毒使い   作:キタノユ

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ep. 53 継ぎ(2)

 一方――

 

 露流河(つるかわ)が朝焼けに染まる、そのわずか前の刻限。

 白妙(しろたえ)村に佇む白亜の館にて。

 

 青は浅い眠りの(ふち)から覚醒した。

「……?」

 壁に背を預け、立てた片膝に腕を乗せて顔を埋めていた青は、額当ての位置を確かめつつ、ゆっくりと顔を上げた。

 

 館の客間では、同じく思い思いの姿勢で仮眠をとっていた者たちも次々と目を開け、周囲を見渡している。

 いち早く身を起こした猪牙と豺狼が、障子を開け放つ。縁側の向こうに広がる空は未だ闇に沈んでいたが、東の地平からは僅かに、淡い紅が(にじ)み始めていた。

 

 ――ォォ……ォ……ォ……

 

 谷間を渡る風か、地鳴りか、あるいは獣の遠吠えか。人の呻きにも似た、低く重い音波が地を伝う。

 

「東、か」

 縁側へ出た猪牙が、風の気配を探る。東には露流河の本流が流れている。

 

「露の声……?」

 青もまた縁側から庭へ下り立ち、村を見渡す。出歩く人影はなく、家々の灯りは落ちていた。

 

「見回りするか」

 猪牙と豺狼は、素早く警邏(けいら)と防衛の態勢を整え始めた。

 白妙の加護を失い、自警の組織を持たないこの村は、今や賊や獣といった外敵に対して無防備だ。

 

「……水が?」

 ふと、青の視線が館の庭を流れる小川の異変を捉《とら》えた。水面には微細(びさい)な泡が立ち、東から西へ向かってさざ波が寄せている。

 

「シユウ様、どうしたの……」

 部屋の隅で丸くなっていたミツキが、眠たげに目をこすりながら縁側を下りてきた。

 

「ミツキ」

 青が手招きすると、小さな影が駆け寄り、水流を覗き込むために屈んだ青の背に抱きつく。

 

「水の匂い、何か変わったかな」

 ミツキはするりと黒い獣の姿に転じ、その細長い鼻先を水面に近づけた。

 

『あれ……血の匂いが消えてるよ?』

「消えた?」

『うん、普通の川のお水と同じ』

循環(じゅんかん)が速い……」

 呟き、青は立ち上がった。

 

「一師、どちらへ」

 東へ向こうとした青の背に、豺狼(さいろう)の声が飛んだ。猪牙とコウの三人で、縁側に広げた地図を囲んでいるところだった。

 

「気になることが……少しの間、外しても良いでしょうか」

 青は東方向を指し示した。

 

「……」

 豺狼は一瞬黙考(もっこう)し、猪牙とコウへ何事か(ささや)くと、青のもとへ歩み寄る。

 ミツキは豺狼から身を隠すように、素早く青の後ろに回り込んだ。

 

「俺も行こう。コウ殿にも同行いただく」

「え、でも」

 豺狼の背後で、コウが縁側に立てかけた大刀を手に取る姿が見える。

 

「俺も、(つゆ)や河の様子が気になる。自警団長殿にも状況を把握してもらった方が良いだろう。それに――また君が流されでもしたら困るしね」

「そんな簡単に落ちないよ……」

「ミツキだって、何度も水に潜りたくないよな?」

「――ピャッ」

 

 不意に(あお)い視線を向けられ、ミツキは黒い毛を逆立て、甲高い奇声を漏らした。

 

 

 村の東を覆う森を抜け、四人は斜面を下り、露流河を見下ろす稜線(りょうせん)に立った。

 谷底はまだ暗く、夜闇に冷やされた風は冷たい。地響きのような音はいつしか止んでいた。

 

「シユウの名のもとに命ず」

 青は式鳥を呼び出した。

 子どもの手のひらほどの小鳥が、指先に降りる。黄褐色(おうかっしょく)の体に、羽先と尾の藍が鮮やかな対比を見せる姿だ。

 

「探してくれ」

 命を受けて飛び立った小鳥は、山裾(やますそ)木立(こだち)へと姿を消した。

 

「カワラヒワの式鳥か」

 鳥の軌跡をともに見つめていたコウの、呟き。

 

「――よく、ご存知で。瘴気(しょうき)や毒を嗅ぎ分ける能力があります」

「消火団にも、毒気や瘴気を嗅ぎ分ける事ができる鳥獣人がいてな。オレたちは『瘴気番(しょうきばん)』という役職で呼んでいる」

「瘴気番、なるほど……」

 

