「
「――ぇ、は、はい」
その場にいた
「思い出
豺狼や猪牙《いのきば》をはじめ、数人が「ああ」と声を漏らし、記憶の底から同じ事実を引き上げたようだった。
誰からともなく空を仰げば、山間の空は、すでに茜を帯びていた。山から降りる風には冷気が含まれ、夜の気配がじわりと一帯を包み始めている。
「夜ともなれば、本来の力を取り戻すのかもしれません」
「それまで持ち堪えるよう、助力ができればいいのか……」
それならば、と、面々の表情にかすかな光が差し込んだ。
「それから、あの
『キュイッ、キュッ、キュッ――』
青の声に重なって、鋭い鳴き声が空より降る。
と同時に、その姿が
報せによれば、稜線に沿って点在するいくつかの集落は、いまだ被害を免れているものの、飛来した火球の影響で森の各所が焼け、山火事寸前の状態にあるという。
「そっちの対応が先か……」
「隊を二手に分けましょう」
豺狼が名乗りをあげた。
「俺が、焔大蛇の対処にあたります」
「……んな少人数で『死んでこい』とはオレは言えんぞ!」
聳《そび》える稜線を見上げ、猪牙は唇を噛んだ。
今から式を飛ばして援軍を要請するにも、刻一刻と状況は悪化しつつある。
そのとき――
「あ、あの……」
「あれを……」
「羽が……生えて……? な、なんだあれは。
そこには、翼を大きく広げた一羽の巨鳥がいた。
脚の
狸は両の
「……」
「……」
「あ、あちらからも!」
「こちらも、です!」
気づけば、峠の稜線を越えて次々と、大鳥に抱えられて木桶を運ぶ小動物たちが、空を飛来していた。
呆気にとられた面持ちの凪隊の前で、そのうちの一匹が、火の手の上がる樹林の上空に差しかかり、木桶の中からお手玉ほどの何かを取り出して放り落とした。
次の瞬間、白煙が激しく噴き上がり、炎は見る間に鎮まった。
消火を確認した狸と大鳥の一組は、翼をゆるやかに広げて旋回し、再び別の火点へと向かって飛び去ってゆく。
「消火剤のようだな」
「俺もやらされたなあ……」
「そうだったなあ……」
未だ言葉を失っている凪隊の面々の横で、狛、雲類鷲、檜前の三人――いずれも西方の出身である者たちは、驚いた様子も見せぬまま、その光景を静かに見守っていた。
「桶に描かれた紋章、どれも同じですね」
空を仰ぎながら、青が指を伸ばす。
遥か高みをゆく木桶の側面に、焼印のような印が見えた。
「あれらは、
低い声が、青の背後から降ってきた。
「――え……あっ!」
その場の視線が一斉に斜面の上を振り返る。
「コウさん!?」
列の最後尾にいた青の目の前に、ひときわ大柄な影が立っていた。
背に
いずれも農作業着と思われる質素な軽装に、肩当てや胸当てなど、簡素ながら実用に耐える防具をまとっている。大剣、槍、それぞれ異なる武器を携えていた。
共通して上腕に巻かれているのは、革製の腕章。自警団章であろうか、その中央には紋章が刻まれていた。
狸たちが運んでいた木桶に記されていたものと、同じ意匠である。
「久しぶりだな、シユウに……今は『一師』となられたか」
コウの視線が青の手甲を一瞥し、次に凪隊へ向けられた。その眼差しの底には、かすかに、かつてを
「コウ殿……!」
青の背後から、豺狼が一歩進み出て、コウの前に立つ。
碧い瞳が、コウの顔を見上げたのち、ちらと己の背後へと目を遣る。まるで――「いいのか」と、無言のうちに問いかけているかのようだった。
コウはわずかに頷いて、青と豺狼の背後に控える面々へと視線を巡らせる。
「我らは、露流河本流域における自警を担う一団だ。――あの消火団も、同じく我らの仲間である。そしてオレが、その指揮を預かる者――
棚ノ沢は、コウが暮らす村落の名である。その名は、地形を巧みに活かした田畑の姿に由来する。
「消火活動は我らに任せてほしい。あいつらは普段から、山火事や野焼きの火消しに手慣れている」
「そうか……、ありがてぇ! 俺は凪隊の隊長、猪牙だ」
猪牙が、コウの前に進み出た。
「あんたが自警団の団長か。うちの若いもん二人が世話になったと聞いてる」
「助けられたのはこちらの方。貴殿は、実に有能な部下をお持ちだ」
コウの言葉を素直に受け取り、猪牙は白い歯を見せて、豪快に笑い声を上げた。
猪牙はじめ、凪隊の中にはコウに見覚えのある者は存在しないようだ。
皆、興味深げに自警団たちのいでたちや、空を漂う消火団たちへ意識がそぞろに散っている。
「挨拶は後回しにしよう」
コウは言葉を切り、鋭いまなざしを天へと向けた。
「翡翠の春は、陽が長い」
その一言に、場が締まった。
戦う者たちの顔つきに、気迫が宿る。
誰もが無言のうちに、腰や背の
*
三人の隊長たちの間で急遽、露流河の自警団、白狼の救援隊、凪隊による、即席の協力体制が敷かれ、次の決議となった。
