「青!!!」
最後に、
「――っ!」
その名を呼び返すこともできず、暗く冷たい闇に引き
黒い渦に体が
そのうち、上下の感覚が
浮遊するような感覚が身を包む。
意識が、途切れかけていた。
――青
誰かの声に呼ばれた気がした。
前にも、同じことがあった。
幼い頃、蟲之区で
――青
けれど。
これは誰の声だろう、これは――
「さ……ぃ……」
瞼の裏に、
「――っ、い、やだ……」
死んでたまるか。
暗闇に向かって、青は手を伸ばす。
そこが水面なのか、
ただ、生にすがるように闇を
*
二柱の巨蛇は、もつれたまま河へと沈んでいった。
波はしばし上流を荒らし、行き場を失った
「青……っ!」
「青!!」
再度その名を叫ぶ。
青の姿は見当たらない。
「川下に流されたか――っえ……?!」
振り向きかけた豺狼のすぐ脇を、黒い影が疾風のように駆け抜けた。
薄闇の中でかろうじて、四つ足の獣の
「待て! ミツキ!」
背後から
黒い獣影は水面を滑り、身を
やがて水面へと潜り、夜河の闇に掻き消えた。
「狛殿下、今のは……っ」
豺狼は己を奮い立たせるように息を強く吐き出し、狛を振り返る。
「
そこに立ち尽くす狛の顔色は青ざめていた。
「面目ない……我の力不足であった……」
言葉を絞るように吐いた狛の面差しに、豺狼は首を横に振った。
「貴方も喰われるところだった。仕方のないことです」
低く、努めて冷静に押し殺した声音でそう応じ、黒い影が姿を消した下流に向けて
狛も続こうと豺狼を目で追う。
その時――
――ゴォオオッ!!
「!?」
下流側から、重く低い轟音。
地が揺れる。
思わず足が止まった。
川下側へ移動していた
「変容している……!?」
遠くに見上げる焔大蛇の姿は、もはや別物と化していた。
全身の鱗が異様に膨張し、巨体が更に一回りも
紅黒に
対峙する露の正面に水の
「うわっ!」
「下がれ下がれ!」
爆《は》ぜる水音が谷に反響し、肌を焦がすほどの濃密な
入れ替わるように、白狼隊が再び河岸へ飛び出した。
「ガルルッ!」
唸り声が吹雪を呼ぶ。
氷の息吹が谷を渡り、熱波を冷気で洗い清めた。
――ゴシャァアアア!!
噴火のような咆哮が谷を揺らし、焔大蛇の全身が
激しい蒸気と火雨が下流一帯を覆う。
「
唸《うな》るように吐き捨て、豺狼は青の行方を追って駆け出した。
「白蛇神、
背後から、狛の声が応える。
「それは――」
豺狼は足を緩め、振り返った。合わせて狛も、立ち止まる。
「我ら神獣の
「神獣の血肉……」
記憶を
『神獣様や神獣人様の血を飲むと、どんな病気やケガも治る』と。
「!」
思考を断ち切るように、下流から連続する爆音が轟く。
豺狼は弾かれたように身を翻し、再び下流へと駆け出した。
*
闇を掻《か》く青の指先に、ふと、何かが触れた。
柔らかく、それでいて確かな感触が、指から腕へ、じわりと伝わる。
水底の闇よりなお深い漆黒の影が、そっと青の身体を包みこんだ。
「だ、れ……」
青の肺に残っていた最後の空気が、泡となって漏れ出す。
その泡の向こうに、かすかな光が
灯り。
黒い「何か」が青の体を闇の底から引き
腹の底から内臓ごと持ち上がる――転送陣で転移する直前の浮遊感が押し寄せる。
光に向かって、青の身体は一気に引き上げられた。
暖かく柔らかな空気が、肌を撫でる。
――様
――……ウ様
高く、けれども柔らかな声に呼びかけられた。
『シユウ様!』
「……ん……」
応えようと息を吸い込んだ途端、ごぼり、と喉の奥から水が逆流した。
