毒使い   作:キタノユ

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ep.12 蟲之報

「師匠……」

 藍鬼の背中が消えた西の空を見上げ、青はいつまでもその場に立ち尽くした。

 

 どれほどの時間が経ったのか。気づけば森の色が変わり、早朝の湿った冷気が温い風に変わっていた。

 

 鳥たちの(さえず)りがずっと近くで聞こえて、青は肩を震わせる。

 誘われるように、小屋へと踵を返した。

 

 戸を引くと、小屋の中はひんやりとした空気に満ちていた。

 いつもと同じ、狭い室内。

 なのに、どこか違う。

 妙に整然としていて、冷え冷えとしている。

 

――課題は自分で探すものだ

 

 藍鬼の優しい微笑みと、声が、青の小さな体の内側に、じんわりと熱を灯した。

「は、っ……」

 ふと、左腕に意識が向かう。

 袖をまくり上げると、白い肌に黒い文様が浮かんでいた。

 蔦が枝を這うような複雑に入り組んだ線が、肌に沈んでいる。

 

 指先でそっとなぞると、触れた箇所が脈を打っている――気がした。

 藍鬼の手のひらが、まだそこに触れているかのように。

 

 青は小さく頭を振る。

「よし」

 声に出すと、胸の奥で何かが固まった。

 

 藍鬼が帰ってきた時に、驚かせてやるのだ。

 こんなに成長したのか、頑張ったなと、目を丸くさせてやる。

 

 青は部屋に上がり込んで文机に向かい、紙と筆を取り出した。

 思い浮かぶままに、文字を書き殴る。

 

「薬、毒、式、罠 上位資格「丁」を取る。まだ持っていない他の資格も勉強する。そうだ、神通術もがんばる。学校の試験で、ずっと一番を取る。えっと、薬草の図鑑を全部覚える。薬大全も全部覚える。針を百発百中にする。毎日走り込みをする。身長……伸ばす! 筋肉をつける。そのために、えっと、好き嫌いをなくす……あれ」

 

 気づけば、紙は文字で真っ黒になっていた。

「うーん」

 青は筆を止め、自分が書き散らしたものを眺める。

 

 あまりの雑多さに、我ながら苦笑が漏れた。

 考えをまとめろと、藍鬼の呆れる声が今にも聞こえてきそうだ。

 

 気を取り直して。

 青は新しい紙を取り出し、墨をたっぷりと含ませた筆を構える。

 一筆ずつ、大きく、力強く、書き記した。

 

 麒麟になる、と。

 

 

 麒麟になる。

 決心を握りしめ、青は七重塔の奥を目指した。

 

 すれ違う大人たちが、小さな影を見(とが)めて怪訝な顔をした。

 迷子か、と声をかけられそうになるたび、青は通行書を取り出して見せた。

 

 幾度も廊下を折れ曲がり、庭を渡る外廊下を越えると、ようやく目的の場所が見えてくる。行き止まった廊下の先に、観音開きの厚い檜戸が待ち構えている。両脇に、門衛が並んでいた。

 

「通行書を」

 低い声に促され、青は懐から札を差し出す。

 門衛の視線が、書面と青の顔を何度か往復した。

 

「入ってよし」

 重い扉が、軋みながら開く。

 その先に広がっていたのは、青がこれまで見たことのない光景だった。

 

「わ、ぁ……」

 まず青を圧倒したのは、巨大な円形の吹き抜けだ。

 

 壁面を埋め尽くす書架が、遥か頭上まで螺旋を描いて続いている。

 天窓から降り注ぐ光が、浮遊する埃を金色に染めていた。

 薬草を煎じる青臭い匂い、遠くで槌が金属を打つ甲高い響き、何千枚もの紙が擦れ合う乾いた音、低く交わされる議論のさざめきが、青の五感を刺激する。

 

 吹き抜けの中心からは、四方へ渡り廊下が伸びていた。

 それぞれの先に、工房、薬草園、実験場、倉庫があるという。

 

 青は呆然と、その空間を見回した。

 ここが、蟲之区。

 学校とも霽月院とも異なる、まったく別の世界だった。

 

 集う顔ぶれは、老若男女さまざまだ。

 白髪の老人が分厚い書物を繰り、若い女が薬研を手に何かを摺《す》っている。

 老若男女の関係なく、誰もが己の探求にのみ関心を向け、黙々と没頭していた。

 

