二刻ほどが過ぎ、森の鳥の鳴き声が変わり始めた頃。
「か……じ……」
かすれた声が、奥の部屋から漏れ聞こえた。
「師匠??」
青が振り返ると、横たわる藍鬼の片腕が、宙を掴むように持ち上がる。
うなされていた。熱が上がったのかもしれない。
水の入った湯呑みと木匙を持ち、奥の部屋へ向かおうとして、青は足を止めた。
藍鬼の手が、巻かれた手ぬぐいに触れた。
「……何、だ……これ」
指先が目許をいじり、手拭いが外れた。
「……青?」
声がかかる。目を覚ました――青は慌てて背を向ける。
「仮面!」
「え?」
「そこに置いてあるから」
咄嗟に声をあげた。
見ていない、何も、見ていない。
「え、あぁ……」
まだ少し寝ぼけたような声と、床が
「もう、いいぞ」
音が近づいたかと思うと、藍鬼の足が青の脇を通る。青が持っていた
藍鬼は青に背を向けたまま、水を飲み干してから仮面を装着し、それからようやく振り向いた。
いつもの鬼豹面が、青の前に腰を下ろす。
藍鬼が何かを言い出す前に、
「悪い夢みてたの? うんうん言ってて苦しそうだったよ」
心配色の面持ちで、青は詰め寄った。
「……別に」
仮面の下から、低い息が漏れる。
「思い出したくない野郎の顔が出てきただけだ」
それより――と、藍鬼は脇腹を撫でる。青が手当をした箇所だ。
「世話をかけたようだな」
「僕はぜんぜん……」
青は、首を横に振る。
「ハクロさんっていう、鳥の仮面の人が解呪してくれたんだ。心配で戻ってきてくれたみたいだよ」
「そうか。ハクロが」
「師匠の顔、見なかったからね!」
「ああ……あの手ぬぐいも、お前か」
黒い仮面の下から、くぐもった苦笑が漏れた。
「ハクロさんに、『見たのか』ってすごい怒られそうだったんだ。何でダメなの?」
仮面の下で、二、三呼吸分ほどの沈黙が落ちる。
「……狼以上の技能師は、
「変な規則」
「大人の事情ってやつだ」
ふと、仮面が青の傍らに向き、長い腕が伸びた。
長い指が、二枚の証書を拾い上げる。
「これを、俺に見せに来たのか」
「あ、そうだった! うん!」
ぱっと、青が破顔する。今日、一番伝えたかったことだ。
そんな弟子の無邪気な様子と、合格証書を見比べる仮面の模様が、どこか感慨深そうにも見える。
つい一年前。
森で出逢った時は、物を知らない放浪の子であったのに。
「よくやったな」
師の手が、
「……」
青は動きを止めた。
初めて、褒められた気がする。
頭に置かれた手の温もりが、体の芯を通って広がっていく。
この優しさに、どこか懐かしさを覚えた。
「二級も、がんばるね」
師を喜ばせ、褒められたいという気持ちが、自然と言葉になった。
「……ああ」
細かい傷の多い手が、しばし黒髪をかき回し続けていた。
*
日が傾きかけた森を、並んで歩く二つの影がある。
青と藍鬼は、陣守の村へと向かう途中にあった。
「休んでいなくて大丈夫なの?」
青の目線は、ちょうど藍鬼の脇腹にある。
「俺も都に用がある。それに、寝不足だっただけだ」
「お腹に穴が空いてたくせに」
「ハクロが大丈夫だと言ってたのだろう? 薬術の獅子のお墨付きだ」
「ハクロさんって、師匠のブカ?」
恐ろしげな妖鳥の面が、いまだ青の脳裏に残ってチラつく。
「階級としてはそうだが、部下ではない」
青が覚えた技能職の階級表では、龍の下に、獅子が位置していた。
「ハクロさんって、どういう人なの」
「……あんなナリだが、珍しい善人だ」
「ふはっ」
思わず、青は吹き出した。
師匠も、あの仮面が変だと思っていたらしい。
「いずれ、薬術の麒麟になるだろうと言われている」
「麒麟に?! へぇ……」
青は前々から尋ねたかったことを口にした。