「っごほ、っ……!」
地面に触れた手のひらに、柔らかい土と、湿った草の感触がした。
背中を丸め、何度も咳き込みながら水を吐き出す。次第に、鼻腔の奥に、青く香る草の匂いが満ちてきた。
『シユウ様、だいじょうぶ?』
幼い声が頭の中に響く。
「……え……?」
ぼやけていた視界が、少しずつ輪郭を取り戻していく。
まず気づいたのは、周囲を満たすやわらかな光。
焦点が合ってきた視界に映ったのは、
「ここは、え、あれ……??」
混乱をそのまま口にしつつ、青は両手で土を押し、身体を起こす。
目の前に、黒い獣の顔があった。
「なっ!」
青はとっさに
正面に、四つ足の黒い獣が伏せたまま、じっと青を見つめていた。
闇のような体毛に包まれた細身の体、しなやかな
春の水面のように透きとおった碧い瞳が、どこか心配げに青を見つめていた。
『シユウ様、どこか痛い?』
幼い声が、再び青の頭に響く。
口は動いていない。
だが確かに、目の前の獣が語りかけていることは理解できた。
「あ……ミ、ツキ……?」
記憶を探るように名を呼ぶと、黒い獣は首を伸ばし、細長い口吻を上下に揺らす。
微笑むように開かれた口元からは、
「助けてくれたのか……ありがとう……!」
青は思わず、犬や猫にするように、ミツキの
ミツキは気持ちよさそうに瞳を細め、その手に顔と頭をすり寄せた。応えるように、青も頭を
「……?」
指先に、ふと硬い感触が伝わった。
耳と耳のあいだ、頭頂に近い位置。
まるで若い
青がしばらくそのあたりを確かめるように撫でていると、ミツキはくすぐったそうに首を振る。
「あ……ごめん」
青は手を引き、改めて、命の恩人に正面から向き直った。
「ミツキは、どうして
『
「あぁ……」
命を救われた手前、
『シユウ様、やっぱり優しいお顔』
「え、あ……っ」
その指を唇の上に当て、小声で囁《ささや》く。
「……内緒に、ね」
内緒、の言葉にミツキは子どもらしい
『でも、どうしてお顔を隠さないといけないの?』
「……大人の事情ってやつだよ」
かつて藍鬼と交わした、よく似た会話が記憶によぎる。
青の
「それよりも……っと」
気を取り直し、青は腰を浮かして立ち上がる。
足元にわずかなふらつきを感じつつも、体の
ミツキも、それに
「ここは、どの辺りだ……」
改めて、青はあたりを見渡した。
そこは、静かな支流の川べりだった。激闘が繰り広げられていた露流河とは正反対の、穏やかで澄んだ水音が流れている。
空には月が昇り、周囲は
「……人道?」
白い月光が、小川に沿って伸びる一本の道を照らしている。
草の根が
「行ってみよう、ミツキ」
青はそちらへと足を踏み入れた。
『はい、シユウ様』
ミツキが寄り添うようにして、そのすぐ隣を歩く。
「あれは……」
足元に目を落とすと、道の脇に、小さな
中には、手のひらほどの丸い玉石がひとつ、供えられている。
「どこかで見たような……あ……」
かつて白妙の村に案内されたとき、村の入り口で見かけたものと、よく似ていた。
だが今は――白く光を映していたはずの玉石が、黒ずみ、濁っている。
添えられている花は萎《しお》れ、
「……え……」
背後を振り返る。
そこは藪《やぶ》に包まれ、小川の流れも
――村に、呼ばれている。
再び道へと向き直り、青はミツキと共に、そっと一歩を踏み出した。
*
「人間の姿には、ならないのか?」
薄暗い
『この方が速く走れるし、高いところや、遠くに
豊かな毛並みの黒い尾が、
どちらで在ることが自然かは個人差があると、学んだことがあった。
