて帳簿に目を落とした。

 

「俺たちはどう動く? 一ヶ所ずつ村を巡るのも効率が悪そうだが、そうするしか無ぇか……。人が足りねぇな」

 

 地図と睨み合いをしながら、猪牙が低く唸る。

 

白狼(はくろう)ノ國から、増援の一隊が翡翠に向かっています」

 一色の指が、地図上で大きく西へ――「狼の背骨」へと移動する。

 

「猪牙上士と峡谷上士隊には、白狼隊との連携をお願いしたいのです」

「うおっ!?!?」

「!?」

 

 青たちの驚きの声は、猪牙一人の大音量に吹き飛ばされる。

 

「ってこたぁ、話はまとまったのか??」

 猪牙が地図の上で腕を組みながら、にやりと笑みを浮かべた。

 

 冬の始まりである睦月、白狼ノ國の王は凪へ書状を送った。

 

 使者として陣守村へ派遣されたのは、王の実子である狩莅(しゅり)(はく)

 書状はただちに凪の長・玄瑞(げんずい)の手に渡り、上層部で慎重に検討が進められていた。

 

 長の下した決断は「段階的な関係性の構築」。

 

 まずは白狼と翡翠の間で国交を活性化し、凪は『翡翠の親交国として、翡翠の外交施策を支持する』との公式見解を示す。そうすることで、婉曲的(わんきょくてき)に翡翠を介し、白狼との国交を醸成(じょうせい)していく方針が採られた。

 

 これは、蒼狼をはじめとする以西(いせい)の國々との摩擦(まさつ)を避けるための策でもあり、白狼、翡翠の両国もこの決定に理解を示したという。

 

「今回の白狼による『人道支援』は、翡翠と白狼間における外交施策の第一歩といったところでしょう」

 一色が冷静に言葉を添える。

 

「そうかそうか、良い春風が吹きはじめてるじゃねぇか」

 猪牙の豪快な笑いに似つかわしくない(たと)えだが、翡翠開拓隊を率いた彼にとって、この報せが感慨深いものであることは明白だった。

 

 青はわずかに視線を横へ滑らせ、豺狼の横顔を窺った。

 その端正な面差しには、どこか複雑な色を帯びた微笑が浮かんでいる。

 

「では、私は一度、都へ戻ります。さっそく、毒術師の追加派遣の手続きを――」

 そう告げ、青が机を離れかけた、その時。

 

「――あ……お待ちください」

 檜前の低く抑えた声が、青を引き留めた。

 机を囲む全員の視線が、一斉に大柄な檜前へと注がれる。

 

 檜前は、ゆっくりと顔を西へ向けた。

 開け放たれた窓の方へと鼻を微かに鳴らし、鋭敏(えいびん)な嗅覚を研ぎ澄ませる。

 

「雲類鷲《うるわし》准士が、こちらへ向かっています」

「ということは、そろそろ白狼の一隊が到着される頃か……」

 一色が窓辺へ歩み寄る。

 

 視線の先、西の稜線(りょうせん)を越え、一つの影が疾駆(しっく)するように飛来している。天光を浴びた巨影は、大翼を折り畳み、風を裂くように急降下した。

 

 誰からともなく窓辺から距離を置く。開け放たれた窓から、疾風と共に巨大な(わし)が舞い込んだ。

 強靭(きょうじん)な翼がひと()ぎされると、羽毛の小片が室内に舞い散る。

 

 巻き起こる風が(つむじ)を描く。

 その中心で、大鷲は青年――雲類鷲准士へと変じた。

 

 全速力で翔んできたのか、床に片手をつき、荒く肩を上下させながら息を整えていた。

 

「ソラ、どうした。白狼隊はそろそろなのか」

 檜前が声をかける。

 雲類鷲は荒い呼吸を無理やり飲み込み、ぐっと背を伸ばして立ち上がった。

 普段は涼やかな表情を崩さぬ彼が、今は汗に濡れた黒髪を乱し、額に細かな滴を浮かべている。

 

 異変を察して押し黙った面々へ一礼すると、雲類鷲は大股で地図を広げた机へと歩み寄る。

 

「ただちに、露流河中流へ隊を派遣してください……!」

 その声は切迫していた。

 

「何があったのです」

 一色が問いかける。

 その声音は冷静だ。

 