火の手の鎮圧は、獣人や獣血人の消火団に一任する。
地の利を有する自警団は、コウを筆頭に、機動力に富む白狼隊と連携し、人命の救助と避難民の搬送に当たる。
これら二隊は、それぞれの任を一段落させ次第、戦線へと加わる段取りとなった。
そして、戦闘に秀でた精鋭《せいえい》を揃え、組織力に優れる凪隊は、焔の大蛇への対処――その先陣が託されることとなった。
「負担をかけてしまい、すまない。鎮火の目処が立ち次第、ただちに駆けつける」
「凪の皆々には、それまで……どうかご無事で」
「――湿っぽい締めは縁起が悪ぃぜ。こういう時はな……」
猪牙が背中の長刀を抜き、逆手に持って前方へ差し出した。
それを合図とするように、コウと狛もまた、自然と己の得物を抜いた。
向き合った三人は、互いの拳を軽くぶつけ、続けてその刃を、打ち鳴らし合う。
鋭く、そして涼やかな音が、灰燼《かいじん》が舞う茜空に高く響いた。
「ご武運を」
短くも力強い言葉と共に、凪隊、白狼隊、露流河の自警団――それぞれが持ち場に散って行った。
その様子を、はるか高所から見つめる影があった。
露流河本流を遥かに見渡す峠の一角。
古くから「
その断崖に、黒を基調とした装束を
人影の数は五、六名ほど。
その先頭に立つ一人が、他を統べる気配を纏っている。
視線の先――谷の斜面では凪隊、白狼隊、そして露流河の自警団が、散開してゆくところであった。
「東西の異なる地より集うものたちが、命を賭ける……か」
先頭の男の呟きが、強風のうねる高所のなか、やけに澄んで響いた。
「あそこの峠を越えたあたりで、白狼の獣鬼隊が避難者を一時保護しているようです」
若い声が、西側の稜線の一角を指さす。「そうか」と応えて、指導者らしき影もその方向を一瞥した。
「東方の奴らのお手なみ拝見ってところですね」
横から、また別の若い声。どこか楽しげな調子のなかに、いささか挑発的な響きが混じっていた。
「――おい」
すかさず背後から、その軽率な物言いをたしなめる声が飛ぶ。
「あ……も、申し訳ありません……」
「間違ってはいない。彼らがどう動くか……いざという時は動けるよう、構えておくように」
言葉を結んだ男の外套《がいとう》が、突風にあおられ、大きくはためく。
眼下に広がる稜線、その斜面のあちこちでいまだ
*
その
――シャアアアッ!
――ゴッ……!
鋭く甲高《かんだか》い
露の牙に食らいつかれ、川辺へと押し伏せられていた
激しく水飛沫が上がり、露の口元が紅蓮の鱗から引き剝がされると、激しく絡み合っていた二柱の巨蛇は、ついに互いの身を離した。
焔大蛇は巨体を波打たせつつ身を起こし、天を
次の瞬間――焔の大蛇は、赤黒い火炎を一直線に放ち、露へと叩きつけた。
火炎を浴びた露は、悲鳴とも怒号ともつかぬ声を上げてのたうち、水中へ潜る。
「うわっ!」
青の行く手に火球が落ちた。
着弾の瞬間に草も土も焼き溶かされ、剥き出しとなった地中の岩肌が黒く焦げ付く。
どろりとした火塊が地を這っていた。
「溶岩……?」
思わず足が止まる。
青は焦げた岩肌にこびりついた残火のもとで身を屈めた。まるで鍛冶場の
「ただの炎じゃない……」
腰の道具入れから符を一枚取り出し、溶流の塊に近づけた。符は紫を帯びた黒煙をあげてあっという間に燃え尽きる。
「何してるんだ、危ない!」
「っ!」
後ろから怒鳴られると同時に、腕を引っ張られて体が引き上がった。
首を回すと、肩越しに豺狼の顔がある。
「――あ、その、あれが」
「いいからこっち」
強引に腕を引かれて、斜面に突き出た岩場まで連れてこられた。
岩場の先端には猪牙の背中も見える。
「あれを」
促されて、水上に
紅い体表から、落葉のように鱗が剥がれ落ちていた。露の牙に穿たれた箇所を中心に、つづけざまに新たな鱗が芽吹くように再生してゆく。
「脱皮?」
「再生が早すぎる」
脱皮や再生能力に優れた性質は、爬虫の性を持つ妖魔にしばしば見られるものだが、この焔大蛇のそれは、豺狼の知見をもってしても異常の域にあった。
「露《つゆ》公、浮かんでこねぇな……」
同じ岩場の先端に立つ猪牙が、川上の水面を
水底から大小の水泡が湧き上がった。
そこへ、焔大蛇が大口を開けて水中に突っ込む。
「っ!?」
河川敷に降りた凪隊へ、夕立のような水飛沫が降り注いだ。
水面が激しく沸き立ち、ふたたび二柱の巨蛇が絡み合う。形勢は逆転し、焔大蛇がのたうつ露の胴を、
「!」
豺狼が岩場から飛び降り、河岸に向けて斜面を駆け降りる。同じように、数人の隊員たちも動き出した。
「まずいな……
猪牙の呼びとともに放たれた
――ブゴォオオオオオ!