「これが『蟲』ってことかぁ」

 一つの物事に憑かれたように没頭する者たちを、畏敬と揶揄をない交ぜにしてそう呼ぶ。

 

 青の目を奪ったのは、行き交う人々の装いである。

 口元を布で覆う者、目元を仮面で隠す者。

 学校や街では稀にしか見かけない技能師たちが、ここでは当たり前の顔をして闊歩している。

 

 青は、広大な蟲之区の迷宮を歩き回った。

 背丈の何倍もある書架の路地を、縫うように歩く。

 

 梯子の最上段で今にも崩れ落ちそうな本と格闘する老爺がいれば、床に座り込み、塔のように積み上げた書物の城壁に埋もれる若者もいる。

 

 広場の一角では、技能師たちが車座になり、何やら講義が開かれていた。

 飛び交うのは難解な術式や配合の理論。熱を帯びた言葉の応酬は、青にはまだ理解しきれない未知の領域だったが、その真剣な響きと熱が心地よかった。

 

 またある場所では、一心不乱に筆を走らせる背中があった。

 そっと覗き込めば、呼吸すら忘れる集中力で、若い女が大判紙に緻密な図面を引いている。

 

 青のような幼な子が足元をちょろちょろと動き回っていても、誰一人として気にする様子はない。

 

「蟲」たちが漂わせる気は、薄暗い小屋で薬研に向かう藍鬼のそれとよく似ていた。

 言葉もなく、ただ己の手元だけに世界を閉ざす、あの静謐な背中に。

 

「――ここ、好き」

 森の小屋と同じ空気が流れている。

 

 藍鬼がいない空白を埋めるように、それからの青は、蟲之区へ通いつめるようになっていった。

 

 

 藍鬼が任務へと旅立ち、一月が経った。

 

 未だ、藍鬼からの音沙汰はない。

 任務の内容すら分からないままだ。

 

 青はいつからか、指折りで日を数えるのをやめた。

 新しい目標や日課を、着々とこなしていくことに集中する。

 

 朝、目覚めるとすぐに霽月院(せいげついん)を抜け出し、同じ白月区にある社を訪れる。水の賢神と守護神へ、藍鬼の無事を願い、祈りを捧げる。

 

 放課後は夜まで、毎日「蟲之区」へ通い詰めた。

 常に自らに課題を課し、何かに没頭する。

 

 そうしていれば、藍鬼のいない寂しさを、少しだけ忘れていられた。

 

 その日も青は、蟲之区の工房で、黙々と手を動かしていた。

 天窓を、夏の夕立が叩きつけている。

 

「すごい丁寧だね」

 耳元で、不意に話しかけられた。

 

「え?!」

 弾けるように振り返ると、目の前に、誰かの顔がある。

 

「うわ、わ、わっ」

 息がかかるほどの至近距離に驚き、青は後ずさる。

 肘が作業台の器具や皿に当たり、けたたましい音を立てた。

 薄暗く静かな工房で、周囲の視線が一斉に突き刺さる。

 

「す、すみません、すみません……」

 全方位に小声で謝りながら、青は床に落ちた道具を拾うためにしゃがみ込んだ。

 

「ごめん、驚かせたね」

 誰かの手が伸びてきて、散らばった薬草や木の実を拾い集めた。

 

「僕もびっくりしすぎちゃって、ごめんなさい」

 青が顔を上げると、同じようにしゃがみ込んだ誰かと、正面で目が合う。

 

「……え」

 一瞬、息が止まった。

 

 人形かと、思った。

 目の前にいるのは、一言で表せば――「美しい顔」だった。

 

 まず目を引いたのは、冬の澄んだ青空のように透ける髪色と、瞳。

 細雪のような白い肌。淡く色づいた薄紅の唇。

 

 年の頃は、青と同じくらいか、少し上だろうか。

 向けられる微笑は、どこか大人びていた。

 

「これで足りてる?」

 落ちたものを拾い上げて立ち上がると、青よりも頭一つ分、背が高かった。

 肩に届く髪を後ろで結わえ、衣服は青とさほど変わらない身なりだ。

 腿までを覆う濃紺の上衣に、腰は黒い帯布を巻いている。

 

