毒使い   作:キタノユ

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ep. 52 早春の白露(5)

「青!!!」

 最後に、豺狼(さいろう)の声が聞こえた。

 

「――っ!」

 その名を呼び返すこともできず、暗く冷たい闇に引き()り込まれ、仄明(ほのあか)るい水面が急激に遠ざかる。

 

 黒い渦に体が()かれ、(もが)くこともできないまま、体が深淵(しんえん)へと沈んでいった。

 

 そのうち、上下の感覚が曖昧(あいまい)になりはじめる。

 

 濁流(だくりゅう)(とどろ)きが次第に遠ざかり、胸を締めつけていた息苦しさも薄れていった。

 浮遊するような感覚が身を包む。

 意識が、途切れかけていた。

 

 ――青

 

 誰かの声に呼ばれた気がした。

 

 前にも、同じことがあった。

 幼い頃、蟲之区で藍鬼(らんき)の殉職を知ってしまい卒倒したあの日、夢で聞いたのは、藍鬼の声。

 

 ――青

 

 けれど。

 これは誰の声だろう、これは――

 

「さ……ぃ……」

 瞼の裏に、(あお)い瞳が浮かんだ。

 

「――っ、い、やだ……」

 

 死んでたまるか。

 暗闇に向かって、青は手を伸ばす。

 

 そこが水面なのか、水底(みなそこ)なのかすら判然としない。

 ただ、生にすがるように闇を()いた。

 

 

 二柱の巨蛇は、もつれたまま河へと沈んでいった。

 波はしばし上流を荒らし、行き場を失った奔流(ほんりゅう)がうねりながら、やがて下流へと流れ始める。

 

「青……っ!」

 河渕(かわぶち)へと駆けつけた豺狼は、削れた河岸の縁から(にご)った水面を見渡した。

 

「青!!」

 再度その名を叫ぶ。

 青の姿は見当たらない。

 

「川下に流されたか――っえ……?!」

 振り向きかけた豺狼のすぐ脇を、黒い影が疾風のように駆け抜けた。

 薄闇の中でかろうじて、四つ足の獣の輪郭(りんかく)が見て取れる。

 

「待て! ミツキ!」

 背後から(ハク)の声が飛ぶ。

 黒い獣影は水面を滑り、身を(ひるがえ)して急旋回しながら、水飛沫(みずしぶき)を散らして下流へと駆けていく。

 やがて水面へと潜り、夜河の闇に掻き消えた。

 

「狛殿下、今のは……っ」

 豺狼は己を奮い立たせるように息を強く吐き出し、狛を振り返る。

 

白狼邦(はくろうほう)の、獣鬼隊(じゅうきたい)の子だ。シユウ殿の気を追っているのだろう」

 そこに立ち尽くす狛の顔色は青ざめていた。

 

「面目ない……我の力不足であった……」

 言葉を絞るように吐いた狛の面差しに、豺狼は首を横に振った。

 

「貴方も喰われるところだった。仕方のないことです」

 低く、努めて冷静に押し殺した声音でそう応じ、黒い影が姿を消した下流に向けて(きびす)を返した。

 狛も続こうと豺狼を目で追う。

 

 その時――

 

 ――ゴォオオッ!!

 

「!?」

 下流側から、重く低い轟音。

 地が揺れる。

 思わず足が止まった。

 

 川下側へ移動していた奔流(ほんりゅう)が砕け、黒曜の柱と紅蓮の柱が、向き合うように立ち上がる。

 

「変容している……!?」

 遠くに見上げる焔大蛇の姿は、もはや別物と化していた。

 全身の鱗が異様に膨張し、巨体が更に一回りも(ふく)れ上がっている。

 

 紅黒に(すす)けた鱗の隙間、肌理(きめ)の奥が強く(かがや)いた刹那――大きく開いた焔大蛇の口腔が閃光を放った。

 

 対峙する露の正面に水の障壁(しょうへき)が発生、灼熱を受け止め激しく蒸気が噴き上がる。

 

