青は独り、闇を走っていた。
星明かりも月明かりも消えた、深い闇。
手を伸ばしても何も触れず、足裏にも地の感触はない。
前に進んでいるのかも分からない。
前後左右の感覚もなくなってきた。
息を吸えば吸うほどに、闇が頭の中を侵食する。
なぜ走っているのか理由も分からない。
立ち止まり、振り返る。だが、何の気配もない。
いっそ妖獣でもいい。誰かの気配があれば、まだましなのに。
青
声がした。
「師匠……?」
口から漏れたつぶやきが、闇の静寂の中で耳障りに響く。
「師匠、どこ?」
水をかき分けるように両手を動かし、辺りを見渡す。
背中に温度を感じた。
振り返るとそこに、目元が涼やかな男が立っていた。
出立直前に見た、藍鬼の素顔。
「師匠!」
柔らかい笑みをたたえた影へ、青は左手を伸ばした。
*
「待っ……!」
自分の声で目を覚ました。
最初に視界に入ったのは、宙へ突き出した己の手、その向こうの白い天井へ徐々に焦点が定まってきた。
「大月君!」
「青!」
「セイ!」
三人の声が同時に降ってくる。
「え……」
手を下ろし、首を左へ僅かずつ傾けると、横に並んだ小松先生、つゆり、トウジュの顔があった。
「ここは病院ですよ。大月君、本の下敷きになったって」
記憶が定まらないような顔の青へ、小松先生が状況を説明してくれた。
蟲之区の資料室にて躓いた青が書架へぶつかり、落ちてきた重たい図鑑や書籍、棚板の下敷きになって気を失ったという。
「その場にいた方たちが医院へ運んで下さって。お医者様のお話では、ケガは無いようだけど、頭を打ったので念のため経過を見ることになりました」
経過観察のための入院措置とのことだ。
ゆっくりと体を起こして周りを見渡すと、そこは白い壁と天井に囲まれた小さな病室で、青が眠っていた寝台の他は小さな箪笥と机だけの簡素な空間だ。
格子柄の硝子窓を秋雨が打ち付けて、トツトツと心地よい拍を刻んでいる。
運ばれてから丸一日眠っていたようで、学校も欠席となっていた。
病院から連絡を受けた霽月院経由で小松先生に報せが行き、心配したトウジュとつゆりを伴って見舞いに来てくれて今に至る。
「それにしても、本につぶされるとか、セイらしいよなー」
寝台の脇に座るトウジュが、肩を揺らして笑った。青が目を覚ました安堵感から、つゆりも「笑いごとじゃないってば」と言いつつ、笑みが零れる。小松先生も二人のやりとりに苦笑していた。
「……大月君、どこか痛いですか?」
二人のやりとりを遠い目で見つめている青へ、小松先生は怪訝な面持ちで顔を近づける。
「う、ううん、ちょっとまだ混乱してて」
迷惑をかけてごめんなさい。
お見舞いに来てくれてありがとう。
言いたいことがあるはずなのに、うまく口に出せずに黙り込むしかなかった。
俯いて、掛布を握る両手を見つめる。
入院着の袖が捲れて左腕の赤黒い模様の端が覗いた。
「!」
二の腕まで袖をまくる。左腕の内側には、赤黒いミミズ腫れのような模様。夢や幻ではない――確かにそこにあった。
「ああ、それ、病院の方も不思議がっていましたよ」
すぐ隣にいるはずの小松先生の声が、ぼんやりと遠くで響く。
青は指先で模様を撫でる。痛みはなく、触れた感触も見た目ほど凹凸はなく、肌組織に模様が浸透しているように見える。
あるものを開ける鍵。
「その時」がくれば分かる、今がその時。
その意味は――
「!」
布団を剥ぎ寝台を飛び降りて、青は壁際の小さな箪笥の上に置かれた自分の鞄を引っ手繰った。
「大月君?」
どうしたの、と三人の心配そうな声を背中で聞きながらも、青は寝台の上に置いた鞄の中を探る。指先で固く乾いた感触を探り当て引き抜いた。
長方形の木片、いつも御守代わりに持ち歩いている、森への血判通行証だ。
「!」
そこに書かれていたはずの血文字と龍の血判が、消えていた。
