「逃げ遅れた子でしょうか?」
「いや、違うんだ。あれは……」
凪の面々がざわめく中で、
大小の角立った石が不規則に転がる
その足取りは、やがて猪牙の正面にて、ぴたりと止まった。
「――お兄さんたち……」
薄闇の中、仄かに朱を宿す瞳が、猪牙を先頭に並び立つ者たちをゆるやかに見渡す。
「お兄さんたち、強いんだね。
「おう。いつだったか、世話になったな」
猪牙は一歩も退かず、気安げな笑みを浮かべて応じる。
白妙の唇に、かすかな微笑が浮かび、次いですっと身を
白い身体は水面を沈まず、まるで滑空するかのように河中を進む。
「――つゆ」
黒々と沈んだ川面へ、白妙はか細い声で呼びかける。
それに応ずるように、水面にぽつ、ぽつと泡が浮かびはじめた。
沈黙していた水は徐々に盛り上がり、やがて河の化身・露が、艶やかな黒曜の顔をそっと覗かせる。
「……良かった……生きてた」
青は、いつの間にか止めていた息を大きく吐き出した。
その傍らで、
そこに封じられた大蛇は、不気味な沈黙を保っていた。
「ごめんね、つゆ……」
白妙が両の手をふわりと広げると、足元から白い霞が立ちのぼる。山肌を滑り下る風にあおられ、靄はゆるやかに舞い上がった。
次の瞬間、少女の姿は掻き消え、そこに現れたのは、白い大蛇であった。
「……あの白蛇は……」
露よりも幾分か小ぶりながらも、なお仰ぎ見るに足る体躯を備えたその姿が、青、豺狼、猪牙、そして幾人かの隊士の記憶を呼び起こす。
かつて西方の開拓任務にて、朝靄を突き抜けて凪隊の前に姿を現した、あの白蛇である。
白蛇――白妙は、長い身をくねらせ、露の傍へと寄り添った。白と黒の鱗が重なると、霧のような光がふわりと立ち上る。
陰と陽とがひとつに融けゆくように、ふたりの神蛇をやわらかく包み込んだ。
「あれは、治癒か」
「そうみたいだ……光が、暖かい」
青と豺狼は、隊列の端から、白い光が次第に和らいでゆく様を静かに見守っていた。
「覚えてる?
「え?」
珍しく、豺狼がわずかに目を瞬かせた。
『むかし むかし つるがわのほとりに
やせっぽっちの しろへびが すんでいました』
そうして始まる
『しろへびは ひとりぼっちでした
水も 火も 風も 雷も 土も
あやつることができない よわむしでした
でも そんなしろへびには ひとつだけ
とくべつなちからが ありました それは』
「人々を助けたいと願う、優しい気持ち……だったかな」
戦う術こそ持たずとも白妙は、癒しの力と、自らの血肉をもって命を分け与える術《すべ》をもって、救いの村を築いた。
「――なに……?」
頬にかかる視線を感じて傍らを振り向けば、豺狼の碧いまなざしと交わる。
「誰かに似てると思って」
彼は小さく首を傾げ、どこか含みをもたせた微笑を浮かべた。
「え……?」
「……まだ、日没まではもう少しかかりそうだな」
そのひとことと共に、ふと斜面へと視線を逸らす。
稜線《りょうせん》には
同じように、数人が稜線へと視線を移した、そのとき――
「……な、何……?」
足元にかすかな震動が走った。川を
「河の水が……」
水面が細かく泡立ちはじめた。
青はとっさに水辺へ駆け寄り、手を水に浸す。
明らかに水温が上がっていた。
水底に透けて見える土塊の底が、仄かに赤く、炭火のように灯っていた。青は思わず身を乗り出す。
「……熱っ……!」
指先を浸していた水が、唐突に沸き立つ。
湯気が立ちのぼる間もなく一瞬で熱湯と化した。
青は反射的に手を引く。
「破られる!」
青が見据える水底の奥深くから、
――ォオオオォォ……!