「うわっ!」

「下がれ下がれ!」

 

 爆《は》ぜる水音が谷に反響し、肌を焦がすほどの濃密な熱霧(ねつむ)があたりを覆った。

 猪牙(いのきば)の指示が飛び、凪の面々は斜面を駆け上がる。

 入れ替わるように、白狼隊が再び河岸へ飛び出した。

 

「ガルルッ!」

 唸り声が吹雪を呼ぶ。

 氷の息吹が谷を渡り、熱波を冷気で洗い清めた。

 

 ――ゴシャァアアア!!

 

 噴火のような咆哮が谷を揺らし、焔大蛇の全身が赫々(かくかく)と脈動する。灼熱の閃光が次々と放たれ、炎焔(えんえん)奔瀑(ほんばく)が激突した。

 激しい蒸気と火雨が下流一帯を覆う。

 

毒腺(どくせん)は焼き切ったはずだ。どこにあんな余力が……!」

 唸《うな》るように吐き捨て、豺狼は青の行方を追って駆け出した。

 

「白蛇神、白妙(しろたえ)殿を喰らったからであろう」

 背後から、狛の声が応える。

 

「それは――」

 豺狼は足を緩め、振り返った。合わせて狛も、立ち止まる。

 

「我ら神獣の血胤(けついん)、その血肉の力だ。とりわけ白蛇神殿は、治癒の力が濃い」

「神獣の血肉……」

 

 記憶を()ぎるのは、白妙の村の人々や、白兎ノ國(はくとのくに)の少年、トウキの無邪気な言葉。

 

『神獣様や神獣人様の血を飲むと、どんな病気やケガも治る』と。

 

「!」

 思考を断ち切るように、下流から連続する爆音が轟く。

 豺狼は弾かれたように身を翻し、再び下流へと駆け出した。

 

 

 闇を掻《か》く青の指先に、ふと、何かが触れた。

 

 柔らかく、それでいて確かな感触が、指から腕へ、じわりと伝わる。

 水底の闇よりなお深い漆黒の影が、そっと青の身体を包みこんだ。

 

「だ、れ……」

 青の肺に残っていた最後の空気が、泡となって漏れ出す。

 

 その泡の向こうに、かすかな光が(とも)った。

 灯り。

 

 黒い「何か」が青の体を闇の底から引き()がした。

 腹の底から内臓ごと持ち上がる――転送陣で転移する直前の浮遊感が押し寄せる。

 光に向かって、青の身体は一気に引き上げられた。

 

 暖かく柔らかな空気が、肌を撫でる。

 

 ――様

 

 ――……ウ様

 

 高く、けれども柔らかな声に呼びかけられた。

 

『シユウ様!』

「……ん……」

 

 応えようと息を吸い込んだ途端、ごぼり、と喉の奥から水が逆流した。

 

「っごほ、っ……!」

 鼻腔(びくう)に鋭い痛みが走り、激しく咳き込む。反射的に身を傾け、片手で地を突いて上半身を起こす。

 地面に触れた手のひらに、柔らかい土と、湿った草の感触がした。

 

 背中を丸め、何度も咳き込みながら水を吐き出す。次第に、鼻腔の奥に、青く香る草の匂いが満ちてきた。

 

『シユウ様、だいじょうぶ?』

 幼い声が頭の中に響く。

 (うずくま)る青の(ほほ)に、ふわりと柔らかな毛並みが触れた。

 

「……え……?」

 ぼやけていた視界が、少しずつ輪郭を取り戻していく。

 

 まず気づいたのは、周囲を満たすやわらかな光。

 焦点が合ってきた視界に映ったのは、肥沃(ひよく)な色をした土と若草、そしてナズナやハコベといった、人里で見慣れた野の花々だった。

 

「ここは、え、あれ……??」

 混乱をそのまま口にしつつ、青は両手で土を押し、身体を起こす。

 

 目の前に、黒い獣の顔があった。

 