 コウの言葉に、青と豺狼は感心したように頷いた。

 ミツキは好奇の色を浮かべ、青の横顔と、鳥が飛び去った空とを交互に見上げている。

 

 程なくして、森の奥からピロロロ、と鈴を転がす鳴き声が響いてきた。

 音を追って木々を分け入っていくと、やがて、樹々が炭化し、地面が黒く焼け()げた一帯に行き当たる。

 焔大蛇が放った火球が残した爪痕だ。

 

 大小様々な焦痕(こげあと)が、黒い(まだら)となって地面に散らばっている。その真ん中で静止していた小鳥は、青が片手を宙で握ると、煙となって消えた。

 

「あぁ……やっぱりだ……」

 青は焦痕の一つに駆け寄ると、(かたわ)らに膝を折る。

 豺狼が背後から灯りで照らし出すと、黒土かと思われたその焦痕は、ぬらぬらと濡れ、泥濘(でいねい)と化しているのが見てとれた。

 

腐沼(ふしょう)か」

 と、コウ。

 

「はい……妖瘴(ようしょう)による土壌汚染が起きています」

 青の言葉に、豺狼は何かに思い当たったように「あ」と声を漏らした。

 

「そうか、あれは『毒』だったな」

 焔大蛇(ほむらおろち)が吐き出した、どろりと地を()う火塊《かかい》には、毒腺(どくせん)分泌物(ぶんぴつぶつ)が含まれていたのだ。

 

 あの時、降り注ぐ火球のただ中で、青は眼前に落ちた熔流(ようりゅう)検毒符(けんどくふ)をかざしてその性質を検分した、その結果――符は有毒を示す紫に燃えあがった。

 

「これはかなり……大事(おおごと)です」

 青は左手で、額当てごと頭を抱え込んだ。(うつ)いた青の足元で、ミツキが案じるように「くぅん」と鳴き、その豊かな尾で包み込むように、身を寄せた。

 

「あれほどの妖魔であれば、妖瘴の毒性もきっと相当なもの。人への影響はもとより、周囲の生態系がどうなるか……」

 

 青は顔を上げ、立ち上がる。眼前に広がるのは、西岸に連なり北へ伸びる険しい山稜と、東岸に広がる深い樹海。

 この広大な範囲に無数に降り注いだ火の雨、そのうちどこが汚染されているのか、丹念に調査をしなければ見当もつかない。

 

「露流河そのものが汚染されている可能性は――」

「『気になること』とは、露流河の汚染のことか――」

 

 期せずして同じ問いを発したコウと豺狼は、互いに顔を見合わせると、また同時に口を(つぐ)んだ。

 

「はい。……行きましょう」

 青はかすかに笑みを浮かべると、東、露流河が流れる谷筋(たにすじ)へと足を向けた。

 

 

 一行は夜露(よつゆ)に濡れた斜面をさらに下り、木々の根が絡まる足元から不意に開けた平坦地で足を止めた。

 そこは火球によって穿(うが)たれた跡らしく、(えぐ)られた土と共に、黒く焦げた岩肌がところどころに剥《む》き出しになっている。

 眼下にはもう河岸が間近に迫り、谷底からの冷気と共に、瀬音(せおと)がはっきりと耳に届いた。

 

「キュゥン」

「ミツキ?」

 

 不意に外套(がいとう)の裾《すそ》を引かれ、青が足元に視線を落とすと、ミツキがその細い(ふん)で裾の端を(くわ)えている。

 ミツキに促されるまま数歩踏み出すと、地面の(くぼ)みに、黒く粘り気のある液体が溜まっているのを見つけた。腐沼だ。

 

「――こんな河の近くまで……あれ……玉」

 何とはなしの違和感に、青は指先に明かりを灯し、黒い水溜まりを覗き込んだ。

 その底から、粘り気を帯びた大小の泡が、断続的に水面に浮かび上がっては弾ける。やがて黒い水面全体が、(なめ)らかに波打ち始めた。

 

「水……」

 膿溜(うみだ)まりの底から清らかな水が湧き出し、汚泥(おでい)を押し上げるようにして、見る間にその透明度を増していく。

 

「やっぱりだ、浄化されている。きっと露だ」

「待っ……、やっぱりって?」

 