内臓を震わせる咆哮を上げ、露が苦しげに身を捩り、波を蹴立てる。
「!」
灼熱を帯びた赤い波が一気に跳ね上がり、青を襲う。
「伏せろ!」
「っわ!」
背後から突如として腕が伸び、青の身体が引き倒された。前に踏み込んだ豺狼が半身を青に覆いかぶせ、片手を
「天嶮《てんけん》!」
二人の前に岩壁がせり上がった。
壁を叩きつけた熱湯が激しく蒸気を上げ、砕け散る。
「あ、ありが――」
「固めるぞ!」
青が礼を述べる間もなく、豺狼が即座に背後の隊員へと声を張る。
彼を先頭に数名の士官が
邪魔をしてはならない。
青もすぐに身を起こし、川辺から退いて距離を取る。
「
唱和の声が重なった瞬間、川辺の空気がひんやりと冷え、霜の粒が大気に混じる。集った霜が氷の狐の姿を成し、次々と封印の土塊へと取りついた。
やがて土塊は氷山と化し、灼けた河の水が、その氷に触れて白い蒸気を上げる。
「冷気を送り続けるんだ!」
豺狼の声が飛ぶ。
「くっ!」
「まるで火山みたい……っ!」
水術者たちは、歯を食いしばりつつも術力を振り絞る。
だが氷の封はじわりと溶け落ち、煮え立つ水面には次々と泡が湧き、眼に見えて水嵩が減っていった。
そのただ中で、白妙は身を露に絡ませ寄り添い、癒しの力を絶やすことなく注ぎ続けていた。白光は膜のように露を包み、灼熱の
「
猪牙は、状況の変転を即座に見極め、短く命じた。
「白狼の姉ちゃんを呼んでくれ! 隊の一部を回してくれってな」
「承知!」
命を受けた雲類鷲は、羽ばたきとともに再び
飛び去る
「そうだ……!」
はっとして振り返り、川上へ向かって駆け出す。
震動は、いつしか皮膚を揺らす
「チョウトクの地図だと、確かこの辺りから……」
川を遡り、切り立つ崖の手前で足を止める。
そこに、川瀬を断つかのように巨岩が
青はその足元に膝をつき、両の
目を閉じ、ひとつ、深く息を吐く。
「水神……
低く、静かな詠唱とともに、青の意識は掌の下の大地へと沈みはじめた。
まるで水の中へゆっくりと沈降してゆくように、音も気配も遠のいていく。
「っ……」
潜るほどに、意識が霞みかける。
「もっと深く……遠く……」
重く冷たい静寂の底を辿る。
「痛っ……」
左腕に鋭く重たい痛みが走る。
瞬間、霞んでいた視界に光が差し込んだ。
意識に映るのは、地層の狭間を縫うように走る無数の細い水脈――そのなかでひときわ脈動の強い、血流のごとくうねる、太い流れがあった。
「あった!」
思わず歓喜の声を上げた。
その
「さすがチョウトク!」
青は目を開き、顔を上げた勢いで立ち上がった。
目眩《めまい》を覚悟していたが、不思議なほどに意識が研ぎ澄まされている。
気持ちの
「この下は……砂利層……」
川下の方へ肩越しに視線をやれば、氷で封じられた土塊が、内側から真紅に灼けていた。
今にも噴き上がろうとする火山のようでもある。
考えている時間はない。
青は即断し、腰の道具袋からひとつの硝子瓶を取り出した。
*
その高みに陣取る一団のなか、十代半頃ほどの少女らしき若い影の一人が、岩場の
「
心配げな若い声に、一団を
「じきに夜だ。もうしばらく様子を見る」
「……承知しました」
少女は素直に頷きながらも、なお不安げに、干上がりつつある河の中で
「――ところであの人は、独りで何をしているのでしょうか」
少女の指が、上流の方角を指し示す。
そこに、一枚岩の断崖を見上げる青の姿があった。
「他の人たちは統率がとれた動きをしているのに、あの人だけ、単独行動が目立ちます」
「ああ……
男の低く抑えた声には、どこか懐かしさを
「ギノウシ……あ、ギシのことですね! 何のギシだろう……」
「高位の毒使い……東方では毒術師ですね――かと思われます」
一人目よりも年長らしい青年で、
「なぜ、そうだと?」
男の質問に、青年の声が応える。
「東方には
「――龍」
その答えに、男はわずかに息を呑んだ。
だがすぐに、平静さを取り戻す。
「……さすがは
男はゆるやかに上流側へ顔を向けた。
薄闇の中で薄く浮かび上がる
「凪の……毒術の龍、か……」
吹きすさぶ山風が、男の独り言を掻き消した。
「あ、毒使いが動いた」
少女の声が示す通り、凪の毒使い――
隊員たちへ指示を飛ばしていた凪の隊長――猪牙《いのきば》の元へ駆け寄ると、何やら
青が強引に猪牙の腕を引く形で、二人で少し上流側へ移動した。
「あの二人は何を……あ」
露見ノ嶺から見下ろす一団が見守るさなか、
――ブゴォオオオオオオオ!