「なっ!」

 青はとっさに()うようにして後退するが、力が入らず、そのまま尻餅(しりもち)をつく。

 正面に、四つ足の黒い獣が伏せたまま、じっと青を見つめていた。

 

 闇のような体毛に包まれた細身の体、しなやかな四肢(しし)、若々しく張った大きな耳。

 春の水面のように透きとおった碧い瞳が、どこか心配げに青を見つめていた。

 

『シユウ様、どこか痛い?』

 

 幼い声が、再び青の頭に響く。

 口は動いていない。

 だが確かに、目の前の獣が語りかけていることは理解できた。

 

「あ……ミ、ツキ……?」

 記憶を探るように名を呼ぶと、黒い獣は首を伸ばし、細長い口吻を上下に揺らす。

 微笑むように開かれた口元からは、白磁(はくじ)のような歯列(しれつ)と、血色の良い舌先がちらと覗いた。

 

「助けてくれたのか……ありがとう……!」

 青は思わず、犬や猫にするように、ミツキの口吻(こうふん)まわりへ手を伸ばし、やわらかく撫でる。

 

 ミツキは気持ちよさそうに瞳を細め、その手に顔と頭をすり寄せた。応えるように、青も頭を()で返す。

 

「……?」

 指先に、ふと硬い感触が伝わった。

 耳と耳のあいだ、頭頂に近い位置。

 まるで若い牡鹿(おじか)の角が芽吹きかけているかのような小さな突起(とっき)が、そこにあった。

 

 青がしばらくそのあたりを確かめるように撫でていると、ミツキはくすぐったそうに首を振る。

 

「あ……ごめん」

 青は手を引き、改めて、命の恩人に正面から向き直った。

 

「ミツキは、どうして露流河(つるがわ)に?」

黒鉄(クロガネ)様や獣鬼隊のみんなと一緒に、村を焼かれた人たちの避難をお手伝いにきたの。それで、シユウ様がいるって聞いて……抜け出してきちゃったんだ』

「あぁ……」

 

 命を救われた手前、(とが)めるわけにもいかず、青は小さく苦笑するにとどめた。

 

『シユウ様、やっぱり優しいお顔』

「え、あ……っ」

 

 (ひたい)当てが首までずり下がり、素顔が(あら)わになっていることに気づく。

 咄嗟(とっさ)に片手で顔を覆ったが、相手は他国の、まだ幼い子ども。「大月青」として再び対面することはないだろう――そう自らを納得させ、ひとつ息を吐いてから、手を下ろした。

 

 その指を唇の上に当て、小声で囁《ささや》く。

「……内緒に、ね」

 

 内緒、の言葉にミツキは子どもらしい悪戯(いたずら)めいた笑みを浮かべ、「ふふ」と小さく笑った。

 

『でも、どうしてお顔を隠さないといけないの?』

「……大人の事情ってやつだよ」

 

 かつて藍鬼と交わした、よく似た会話が記憶によぎる。

 青の眉目(びもく)に、ひとときだけ追憶(ついおく)の色が差した。

 

「それよりも……っと」

 気を取り直し、青は腰を浮かして立ち上がる。

 足元にわずかなふらつきを感じつつも、体の節々(ふしぶし)を確かめたかぎりでは、骨折などの重傷はないようだった。

 

 ミツキも、それに(なら)うように四肢を折り畳み、軽やかに身体を起こす。

 

「ここは、どの辺りだ……」

 改めて、青はあたりを見渡した。

 

 そこは、静かな支流の川べりだった。激闘が繰り広げられていた露流河とは正反対の、穏やかで澄んだ水音が流れている。

 空には月が昇り、周囲は(ほの)かな明るさに満ちていた。

 

「……人道?」

 白い月光が、小川に沿って伸びる一本の道を照らしている。

 草の根が()がれ、土が踏み締められただけの粗末な小径(こみち)。どこかの村落へ続いているのかもしれない。

 