「うん、大丈夫」

 小松先生ともまた違う、「きれいなお姉さん」だ。

 

「それは、何をしていたところ?」

「お姉さん」は、作業台上に広げられた調剤用の道具や素材を珍しそうに眺める。

 

「薬の袋詰めをしてたんだ」

「何の薬?」

「ほんとは薬じゃなくて栄養剤なんだけど、風邪に効くの」

 

 青の前には、きなこ色の粉末が入った容器と、その隣に薬包紙が積まれている。

 

「友達が夏風邪をひいちゃって。でも苦いのは嫌いだって言ってたから、甘くて飲みやすいのを作ってるんだ」

「へぇ」

 

 お姉さんは、硝子玉のような瞳を丸くした。

 

「ちょっと味見させてよ」

「うん、どうぞ」

 

 薬包紙に微量の粉を乗せて渡すと、お姉さんは豪快に口を開けて粉を口へ流し入れた。

 

「……あ、本当、きなこ味だ。甘くて美味しいね」

「良かった!」

 女の子が美味しいと言ってくれるなら、きっとつゆりも気に入ってくれるはずだ。

 

「キョウちゃん、ダメよ、男の子にちょっかい出しちゃ」

 新たな声が、横から割り込んだ。

 

「タイさあ」

 呼ばれたお姉さんが振り向く。

 そこには、いかにも「しっかり者のお姉さん」といった風情の少女が、両手を腰にあてて仁王立ちしていた。少しくせのある栗毛が自由に跳ねている。

 

「その呼び方やめてよ」

「いいの。しっくりくるんだから」

 

 どうやら、「きれいなお姉さん」の名前は「キョウちゃん」。

 しっかりもの少女は「タイ」というらしい。

 

「風邪予防の栄養剤ね。君が作ったの?」

 作業台の上を一瞥しただけで、タイは薬を言い当てた。

 

「友達のために、味を改良してるんだってさ。お菓子みたいで、美味しかったよ」

 キョウが青に代わって補足すると、タイは眉を上げ、苦笑を浮かべた。

 

「子どもねぇ。大人になったら、苦いとか不味いとか言ってられないじゃない」

 白い上衣の胸の前で腕を組み、肩を竦める。

 大人の真似をしているようだった。

 

 青が眉を下げていると「美味しい方が良いけどな」とキョウが柔らかく笑った。

 

「痛かったり、苦しかったりする時に、もうそれ以上、ちょっとでも嫌な思いなんてしたくないよ。それに、美味しくしようと心がこもってると分かると、それだけで嬉しくならない?」

 

「そういうものかしら。うん、そうかも。悪かったわ」

 意外にも素直な言葉とともに、タイは改めて青の作業台を見渡した。

 調合の素材や道具の他に、分厚い図鑑や本が積み上がっている。

 

「すごい数の本……『毒蟲大全』『調剤基礎論』……これ、大人でも読むのに苦労するやつじゃない。ちゃんと読めるの?」

「字が難しいところは、辞書で調べながら何とか……」

「まだ小さいのに、ボクってすごいのねえ」

 

 赤ん坊をあやすようなタイに、青は少しだけ頬を膨らませた。

 

「小さくないよ。もう七つだもん」

「あら、ごめんなさい。ボク、お名前は?」

 タイは肩をすくめ、くすりと笑った。

 

「青。青いって書くんだ」

 少しでも体が大きく見えるように、青は背筋を伸ばして胸を張った。

 

 蟲之区に通い始めて、初めての出逢いだった。

 

 

 新たに出会った二人の「お姉さん」、ハキハキと元気なタイは十一歳。

 人形のように綺麗な顔をしたキョウは、九歳。

 二人とも青より背が高く、青の目からは大人のように映った。

 

「これ全部、青君が読むんだ?」

 作業机の脇に積み上がった分厚い図鑑の山を、キョウもタイの隣で不思議そうに見上げた。

 

「うん。蟲之区にある図鑑、全部覚えたいんだ」

 青は図鑑の塔の隣に並び、得意げに笑う。

 

「へえ、すごいわね。小さいのに、大きなこと言うじゃない」

 タイが青に向ける眼差しは、愛らしい小動物へのそれだ。

 