谷に野太い
その直後に下流側で――焔の大蛇を封じ込めた土の封印が、火山のごとく
*
「ぅわ!」
青は肩を縮めて耳を塞いだ。
再び、猪牙の式術により、河岸を占拠するほどの巨大な猪が姿を現した。
同時に、背後から地鳴りが響く。
肩越しに振り返った青と猪牙の目に飛び込んできたのは、赤黒い
火山が噴火するかのごとく、紅蓮の頭が土塊の
「復活しやがったか……!」
苦々しく吐き捨てた猪牙は、すぐに決断した。
右手で一枚岩の巨岩を示す。
「ぶっ壊せ!!」
――ブゴゴッ!!
荒い息を吐いて
巨体が低い姿勢から一枚岩に激突した瞬間、地が揺れるほどの衝撃音が響き渡る。
巨岩はひび割れを生じたかと思う間もなく、轟音とともに
――プギィイイイイイィイ〜〜〜???!!
水は
「やった!!」
青は反射的に歓喜の声をあげる。
巨岩の下、砂利層に仕込んだ
一方――
封の中から姿を現した焔《ほむら》の大蛇はその巨体を伸ばし、頭部を振るいながら
再生の兆しとともに、
「地術準備! 炎を吐ききった後に
「な、何あれ!!?」
「豚が!!?」
水の轟音に隊員たちが振り返ると、岩と水と猪がぶつかり合い、響き合いながら、上流側から下流側にかけて
大量の水が露と白蛇を飲み込んで、その脇を猪が通り過ぎ、
――ギギギギ……ギシャッ!!!??
――ブゥゥギィイイィ〜〜〜??!!
大口を開けた焔大蛇の口へ、猪の巨体が激突した――直後、大蛇の口腔が激しく紅く
猪は「ブシュゥゥゥ」と空気が抜けたような音と共に、その身を焦がし、大量の蒸気《じょうき》とともに姿を散らした。
「
号令が飛び、豺狼はじめ峡谷隊の数名が一斉に得物を抜き、焔大蛇の頭部に向かい
「
術の発動と共に獲物に雷が
狙いは青が指摘した毒腺――炎を吐ききり
――ギシャァアアアアッ!
頭部に雷の長槍が突き刺さった大蛇は、凄まじい
満ち満ちた河は激しく
「毒腺を潰した、さすが!」
距離をとった上流側で、青は感嘆の声を上げた。
「あれ……?」
だが視界の端に映る白い影――河岸に打ち上げられている少女、白妙を見つけ、急ぎ駆け寄った。
共に濁流に呑まれた露の姿は、河に見当たらない。
青は白妙を抱き上げて水辺から引き離し、平らな岩に横たえる。
「白妙さん!」
露を癒して消耗したために、白蛇の姿を保てなくなったのであろうか。少女の体は細く、重さを感じさせなかった。
放水に巻き込んでしまった責任を思いながら、青は白妙の容態を確かめる。
声をかけながら、脈をみようと細い手首をとる。
指先に触れた肌は人のものではなく、つるりと滑らかで、まるで、湿り気を帯びた爬虫類のような感触だ。
体温も感じられない。
「……生気を感じない……」
かつて医療士時代に治療対象としていた「人間」とは異なる何か――青が
「その方は、
背中に声がかかった。
「――
振り返るとそこに、
*
「下がれ!」
豺狼は怒声とともに視線を走らせ、部下たちの無事を素早く確認した。
「再生し始めています!」
「なっ……」
数本の雷槍が突き刺さった潰れた後頭部が、目に見えて盛り上がり、形を取り戻しつつある。
「顔ごと潰すしかないか……!」
奥歯を噛み締め、豺狼が身構えた、その時――
――ァォォオン!