「じゃあ、毒術の麒麟って、どんな人?」
沈黙。
「師匠?」
見上げると、真っ直ぐ前を見据える鬼豹の仮面、その隙間から見える口元が、固く引き結ばれている。
「……ロクでもない野郎だ」
ぽつりと、それだけが返ってきた。
*
自称・弟子を都まで送り、別れた後、藍鬼は七重塔へ向かった。
七重塔は俗称であり、機能としての名は官邸および行政と法軍本部であるが、関係者も「七重塔」を通称として使っていた。
藍鬼は文字通り、真っ直ぐに長の執務室へ向かう。風を操り、跳び、外廊下から侵入するのがいつもの経路だ。誰もそれを咎めないし気に留めない。
「ケガをしたと聞いたが」
出迎える長も、藍鬼の闖入を黙認していた。
「寝不足だ」
「ここまで来られるなら元気だね。良かったよ」
長は、執務机上に両手を組み、袖を滑らせた。
「それで」
長の声が、柔らかな布の擦れる音に重なる。
「例の任務について……返事をくれるのかな」
「……その件だが」
鬼豹の仮面が肩越しにちらと、入口に立つ護衛官らを一瞥する。
長が片手を上げると、両者は無言のまま一礼し、室外へ去った。
扉が閉められ、気配が去るのを待ってから、藍鬼は再び口を開く。
「一年、待ってほしい」
「……あの子がいるから……か?」
仮面の返答に、長は軽く小首を傾げた。
仮面越しに、藍鬼の視線が逸らされる。
「いまさら、君が誰かに入れ込むなんて意外だとは言わないよ」
それを、無言の肯定を受け取って、長は机上の書類へ手を伸ばした。
「あの子――」
一枚を手に取って、おもむろに立ち上がる。
「二種で三級を獲ったらしいね。六歳だろう。誰かさんの、五歳の最年少記録が脅かされるとは」
誰かさん、で長の微笑を形作る両眼が、仮面の横顔へ向いた。
「今のところ、君が見込んだ通りの子だった……という訳だ」
長は、手元の書類を軽く指先で弾いた。表紙には「大月青」と氏名が記載されていた。
「平凡な難民孤児であれば、どこか子のいない夫婦に託して、地方の学校に通わすくらいが通例だ。君がわざわざ連絡をよこしてきたと思ったら、
紙をひらりと机上に戻し、長は片眉を僅かに上げた。
また、しばしの沈黙。
「
「一年あればいい」
黒き仮面は、短く答える。
低く、確信のこもった声と共に、静かに頷いた。
*
凪之国が初夏を迎える季節は、陽射しが徐々に強く、そして風は湿り気を帯び始める。
柔らかな水色を湛える澄んだ空の下、
「今日は、おしごと体験授業です」
小松先生の凛とした声が響く。
ある日の授業。
青たち二年三組の生徒たちは、校外学習に出ていた。
法軍のおしごと――いわゆる「任務」とは何かという、社会科目の実習回だ。
引率には、小松先生はじめ、数人の法軍人が就いている。
座学と学校敷地内での反復練習に飽きていた子どもたちは、期待に胸を踊らせて、落ち着きをなくしてあちこちへ興味を散らしていた。
青、トウジュ、つゆりの三人組も例外ではない。
しかし、冒険を夢見ていた子どもたちの期待は、到着して半刻も経たないうちに霧散することとなる。
到着したのは、
「任務」として指示されたのが、畑の害虫駆除だからである。
「どこがニンムなんだよー!」
「おばあちゃん家でやるお手伝いと一緒だよぉ……」
説明を受けた子どもたちから、不満の声が飛ぶ。
引率の士官たちは、苦笑しながら顔を見合わせた。
「はい、いいですか?」
小松先生のぴしゃりとした声に、いったんは場が鎮まった。
「もともと法軍が何のためにできたのか、神話のおさらいです。わかる人?」
「はい、妖魔や妖獣から人を守るためです」
挙手した生徒が、模範解答を口にする。
古の神話によると――七人の賢人が人々を守護するために里を築き、法軍の前身である自警団を編成したと伝えられている。