 河岸へと続く斜面を駆け下りる青の背を、豺狼たちが慌てて追った。

 

「村の小川の水質が、ごく短時間のうちに変化していた。この辺りの水は全て露流河に連なっている。あれほど循環が速いのは、浄化の力が作用している証左(しょうさ)かと思ったんだ」

 

 繁みを掻き分けて、青は先んじて河岸へ降り立つと、未だ黎明(れいめい)の薄闇に沈む水際へと駆け寄った。

 

「待て!」

「キュゥン!」

 追いついた豺狼が素早くその腕を掴み、同時にミツキも、再び外套の裾に喰らいついた。

 

「わっ!」

 左右から同時に引かれ、青は危うく尻餅をつきかけた。

 

「無闇に近づきすぎだ」

「でも」

「ワフッ!」

「――はい……気をつけます……」

 

 豺狼とミツキ、双方の碧い瞳に見据えられ、青は渋々と水際から数歩下がった。

 

「……ん?」

 若者たちのやり取りを、保護者のように少し離れた場所から眺めていたコウが、ふと、上流側で()ねた水音に気づき、そちらへ顔を向ける。

 

「おい、あれを」

 コウの視線の先、上流側で、薄闇色の水面があぶくを散らしながら盛り上がった。

 やがて水面に、艶やかな黒曜(こくよう)の鱗の頭と双眸(そうぼう)がのぞく。

 

「露……?」

 自然と四人の足が、河の化身のもとへと向いた。

 岸辺の砂利を踏む音に驚いたのか、露の頭が水面下へたぷんと沈む。

 波が渦を巻きながら引き、再び河岸へ打ち寄せるとともに、新たな影が水面に浮かび上がった。

 

「あれは……」

 浅瀬に、白い小さな人影が陸へと這い上がり、ぎこちない仕草で、ゆっくりと体を起こそうとしている。

 それは、白い衣を(まと)った女だった。

 

 白い両手で濡れた砂を押し、片膝ずつ立てて、おぼつかない様子で地面を踏み締める。

 まるで生まれ落ちたばかりの赤子のように、不安定に重心を探りながら、やっとその場に立ち上がった。

 

「クゥ……クゥ……」

 ミツキは小刻みに体を震わせ、青の足元に隠れて地に伏せる。

 

「白妙さん……ではない……?」

 青の声に、白い衣の女がゆっくりと四人の方へ顔を向けた。

 

 白い衣に、透けるように白い肌。陶磁器めいた端正な顔立ちには、確かに白妙の面影が宿っている。

 しかし、幼く見えた白妙よりは幾分か年嵩(としかさ)に見え、身の丈よりも長い黒髪は濡れて岸辺に広がり、あたかも河そのものと繋がる(へそ)の緒《お》のようにも見えた。

 

「あたし……は、露……。境界を(まも)(たま)……」

 

 血の気のない薄い唇から、かろうじて聞き取れるほどの掠れた声が紡がれる。

 まさにその時――夜の闇が薄紙を剥ぐように退()き、谷間に最初の光が差し込み始めた。

 

 夜明けの刻が終わり、まさしく朝が始まろうとしている。

 

 谷に差し込む朝陽を浴びて、白い衣の女――露の双眸に、白妙と同じ鮮やかな朱色が灯った。血の気を失っていた唇にも、瞳と同じ仄かな赤みが差した。

 

 露はゆっくりと両腕を頭上高く掲げ、朝の光を全身で受け止めるかのように、天を仰いだ。

 

「光を、取り込んでいる……?」

 

 露の全身が光の粒子を纏って淡く(きら)めく。長い黒髪を伝い、河面もまた無数の光の点を映してきらめき出した。

 暗い水底にも徐々に光が満ちて、澄んだ碧色(へきしょく)へと変わり始める。

 

 青、豺狼、コウの三人は、ただ息を呑んでその光景を見つめていた。

 

 ミツキは、一層体を小さく丸めて青の足元で震えている。顔を伏せ、(おそ)れとも敬虔(けいけん)さともつかぬ低い呻き声を漏らすばかりだ。

 そんなミツキの様子に「大丈夫だ」と小さく告げて、青は再び露へ向き直る。

 

「おそらくこれが、露の本来なのでしょう……」

 

 それは、神が顕現(けんげん)した瞬間――かつて目にしたことのない光景であった。

 