『妖怪なんてガブって
そう言ってミツキは得意げに胸を張り、
「ありがとう」
軽やかに足を運ぶ姿が微笑ましく、青は思わず口元を緩めたが、気を取り直して行く道を見渡す。
湿り気を帯びた土の、豊かな
空を見上げれば、真上には月――やけに冴えた光が足元をほのかに照らしている。
小径の先に続くであろう村まで、迷い人を導いているようだ。
枝葉と、背が高い
「やっぱり……」
青は息を呑んだ。
山林に抱かれた
日が落ちた後のためか、人の気配は薄い。
けれど、
そして村の奥、左手には白亜の館がひっそりと佇んでいる。
箱庭のように整えられた風景。
ここは、間違いなく
「……館が左側ってことは、反対側から村に入ってきた、のか……ミツキ?」
「グルルルル……」
青の足もとに寄り添っていたミツキが、小さく喉を鳴らした。
田の
「……っ」
青はとっさに、額当てを目深に引き下ろした。
「おや……?」
人影がこちらの存在に気づき、腰に提げていた小ぶりな提灯《ちょうちん》を掲げた。
淡い桜色の手拭いで頬かむりした、村の女。
片手には摘んだばかりらしい、菜の花の束を抱えている。
以前も隊をもてなしてくれた女衆のひとり、穏やかそうな中年の女だった。
「あら、お兄さん、確か前に……そんなずぶ濡れで。
「あ……夜分に、申し訳ありません」
「まあまあ、今日はわんこちゃんもいっしょ?」
青が控えめに頭を下げると、女は提灯をミツキの方へ移した。
「大丈夫だ……」
青が片手でそっと頭を一撫ですると、ミツキは歯を
提灯に照らされた女の薄暗い瞳が、細められる。
かつて見たときの、夕焼けを映したような朱ではなかった。
「黒の毛並みがきれいだね。黒いふさふさの……あぁ……クロ……」
ミツキを眺めていた女の瞳が、薄暗く
「懐かしい……うちにも黒い……あれは……猫、猫がいたの」
記憶の底を手探りするように、女は言葉をつなぐ。
視線は遠く、
「名前はクロで……単純でしょう? 武官殿が勝手に名付けをしてしまって……本当は、
「翠瑛様……?」
翡翠ノ國の、数代前の長だ。
兎族の高官に用意してもらった資料、翡翠歴代の長の名を記した年表の中に、その名があった。
女は片腕の菜の花をそっと胸元に引き寄せ、うわ言のような独り言を呟き続ける。
「あの……」
青が控えめに声をかけるが、女はまるで聞こえていないようで、うっとりと菜の花を見つめたまま。
呟きの端々から「翠瑛様」「翡翠宮」「奥ノ宮」といった言葉が漏れ聞こえた。
「そうだった……わたし、
女の手から、菜の花の束が落ちる。
ぺたりと湿った土の上に座り込み、項垂《うなだ》れ、地面を見つめたまま動かなくなった。
「……」
『シユウ様……?』
戸惑うミツキを伴い、青はそっと女の前から身を引くようにして、畦道を辿る。
「おや、お客さんかな。獣と二人旅かい」
そこへ、新たに別の声が掛かった。
用水路の縁、畑を囲む水辺に腰を下ろした高齢の男が、ゆったりと
丸まった肩に
「フキを採りに来たんだよ。夕餉《ゆうげ》の汁に足そうと思ってね」
男の視線を追って水辺に目をやれば、たしかに斜面にはフキの葉が丸く広がり、夜風にゆらりと揺れている。
けれど、男はフキを摘むでもなく、ただそこに腰を落としたままだ。
「どこか、お悪いのですか」
無意識に、医療士だった頃の癖が、青の口を突いて出た。
顔色をうかがおうと老人の目元を覗くと、彼もまた、薄暗い色の瞳をしている。
「なんだか頭が重たくてなぁ。でもこの村のものを食べれば、すぐに元気になるんだ」