 子ども扱いされたことに、青は少しむくれて唇を尖らせる。

「麒麟を目指すんだから、これくらい覚えないと」

 誰に言うでもなく、己の心に刻みつけるように、決意を改めて口にした。

 

「え」

 タイとキョウの空気が止まった。

 

「麒麟って――技能師の、一番上の?」

 信じられない、という顔でタイが聞き返す。青は大真面目に「うん」と頷いた。

 

 再び、沈黙。

 

 次の瞬間、タイが盛大に吹き出した。

「あはっ、麒麟って、青くん――子どもって夢が大きくていいわねえ」

 

「本気ですっ」

 青は頬を紅潮させた。

 タイは小さい弟をなだめるように、青の細い肩をぽんぽんと撫でる。

 

「あのね、青君。麒麟になるには、まず資格を取っていかないと――」

「薬術と毒術と式術と罠術、四つとも一級持ってるよ」

「え」

 

 タイの顔から、笑みが滑り落ちた。

 

「一級……え、青君いまいくつ……本当に?」

「うん」

 

 青が頷くと、タイは口元を手で覆った。

「……笑ってごめんなさい。本気なのね。すごいわ」

 

 先ほどまでの軽薄さが嘘のように、真剣な眼差しに変わる。

 そんなタイの様子を、キョウの青い瞳が珍しそうに眺めている。

 

「タイがそんなに言うくらいだから、本当に凄いんだね」

 キョウも静かに微笑んだ。

 硝子玉のような瞳が、青をまっすぐに映している。

 

「……う、うん……」

 キョウの笑顔があまりに綺麗で、青は思わず目を逸らした。

 耳の先が、じわりと熱くなる。

 

「で、でも、麒麟はまだまだ先だから……」

「そうね〜」

 

 タイが腕を組み、難しい顔をした。

 

「かなり大変な道のりよ。麒麟なんて、一人だけしかなれないんだから」

「え?!」

 青は思わず身を乗り出した。

「知らなかったの?」

 タイは意外そうに首を傾げた。

 

 タイの言葉は事実であり、麒麟は各師道に一人のみとされている。

 前任者が降格、引退、もしくは死亡しない限り、その座が空くことはないという。

 

 高位の技能職位が持つ、総合職位と異なる特性に、『稀少性価値の維持』がある。

 高位技能職の水準を保つために、虎以上の職位には厳格な人数制限が設けられているのだ。

 

 しかも麒麟だけは『継承制』を採っている。

 同職の龍から、麒麟が認めた者、あるいは麒麟に打ち勝った者にしか、その地位は引き継がれない。

 

「そんなに厳しいの……」

 息を呑む青へ、タイは容赦のない現実を突きつけた。

 

「麒麟だけじゃないのよ。虎も獅子も虎も厳しい人数制限があるの。だから狼があふれちゃって、万年狼の人は陰で『はぐれ犬』だなんて言われたりしちゃうんだから」

「うわぁ」

 タイの隣で、キョウの端整な眉が困ったように下がっていた。

 

「あ、あの、龍は?」

 青は爪先立ちになり、すがるような瞳でタイを見上げた。

 問わずにはいられなかった。

 

「龍の位は、三年に一人って聞いたわよ。しかも水準に満たなかったら、該当者なしなんてこともザラだって」

 途方もない狭き門だ。

 

「……師匠……」

 青は懐にそっと手を当てた。

 厚手の衣越しに、藍鬼から譲り受けた小さな刃物差しの感触を確かめる。

 

 厳しい関門を潜り抜けた猛き龍――藍鬼は、確かに言った。

 お前は、麒麟になれるかもしれない。

 子ども相手にすら冗談を口にできない、そんな藍鬼の(さが)を、青はよく知っている。

 

「僕、絶対、麒麟になるんだ」

 真っ直ぐに前を見据え、青は言い切った。

 

 タイは数瞬、きょとんとして青を見つめ返したが、やがて力強い笑顔を見せる。

「よし! その言葉、覚えておくからね」

 

「うん……!」

 青も力強く頷き返した。

 いつの間にか、タイの勢いに乗せられて背中が伸びていた。

 

 そこへ――

「いいね」

 横顔に静かな視線を感じる。

 誘われるように振り向くと、冬の湖を切り取ったような透明な瞳が、じっとこちらを見つめていた。

 

