毒使い   作:キタノユ

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ep. 53 継ぎ(1)

 一色より東雲天陽(しののめ・てんよう)に宛てた式文には、次の指令が記されていた。

 

 新たに開かれた白妙(しろたえ)村へ赴き、下記の任を果たすべし。

 一、同村の新たなる長と面会し、村の実情を視察すべし。

 一、村に滞在中の自警団頭と接触を図ること。

 一、翡翠(ひすい)における凪之国の駐在大使が、面会を望んでいる旨を伝えること。

 

 命を受け、白妙村へ向かう東雲天陽は、明け方の山林を縦走していた。

 白み始めた空に、杉の梢が金色の輪郭を描き始めている。

 

「うわぁ……綺麗!」

「ほんと、雲海みたい」

 背後から聞こえてくるのは、若い二人の声。

 

 一人は天陽の姪《めい》、東雲(アキ)准士。

 もう一人は、チョウトク見習いの日野あさぎ下士である。

 

 ふたりは冬の間、菊野アザミ上士とともに白兎ノ國に滞在していたが、それぞれ異なる理由で、一時帰還を命じられていた。

 

 あさぎの場合、法軍の未成年士官に関する規則――「十八歳以下の士官は、連続三月(みつき)を超える遠征任務に就いてはならない」――に則ったものだ。現在は、同世代の士官が交代要員として白兎へ派遣されている。

 

 一方のアキは、白兎周辺で得た諜報記録の持ち帰りと報告の任を受け、別のチョウトク隊員へ引き継ぎ、帰国していたところだ。

 

 このように、西方への人員運用が機動的になったのは、たった一つの転送陣の設置がもたらした恩恵にほかならない。

 

「昨日の大蛇大決戦の騒動が、嘘みたいだね」

 あさぎは、いわく「世紀の対決」を目の当たりにした興奮が冷めやらぬ様子だ。

 

 河面と東岸の森は今、朝靄(あさもや)(しゃ)に包まれている。

 気流に乗って靄が西側の斜面にも昇り、激しい戦いの爪痕を薄らと覆い隠していた。

 炭化した木々や崩れた岩からは、今なお焦げた臭いが立ちのぼっている。

 

「さすがにこの辺りまでくると、ひどいものだな」

 山道のあちこちで草が剥げ、黒ずんだ土がむき出しになっている。焔大蛇が撒き散らした火球による焼跡だ。

 

「それでも、死傷者無し、延焼もなし……被害が最小限に抑えられている」

 地図を一瞥したアキが、感嘆の息を漏らす。

 

「まったくだ。三者の寄り集まりが、よく機能したもんだ」

 天陽も歩を緩め、ふたりに並ぶ。

 結んだ袖先でこめかみの汗を拭いながら、視線を遠くへ投げた。

 

 かつて兄・向陽(こうよう)と肩を並べ、東の崖上から眺めた胸を踊らす景色――いまはその反対側から、同じ光景を見下ろしている。

 

「……いかんいかん」

 込み上げるものに目頭が熱くなりかけ、天陽は頭を振った。

 

「天陽先生、これ見て!」

 気づけばアキとあさぎは、すでに先の山道にいた。

 

「おう、どうした」

 感傷を振り払い、天陽はふたりのもとへ急ぐ。

 そこに、道を横切るように、直径ひと抱えほどの黒い沼が、行く手を塞いでいた。

 黒泥はぬめる油のような光沢を帯びており、鼻を突くすえた臭いが漂う。

 

腐沼(ふしょう)か……迂回するぞ」

 毒物や妖瘴による汚染――土壌が浄化しきれず毒を(はら)んだ腐沼は、東側でも珍しいものではない。

 成因《せいいん》も毒性も様々だが、いずれも生体に害をなすことに変わりはない。

 

「調べなくていいの?」

「それはまた後――おい!」

「あさちゃん!」

 

 止める間もなく、あさぎが沼に半袖の左腕を突っ込んだ。途端、肌にまとわりつくように白い泡が湧き、煙が立ちのぼる。

 

「大丈夫だよ」

 そう言って、あさぎは泥を一掴みし、沼から手を引き抜いた。左手に取り出した小さな軟膏《なんこう》入れの容器に、黒泥を移そうとするが、粘着質な泥は、まるで意志を持つかのように蠢き、手首から腕へと這い上がっていった。

 

