手を伸ばす仮面の向こうで、頭部を失ったはずの
臓物を思わせる赤黒い肉の裂け目から、あたかも新たな生命が
「再生している……っ!?」
青は四肢で必死に地面を蹴り、転がるようにして仮面を掴み取った。
途端、指先が触れた仮面から、左の上腕へと
「いっ……!」
かつて形見の甲当てに触れた瞬間と、同じ。染み付いた藍鬼の血に、「鍵」が呼応したのだ。
苦痛に身を捩る間もなく、再生を遂げた蚯蚓の頭部が、おぞましい
青は仮面を胸に抱きしめ、必死に横へ転がる。頭上から黒い影が急降下――豺狼が全体重を乗せた刃が、再生した蚯蚓の頭部を深々と貫いた。
「はっ……、っは……」
喉にせり上がる胃液の味に顔をしかめ、青は左腕に仮面を固く抱きしめ、痛みに必死で耐えた。
脂汗を滲ませ、奥歯を噛み締める青のただならぬ様子を、豺狼の目が捉える。
「一師」
蚯蚓を貫いて地に突き立った刀を引き抜こうと、豺狼の手が柄を握った。
指先に、刀身を通じて微かな地鳴りのような震動が伝わり、
「!」
空色の瞳が見開かれる。
「下から来る!」
参道脇から、
「地神……」
青は右手で懐から針を抜き放つ。
針は豺狼の脇を抜け、汚泥に突き刺さった。
「針地獄!」
詠唱に呼応し、豺狼の背後で土や砂利が瞬時に黒々と変じる。
無数の
「縛!」
突き出した右の拳を固く握りしめると、鉾があたかも意思を持つ鞭のごとくしなやかにしなり、延び、もがく蚯蚓らをたちまち
「針地獄の応用……か」
豺狼が感嘆の息を漏らし、背後に
「一師、こいつは燃やしても?」
「だいじょう――」
「豪火球、あっつ!」
こともなげな所作で豺狼が火術を放つと、黒繭は瞬く間に巨大な火柱と化した。予想を上回る
「毒剤自体に燃焼力があるから、玉で十分なのに」
「先に教えてくれよ」
両者は顔を見合わせて、薄く苦笑しあった。
それよりも、と豺狼は血の気の失せた青の傍らへと急ぐ。
青は左腕に仮面を庇うように抱き、右手で痛む左上腕を押さえながら、膝をついて苦痛に身を縮めていた。
「どこか痛めたのか」
青はかぶりを振って応えた。
「ありがとう、大丈夫――イズナさんは」
二人が振り返った先、参道脇の斜面を夜梟の手を借り、参道脇の斜面をゆっくりと上がってくるイズナの姿があった。
仮面を失ったその素顔は、燃え盛る繭の残骸や、刀に貫かれたままの蚯蚓の頭部といった惨状を唖然と見つめ、小さな唇をわずかに開いている。
「何が……起きたの……」
やがてイズナの眼差しが、戸惑いを湛えながら青と豺狼へと向けられた。
強い意志と心の芯を感じさせる切れ長の瞳の中で、黒曜石のような大きな黒目が静謐な光を宿している。
「……」
とりわけ青の目を
青が初めて目にする、魚類の半獣人の姿だ。
「イズナさん、先ほどは……」
青は仮面を手に立ち上がり、イズナへと歩み寄った。腕の痛みは和らぎつつある。
「助けていただき、ありがとうございます。よく、地中からの襲来に気がつかれましたね」
ぱっとイズナの顔が、明るんだ。
「そう、『分かった』のです、地中の様子が!」
初めて大技を成し遂げた幼子のように、イズナの白い頬が興奮に上気している。
「御指南の通り、水を通して……水が返してくる響きが、感触や輪郭を伝えてくれたのです」
それはまさしく、水中における魚類の感覚器官による感知能力だ。
「それで、汚染土層の下から、大きな何かが近づいてくるのが分かって――」
気が付けば無我夢中で青を突き飛ばしていた、という。
「俺が気がつく前に動けたのは、そういう事か」
夜梟が、小さく息を吐いた。
「本当に? 夜梟より速かった?」
「……」
青は、目の前に咲いた素直な歓喜を見つめた。
そして改めて、手にした仮面に視線を落とす。
内側に染み込んだ血の跡、刻まれた
今は縦に走る金継ぎの他、組紐が真新しい――薄藍に染めた絹と柔らかな革を丹念に縒り合わせたものに、付け替えられていた。
「これを」
無意識のうちに、青は仮面をイズナへ差し出していた。
豺狼が僅かに目を見張る気配を、横顔に感じる。
「あ……ありがとうございます……」
イズナは差し出された仮面を
その仕草を静かに見つめる青の胸には、もう以前のような黒い澱《おり》はなかった。
同じ「毒使い」としての
「ところで、東方の五国では、毒術師をはじめ技能職は素顔を晒すことが
すぐには仮面を装着しようとしないイズナの様子に、青は素朴な問いを投げかけた。
「規則として定められているわけではありませんが、私の場合は……」
わずかに言葉をためらった後、イズナは静かに言葉を継いだ。
「
「え?」
吐息にも似た微かな声でそう言うと、イズナは頬の銀鱗を指先でそっと辿り、はにかむように小さく微笑んだ。
「私たち、鮎の血族は、西方の古代史において、神の
仮面を
「あ……、でも」
再び仮面を顔に着けようと持ち上げかけたイズナの手が、ふと、動きを止めた。
「シユウ殿に『絵付けの白磁器』と
喜びを滲ませた柔らかな笑みに彩られたイズナの瞳が、額当ての陰からのぞく青の眼差しを、じっと見つめ返した。
「……」