「そうです。昔は今よりも妖魔や妖獣が身近で、畑仕事も命がけだったのです。畑を荒らしたり、畑で働く人を襲ったりするだけではなく、妖瘴の影響で土が病気になったり、害虫や害獣も凶悪化するのです」
だから、畑と、畑で働く農民を護ることは立派な「任務」であるという訳だ。
「……そうだけどさぁ〜……」
「つまんな〜い」
理屈は分かるが、やはり畑仕事のお手伝いでは、子ども心はくすぐられない。
みな不満を隠せないまま、それぞれに割り当てられた畑へ散らばっていく。
「地味すぎだっつーの」
「よっぽど田舎じゃないと、畑に妖獣なんて出ないでしょ」
青、トウジュ、つゆりの三人も、同じ畑を割り当てられていた。
ぶつくさと文句をたれながらも、トウジュとつゆりは指先に発現させた小さい炎で、手際よく茎や葉についた害虫を駆除していく。
「僕は妖獣なんて、遭いたくないけどなぁ」
二人の愚痴を笑って受け流しつつ、青も野菜の葉を一つずつめくって廻った。
「父ちゃんの任務で、畑仕事なんて聞いたことねぇよ」
トウジュの自慢の父親は、上士だ。
凶悪な妖獣や妖魔退治、他国への戦任務など、子どもらが冒険
「妖獣退治や戦任務、か……」
青の脳裏には、藍鬼が浮かんでいた。初めて目にした、手負いの師の姿。
あれほど強い人が、血を流し、力尽きて倒れるほどの任務とは、どれほどの難しくて危険なのか。今の青には想像できなかった。
「いま父ちゃん、戦任務に行ってるんだ」
「戦? どこで?」
野菜の根元を探っていたつゆりが、上体を起こす。
「どこかは分かんないけど、きっと遠いところだよ。
「そんなに長く帰ってこれないの……」
「最近は、戦の任務ばっかりって言ってた」
トウジュの声が、沈む。
威勢が良くて自慢げだった語り口が、どんどん萎れていった。
「そう……」
からかうのは
「……そういう時は、こう言うのよ」
立ち上がり、つゆりは片手の拳を、立てたもう片手の平に押し当てる。
「ご武運を、って」
「それ、母ちゃんもよく言ってる」
「どういう意味?」
三人は自然と畑の真ん中に寄り集まり、小さな輪を作る。遠くで小松先生がその様子に気付いていたが、注意は飛ばなかった。
「こう?」
「そうそう」
青とトウジュが、つゆりに
「こう?」
「どうか戦いに勝って、そして生きて帰ってこられますようにって、お祈りなの。トウジュのお父さまに、ご武運を」
誰ともなく目を閉じる。
三人の小さな祈りが、風に乗って畑を舞った。
そして誰からともなく目を開ける。
「へへ」
頬を赤くしたトウジュが、歯を見せた。
「父ちゃんつえーし。ぜってー大丈夫だ。ありがとな!」
稲穂のように、トウジュの明るい色の髪が風に揺れる。
「よし、続きやろ!」
つゆりの合図で、三人はそれぞれの作業へ戻った。
「ご武運を、か」
青は野菜の葉をめくりながら、小さく呟く。
藍鬼に言ってみたら、どんな顔をするだろう。
弟子が師に対して、口にしても良い言葉なのだろうか。
だけど、嬉しそうなトウジュの顔を見たら、きっと良い言葉に違いない。
「ちょっと遠いかな」
藍鬼のことを考えているうちに、茂みの奥に害虫の姿を見つけた。
両手を土につき、上半身を低く屈める。
「?」
湿った土の感触。その奥で、何かが蠢いた。
焦げ茶の腐葉土に押し付けた指先を見やる。
湿り気を帯びた土に、指がわずかに沈み込んでいた。
「何、だろう……?」
その姿勢のまま、青は目を閉じた。
少しずつ、息を吐く。
ゆっくりと、細く、長く――
畑で動き回る子どもたちの声が、次第に遠のいていく。
息を吐ききる。
音が消えた。
直後、手のひらに伝わる、
左から迫り、通り過ぎ、右へと