「な、何これ!」

 慌てるアキとは対照的に、あさぎは平然とその動きを観察している。

 そのうち黒泥はみるみる乾き、色を失い、ひび割れたかと思うと、砂となってぼろぼろと崩れ落ちた。

 

「あさちゃん……何をするつもりだった」

 天陽が、疲れの滲む目で弟子を見やる。

 

試料(しりょう)として、役にたつかと思ったの。シユウ一師も村にいるんでしょ? でも……これじゃ役に立たないかな」

「残念」と、あさぎは容器に残った砂を足元へあけた。半袖の素肌も、火傷一つ残っていない。

 

「はぁ……」

 天陽とアキが、そろってため息を漏らす。

 

 試料の採取もまた、諜報の一端である。あさぎのように臆することなく、危険物の収集に踏み込める者は貴重であることに疑いはない――が、(そば)で見守る身としては、毎度のごとく肝が冷えるのだった。

 

「今は先を急ぐぞ、だいぶ明るくなって――」

 空を仰いだ天陽が、そこで言葉を止めた。

 アキとあさぎも、つられるように天を見上げる。

 

「あ、(たぬき)ちゃん」

 あさぎが空を指さす。まだ薄暗さの残る西の斜面上空を、影がゆるやかに旋回していた。

 消火剤を抱えた狸を吊るした大鳥が、残火(のこりび)処理のためか、夜と朝が溶け合う空を、ゆったりと飛んでいる。

 

 あさぎは手を振ってみせたが、気づかれなかったらしく、狸と大鳥は三人の頭上を通り過ぎ、北の方角へと遠ざかっていった。

 

「見廻り当番制か……。自警団の運用体制って、なんだか法軍にも似てる気がする」

「ああ、ちょっとした部隊みたいなもんだ」

 天陽は姪に相槌を打った。

 

 自警団は露流河(つるがわ)流域に点在する村々をまたぎ、横断的に網羅《もうら》された広域組織を築いていた。翡翠ノ國においては、村単位の小さな共同体が一般的であり、これほどの規模で連携が取れた体制は珍しい。

 

「よほど、まとめ役の団長殿がデキる御仁(ごじん)なんだろうよ」

 自警団の調査を進めるにつれて抱く、これは天陽の素直な所感だ。

「その自警団長を将軍に召しあげて、翡翠国軍を創設すればいいのに」

 

「ショーグン!」

 アキが発した「将軍」の単語に、あさぎが反応を示す。

「団長さんってどんな人だろう。天陽センセイとどっちが強いかな」

「オレは内勤おじさんだからなぁ」

 天陽が苦笑して振り向いた、その時――

 

 北の空をゆったりと移動していた消化団に向けて、森から何かが発射された瞬間が見えた。

 

「キュィッ!」

 大鳥は悲鳴を上げ、

「ん?」

 三人が見つめるなか、浮遊していた消化団の狸が、大鳥の足を離れて落下する瞬間が映る。

 

「うわぁああああん!」

 とまるで幼子のような悲鳴が、森の中へ吸い込まれていった。

 運搬係の鳥は羽を傷つけられたのか、その場でしばらくおぼつかなく旋回(せんかい)していたものの、力なく峠の向こうへ飛び去る。

 

「狸ちゃんが!」

()られた……? 賊か」

 落下地点方向から、波打つように(やぶ)と枝葉が激しく揺れて、接近してきた。

 同時に「わぁぁぁぁああんっ」と全速力で駆ける声も近づく。

 音の動きを目で追っていると、右手、西側斜面の藪が激しく揺れた。

 

「やぁあああああん!」

「い!?」

 枝葉を突き抜け、大きな飾り丸(もち)ほどの毛玉が、天陽の胸元に飛び込む。

 

「な、凪邦の軍人さん……っ!?」

 しがみついてきたのは、黒と白の毛皮をまとった小さな狸。耳と手足、尻尾こそ獣だが、顔と胴は人の幼子のようで、法被(はっぴ)のような上衣(うわぎ)を身につけていた。背中には「火」の文字。

 

「た、た、助けてくださいぃっ!」

 狸の懇願に次いで藪を蹴破り、黒い影が数体、頭上から降ってきた。

 

「散れ!」

 天陽、アキ、あさぎは即座に散開。勢いで振り落とされた狸は、反対側の斜面へと転がった。

 

 土煙を上げて三人の男が、天陽の前に雪崩れ込むように着地する。朝陽を反射し、賊の得物(えもの)が閃いた。

 