老人はゆるやかに棒提灯を掲げたまま、ゆらゆらと灯を揺らした。
「……ここは、水も食べ物も、豊かですね」
青はそっと老人の隣に腰を屈め、視線の高さを合わせる。
その一方で、ミツキは用水路へ首を伸ばし、熱心に匂いを嗅いでいた。
「ほんにのう。わしが育った村は、岩だらけなもんだから……不作の年は草を食うて飢えを
次第に
翡翠石の
ことに東方――凪之国との取引が始まってからようやく、最低限の補助が行き渡るようになったと、政治史資料には記されている。
「口べらしのためにな……わしは川に入った。珍しく、雪が降り積もってのう……それは綺麗で……まるで死装束だと思うた……あの子らは……元気でいるかのう……食えているかのう……」
記憶を掘り返すようにぽつりぽつりと語るうちに、老人の目はしだいに遠くを見つめはじめた。
もう、彼の意識に、青やミツキは存在していない。
ただ、提灯が照らす里の風景を、懐かしむように見つめていた。
「……ミツキ、行こう」
声を低く落とし、青はそっと立ち上がった。
水辺から踵を返したミツキが、青の足元へ寄り添う。
碧い瞳でちらと見上げ、不安そうにひとつ瞬いた。
『シユウ様、あそこに流れている水……血だよ』
「血……やっぱり……。匂いを拾ったのか」
驚きと同時に、妙な納得が胸に落ちる。
かつてこの村で提供された食事に、檜前が嗅ぎとった「血の臭い」――この村では、あらゆる食物がこの水で育っているのだ。
『この村は、あちこちから、同じ匂いがする。菜の花も、フキも。とても、やさしい匂いなの』
蒼狼《あおがみ》の要塞で嗅いだ臭いとも、高官の恐ろしい気配を孕《はら》んだ臭いとも異なる。
この村の豊かな水と食べ物――それは、白妙の血肉にほかならない。
「……何か、おかしい」
頬に生ぬるい風が触れた。
青は畦道の真ん中で、辺りを見渡す。
いつの間に外へ出てきたのか、村のあらゆる場所に、影絵のように動かない村人たちが点在していた。
縁側で若い夫婦が並んで腰を下ろし、言葉も交わさず、ただ遠くを見つめたまま。
その先では、山桜の花吹雪を仰ぎながら、小さな子どもたちが立ち尽くしている。
まるで時の流れから切り離されたかのように、村は「止まって」いた。
かつて青たちがこの村で目にした、生きた営みの気配は、どこにもない。
「……」
背中に走る微かな恐怖心に、青は反射的に来た道を振り返った。
村の東側、青とミツキが流れ着いた小径の出口は、いつの間にか藪と低木に塞がれている。
「白妙さんの影響か……?」
河に落下する寸前、青が最後に目にした光景は、焔大蛇が白蛇に喰らいつく瞬間だった。
「グルルル……ッ」
ミツキの唸り声に、青は身を返した。
「あの……もし!」
呼びかけの声とともに、まっすぐに伸びる畦道の向こうから、細身の少年が駆けてくる。
「大丈夫だ、ミツキ。あの子は……」
檜前と雲類鷲の幼馴染、
「以前にもいらしていた、
「あ、ああ……君は確か――」
青は面食らって言葉が
かつてはどこか夢うつつな気配を漂わせていた少年が、今は張りのある声と、
「ユウは、
小五郎は青の背後やその周囲に、探すように視線を巡らせた。
「え……?」
青は言葉を呑む。
――ソウタって誰だよ、お兄さんは誰?
――俺だ、檜前ユウだ。わからないのか。
あの時。檜前准士の剣幕に、恐怖と嫌悪の混じった目を向けていた小五郎の姿が、脳裏に浮かぶ。
「小五郎君、でも君は……」
「オレは、
青の問いかけを遮るように、少年ははっきりと名乗った。