「行ってみよう、ミツキ」

 青はそちらへと足を踏み入れた。

 

『はい、シユウ様』

 ミツキが寄り添うようにして、そのすぐ隣を歩く。

 

「あれは……」

 足元に目を落とすと、道の脇に、小さな(ほこら)がぽつんと据えられていた。

 中には、手のひらほどの丸い玉石がひとつ、供えられている。

 

「どこかで見たような……あ……」

 かつて白妙の村に案内されたとき、村の入り口で見かけたものと、よく似ていた。

 

 だが今は――白く光を映していたはずの玉石が、黒ずみ、濁っている。

 添えられている花は萎《しお》れ、饅頭(まんじゅう)らしき供物(くもつ)は腐りかけ、形を崩していた。

 

「……え……」

 背後を振り返る。

 そこは藪《やぶ》に包まれ、小川の流れも枝垂(しだ)れる枝葉に遮られて、上流の様子は見通せなかった。

 

 ――村に、呼ばれている。

 

 再び道へと向き直り、青はミツキと共に、そっと一歩を踏み出した。

 

 

「人間の姿には、ならないのか?」

 薄暗い小径(こみち)を進みながら、青は寄り添う獣姿のミツキに問いかけた。

 

『この方が速く走れるし、高いところや、遠くに()べるんだ』

 豊かな毛並みの黒い尾が、機嫌(きげん)良く揺れている。

 

 蒼狼ノ國(あおがみのくに)の要塞外で初めてミツキと出会ったとき、まだうまく変化ができないと話していたが、これこそが「本来の姿」である可能性もある。

 どちらで在ることが自然かは個人差があると、学んだことがあった。

 

『妖怪なんてガブって()みついてやるの。シユウ様も守ってあげる』

 そう言ってミツキは得意げに胸を張り、(あお)い瞳でちらちらと青の顔を見上げる。

 

「ありがとう」

 軽やかに足を運ぶ姿が微笑ましく、青は思わず口元を緩めたが、気を取り直して行く道を見渡す。

 

 湿り気を帯びた土の、豊かな土壌(どじょう)の匂いがした。

 空を見上げれば、真上には月――やけに冴えた光が足元をほのかに照らしている。

 小径の先に続くであろう村まで、迷い人を導いているようだ。

 

 枝葉と、背が高い(やぶ)が作るくぐり道を抜けると、小径はやがて森を抜けた。

 

「やっぱり……」

 青は息を呑んだ。

 

 山林に抱かれた(さと)――畦道(あぜみち)で仕切られた田畑が広がる。

 日が落ちた後のためか、人の気配は薄い。

 けれど、山裾(やますそ)に沿って点々と並ぶ茅葺(かやぶ)きの家々には、それぞれ囲炉裏火(いろりび)の灯りが、寝息のように静かに揺れていた。

 そして村の奥、左手には白亜の館がひっそりと佇んでいる。

 箱庭のように整えられた風景。

 ここは、間違いなく白妙(しろたえ)の村だ。

 

「……館が左側ってことは、反対側から村に入ってきた、のか……ミツキ?」

「グルルルル……」

 青の足もとに寄り添っていたミツキが、小さく喉を鳴らした。

 

 田の(あぜ)を埋める菜の花畑が揺れ、人影がのそりと立ち上がる。

 

「……っ」

 青はとっさに、額当てを目深に引き下ろした。

 

「おや……?」

 人影がこちらの存在に気づき、腰に提げていた小ぶりな提灯《ちょうちん》を掲げた。

 

 淡い桜色の手拭いで頬かむりした、村の女。

 片手には摘んだばかりらしい、菜の花の束を抱えている。

 以前も隊をもてなしてくれた女衆のひとり、穏やかそうな中年の女だった。

 

「あら、お兄さん、確か前に……そんなずぶ濡れで。(つゆ)に流されたの?」

「あ……夜分に、申し訳ありません」

「まあまあ、今日はわんこちゃんもいっしょ?」

 