「つゆりちゃん!」
青は叫ぶと同時に駆け出した。
「え?」
七歩分ほど離れた場所で葉をめくっていたつゆりへ、青は横から体当たりする。
「きゃっ!」
二人の体が横へ転がった瞬間――つゆりがしゃがみ込んでいた場所が激しく隆起し、太く長い鋸が、頭上高く突き出した。
「え……?!」
突き出した鋸が、直角に折れ曲がって地に刺さる。それを力点に、周辺の土が半球状に膨張したかと思うと、爆ぜた。飛び散る土埃、粉々に砕かれた根菜、引き裂かれた葉菜。
その向こうに現れたのは、紅い八つ目。
その下にのぞく、二本の牙。
巨大蜘蛛。
「きゃーー!!!」
「うわああっ!!」
藁小屋のような巨体が、青とつゆりの眼前を塞いだ。
「つゆり! セイ!」
地中から蜘蛛が体を持ち上げると同時に、横から威勢のいい声が響いた。
「炎神!!」
赤い閃光が躍り出る。トウジュだ。
「壁!!」
炎の壁が立ち昇った。蜘蛛と、腰を抜かした二人の子どもたちの間に、灼熱の障壁が生まれる。壁越しに、鋭い金切り音が響いた。あれは、蜘蛛の悲鳴なのか。
「伏せろ!」
引率の士官が滑り込み、トウジュ、青、つゆりの三人を抱え上げた。
「やぁあ!!」
一喝と共に、その上を飛び越える影。白刃が閃く。小松先生だ。
長刀が、大蜘蛛の顔面へ突き立てられる。
『ギィイイイィシャァアアア!』
悲鳴のような、金切音のような、神経に触る断末魔が轟き、泥のような緑色の体液が噴き出した。
「下がるぞ」
「承知!」
子ども三人を抱えた引率の士官が飛びずさり、畑から離脱。それを見届け、小松先生も長刀を引き抜いて素早く後退した。
「大丈夫ですからね……!」
悲鳴をあげたり、泣き出す子どもたちを、先生や引率者たちが優しくなだめる。
畑にいた他の子どもたちはすでに、土手上へと避難させられていた。
「せ、せんせぇ、あれ、あれなにぃ……!?」
「妖虫です。虫たちが駆除されて、臭いをかぎつけたヌシですよ」
引き攣った泣き声の子どもたちと対照的に、小松先生はあくまでも冷静で、穏やかだった。
「大丈夫、いま、中士や准士の皆さんが退治してくれますからね」
先生は子どもの数を確認すると、合図を出す。
それを受け、引率の士官たちが抜刀しながら畑へと飛び出していった。
大蜘蛛は巨大な黒い鋸のような八本の足を無尽蔵に振り回し、振り下ろし、金切り声を上げながら、人間たちを威嚇する。
「如月さん、大月君、榊君、大丈夫?」
小松先生が三人の元に駆け寄る。
「…………」
「大月君?」
青が唖然と見つめる先、畑には、すでに息絶えた巨大蜘蛛の姿。
「あ、は、はい……!」
先生に肩を支えられ、青やようやく立ち上がる。
畑では、いつの間にか大蜘蛛討伐は終わっていて、士官たちが遺骸を検分しているところだ。
「どこか痛いところは?」
小松先生の問いかけに、青は首をふるふると横に振った。
むしろ、隣で座り込んだまま震えているつゆりが心配だ。
トウジュが中腰で、つゆりの顔を覗き込んでいる。
「トウジュ、助けてくれてありがとう」
青は、言わずにはいられなかった。
「ん?」
顔を上げたトウジュが、一瞬きょとんとした後、
「へへ」
と、いつもの調子で笑う。
「つゆりを助けたのはオマエだけどなー」
そうは言うが、トウジュの炎術が大蜘蛛の足止めをしたからこそ、先生たちの助けが間に合ったのだ。
「如月さんを助けたのは、君たち二人ですよ」
小松先生の細い腕が、青とトウジュの肩を抱く。
軽く三度、ぽんぽんと、撫でる。
そして、座り込んだつゆりをやさしく引き上げ、震える小さな背中を包み込むように抱きしめる。
「三人とも……本当に、無事で良かった……」
珍しく、小松先生の声が揺れていた。