 毒使いの女は、赤黒く変色し始めたアキの腕を取り、しばしその様を注意深く見つめていた。

 おもむろに仮面をわずかに押し上げ口元だけを露《あら》わにすると、(ふところ)から小さな薬瓶を取り出して液体を口に含む。

 そしてアキの手首近くにある裂傷(れっしょう)へと、その唇を寄せた。

 

「……?」

 天陽は思わず眉根を寄せた。

 

 毒を吸い出す処置自体は、応急手当として珍しいものではない。だが、対象が妖瘴(ようしょう)など(あやかし)由来である場合や、ましてや既に広範囲の皮膚が変色した状態で、その処置にどれほどの意味があるのか。

 

 こぽり、と微かに水が湧くような音がした。

 

 仮面に見え隠れする女の頬が一瞬わずかにふくらみ、次いで何かを吹き込むかのように(しぼ)むのが見て取れた。アキの腕が瞬間的に浮腫(むく)んだかと思うと、すぐに常態へと戻る。

 

「アキちゃん……」

 あさぎが、不安げに天陽の袖を固く握りしめた。

 

 再び、女の頬が小さくふくらみ、やがてその唇が傷口から離れた。

 女は天陽たちに背を向けると、何か吐き出すように、ふっと強く息を吹いた。

 

 こぽこぽ、ぷくぷく、と水泡(すいほう)の弾ける音が連続する。

 

「え、え??」

 顔を背けた女の口の辺りから、硝子(がらす)玉にも似た水の泡が無数に生まれ、ふわりと空中を漂い始めた。

 

 透明な泡は、人の拳大のものから碁石(ごいし)ほどの小粒なものまで様々で、頼りなげに風に乗って昇っていく。

 東から差し込む朝陽に(きら)めきながら、泡は一つ、また一つと、光の中へと溶けるように消えていった。

 

「きれい……っあ、アキちゃん……!」

 思わず見()れかけて我に帰り、あさぎはアキの元へ駆け寄り膝をつく。

 

 女がそっと、アキの腕をおろす。

 赤黒かった皮膚が、本来の肌色を取り戻していた。

 

「な、何が起きたの、今のが、解呪なの?」

 前のめりになって問いかけるあさぎに、鬼豹(きひょう)の瞳が一瞥をくれた。

 

「まだ、水で浄化(あらいなが)しただけ」

 女は短く応えると、すぐに次の処置に取り掛かった。

 

 懐から再び小ぶりな薬瓶を取り出し、片手の指先だけで器用に(せん)を開けると、中の軟膏(なんこう)を少量すくい取り、傷口へていねいに塗り込む。

 その上から清浄(しょうじょう)な布を一巻きし、さらに符を一枚貼り付け、自らの(てのひら)を重ねた。符が淡い光を発し、やがて傷口へと染み込むように消えていく。

 

「あれは、薬剤符(やくざいふ)か……」

 凪でも見慣れた、薬術師や毒術師が用いる治療法と同じ手法だ。

 天陽はようやく安堵の息をつく。

 朝陽が差し込む木漏れ日が揺れる下で、アキの顔色はいくらか血の気を取り戻し、呼吸も穏やかになっていた。

 

 金継(きんつ)ぎの仮面をつけた女が、「よし」とばかりに小さく頷いた。

 

瘴気(しょうき)は抜けました」

「本当に……!?」

「助かった……恩に着る!」

「あ、あ、ありがとうございまス!!」

 

 あさぎは破顔(はがん)して涙ぐみ、天陽はためらうことなくその場に(ぬか)ずく。隣では(たぬき)も再び深く頭を垂れていた。

 

「――っえ、あ、まあ……」

 思いがけず大仰(おおぎょう)な反応に、女はやや戸惑ったように口ごもり、顔を背ける。

 

「でも、瘴気を抜くために血も失っているから……『流れ』が安定するまで、まだ安静である必要があります」

 アキの容態(ようだい)は落ち着きを取り戻してはいるものの、未だ意識はなく、眠っている状態だ。

 

「この先に集落があるが」

 静かに治療の様子を見ていた青年が、ぽつりと口を開く。

 (しま)模様の羽織の袖が、白妙村の方向を示していた。

 

「見えるの? 夜梟(やきょう)

 女の問いかけに、青年は頷く。

「要安静患者を背負って行くには、難儀な距離と道のりだ」

 登り下りを繰り返す山道の奥は、密集する杉の木林が見通しを塞いでいる。

 