 青が控えめに頭を下げると、女は提灯をミツキの方へ移した。

 

「大丈夫だ……」

 青が片手でそっと頭を一撫ですると、ミツキは歯を()いていた口を閉じた。

 

 提灯に照らされた女の薄暗い瞳が、細められる。

 かつて見たときの、夕焼けを映したような朱ではなかった。

 

「黒の毛並みがきれいだね。黒いふさふさの……あぁ……クロ……」

 ミツキを眺めていた女の瞳が、薄暗く(にご)る。

 

「懐かしい……うちにも黒い……あれは……猫、猫がいたの」

 記憶の底を手探りするように、女は言葉をつなぐ。

 視線は遠く、(うつ)ろだった。

 

「名前はクロで……単純でしょう? 武官殿が勝手に名付けをしてしまって……本当は、翠瑛(りょくえい)様と同じにしたかったのに……翠瑛様のお(ぐし)はね、黒曜石(こくようせき)のように美しくて……翡翠の髪飾りがとてもお似合いだったの」

 

「翠瑛様……?」

 翡翠ノ國の、数代前の長だ。

 兎族の高官に用意してもらった資料、翡翠歴代の長の名を記した年表の中に、その名があった。

 

 女は片腕の菜の花をそっと胸元に引き寄せ、うわ言のような独り言を呟き続ける。

 

「あの……」

 青が控えめに声をかけるが、女はまるで聞こえていないようで、うっとりと菜の花を見つめたまま。

 呟きの端々から「翠瑛様」「翡翠宮」「奥ノ宮」といった言葉が漏れ聞こえた。

 

「そうだった……わたし、珠鳴ノ渓(たまなりのけい)から落ちて……流されて……」

 女の手から、菜の花の束が落ちる。

 ぺたりと湿った土の上に座り込み、項垂《うなだ》れ、地面を見つめたまま動かなくなった。

 

「……」

『シユウ様……?』

 戸惑うミツキを伴い、青はそっと女の前から身を引くようにして、畦道を辿る。

 

「おや、お客さんかな。獣と二人旅かい」

 そこへ、新たに別の声が掛かった。

 

 用水路の縁、畑を囲む水辺に腰を下ろした高齢の男が、ゆったりと棒提灯(ぼうちょうちん)を揺らしている。

 丸まった肩に色褪(いろあ)せた麻の羽織をかけ、空の(かご)を背負っていた。

 

「フキを採りに来たんだよ。夕餉《ゆうげ》の汁に足そうと思ってね」

 男の視線を追って水辺に目をやれば、たしかに斜面にはフキの葉が丸く広がり、夜風にゆらりと揺れている。

 けれど、男はフキを摘むでもなく、ただそこに腰を落としたままだ。

 

「どこか、お悪いのですか」

 無意識に、医療士だった頃の癖が、青の口を突いて出た。

 顔色をうかがおうと老人の目元を覗くと、彼もまた、薄暗い色の瞳をしている。

 

「なんだか頭が重たくてなぁ。でもこの村のものを食べれば、すぐに元気になるんだ」

 老人はゆるやかに棒提灯を掲げたまま、ゆらゆらと灯を揺らした。

 

「……ここは、水も食べ物も、豊かですね」

 青はそっと老人の隣に腰を屈め、視線の高さを合わせる。

 その一方で、ミツキは用水路へ首を伸ばし、熱心に匂いを嗅いでいた。

 

「ほんにのう。わしが育った村は、岩だらけなもんだから……不作の年は草を食うて飢えを(しの)いだ……それでも足りんくてなぁ……ようけ死んだ……」

 

 次第に(なま)りが強くなっていく老人の語りを聞きながら、青は眉をひそめる。

 

 翡翠石の交易(こうえき)が軌道に乗る以前、翡翠ノ國は極貧の地であった。

 ことに東方――凪之国との取引が始まってからようやく、最低限の補助が行き渡るようになったと、政治史資料には記されている。

 