俺が生きている間は使える。
そう言って藍鬼に渡されたもの。
「そ、そんな……」
木片を凝視し肩を震わせる青。
「大月君、どうしましたか」
小松先生が青の肩に手を添え、優しく呼びかける。トウジュとつゆりも口を噤んだ。
「行かないと、僕」
「え??」
言うが早いが青は駆けだした。三人の間を抜けて部屋を飛び出し、院内の廊下へ出る。
「大月君!?」
背後から先生たちの慌てた声。廊下にいた他の入院患者や医療職員たちが足を止めて振り返る。それらを無視して青は廊下を駆け抜けた。
「誰か! その子を止めて下さい!」
先生の声で我に返った職員が立ちふさがろうとするが、小柄な体を活かして脇をすり抜ける。
休憩所のような広い区画に出る。
半開きの大きな出窓へ跳び、秋雨の中へ飛び出した。
「青!」
「どこ行くんだよ!」
つゆりとトウジュが追いかける。窓から飛び出した場所は医院の表玄関だった。来院する患者や医院職員が、二階の窓から飛び出した子どもたちにぎょっと足を止める。
「風神、神足!」
着地と同時に、つゆりの風術が発動。風の力で跳躍したつゆりの体が、一気に青との距離を縮めた。
「どうしたの! 止まって!」
つゆりの手が青の背中に届きかけた、瞬間、
「!」
秋雨の粒が束となって奔流となりつゆりへ横殴りに降り注いだ。
「きゃっ!」
つゆりがひるんだ瞬間に風術が消え失速。
その横を、トウジュが駆け抜けた。
再び雨粒が意思を持ったまるで大蛇のようなうねりを作り出す。
「これ、水術なのか??」
トウジュは青の背中を見据える。術を唱えもせず、雨がまるで青を護るかのように渦を巻く。
「んなら、全部吹き飛ばす! 風神!」
トウジュが青を追い、術を唱える。青を護るようにうねる水の奔流へ、トウジュが風術で作り出した大蛇がぶつかる。凄まじい飛沫が八方へ霧消した。
「よっしゃ!」
トウジュの確信はだが直後、目の前に隆起した土壁によって遮られる。
「っうわ!」
追いついた小松先生ともども、二人は足を止める。
「雷神!」
「っくしょー!」
トウジュの足が泥を蹴る。
「青……どうしちゃったの……」
びしょ濡れになったつゆりも二人に追いつく。
「セイのやつ、あんなに術が上手かったっけ……?」
呆然とするトウジュの呟きは、秋雨の静けさに溶けて消えた。
*
どこをどう走ったか、青は都の大正門広場まで来ていた。
晴れの日は白く輝く白い石畳が、今日は秋雨に濡れて灰色に沈んでいる。
ここは森への転送陣を利用するために、もう何十回と通った場所だ。病院着で濡れ鼠で立ち尽くす子どもの姿は、行き交う人々の奇異な物を見る視線を集めた。
「……どうしよう」
青は白紙となった通行証を見つめる。転送陣を使わずに森までたどり着ける術を知らない。
「あ、あの……」
恐る恐ると、青は陣を護る門衛へ声をかけた。
「ああ、いつものボウズか。どうしたそんなびしょ濡れで」
何度か顔を合わせた門衛だった。事情を説明して頼み込めば通してくれるだろうか。後ろ手に隠していた白紙の通行証を差し出そうとしたとき、
「ん?」
門衛の後ろの陣が淡く光った。同時に、青の左腕も同色の光に包まれる。正確には、腕に刻まれた模様が発光しているのだ。
「おや。通行証から手形刻印に変えたのか?」
「え?」
「通っていいぞ。村で風呂にでも入れてもらえ」
「あ、ありがとう……!」
理由はよく分からないが、腕の模様が作用したのは確かだ。礼もそこそこに、青は陣へ飛び込んだ。
雨のせいか、陣守の村の人出は少ない。
いつもならば「飯食ってけ」「おやつはいるか」と四方八方から声がかかるが、今日は雨が幸いした。
それでも誰かに声をかけられては面倒だと、裏口から村を抜け出し森へ入る。
いつもの道をひた駆けて、小屋へたどり着いた。
小屋を隠す幻影術を解いて中へ入り、後ろ手で引き戸を閉めた。