「いい度胸だ!」

 天陽は右手で苦無と刀を引き抜きざま、苦無を撃った。一人目の眉間に命中、崩れ落ちる体を蹴り飛ばし、突進してきた二人目にぶつける。まともにくらった二人目は足を滑らせ、腐泥(ふでい)を踏み抜いた。白い煙が噴き上がる。

 

「ぐああああっ!」

 男の絶叫を聞き流しながら、天陽は迫る三人目の刃を一閃で弾き、懐へ踏み込んで首を掻っ切る。血を噴き上げる体に蹴りを叩き込み、腐沼でもがく二人目にくらわせ、二人まとめて腐泥に叩き落とす。すかさずその上に乗り上げて、下敷きになった二人目の首に刃を突き刺した。

 血飛沫混じりの白い煙がたちのぼる。

 

「――っふぅ」

 賊の死体を踏み台に腐沼から飛びずさり、天陽は一息を吐ききった。

 

 全てが一筆の流れで、一瞬の出来事。

 

 天陽は改めて、事切れた襲撃者どもを見やった。

 三つの死体は煙と泡に包まれ、膿泥(のうでい)へ少しずつ沈んで行こうとしている。土壌が腐り、底なし沼と化しているのであろう。

 

 すでに人相の確認は叶わないが、盗品を寄せ集めたような、ちぐはぐな装いはなお見て取れた。

「地元の野盗ってところだな……もう火事場泥棒が動き出したか」

 

「ひぃやぁあああっ」

 背後から、狸の情けない悲鳴が上がる。

「大丈夫か」

 天陽が振り返ると、

「天陽センセイ……すごい……全然見えなかった! さすが元・特士候補はホンモノだね」

 あさぎが手を叩いて飛び跳ねた。

 その隣でアキは、腰を抜かした狸を抱き上げている。

 

「……大丈夫だな。古い話を持ち出すなよ」

 声を裏返す弟子の反応に苦笑しつつ、天陽は武器を腰の(さや)に収めた。

 狸は「お見事でスぅ!」と丸い体を跳ね上げ、アキの腕から飛び降りる。

 

 姪と弟子と狸が無事な姿を確認し、天陽は小さく安堵の息を吐く。

 おおかた襲撃者の目論見は明白だった。隻腕(せきわん)の天陽を弱者と見なした時点で、すべては誤算に終わったのだ。

 

「た、たスけて下さり、ありがとうございまスぅぅっ!!」

 狸は天陽に向かって、小さな顔を地に打ちつけ、両手を合わせ、全身で感謝を表した。

 

「ちょうどこれから、自警団の団長殿にお目にかかるところだ。ついて来るか?」

 団長という言葉に、狸がぱっと綻《ほころ》ばせた顔を上げる。

 

「コウ団長に! はい、ぜひお願いいたしまス!」

 つぶらな瞳を輝かせるその様子から、団長への厚い信頼が(うかが)えた。

 

 小さな消火団員を含めた四人で進路を改めようとするさなか――

 

 ――ズル……ズル……

 

 耳慣れない(にご)った水音が、どこからか流れてくる。

 音を追って視線を巡らせると、それは足元――野盗らの死体を呑み込みかけた腐沼からだった。

 

「何だ……?」

 泥膜(どろまく)(まと)った黒沼は緩やかに波打ち、死体を呑み込んでいく。

 まるで、喰らう意思を持った生き物のように。

 

「な、何これ……!」

 アキが息を引きつらせた。

 

 四人が見守る中、みるみる死体の四肢(しし)は溶け落ち、胴体と癒着し、一体の塊と化した。

「き、き、気持ちわるーい!」

 あさぎが身を震わせる。側で狸も声にならない呻き声を漏らしていた。

 

 三つの肉塊はやがて一つに融合し、太く長く伸び上がり、表面が細かくひび割れを刻み、油を纏ったような光沢を帯びていく。

 

 唖然(あぜん)、呆然とする四人の目の前で、野盗たちの死体は蛇の異形へと姿を変えていた。

 胴体の比率に対して異様に膨れた頭部、赤黒い鱗――

 

「こいつ……、昨日の……!」

 

 焔大蛇(ほむらおろち)酷似(こくじ)した造形の妖獣が、紅い舌を揺らし、天陽の倍はあろうかという巨体を起こして、一行を鋭くねめつけた。

 