「口べらしのためにな……わしは川に入った。珍しく、雪が降り積もってのう……それは綺麗で……まるで死装束だと思うた……あの子らは……元気でいるかのう……食えているかのう……」

 

 記憶を掘り返すようにぽつりぽつりと語るうちに、老人の目はしだいに遠くを見つめはじめた。

 もう、彼の意識に、青やミツキは存在していない。

 ただ、提灯が照らす里の風景を、懐かしむように見つめていた。

 

「……ミツキ、行こう」

 声を低く落とし、青はそっと立ち上がった。

 水辺から踵を返したミツキが、青の足元へ寄り添う。

 碧い瞳でちらと見上げ、不安そうにひとつ瞬いた。

 

『シユウ様、あそこに流れている水……血だよ』

「血……やっぱり……。匂いを拾ったのか」

 

 驚きと同時に、妙な納得が胸に落ちる。

 かつてこの村で提供された食事に、檜前が嗅ぎとった「血の臭い」――この村では、あらゆる食物がこの水で育っているのだ。

 

『この村は、あちこちから、同じ匂いがする。菜の花も、フキも。とても、やさしい匂いなの』

 

 蒼狼《あおがみ》の要塞で嗅いだ臭いとも、高官の恐ろしい気配を孕《はら》んだ臭いとも異なる。

 

 この村の豊かな水と食べ物――それは、白妙の血肉にほかならない。

 

「……何か、おかしい」

 頬に生ぬるい風が触れた。

 青は畦道の真ん中で、辺りを見渡す。

 

 いつの間に外へ出てきたのか、村のあらゆる場所に、影絵のように動かない村人たちが点在していた。

 

 縁側で若い夫婦が並んで腰を下ろし、言葉も交わさず、ただ遠くを見つめたまま。

 その先では、山桜の花吹雪を仰ぎながら、小さな子どもたちが立ち尽くしている。

 

 まるで時の流れから切り離されたかのように、村は「止まって」いた。

 かつて青たちがこの村で目にした、生きた営みの気配は、どこにもない。

 

「……」

 背中に走る微かな恐怖心に、青は反射的に来た道を振り返った。

 村の東側、青とミツキが流れ着いた小径の出口は、いつの間にか藪と低木に塞がれている。

 

「白妙さんの影響か……?」

 河に落下する寸前、青が最後に目にした光景は、焔大蛇が白蛇に喰らいつく瞬間だった。

 

「グルルル……ッ」

 ミツキの唸り声に、青は身を返した。

 

「あの……もし!」

 呼びかけの声とともに、まっすぐに伸びる畦道の向こうから、細身の少年が駆けてくる。

 

「大丈夫だ、ミツキ。あの子は……」

 檜前と雲類鷲の幼馴染、惣太(ソウタ)――ここでは炭焼きを担う少年、小五郎。

 粗織(あらおり)上衣(うわぎ)に短めの(はかま)、その身なりは以前に出会った時と変わらない。

 

「以前にもいらしていた、凪邦(なぎほう)の方ですよね!」

「あ、ああ……君は確か――」

 

 青は面食らって言葉が(よど)んだ。

 かつてはどこか夢うつつな気配を漂わせていた少年が、今は張りのある声と、(つや)を宿した飴色の瞳が、芯の通った印象に変化している。

 

「ユウは、檜前(ひのくま)ユウは一緒ではありませんか」

 小五郎は青の背後やその周囲に、探すように視線を巡らせた。

 

「え……?」

 青は言葉を呑む。

 

 ――ソウタって誰だよ、お兄さんは誰?

 ――俺だ、檜前ユウだ。わからないのか。

 

 あの時。檜前准士の剣幕に、恐怖と嫌悪の混じった目を向けていた小五郎の姿が、脳裏に浮かぶ。

 

「小五郎君、でも君は……」

「オレは、惣太(ソウタ)です」

 

 青の問いかけを遮るように、少年ははっきりと名乗った。

 

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