咆哮が
煙の奥から姿を現したのは、凪の森に棲む三ツ目猪をも凌ぐ巨体の、猪。濁声を響かせながら、水飛沫を撒いて河中へと突進する。
――ブゴッ!
巨猪はその巨躯のまま、露の胴に食らいついていた焔大蛇の
――ギシャッ!
衝撃に耐えきれず焔大蛇が仰け反り、その
露は巨体を
巨猪は勢いのまま対岸へと突き抜け、砂煙を巻き上げて大地を削ると、巨体を翻して再び突撃の構えをとる。
焔大蛇は首をわずかに引き、巨大な
式猪もまた、
向かってくる猪を目掛けて、焔大蛇は再び炎を吐く。鮮やかな紅炎の幕を突き破り、猪は大きく開いた大蛇の口腔に頭から突っ込んだ。
山と山が、激突する。
――ブゴゴゴゴゴゴゴゴッ!
――ギギギギギギギギギッ!
両者の力がぶつかり合い、河の真中で激しい押し合いが続く。
「がんばれ猪……! ……あれ?」
手に汗を握って猪を応援していた青の目が、違和感をとらえた。
猪にくらいつく焔大蛇の頭部の形状に、変化が生じている。 肥大化が目立っていた頭部が、今は平たく
「……ということはやっぱり……」
ぶつかり合う巨大な影が埋め尽くす空を見上げ、青は目を細める。
「!?」
ごぼり、と質量のある水音に河の水面へ目をやると、露の黒い巨体が天に昇るように伸び上がった。
その体からボロボロと、鱗が剥げ落ちる。
「再生できていない……」
青も岩場から飛び降り、河岸に向けて斜面を下った。
露の黒い体を水が
――ォオオオォオォォオオ……!
咆哮とともに
ゴウッ、と硬質な衝撃音――水弾を食らった焔大蛇が、なおも猪に喰らいついたまま水面に叩きつけられる。
露は、力を失ったように落下して水中へと潜った。
河面がうねり、大量の水が高波となって、凪隊が降り立った河岸へと押し寄せる。
「地神・
河岸に駆け出た豺狼が、地術を発動。
大地がうなり、河岸沿いに岩壁が連なり地響きをもってせりあがる。押し寄せた激流が激突し、白き泡となって砕け散った。
「次!」
東岸に立つ士官ふたりと、西岸の豺狼がほぼ同時に動いた。言葉を交わすこともなく、三人は一斉に術に入る。
「
号令とともに岩壁が砕け、土塊が両岸から勢いよく
山のような土壁が、うねるように前へと押し出された。
――プギィイイィィィィィ〜〜〜
哀れな猪の絶叫も、土塊の奔流に呑まれてかき消えた。
河を
「……まあ……別にいいけどよ……式だし」
猪牙は複雑そうな面持ちで、猪ごと焔大蛇を呑みこんだ土の山を見上げる。
「相変わらず、凄まじい術力……」
青は周囲の者たちが距離をとって成り行きを見守る中、その隙を縫って前へと進む。
懐から符を取り出し、両の
目を閉じ、全神経を掌へと凝らし、意識を土の内奥へ沈めてゆく。
「峡谷上士……彼は何を?」
「毒術師・シユウ」との任務経験のない隊員が、測るような視線を青へ向けている。
「大丈夫だ。彼に任せよう」
豺狼の断言に、隊員はわずかに肩の力を抜いた。
信頼、期待、そしてかすかな不安――様々な眼差しが青ひとりに注がれる中、
「――
その一声とともに、じわじわと腐食が始まったかのように符が溶け、土壁へと吸い込まれてゆく。
やがて、青の手が触れている箇所からゆるやかに、土塊は色を変えはじめた。
表面から滲むようにどす黒く染まり、土の性質そのものが変化を始め、圧を孕《はら》んだ鉛《なまり》のように密度を増して、大蛇――ついでに猪も――を土塊の中心に沈めて閉ざした。
「これで時間が稼げれば……」
青はため息一つとともに顔を上げ、小山から手を離す。
「今のは、白兎の沼の妖魔を封じた時と、同じものか?」