「ジャァアアアアァァッ!」

 蛇腹(じゃばら)が擦れる威嚇(いかく)音が響く。

 

「ひっ……ひ……」

 引き()った呼気を漏らし、(たぬき)は全身をわなわなと震わせる。

 蛇の(にご)った黄土色(おうどいろ)の瞳が、その場で最も非力な存在――狸へ、ぬらりと向けられた。

 

「うわぁぁぁんっ!」

 それは被食者の本能だった。腹の底からの絶叫をあげ、狸は転がるように駆け出してしまう。

 

「シャァアアアア!」

 鎌首が、逃げる狸を目掛けて(むち)のようにしなる。

 

「動いちゃダメ!」

 蛇の大口が食らいつくより速く、アキの腕が狸の丸い体を抱き寄せた。

 

「――っ!」

 (のこ)のような歯がアキの腕を抉る。

 鮮血が迸《ほとばし》った。

 

鎌鼬(かまいたち)!」

 狸を抱え倒れ込みながら放ったアキの風術が、蛇の鼻先の鱗を削ぐ。蛇は顔を振りながら仰け反った。

 

「アキ!」

「アキちゃん!」

 

 天陽は倒れ込むアキへ駆け寄り、狸ごと片腕で抱き留める。アキの顔色は急速に血の気を失っていた。

 

「あさちゃん待て! 俺が――」

「地神……」

 

 引き止める天陽の声を振り払い、あさぎが蛇に向かい地を蹴る。

 

岩槌(がんつい)!」

 石があさぎの両拳を覆って打撃の武器と化した。

 

「よくも!」

 怒りに応えるように、みるみる石が変形して鋭い(ほこ)を形作る。

 振り下ろされた蛇の顔面を寸手でかわし、全体重を乗せた拳の鉾を、蛇の後頭部に叩き込んだ。

 硬い破砕音と共に鱗が数枚、飛び散る。

 

「後ろだ!」

「――ぇっ」

 

 背後から鋭い風音、丸太のような蛇尾が迫る――僅かにあさぎの反応が遅れた。

 

「きゃっ!」

 無防備な背に一撃が叩き込まれ、あさぎの体が腐沼へ弾き飛ばされる。

 

「水陣!」

 アキを抱えたまま天陽が叫び、(あご)を大きく開いた蛇の真正面に、逆巻く水の壁がせり上がった。

 

「ゴァアッ!」

 短い咆哮と共に、蛇の口腔(こうくう)から灼熱の炎流が吐き出され水の壁に衝突、濛々(もうもう)と水蒸気が上がる。

 崩れ落ちた水壁が、周囲に驟雨(しゅうう)となって降り注いだ。

 

「こっの……!」

 腐沼から()い出し、あさぎは再び蛇に立ち向かう。身体中に浴びた腐泥はとうに乾いて砂となり、無力化していた。

 

「――アキ!」

 弟子の闘争心を止めることを諦め、天陽は(めい)に視線を落とした。ぐったりと体重を預けて(うつ)ろな面持ちがそこにある。

 右腕の手首から前腕にかけて走る傷口と、その周囲の皮膚は、おぞましい赤黒に変色していた。

 

「毒か……」

 天陽は右腕と歯でアキの袖を千切り、上腕部をきつく縛る。

 

「ご、ごめんなさい、ごめんなさいぃ……」

 涙声で謝罪を繰り返す狸が、小刻みに震えながら消火団法被の内側で何かをまさぐる。縫い付けられた小さな薬瓶(くすりびん)を、必死にもぎ取った。

 

「こ、これ、自警団秘伝の傷薬、でス、解毒作用もあって……でも……」

「使ってみてくれ」

「は、はぃっ」

 

 感情を抑え込んだ天陽の声に(うなが)され、狸は薬瓶の蓋を抜く。小さな瓶から薄桃色の液体が、傷口へ滴る。

 しみるのか、アキの目元が僅かに痙攣(けいれん)した。

 白く泡立つ薬が蛇毒と拮抗するように傷口を覆い始めるが、赤黒い染みの侵食速度が上回る。

 アキの体が細かく震え始めた。

 

「毒のまわりが速い……っ、東雲天陽(しののめ・てんよう)の名のもとに命ず!」

 

 天陽は白妙村の方角へ式鳥を放つ。

 シユウの元へ、一刻も早く知らせが届くことを願いながら。

 