「あ、そ、そうだ……!」

 何かを思いついたとばかりに、狸は丸い体を跳ねさせた。

 アキの頭の下に敷いていた自身の上着を探ると、その(えり)裏に()い込まれていた細長い筒を取り出した。

 

「それは?」

「自警団の信号弾でス!」

 

 得意げに胸を張りながら応えると、狸は筒を地面にしっかりと突き立て、その端から伸びる紐を一気に引いた。

 発火音と共に、筒先から弾丸が勢いよく打ち上げられ、朝空(あさぞら)高くで、赤い火花を散らした。

「これで居場所を知らせると、近くの団員が駆けつけてくれるのでス! 団長も気づいてくださいまス!」

 

「――それって、賊や獣も呼び寄せちゃったりしない?」

 空を見上げるあさぎが、素朴な疑問を口にする。

「え、あ」

 

 沈黙が落ちた。

 

 アキを除くその場の全員が「あ」の形に口を開け、空に消え残る火花の軌跡(きせき)と、狸とを交互に見やるのだった。

 

 

 露が碧色(へきしょく)の河へと(かえ)っていくのを見送った頃には、東の樹海を覆っていた朝靄は既に消え去り、西に連なる峰々も朝陽を受け、その稜線(りょうせん)は眩い光に縁取られていた。

 

 陽光を浴びて滔々(とうとう)と流れる露流河(つるがわ)は、あたかも磨き上げられた翡翠のごとく、深く美しい碧色に輝いている。

 

「調査は必要ですが、河の本流と支流は、(つゆ)によって浄化が進んでいるものと思われます」

 

| 青は慎重な足取りで水辺に近づき、その清冽(せいれつ)な水を指先で掬《すく》い上げた。ミツキも鼻を近づけ、水の匂いを嗅いでいる。

 

「しかし、土壌の浄化には時間がかかります。雨が降り、土中の汚れが河へと流れ出し、それが浄化される……。この循環(じゅんかん)を何度も繰り返して、ようやく元に戻るのです」

 

「しばらく井戸水は避けた方が良さそうだな」

 神妙に青の話に耳を傾けていたコウは、西の(みね)を見上げ、呟いた。

 

「コウさん。自警団に、毒術師に類する方はいらっしゃるのでしょうか」

 以前、コウが住む村落の長老から、「裏薬師」という呼称を耳にした記憶がある。

「毒草や毒薬に詳しい薬師(くすし)ならいる。だが、君ほどの『専門家』となると、心当たりはないな」

 

 コウの説明によれば、「裏」という言葉が名に冠《かん》される場合、それは正規の職業名ではなく、例えば薬師に対する裏薬師のように、表の知識や技術と対になる分野まで幅広く精通している、という意味合いが強いという。

 

「翡翠ノ國では、土壌汚染にどう対処されているのですか」

「翡翠の国民は、農業で生計を立てている者がほとんどだ。浄化といっても、シダやヤナギを植えて吸収させる、炭や鉱物に吸着させる、あるいは虫の力を借りて分解を(うなが)す――といったところだな」

 

 凪の農家においてもそれは同様だ。

 

「古くからの手法は、やはり共通するものなのですね」

 青の相槌(あいづち)を受け、コウが「ああ」と何事か思い出したように続ける。

「ここ翡翠独自であるかは分からんが、妖瘴対策として、翡翠石を使うことはあるな」

 

「翡翠……なるほど! 翡翠には、古来より魔除けの力があると伝えられていますね」

 途端、青の瞳が好奇心に強く輝いた。

 

「交易で凪にもたらされる翡翠は質が高く、主に神具や祭具に用いられます。その一方で、腕利きの、それこそ龍や麒麟の技能師の手にかかれば、術や瘴気を吸収し封じる力も引き出せるとか。だから呪具の装飾にも用いられることもある、と聞きました。そう考えれば、確かに妖瘴への対策としても有効なのは頷け……あっ」

 

 気づくと、豺狼とコウが揃って苦笑いを浮かべているのが目に入った。

 青は、自分がまたしても一人で長広舌(ちょうこうぜつ)を振るっていたことに気づき、顔を赤らめた。

 足元にいたミツキはとうに話に()いたと見え、水辺で小さな(かに)を相手に(たわむ)れている。

 

「失礼しました、話を戻します……コウさん、こちらでは翡翠を、妖瘴対策としてどのように用いられるのですか」

「祭具だの呪具だの、そんな大仰なものではないんだ。農村に伝わる知恵、といった程度のもので」

 