腕を組んで二人のやり取りを見守っていた豺狼は、思わず緩みそうになる口元を隠すように、さりげなく右手を持ち上げた。
青へ
それとは裏腹に、ますます苦虫を噛み潰したような表情の夜梟。
あまりに対照的な二人の様子は、傍《はた》から見ていて何とも微笑ましく、豺狼は込み上げる笑いを抑えるのに苦労した。
「ここにいる間は、こうしていようと思います」
イズナは仮面の留め金を慣れた手つきで外し、
仮面は、イズナの喉元から胸の中央にかけてを覆い、護符のようにそこに収まった。
「この仮面は、幻獣・
イズナの指先が、自らの喉元にそっと触れた。
つまり、青が身に着けている襟留《えりと》めを指し示している。
「!」
ついに、そこに触れられた。
「――その通りです」
内心の動揺を悟られないよう、青は努めて平静を装い、穏やかな微笑を口端に灯した。
「やっぱり」とイズナの声が弾む。それはまるで、かつて学校でよく目にした光景、揃いの飾りや雑貨を見せ合いはしゃぐ少女たちのような、
「ということは、東方でも、鬼豹は毒使いのソレイジュウなのですか」
「ソレイジュウ?」
青と豺狼が互いに目を見合わせ、その言葉の意味を解しかねているのを見て取ると、イズナは「あ」と声を漏らしてその場に屈み、手にした小刀の切っ先で地面に「祖霊獣」の三文字を土に
「こちらでは、鬼の幻獣が、それぞれ職人の
「職人の、始祖……」
青は記憶の中の図鑑や書物を紐解く。
蟲之区で庵と要と共に
「い、いえ、これは工匠の友人によるもので、私の個人的な趣向で……」
機械的に答えながら、青の脳裏ではイズナがもたらした新たな情報が渦を巻いていた。
西方のいずれかの地では、職人の始祖たる幻獣の神話が存在し、その中で鬼豹は毒使いを象徴するという。
藍鬼が仮面の意匠に鬼豹を選んだのは、偶然であろうか。
もし彼がこの西方由来の神話を
「……」
再び、青の胸の奥深くで、
「キャンッ!」
幼獣の甲高い鳴き声が、不意に静寂を破った。
はっと物思いから覚めて振り返った青の足元には、いつの間にか追いついてきたミツキが、その小さな黒い身体を不安げに擦りつけていた。
「大丈夫か、何が起きた!」
「おっきい火柱が見え……な、何ですか、あれ!」
山林の奥深くから、枝葉を掻き分ける音と共に、コウとあさぎが駆けつけてきた。
無残に断ち割られた巨大な蚯蚓の頭部、そこかしこに飛び散った体液と汚泥、砕け散った石畳に、
「異形のミミズでした。焔大蛇の毒による影響だと思われます」
青の淡々とした説明に、コウは眉根を寄せた。
妖魔の毒がもたらす脅威と汚染の深刻さを、改めて肌で感じたのだろう。
「ひとまず始末したが……」
と、豺狼が言葉を引き取り、青とイズナ、そして夜梟へと順に目をやった。
「まだ周辺の地中に残党が潜んでいる可能性はあるだろうか?」
豺狼の問いかけに、夜梟とイズナの眼差しが、おのずと青へと注がれた。
青は静かに、深く息を吸い込んでから吐き出す
「まずはこの場の汚染を浄化します。その後、地中の様子を探りながら参道跡を
青はまず足元の
「引き続き、手を貸していただけませんか。お二人の『視る』力が必要です」
イズナには、つい先ほど青の助言によって開花した魚の半獣人としての感知技が、そして夜梟には、その名が示す通り
「夜梟……?」
イズナが、どこか相手の顔色を窺《うかが》うように、ちらと夜梟へ視線を送った。
事あるごとに彼に判断を委ね、許可を仰ぐその様子からは、二人の間に明確な組織上の序列が存在することが察せられた。
それぞれの手甲に刻まれた意匠もまた、その階級を示すものなのかもしれない。
「……承知しました」
一瞬の逡巡と、何かを噛み締めるような短い沈黙の後、夜梟は
「シユウ殿のイズナへのご教示が、私たちにとっても、有益なものと判断しました」
若く涼やかな瞳が、口元を
「――ありがたい。感謝します」
青がゆっくりと深く頷くと、夜梟の
「では、俺たちは周辺警備と、先行して参道の先を偵察をしよう」
豺狼はコウとあさぎへと向き直る。
この地の地理に明るい自警団の助力を得、天陽とあさぎらチョウトク班には地理情報の収集と更新を命じる――豺狼はそう手際よく段取りをまとめた。
「了解した。ただちに体制を整えよう」
「天陽センセイに伝えます!」
元来た道を引き返していくコウとあさぎの後ろ姿を見送り、豺狼は残った面々へと視線を戻した。
青が参道跡のあちこちを指し示しつつ説明し、夜梟とイズナが真剣な面持ちでそれに頷いている。
ミツキは少し離れた場所にちょこんと座り込み、守護役を自任しているのか、舞い寄る蝶や羽虫にも目もくれず、ひたすら青を見守っていた。
「……やっぱり『センセイ』なんだな」
豺狼はどこか手持ち
この僅かな時間の内に、青は異郷の若者二人の心を確かに捉えていた。
打てば響く深い知識、それを裏付ける確かな技量。
それでいて、かつての医療士時代と変わらない、
そして、その根底に流れる温かさと、内に秘めた揺るぎない熱意――本人は無自覚なそれらの美点が、知らずのうちに人を惹きつけている。
それは豺狼自身も、身をもって感じていたことだ。
初めて蟲之区で出会った、あの時から。