一息を吐いたところを見計らい、豺狼が声をかけてきた。
青は肯き、振り返る。
「封印を強化した。けど……、奴の
「毒腺?」
「毒蛇の頭部にある、毒を分泌する器官のことだよ」
豺狼の問いに、青は自らのこめかみのあたりに指先を添えた。輪郭をなぞるようにして顎下までなぞり下ろす。
「奴は頭部がかなり膨らんでいて、それが、露へ炎を浴びせたと同時に
この地に到着してから青が「観て」きたもの。
焔大蛇が吐き出す炎には二種類ある。
露に浴びせた赤黒い炎と、式猪に放射した鮮やかな炎。
前者は
後者はいわゆる気体の熱であり、式猪が耐えられるほどの火力でしかない。
「奴は歯の構造が普通の蛇と違う。
「……」
「……」
青の説明を聞きながら、豺狼と猪牙が視線を交わした。
「なるほど。一度吐き切れば
豺狼の碧い
「……ぼ……私の見立てでは」
青は頷き、唇を引き結んだ。
凪の面々は、焔の大蛇を封じた土塊を見上げる。
あたかも墓標のごとく、微動だにせず、ただ沈黙のまま
「――露は」
口を開いたのは、豺狼だった。
水弾を放ったのち河へと身を沈めた露は、それきり姿を見せていない。
気配を求めて一同が河の流れへ目を凝らすも、水面には泡ひとつ立たず、ただ不気味な静けさだけが漂っていた。
「死んじゃあ、いねぇよな」
「河の神が死んだら、水が枯れてしまうものでしょうか?」
猪牙に応えるように、隊の誰かが、ぽつりと呟く。
「水底で体力を回復させているとか」
「もうすぐ、陽が沈む」
仰ぎ見る
「封印を破られたとして、先ほどと同じ手が通じるとは思えない。次の手立てを今のうちに講じておこう」
豺狼の言葉に、一同が頷く。
自然と河岸の一角に面々が集まり、豺狼と猪牙を中心に半円を描いた。
「毒を吐き切らせることができれば、脅威を大きく削ぐことができる、というわけですね」
「式が焼き豚にならなかったことを思えば、通常の火力は、さほどのものではない」
「だから豚じゃねぇんだわ」
即席の軍議に、小さな笑いが生まれる。
「それより厄介なのはあの脱皮と再生力だ」
「露が本領発揮したとして、抵抗できるのか……かなり消耗して弱ってるしな……」
「……」
軍議の外側で、青はひとり、山側の森を眺めていた。
斜面のあちこちから、広範囲において白い煙が細く立ち上っている。消火団によって、火の手は全て鎮められたようだ。
「白妙の村は……無事なのかな……」
村があったはずの森の一帯には、目立った被害は見られない。
斜面を覆う木々は静かに連なり、遠目に見える梢の揺れも穏やかだった。
火球が、あたかもその一角を避けていたかのようですらある。
あるいは、あの村もまた、山吹の庵と同じく、ただそこに“在る”ように見えて、実際には異なる理に包まれた空間なのかもしれない――。
そんな青の思案に、か細い声が横切った。
――つゆ……
「え……?」
視線を山裾へ落とす。森の入り口、木の幹から小さな体を半分だけ覗かせている、白い影が映る。
白髪、白い肌、白い着物――そのすべてが、赤黒く染まりかけた西日の影に、浮かび上がっていた。
「あ、あの子は……!」
青の様子に気づいた隊員たちが、次々に振り返る。
かつて猪牙隊の西方開拓任務に加わっていた者たちの口から、その名が
「白妙って、『例の』村の、か……?」
隊列の端で、
「ああ……
「惣太……っ」
雲類鷲は思わず足を踏み出しかけた。
が、わずかのところで、動きを押し留める。
幼馴染を見捨てるほかなかったあの夜の記憶が、今なお胸を離れたことはなかった。
早春の冷たい風が山野を吹き抜け、地の気は冷えを帯びる。
東西の境界は、