「そういう心意気、好きだよ」

 ふわり、と、キョウが微笑む。

 

「……!」

 心臓が大きく跳ねた。

 青は咄嗟に視線を手元の薬包へと落とす。

 耳の奥まで、火がついたように熱かった。

 

 それが初恋であったと気づくのは、数年先のこととなる。

 

 

 青の熱にほだされたのか、タイもまた、己の志を語り始めた。

「私の目標はね、父の後を継いで、立派な医師(くすし)になること」

 

 そのために薬術や毒術も学び、治癒術に頼りすぎない治療を確立したいと考えているという。

 

「治癒術はね、術者の負担がとても大きいの。自分の命や気を削って、誰かを治すんだから」

 腕を組み、タイは続ける。

 

「治癒術は、もちろんありがたい存在だけど……術者にとって代償が大きすぎるの。術者の命そのものを削って、他者の傷を塞ぐ。命を分け与えているような行為なんだから」

 工房の片隅で、青はタイの熱が入った言葉に聞き入った。

 

「治癒術を使える術者は数も少ないし、一人が診られる患者の数にも限りがある。誰かを助けるために、術者の方が倒れてしまったら、意味がないでしょう? 私は、もっと多くの人を救える方法を見つけたいの」

 

 タイの家系は代々、都で治療院を営んでいるという。法軍とも提携を結ぶその医院には、日々、任務で傷ついた多くの者たちが運び込まれる。幼い頃から父の背中越しに、多くの命の現場を見つめてきた。

 

「かっこいぃ」

 タイの言葉には、迷いがない。

 薄暗い工房の隅にあって、その真っ直ぐな情熱は、そこだけ陽だまりのような熱を放っていた。

 

 眩《まぶ》しさに目を細めながら、青は恐る恐る、もう一人へと視線を転じた。 「きょ、キョウさんは……?」

 

「この子は戦闘バカだから、期待しないで」

 タイが横から割り込んだ。

「頭の中は、いかに効率よく敵を無力化するか、そればっかり。……あ、でも、いい護衛にはなるわよ」

 

「まあね」

 不名誉な紹介にも、キョウは否定することなく、ただ花がほころぶように微笑むだけだった。

 それ以上、自分のことを語ろうとはしない。

 

 不思議な人だ、と青は思う。

 硝子細工のように綺麗で、春風のように優しい気配をまとっているけれど――掴めない。

 指の隙間をすり抜ける水のように、その本質は透明な膜の奥にある気がした。

 

「そうだわ」

 タイがパン、と小気味よい音を立てて手を打った。

 

「青君、薬と毒の一級を持ってるんでしょう? だったら、一緒に勉強しない?」

「え?」

「私たちで、知識を交換するのよ。青君は、薬や毒の知識を私に教えて」

 

 タイは身を乗り出し、壮大な悪戯を企む子どものような瞳を輝かせた。

 

「代わりに、私は医師(くすし)の仕事について教えてあげる。それからね、私、『食医』の上資格を持ってるの」

「ショクイ?」

 

「そう。体に良いお料理のこと。薬や術に頼る前に、まずは毎日のご飯が大事よ。何を食べれば体が強くなるか、背が伸びるか……美味しくて体にいいご飯の秘密、教えてあげるわ」

「ご、ご飯……!?」

 青の瞳がまん丸に見開かれた。

 

「美味しくて体にいい」。

 しかも、「強くなる」「背が伸びる」。

 

「教えてください!」

「決まりね」

 

 目を輝かせて身を乗り出す青と、満足げに頷くタイ。

 その二人を、キョウが変わらず温かな眼差しで見守っている。

 

 蟲之区は、知との出逢いの場。

 雨音が叩く天窓の下で、青は奇妙で、けれど心地よい友と出会った。

 

 

 蟲之区で新たな友、タイとキョウと出会ってから、さらに二月が過ぎ――藍鬼が任務へと旅立ってから、三月が経過していた。

 都を吹き抜ける風の色が、いつしか深く、濃くなり始めていた。

 

 青の日課は変わらない。

 朝は祈り、昼と夜は学ぶ。

 

 変わったことといえば、「蟲之区」での過ごし方だった。

 タイとキョウとの出会いは、藍鬼の不在でぽっかりと空いた青の胸の穴を、知的好奇心で埋めてくれていた。

 