「これまでと比較にならない巨大な爬虫属の妖魔の出現を確認――人里に被害が及ぶのも時間の問題……白狼隊が先んじてそちらへ向かっています……!」

 

 雲類鷲の指が地図上を滑り、東と西の境界線となる露流河の本流付近を指し示す。

 

 そこは、白妙(しろたえ)の村に迷い込んだ、あの山間の森だった。

 

 

 露流河(つるがわ)本流の中ほど――かつて翡翠開拓の折、猪牙隊が渡った経路を含む一帯。その地で、今まさに巨大な妖が暴れ回っている。

 

 雲類鷲(うるわし)からの報告を受けた一色の判断は、迅速だった。

 

猪牙(いのきば)峡谷(きょうこく)隊、ただちに出立準備を。周辺地域の人命救助にあたってください。シユウ一師、緊急事態につき、隊への随行(ずいこう)をお願いできますか」

「もちろんです」

「ありがたい」

 

 即答とともに青が頷くと、一色は再び、安堵に頷く。

 そしてすぐに「それから」と雲類鷲へ向いた。

 

「雲類鷲准士、こき使って申し訳ない。医療班のもとで体を休めたら、また偵察に向かってほしい。露流河本流で避難を必要とする集落の数と場所を把握したいのです」

 

「承知しました。すぐに出立いたします」

 雲類鷲は息を整え、戦装束の乱れを正した。

 

「頼りにしています」

 一色が深く頷く。

 

 雲類鷲も無言のうちにそれに応え、窓辺へと駆け寄った。

 刹那、身を(ひるがえ)すと同時に大鷲(おおわし)へと姿を変じ、翼を広げて気流を捉《とら》える。

 その巨影は一気に天へと舞い上がり、東南の空へと鋭く旋回して消えていった。

 

 その姿を見届けると、一色は最後に東雲天陽(しののめてんよう)へと向き直った。

 

「東雲准士、後発で構いません。チョウトク隊の編成を。ある調査をお願いしたいのです」

「承知!」

 

 天陽の張りのある声が、室内に響く。

 

「白狼隊の戦闘能力、戦法、組織体制、それから……本流周辺地域の自警団の規模、地域間の連携状況について最新の情報を把握したい。お願いできますか」

「お任せあれ!」

 

 意気揚々と胸を張る天陽。

 

「……」

 その背中を見遣った青の視線が、ふと豺狼(さいろう)の碧き瞳と交わる。

 

 し……

 

 豺狼はそっと人差し指を唇に当て、細めた目の奥に微かな光を湛えた。

 

『運命が許せば、いずれまた会える』

 

 翡翠の山村の自警団長であり、かつてのチョウトクである東雲向陽(こうよう)は、そう言っていた。

 

 東雲の兄弟、その運命が、今まさに僅かずつ動き始めている。

 

 青は、確かにそれを感じていた。

 

 

 ――キシャァアアア―――!

 

 甲高(かんだか)咆哮(ほうこう)(とどろ)いた。

 直後、森を貫き、紅蓮の炎柱が天を()いた。

 

「な、なんだ……!?」

 翡翠の陣守村を後にし、露流河の本流へと向かう途上のことだった。

 

 峻嶺(しゅんれい)の連なりを背に、山裾(やますそ)へと広がる森を一望する。その刹那、樹々を裂き、紅の影が天へと躍り上がった。炎柱はさらに伸長し、やがて中空で鎌首をもたげる。

 

「炎の大蛇(おろち)……?!」

 凪の一隊は山道を駆け下りる。

 

「おい、檜前(ひのくま)、あんな奴、この辺にいたっけか?!」

「いえ、そんなはずは……!」

 

 猪牙と檜前のやりとりを聞きながら、青は天を仰ぐ。

 紅蓮の大蛇は、煮えたぎる溶岩のごとく赤黒く脈動し、その鱗の隙間から灼熱の輝きを漏らしていた。

 

 凪周辺の大蛇種の妖魔とは異なり、異様に膨れ上がった頭部が特徴的で、裂けた口から滴る唾液や、身を(よじ)るたびに撒き散らされる火球が森を焦がしていく。

 

「火龍みたいだ……」

 青は隊列の最後尾から少し距離をとる。

 (はぐ)れないよう位置を把握しながら、梢の隙間から見え隠れする異形を懸命に観察する。

 

「炎術の使い手は後方支援に回れ!」

 前方より、豺狼の指示が響く。隊列は自然と入れ替わり、各々の得手・不得手に応じた布陣をとった。

 