「グゴッ!」

 詰まった音がして顔を上げると、あさぎが岩に覆われた拳を、蛇の口内へ深々とねじ込む瞬間が見えた。

 上腕まで呑み込まれた右腕に鋸状の牙が何本も食い込んで、蛇の口元が鮮血で塗れている。

 

「あさちゃん! やめろ!」

「だいじょーぶっ!」

 気合いと共に、あさぎの拳を覆う岩が蛇の口内で膨張――岩の鉾が内側から、蛇の頬や額板(がくいた)を突き破った。

 

「ジャァアアアァア!」

 怒りと苦痛の絶叫をあげ、蛇は狂ったように身をよじる。

 

「わ、わわっ!」

 あさぎは片腕を食いつかれたまま激しく振り回され、投げ出された体が固い音と共に地面に叩きつけられた。

 

「っあ”!」

 小柄な体が二度、三度と岩肌の上で弾み、転がり、木に衝突してようやく停止する。

 

「ぃた、ぁ……い」

 あさぎは冷たい土の上で身を縮めて(もだ)えた。呼吸ができず、懸命に腹から空気を押し出す。

 噛み裂かれた腕の出血、どこか折れたであろう全身の痛みが通り過ぎるのを、じっと歯を食いしばって耐える。

 

「ヤロウ……っ!」

 弟子の惨状を前に、天陽は咄嗟(とっさ)に腰を浮かせた。

 

 その時、頭上に唐突な影が差す。

 

「――え……」

 見上げる暇もなく鋭い一閃が眼前を走った。

 暴れ狂っていた蛇の体がぴたりと硬直する。

 静止した蛇の体が、徐々に、真縦に両断された。

 

「な、何……?」

 ようやく首だけ持ち上げて、あさぎは目の前の光景を凝視する。

 かすむ視界の中で、まるで蛇が二又に変化したように錯覚(さっかく)したが、違った。

 

 赤黒く、臓器とも肉とも言い難い、腐汁(ふじゅう)凝固(ぎょうこ)したような裂け目が、左右に開いていく。

 裂かれた肉塊は、土に落ちる端からどろりと崩れ溶けていった。

 まるで何かの呪縛が解けたかのように。

 

「誰だ!」

 天陽は警戒を露わに、アキを抱き寄せながら辺りの気配を探る。

 

 微かな風切り音がして、どこから飛来してきたのか、天陽の前に青年が音もなく着地した。

 羽織の(すそ)が、大鳥の羽のように翻《ひるがえ》る。

 

 歳は二十歳前後か、青年の肉付きの少ない細身で怜悧(れいり)(かたち)、その姿から若さがうかがえる。

 全身は黒を基調とした軍装、その上に藍、茶、黒などの(しま)模様の羽織を纏《まと》う。

 手首と足首を護る手甲(てっこう)と脚半《きゃはん》の造りは、五大国の法軍のそれにも似ていた。

 

 青年は、意識のないアキの様子に、切れ長の瞳に苦々しい悔恨(かいこん)の色を浮かべる。

 

「介入が遅かっ……えっ!?」

 物音に背後を振り返り、青年は瞠目(どうもく)した。

 

「いったぁ……」

 動けないはずのあさぎが立ち上がり、一歩を踏み出そうという姿がそこにある。

 

「……アキちゃん!」

 踏み出す一歩ごとに、肉を引き裂かれた右腕は塞がっていき、立ち上がるのに精一杯だった覚束ない足取りは力強くなっていった。

 

「……」

 唖然とする青年の脇を駆け抜け、あさぎは泣きながらアキのもとへと駆け寄る。

 アキの前腕から上腕へ、見る間に拡がる毒の染みを目の当たりにし、泣き顔を歪めた。

 

「ごめん……ごめんね……っ」

 声を絞り出してアキに縋りつく。

「私が噛まれたら良かったのに――」

「馬鹿なことを言うな!」

「っ!」

 天陽の峻烈(しゅんれつ)な声に、あさぎの肩がびくりと震えた。

 

「村に式を送った。シユウ一師が気づいてくれるはずだ」

 怖がらせないよう言葉を和らげたものの、天陽の目に、アキの容態は一刻を争う。

 自警団の薬で表層の消毒はできたが、毒はすでに皮下組織に及び、広がり、アキの体へ達しようとしている。

 