 珍しく秋雨を降らす雲に覆われたこの日、青はタイとキョウの三人で蟲之区の工房の隅で、机に薬草や野菜や果実を並べていた。

 

医食同源(いしょくどうげん)。体を作るのは、いつだって食事なのよ」

 タイから学ぶことは多かった。

 季節ごとの食材が持つ効能、体を温める根菜と冷やす葉野菜の違い、あるいは人間の臓器の仕組みや、血の巡りについて。

 

 医師(くすし)の娘であり、食医の上資格を持つタイの知識は、実践的で生活に根差している。

 一方で、青が教える番になることもあった。

 

「この草は、根っこを煎じれば胃薬になるけど、葉っぱを生で食べると舌が痺れるんだ」

「部位によって毒にも薬にもなるのね」

 

 森で覚えた薬草の植生や見分け方、あるいは毒草の扱い方について。

 互いの知識を交換し合う。

 

 そして、もう一人。

 キョウは姿を見せないことも多かったが、蟲之区にいる時は、いつも変わらぬ静けさでそこにいた。

 青とタイが賑やかに議論する様を隣で、縁側で日向ぼっこをする猫のような眼差しで見つめている。

 

 口数は少ない。

 けれど、その青水晶の瞳に見守られているだけで、場には不思議な調和が生まれていた。

 

 そんなキョウが珍しく、二人の会話に割って入ったのは、秋の雨音が静かな午後だった。

 

「あのさ」

 手遊びに冊子の角をいじっていたキョウが、ふと思い出したように口を開く。

 

「苦くない痛み止めって、作れる?」

「痛み止め?」

 青とタイは顔を見合わせた。

 

「柳の皮、とか」

「芍薬、丁子……」

 次々と薬の名を挙げ連ねていく二人だったが、結論は、「どれも、苦い」。

 

「でも、師匠の薬は、苦くなかった……」

 青は記憶の糸を手繰り寄せる。

 小屋の棚に、とろみをつけた薬湯や飴を使った調合について記された書き付けが、あったはずだ。

 

「……薬を甘くするんじゃなくて、苦みを包んじゃうのはどうかな」

「包む?」

 キョウとタイが首を傾げる。

「あのね」

 

 青は、果汁や澱粉を煮溶かして作った極薄の膜で薬を包み込み、舌に苦みを感じさせる前に飲み下してしまう手法を提案した。

 杏や李を使えば、薬特有の臭みも果実の香りで紛らわせられるはずだ、と。

 

「それ、欲しいな」

 キョウの薄桃の唇から、ぽつりと、雨粒のような言葉が落ちた。

 瞳の奥に、どこか切実な色が揺らめかせて。

 

「え、えっと……」

 眼差しに吸い込まれないように、青は慌てて視線を机上に並ぶ素材や食材に目を落とす。

「これと、これを使って……」

 果実の汁と、あとなにか、粘り気の強いもの。

 

「あとは、葛があれば……素材がもらえるか、確認してくるね」

 青は椅子を引いて立ち上がった。

 

 工房の最奥には、素材管理倉庫が設けられている。

 蟲之区の特筆すべき点は、その支援の手厚さにある。

 ここでの研究や実験に用いるための素材であれば、希少なものを除き、申請すれば無償で提供してもらえるのだ。

 

「行ってらっしゃい」

 二人に見送られ、青は小走りで工房の奥へと向かった。

 

 素材管理倉庫へ急ぐ途中、青は近道をするために、迷路のように入り組んだ書架の隙間へと足を踏み入れた。

 古い紙と防虫香の匂いを潜り抜ける、その時だった。

 

「俺はもう、決めたんだ」

 切迫した男の声が、書架の向こうから漏れ聞こえた。

 

「待て。もう少し冷静になって考えてみてくれ」

 諌めるような別の声が続く。

 どうやら数人の大人たちが、込み入った話をしているらしい。

 

「……?」

 足音を止めて忍ばせ、青は本の隙間からそっと向こうを窺った。

 書架に囲まれた狭い空間に、三人の人影がある。

 三人とも、技能師のようだ。口元や目元を布や仮面で隠している。

 