 コウは足元の砂利(じゃり)を一つ拾い上げた。

 

「翡翠鉱山から出るクズ石……これくらいのな、それをタダ同然で米袋分ほど仕入れて、肥料のように()く。それで畳一枚ほどの土壌が元に戻るまでに季節が二つは過ぎた。翡翠のクズ石にどれほどの効能があるものか、はっきりとは分からんな」

 

「翡翠の、(くず)石……」

 青は無意識に、唾を飲み込んだ。

 

「良いことを聞いた、って顔してるぞ」

「――え、そ、そんなことは」

 隣に立つ豺狼からの指摘に、青はびくりと肩を揺らした。

 

 屑石とはいえ、凪において翡翠ノ國産の翡翠石は希少な素材。持ち帰れば、要や庵ら技能師たちの製作や研究に役立つのではないか――そう思いついたのは、事実である。

 

「と、とにかく、どのような手法でも、自然浄化に頼るだけでは時間がかかってしまいます」

 

 雑念を振り払うために、青は一呼吸を置いた。

 

「これだけ広範囲に、強力な妖魔の毒がばら撒かれた状況は私も初めてです。集落や水場の近くといった、生活への影響が大きい場所や汚染が深刻な箇所は、早急に人の手による浄化を進めて、被害の抑制(よくせい)が必要ではないかと……」

 

「それなら、一色上士に具申《ぐしん》して、対策部隊を編成していただこう」

 徐々に影を落とす青の様子を見かね、豺狼が口を開く。組んでいた腕を解き、(はげ)ますように青の肩を軽く叩いた。

 

「君の『龍の位』の差配(さはい)権で、若手の毒術師たちも動員できるはずだ」

「!」

 

 その提案に、青は口元を(ほころ)ばせた。

 若手たちにとっては、視野と経験を広げるまたとない機会に違いない。

 

 そこへ――

 

「その浄化活動に、自警団を加えてくれないか。各村落周辺の調査も、地上からはもちろんだが、空を巡回する消火団の目も使える」

 

 と、コウが身を乗り出した。

 

「それはもちろん、願ったり叶ったりです!」

 青は声を弾ませる。

 広域を統べる自警団の組織力こそ、必要なのだ。

 

「あの消火団、なかなか印象的だったな」

「みんな口を開けてたよ」

 豺狼と、青は顔を見合わせる。

 

 狸が空を飛び消火剤をまく――凪では見ることがない光景だ。焔大蛇を前に混乱しかけていた局面で、獣血人や獣人の特性を活かしながらも、どこか和むその姿は記憶にまだ新しい。

 

「……」

 若者二人が揃って楽しそうに語る様子に、コウはふっと頬を緩めた。

 

 そんな時だった。

 

 チチチチ チチチチ

 

 青の頭上から細切れの(さえずり)りが降る。

 見上げると式鳥が青の腕に舞い降りた。

 独特な鳴き方には、覚えがある。

 文を開くと、やはりチョウトクの東雲(しののめ)天陽からであった。

 

「――え……っ!」

「どうした」

 顔色を変えた青の様子に気づいた豺狼が眉を(しか)める。

 

「……」

 コウは、青の腕に乗る式鳥を凝視(ぎょうし)している。

 

 ドンッ

 

 と今度は遠くの空で、乾いた破裂音が(とどろ)いた。

 

「!?」

 北西側の嶺、稜線(りょうせん)の影となり樹々が密集した一帯から煙が尾を引いて打ち上がる。

 朝朗(あさほが)らかな空に、赤い粗末な花火が散った。

 

「キャン!」

「っあ……!」

 轟音に驚いたミツキは体を丸め、式鳥は青の手から離れて花火が上がった方へ飛んでいく。

 

「何だ?」

「あれは自警団の信号弾――赤は緊急事態の報せだ」

 豺狼は身構え、コウは空を睨む。

 

「同じ方向から、凪隊の救援依頼が来ました」

 チョウトクの天陽から、という事実は伏せて、青はそっと文を豺狼の手に忍ばせた。

 

「――行こう」

 手のひらの紙に記された文字を一瞥(いちべつ)し、豺狼は即断する。先陣を切って山裾(やますそ)へ駆け出した。コウも続く。

 

「ミツキ」

「ワフッ」

 青もミツキを伴い、西の(みね)を目指し砂利を()った。

 

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