「やっぱり、南の火山地帯から(さかのぼ)ってきた種ってことなんだろうな……ん……?」

 

 前方から、地面に映るいくつかの影が、後方へと滑るように移動している。

 

「狼だ!」

 誰かの声に反応して、凪隊の足が止まった。

 

 見上げると、四つ足の獣の白い腹が頭上を通り過ぎていく。

 一頭を先頭に、行列するように次々と続いた。

 

「白狼だ!」

 背中に女や子どもを乗せた白い狼たちが、青たちと逆行し山頂を目指して空を駆けていった。

 

「シユウ殿、峡谷殿!」

 名を呼ばれて振り向けば、銀髪の影が斜面を横切り、青へと駆け寄ってくる。

 いつしか陣守村付近の森で初めて対峙したときと同じ、戦装束に身を包み、腰に刀を佩《は》いていた。

 瞳と同じ青碧色(せいへきいろ)の衣が、銀の髪と白い肌によく映えている。

 

(ハク)さん!」

「狛殿下!」

 

 豺狼もまた、斜面の下から踵を返した。

 

「殿下?」

「峡谷上士に似てるな……」

 

 俄かにざわめく凪隊の面々を見渡し、狛は背筋を正す。

 

「凪邦の皆々よ。我は白狼邦の狛、救援隊の代表を務めている。被害のあった村の人々を、我らで峠の向こうへと避難させていたところだ。貴隊の責任者の方はおられるか」

 

 凛とした声に応えるように、

 

「おう、俺だ俺だ! 猪牙だ!」

 斜面を駆け上り戻る声が、下から響いた。

 

「猪牙殿、このまま河川敷へ降りるのは危険……っ?!」

 狛の顔が瞬く間に険しく変わる。

 

「え……?!」

 一際激しい轟音が地を震わせた。

 

――オ”ォオオ”オォンォォォ………!

 

 大気が揺れ、土煙が激しく舞い上がる。

 皆が一斉に河川敷の方へと顔を向けると、宙へと伸び上がる紅蓮の大蛇へ、横合いから黒い巨影が襲いかかる瞬間が映った。

 

「な、二匹目かよ!」

 

 激しく絡み合う大蛇が二匹。

 その巨躯(きょく)がもつれ合い、地を揺るがすたび、砂利(じゃり)や岩が弾き飛ばされ、飛び散る火球が宙を舞う。

 

 剥がれ落ちた鱗が閃光を反射しながら、鋭利な刃となって山裾の森へ降り注いだ。

 

「うわっ!」

「きゃ!」

 

 隊員たちが反射的に顔を背ける中、さらに巨大な火球が空を裂き、轟音とともに降下してきた。

 

「伏せろ!」

 狛は即座に跳躍し、宙に舞いながら、その姿を神獣・白狼へと変じる。

 

『アォォオオオ――!』

 

 咆哮が響き渡る。

 刹那、灼熱の火球が凍てついた。

 

 紅蓮の輝きは瞬く間に白霜へと変わり、宙に咲いた氷華(ひょうか)が煌《きら》めく。

 乾いた裂音とともに亀裂が走り、次いで轟く破砕音。砕けた氷華は無数の欠片となり、四方へと飛び散った。

 

「おぅ、助かったぜ、ねえちゃん」

「感謝いたします、狛殿下」

 

 いつもの調子で猪牙が豪快に笑い、その言葉を豺狼が丁寧に言い換える。

 

「無事で何より」

 狛はすでに人の姿へと戻り、音もなく地へ降り立っていた。

 

 飛来した火球によって森の樹々が薙ぎ倒され、山の斜面は所々で焦げつき、裸地(らち)となった岩肌が黒々とのぞいている。

 

 視界が開け、目前には河川敷の光景が一面に広がる。

 昼間には穏やかに流れていたはずの大河が、今やその流れを踏みしだくかのように、紅蓮の大蛇が激しくのたうち、そこへ黒き影が喰らいついている。

 

「なんだこの妖怪大戦争みたいな絵面(えづら)はよう……」

 

 つぶやく猪牙の声に、誰もが口を半開きにさせて言葉を失っていた。

 百戦錬磨の法軍の高位者であろうと、巨大な妖が妖を喰らうこのような激闘を、実際に目にする機会は滅多にない。

 

 その中で、西方の人間である狛と檜前は、神妙に唇を引き結んでいた。

 

 ――ギギッ……ギシャアアッ!