 その内の一人に、青は見覚えがあった。

 飾り気のない生成り色の作業衣に、同色で作られた、羽蟲の顔を思わせる仮面。

 

「あれ、あの人……」

 思い出そうとして、青は書架の陰に気配を隠して大人たちの様子を覗き見る。

 

「里薺《りせい》。お前も考え直した方がいい」

 黒装束の一人が、首を振る。

「俺たちは毒術師道から降りる」

「これからは薬術か……あるいは武具工にでも鞍替えするさ」

「どうして……」

 里薺と呼ばれた青年が、悲痛な声を漏らす。

 

「凪の毒術師道に、この先の未来があると思うか。麒麟が空席になってもう、何年だ」

 

 ――え。

 

 思わぬ男の言葉に、青の心臓が跳ねた。

 息を潜め、書架にしがみつくようにして耳を澄ます。

 

 毒術師と思われる男たちは顔を見合わせ、重苦しい沈黙を落とした。

「……里薺。お前はずっと地方に引っ込んでたから、知らんのだな」

「何をだ」

「国抜けをした禍地特師の誅伐命が下ったんだ。直命を受けられた藍鬼一師は、もう三月《みつき》も戻られていない」

 

 ドクン、と青の脈が乱れた。

 

 毒術の麒麟。

 国抜け。

 誅伐。

 

 理解が追いつかない言葉が並ぶ。

 

「……これがどういうことか、お前にも分かるだろう」

「龍に麒麟を屠ることはできなかった。……凪の毒術はこれで、地に堕ちる」

 

――ヒュッ……

 

 青の喉から、空気の塊が逆流した。

 耳に届く言葉のすべてが、青の頭を殴りつけるように響く。

 

 長い任務に出る。

 そう言っていた藍鬼の目的は、麒麟を追い、殺すことだった。

 

『じゃあ、毒術の麒麟って、どんな人?』

 かつて尋ねた青に、

『ロクでもない野郎だ』

 藍鬼は、そう吐き捨てた。

 

「どう……どういう、こと……?」

 酷い目眩に襲われ、世界が回る。

 頭のてっぺんから血の気が引き、手足の指先から体温がごっそりと失われていく。

 胸の奥が万力で締め付けられ、息を吸うことも吐くこともできない。

 

 その瞬間――左腕を貫く激痛。

 

「っぁあ!」

 たまらず、青は悲鳴をあげた。

「!?」

 書架の向こうで、男たちが振り返る気配がした。

 

「誰だ!」

「痛っ……あつ……ぃ!」

 

 全身が震え、四肢が強張る。

 青は体を丸め、書架へともたれかかった。

 左腕が、まるで焼けた鏝を押し当てられたように熱い。

 脈打つたびに、脂汗が吹き出るほどの激痛が脳髄まで走る。

 

 この痛みを、知っている。

 

 震える指先で袖をまくると、左腕の内側に、赤黒い文様がミミズ腫れのように浮かび上がっていた。

 

「これ……鍵……!」

 藍鬼が刻みつけた、何かを開く鍵。

 

 その時が来たら分かる。藍鬼はそう言っていた。

 だが、なぜ今が「その時」なのか。

 

「し、師しょ、う、うぇ……っ」

 とめどなく襲いかかる痛みの波と、せりあがる吐き気。

 何度もえずく。

 視界が歪み、錐を突き刺したような耳鳴りが、思考を塗りつぶしていく。

 

「ボウズ、どうした?!」

 ドタドタと足音が近づいてくる。

 

「し、しょ……」

 宙を彷徨う青の手が、救いを求めて書棚の縁を掴んだ。

 体重をかけられた棚が傾き、本が押し出されるように滑り出す。石板のように分厚い図鑑の山が雪崩となって、青の小さな身体の上に降り注いだ。

 

「っぁ……!」

 重たい衝撃が肩を打ち、床に伏した背中を押し潰す。

 

「お、おい!」

「子どもが下敷きに!」

「青君!?」

 

 四方から、慌てふためく声がより集まる。

 薄れゆく視界の端、生成り色の仮面が、こちらへ手を伸ばしているのが見えた。

 

 顔を上げかけた瞬間、外れた棚板が頭部に直撃した――

 

「青!」

 

 駆け寄るキョウの叫び声を最後に、青の意識は闇へと落ちた。

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