 手遅れになる前に、腕を切断するほか無いか――天陽は、失われた己の左腕を一瞥(いちべつ)し、息と唾を飲み込んだ。

 

「待ってください」

「え……?」

 俯きかけた天陽の肩を、青年の手が押し返す。

 まるで、その覚悟を見透かしたかのように。

 

「もうすぐ追いつきますから」

 青年はそう告げ、天陽から手を離すと背後の斜面を見上げた。

 

「誰が――」

 ほどなくして、雑木林の斜面を駆け下りてくる新たな気配が近づき、目の前の(やぶ)が揺れる。

 

「ひゃっ」

 狸が小さな悲鳴を漏らした。

 

 藪を掻き分けて現れたのは、異形の仮面だった。

 獣を象った黒漆塗りの面、その真ん中を、太い金継(きんつ)ぎの線が縦に走っている。

 

 つづいて手足、体が藪から抜け出した。

 青年と同じ黒の軍装の上に、青緑に染めた桔梗麻《ききょうあさ》の葉模様の肩掛けを羽織っている。

 腰や腕には皮革製の道具入れや刃物差しを巻いていた。

 

 一人目の青年より物々しいいでたちながら、体や仮面に見え隠れする輪郭の線の華奢(きゃしゃ)さや、黒髪を留める飾りから、まだ年若い女のようだ。

 

「お前らは、何者だ……」

 法軍、自警団、白狼隊、いずれでもない。

 敵意こそ感じられないが、天陽は警戒を緩めず、若者二人を見据えた。

 

「凪之国、法軍の方々ですね」

 仮面の奥から聞こえた女の声はやはり若く、だがその口ぶりは落ち着き払っている。

 

「その方の、解毒と治療を私に任せて頂けませんか」

 女は、天陽の腕の中のアキを指し示した。

 黒い甲当てには金属板が()め込まれ、何かの紋が刻まれている。

 

「何……?」

「私は、毒使い――そちらで言うところの、毒術師です」

 

 女の、丁寧で簡潔な口ぶりが、どこか不気味にすら感じられた。

 

「毒使い……」

「待って! センセイ、この人たち信用していいの?」

 

 あさぎが、二人の前に立ち塞がった。不安と困惑に揺れる視線が、天陽と若者たちの間を行き交う。

 

「この子……とても興味深いけど」

 金継ぎの面の奥の視線が、戸惑うあさぎへと向いた。頭の先から爪先まで値踏(ねぶ)みするように視線が巡り、そして再び天陽へ向き直った。

 

「今はその方が最優先。手遅れになる前に、私を信じていただけませんか」

 

「アキちゃんに変なことしたらっ――」

 喰ってかかろうとするあさぎを、

「あさちゃん」

 天陽の声音が制した。

 しばし仮面越しの女の瞳を見つめ、天陽は覚悟を決めたように、止めていた息とともに懇願(こんがん)を吐き出す。

 

「……頼む……助けてくれ」

 そう告げ、天陽は細心の注意を払いながら、腕の中のアキをそっと草地に横たえた。

 

「お任せください」

 女は頷いて、歩み寄る。

 

「天陽センセイ……!?」

 アキから一歩身を引く天陽へ、あさぎは縋るように詰め寄った。

 

「あっ、こ、これも」

 狸が慌てて上衣(うわぎ)を脱ぎ、アキの頭の下に敷く。

 

「ありがとう」

 天陽と狸と入れ替わりに、仮面の女はアキの側に膝をつく。

 

「アキちゃん、大丈夫、だよね……?」

 天陽は、仮面の横顔を見据えたまま、動揺するあさぎの肩を(なだ)めるようにそっと撫でる。

 

「少なくとも、あの『毒使い』は、信用できるかもしれない」

「どうして?」

 

 恐々とあさぎが見守る中、仮面の女はアキの変色した右腕をとり、前腕に穿(うが)たれた傷を静かに観察しはじめた。

 

 女の仮面は黒漆塗りで、金と銀の蒔絵《まきえ》によって幻獣の面差しが描かれている。

 鼻や口、耳、角の凹凸が、滑らかな削りで象られていた。

 顔の中心を縦断する太い金継ぎは、傷であると同時に、幻獣に威厳(いげん)を添えている。

 

 その幻獣は――鬼豹(きひょう)

 

 かつてこの意匠(いしょう)を仮面に採用した人物を、天陽は一人だけ知っていた。

 

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