 ――ォォオオォオオオ

 

 谷を突き抜ける風のような轟音が、斜面を駆け上がる。焦土の上に灰混じりの水が降り散った。

 

「猪牙隊長、峡谷上士」

 隊列の端より、青が駆け足でふたりの隊長のもとへと歩み寄った。

 

「あの黒い大蛇はもしや――『(つゆ)』では……」

「『露』……?」

 

 その名を耳にした瞬間、猪牙、豺狼、檜前をはじめ、かつて翡翠を目指して進軍した任に加わっていた面々の表情が、わずかに揺らいだ。

 記憶の底に沈んでいた名が、唐突に水面へと浮かび上がったように。

 

 ――夜に露が溢れるの。流されてしまうよ

 

 かつて川辺で出会った少女、白妙(しろたえ)の言葉が脳裏に甦《よみがえ》る。

 西の地より凪へと逃れてきた檜前たち――あの頃はまだ幼かった彼らもまた、夜の河を越えようとして、仲間をひとり失っている。

 

「翡翠のご長老たちから聞きました。露流河には神獣が宿っている。というよりも、露流河そのものである神が、あの河を成しているのです」

「露流河そのもの……」

 

 呟いた豺狼は、遠く河を見遣った。

 河川敷の先、黒と紅き巨影がなおも激しくのたうつ。

 水面は砕け、無数の砂利を含んだ何本もの水柱が上がった。

 

「露はあの河を侵すものを喰らう。しかしながら、翡翠においては東西の双方の境界を護る、良き守神(まもりがみ)として崇《あが》められているのだと……」

 

無渡霊(わたらずのたま)か」

 狛の呟き――その言葉の響きに、青をはじめ凪の面々が目を見交わし、不思議そうな面持ちを見せたのを察し、

「……いや、忘れてくれ。今は、いい」

 狛はわずかに首を振り、淡く微笑んで言葉を打ち消した。

 

「すなわち、もし、露があの(ほむら)の大蛇に敗れたとしたら……?」

 青の推測に、面々は顔を見合わせる。

 重い沈黙が一瞬流れたのち――

 

「……焔大蛇《ほむらのおろち》が、あの河の守を喰らい、かの河に成り代わるであろうな」

 狛の凛とした声。

 導かれるように、皆の視線が一斉に向けられる。

 

 狛はその碧い瞳をゆるやかに天へと上げていた。

 黒煙の向こう、赤く焼ける空にふたつの巨影が交錯(こうさく)している。

 

「成り代わる……って、どうなっちゃうんです……?」

 誰かがぽつりと漏らした、素朴な問い。

 

「おそらく、河は干上がり、燃えたぎる熔流(ようりゅう)と化すであろう」

 

 言葉を継ぎながら、狛はゆっくりと足を運び、焦げた地にしゃがみ込んだ。

 白く細い指先が、地表のひび割れた岩に触れる。

 

「水脈は途絶え、支流も枯れ、森は失われる。やがて生きものの姿は消えゆき、火の性質を持つ妖のみが、この地をすみかとするようになる。ここいら一帯が、すっかり塗り替えられてしまうであろう」

 

「……」

 一同は言葉を失い、ただ息を呑んだ。

 

 その沈黙を破ったのは、重く沈んだ空気にはいささか場違いな、猪牙の明朗な声だった。

 

「よーく分かった! 結論は単純なこった!」

 いつも通りの調子で、はっきりと響き渡る。

 

「俺たちが露に加勢して、勝ってもらうしか無ぇってことだな!」

 ガハハと白い歯を見せて笑う隊長の声に、隊員たちは口元に苦く乾いた笑みを浮かべた。

 

「子どものケンカへの加勢じゃないんですから……」

「いわば、神と神の戦いですよ、あれは」

「どうあがいたって、出さなきゃならん結果は変わらねぇんだよ!」

 

「……さて、どう動くか……青?」

 猪牙と隊員たちがやんややんやと言葉を交わす傍らで、独りつぶやく豺狼の目は、静かに河川を見つめる青の横顔に留まった。

 

 青は唇を固く結び、ただじっと――「観」ている。

 

 額当ての影に隠れて見えぬその瞳には、「何か」が映っている。

 

 豺狼は、はっきりとそれを悟った。

 

 

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