誰もいない室内。
ここに藍鬼がいれば「来たのか」と奥の部屋から声がかかるのに。
「はぁ……はぁ……」
息を整え、土間で体の水を落とす。
犬のように頭を振ると四方八方へ盛大に滴が飛び散った。土間の瓶に貯めてある水で足の泥を落とし、手拭いで水気をとって居間へ上がる。
考えなしにここまで駆けてきたものの、少し冷静になってみれば何をすれば良いのか分からない。
「……何の鍵なの、師匠……」
腕に刻まれた模様を見つめる。
雨に濡れて冷たくなり、肌色は血の気を失っていた。
「……くしゅっ」
小さいクシャミ。
少し埃っぽい臭いに気づく。
空気を通そうと、居間の格子窓を少し開けた。
それから奥部屋へ続く扉を開く。
と、無人のはずの室内に、淡く輝く光源が見えた。
「?」
首だけ出して中を覗く。
光の元は、壁際の文机の上に置かれた箱だった。
工芸品の箱の表面を飾る蒔絵と螺鈿の細工が、模様に沿って光を帯びているのだ。
それに呼応するように、腕の模様も同じ色に光る。
「何かを開ける鍵」
結論にいたる前に体が動いた。箱を部屋から持ち出し、居間の真ん中、窓から入る光の中に置く。
箱と向き合う形で、青もかしこまって腰をおろした。
箱の表面には一枚の符が貼られていた。「封」と藍鬼の筆跡で書かれている。蓋へ手を伸ばし、
眩しさに目を閉じて、恐る恐る開くと光はおさまり、符は消えていた。
両手の指先を箱に添えると、何の抵抗もなく蓋は開いた。
中身はごく簡素なものだった。
まず目に入ったのは一番上に置かれた、七つ折の書状が一通。その下に、木札や革袋、布袋等が重ねられている。
「手紙……かな」
手が濡れていないか確認して、青は一番上の書状を手に取った。
不思議なほどに、心は凪いでいる。
紙を開く音が、外からの雨音に重なった。
――大月青 殿
「何だよそれ」
線が細く角張った書き癖の文字と、書き出しの堅さに、思わず青は苦笑を零す。
手紙の本文は、詫びる言葉から始まった。
――まず、凪へ戻ることがかなわなかった俺の不甲斐なさを詫びる
――多くを語れないままであったことを、許してくれ
「何……」
それは青にとって、師自らの死亡宣告に他ならない。
通行証の血文字や血判が消えた時点で覚悟はしていたが、糸一本で繋がっていた僅かな望みが断たれてしまった。
手紙は、
――誰を恨むことなく生きてほしい
――全ては俺が自分で決めたことで
――生きて帰れなかったのは、俺の力不足でしかない
「……」
青の目は黙々と、手紙の文字を追った。
――
――お前には、俺と同じ轍を踏まないで欲しいと願う
「え……」
手紙を持つ青の手が、強張る。
くしゃりと紙が縒れる音がした。
――今後はハクロを頼るといい。ハクロは
――奴は必ず生きて凪へ戻す
――お前の力になりえる男だ
「何……だよ、それ……」
指先が意思に反して震え始める。
手紙の後半は、作業小屋および小屋内のあらゆる道具、素材、薬品、資料を青に譲渡する旨について、事務的な事項が続く。また、長が未成年後見人となる承諾を得ているとも明記されていた。
最初からこうなると分かっていて、全ての準備を終えていたのだ。
これは、遺書。
――最後に
長々と事務的な話が続いた後に、遺書は短い言葉で締めくくられた。
――青 お前と出会えて、俺は幸せだった
――藍鬼
「何……何だよそれ……」
青は遺書を箱の上へ投げつける。
感情にまかせて破ってしまいそうだった。
「何だよそれ何だよそれ!」
他に言葉が思い浮かばず、ただ疑問を繰り返した。
問いただしたいことが山程ある。
その相手はもう、いない。
「はっ……、はぁ……、っく」
青はその場に倒れ込んで体を丸めた。
「師匠……ぉ」
涙まじりの吐息は、強さを増す秋雨の音に掻き消されていった。
それから三日、青は