一吠えが空を震わせ、雷槍が雷鳴とともに一斉に
――シャァアアアアァア!
頭部を半分潰された焔大蛇は怒りに狂ったように、唸り声を上げながら首を振り乱した。
鱗の隙間を縫って
「天――」
防御の術を発動させるより前に、山の斜面から銀白の影が駆けた。
数匹の白狼が河岸上空へ跳躍、全身から冷気を撃ち放つ。
凍てついた
「白狼隊だ!
猪牙は強く拳を握りしめ、東の空から昇る月を仰いだ。
澄んだ銀光が谷底に注がれる。
露流河の谷に、夜が降り立った。
――ォォオオオォォオ……
洞穴を抜ける風のような声が谷を渡る。
闇に沈む河面が隆起したかと思うと、濁水の中央を突き破り、夜闇をまとった大蛇――露が巨体を立ち上げた。
焔大蛇ののたうつ姿を見据え、露はその大口をぐわりと開いた。
「退避!!」
豺狼が後方へ叫ぶ。
――ゴォッ!
次の瞬間、砲撃めいた音とともに水弾が放たれ、一直線に紅蓮の
水弾をまともに受けた焔の
間髪入れずに露の巨体が河面を裂いて跳ね上がって弧を描き、焔を巻き込んで水中深くへと引き摺り込む。
大波がうねりを上げて河岸を襲った。
指示を受け斜面を駆け上がっていた凪の面々は、間一髪で濁流を避ける。
「っ……青?!」
我に返ったように豺狼は上流側を振り返った。
水が届かない岩場の一角で、青は膝をつき、横たわる少女に寄り添っていた。
その傍らには、白狼の姫・狛の姿も見える。
「――良かった……あれは、白妙か……」
豺狼は安堵の息を洩らした。
「白妙の保護へ向かう。皆はここで待機を」
短く言い置いて、豺狼は
河では、黒と紅――二柱の大蛇が激しくぶつかり合っている。
噛みつき合いながら、水中で絡み合っては暴れ狂う。
ときおり水面に姿を現す焔大蛇の体からは、
東側の林、西側の山裾に火が走り、谷底に
「危な……っ」
焔大蛇が吐き出す炎はもはや熔流ではなく、夜の力を取り戻した露が「敵」を圧し始めているのは明らかだった。
そんな時――
「え……っ」
豺狼の視線が
下流でのたうっていた波が急激に逆巻き、上流へとせり上がって行くのが見えた。
「来るぞ!」
届かないと分かりながら、豺狼は上流に向かって叫ぶ。
直後、青たちが避難していた岩場のすぐ
燃えさかる怒りを
「っ!?」
青は咄嗟に白妙の身体を抱き上げた。
焔大蛇の顔が叩きつけるように振り下ろされ、青と狛は寸でのところで左右に跳び退く。
河面で
「ぅあ……っ!」
衝撃で岩が砕かれ、白妙を抱く青の周辺で砂利が巻き上がり、足場が砕け、崩れ始めた。
そこへ焔大蛇の大口が
少女の体が白蛇へと変じると同時に、するりと青の腕を抜けて跳び出す。
小さく
「!!」
青が白妙に向けて手を伸ばす。
――シュゥウウッ……!
激しい
だが、それだけだった。
焔大蛇は首を一振りすると共に、白蛇の身ごと巨大な
――ォォオオオォォオ!!
谷を震わす大咆哮――露の牙がさらに紅の鱗と肉に食い込む。
砕けた岩と砂利が濁流に巻き込まれ、河岸を削り奔る。
「青!!!」
豺狼の絶叫が響いたときには、青と白妙の姿は二柱の巨蛇とともに、渦巻く水の深みへと呑み込まれていた。