気がつくと、母親の姿はどこにもなかった。
星の瞬きも、月明かりすらも届かない夜の森を、幼い少年が
「はっ……はっ……」
とうに方向感覚は失われていた。
手探りで草を払い、足裏に伝わる土の感触と、獣の遠吠えをとらえる聴覚だけを頼りに、少年はもがくように闇を進む。
「わっ……ぁ!」
不意につまずき、前へ体が投げ出された。
背丈の二倍はあろうかという冬枯れ
うつ伏せたまま、
「もう……大丈夫、かな……」
気配が消えたかに思えて、少年は、巣から出てきた幼獣のように、そろそろと身を起こした。慎重に辺りを見回す。
風が梢を揺らし、枝葉の隙間からわずかな月光が降り注ぐ。
光に照らされ、少年と森の
少年の歳の頃は、四つか五つ。
夜の森に溶け込むような闇色の髪と瞳が、小動物を思わせる。
麻の上下をまとい、
「か……母さま……?」
森へ逃げ込んだ時には確かに側にいたはずの母が、どこにもいない。
それでも、むやみに声を上げるわけにもいかなかった。
少年はゆっくり立ち上がると、衣についた草を払い、腕や脚を月光に
枝で切ったのか、左足首の脚絆が破けている。
赤黒い染みが滲み、じわりと血を広げていた。
「血、止めないと……走れなくなっちゃう……」
母から教わった手当の手順を思い出しながら、少年は足元に薬草を探す。
月明かりを頼りに、羽状に裂けた草を見つけ、むしり取った。
小さな手で掴めた分だけの草を平たい石に乗せ、道具袋から小刀を取り出す。
柄の底で、力をこめて擦り潰した。汁気が
その上からサラシをきつく巻き直した。
「母さま、どこ……」
手当を終えた少年は、夜の森を見渡す。
いつの間にか風が止んでいた。
静かだ。
獣の遠吠えも、夜鳥の羽ばたきも、虫の鳴き声もない。
森の息吹が、消えていた。
聞こえるのは、自分の心音と、乾いた喉から漏れる呼吸音だけ。
静かすぎる。
不意に、背筋を蟲が
「な、に……?」
少年は小刀を
息を潜め、視線を左、右へぎこちなく移動させる。
それはそこにいた――あった。
視界を塞ぐ灰色の小丘。
足音も、気配も、息遣いもない。
まるで最初からそこに『あった』かのように。
森の深い暗闇で、その姿が異様なほど鮮明に映った。
全身を覆う、もじゃもじゃの灰毛。見上げれば、鋭利に伸びた二本の牙。
少年の浅い知識で表現するなら、それは巨大な猪。
ただし、森の獣とは性質が異なる存在。
「よ、妖獣……」
縄張りに、踏み込んでしまった――
叫ぶより先に、少年の体が動いた。一歩、二歩と後ずさる。
灰色の猪が、丸太のように太い鼻先を揺らした。
次の瞬間――
「うわ!」
脇腹に衝撃が走る。
少年の体が横に飛ばされ、土へ叩きつけられた。呼吸が止まりかける。
「いた……っ、ぃ」
右手で地を押し、上体を起こす。
目を逸《そ》らせば喰われる――
灰色の小丘が、悠然と少年へ向きを変えた。
振り向いたその頭上、二本の牙の上に赤く光るのは、三つの紅い眼。
それらが、少年を吟味するように、ゆっくりと瞬きをした。
「く、ぅ……ッ」
喉まで出かかった悲鳴を、少年は唇を噛んで飲み込んだ。
体の芯まで凍てつくような畏れが走る。だが、背中は向けない。
じり、と土を強く踏みしめ、わずかに後退して間合いを測る。
瞳は涙に潤みながらも、射貫くように
『ゴォオオオオォオオオオ』
地鳴りとも、突風ともつかぬ
三ツ目の猪が、無雑作に尾を
頭上を
「っ――!」
少年はとっさに身を伏せ、嵐のような風圧をやり過ごす。吹き飛ばされ、
「ふー……っ、ふ、ぅ……っ」
尻もちをついた少年は、荒い息を吐きながら見上げる。
雲が裂け、月が再び姿を現す。
円舞台のように光の
針のごとく硬質な毛を逆立てた巨大猪。
その三つの紅い眼光が、少年の内側にある「何か」を探るように細められる。
「あ……」
少年の視線が、猪の頭上に引っかかっている何かをとらえる。
そこに、淡い浅葱色の布が、はためていた。
あれは――
「……母さま……っ」
瞬間、怒りが恐怖を
「お前……!」
少年は跳ね起きると、がむしゃらに掴んだ石を投げつける。石の
『ブルゥオオオオオオオオッッ!!』
憤怒の雄叫びが轟く。
「母さまを……っ」
幼い憎悪を剥き出しに、少年は小刀を逆手に持ち替えて振りかぶり、
「母さまを喰ったのか!!」
少年の手から放たれた刃が、三ツ目の中央に突き刺さる。
『ブォオッ』
短い
暴威《ぼうい》たる鼻先が
『グゥ、オ、オォ……!』
逆巻く毛は
「あ……」
少年は体を
妖獣を、怒らせてしまった――少年の瞳に後悔の色が灯る。
『ブゴォアァアアアアアアアッッ!!!』
「ぃっ……!」
少年は
風の刃が容赦なく着物ごと肌を切り裂き、いくつもの熱い痛みが全身に走った。
殺される……!
固く瞑った
瞬間、
「炎神、壁」
鼓膜を震わす
うぶ毛を焦がすほどの、熱。
「……え?」
顔を上げれば、
燃え盛る炎の壁の向こうで、巨獣が苛立たしげに
「散」
燃え盛っていた壁が、霧散した。
舞い散る火の粉の中、少年の前に音もなく一つの影が降り立つ。
「下がっていろ」
低く落ち着いた、男の声。
左の
「
男は、燃え盛る左手の炎を前に掲げ、平坦で冷静な声音で語りかけた。
妖獣に、言葉が通じるのだろうか。
腰を抜かしたまま、少年はどこか現実感のない頭でそう思った。
『ブフゥウウウゥゥゥ……』
三ツ目猪は変わらず眼と牙をどす黒く充血させ、地底から湧き上がる唸り声を吐き出し続けている。土をひと掻き、ふた掻き――
『ゴフウゥッ!!』
短い咆哮と共に猛進した。
「ふあっ!?」
少年の視界が、唐突に反転した。
重力が消え、体が宙に浮く。
男が少年の体を小脇に抱え、飛び
しなった鼻先が土を
男は少年の体を抱えたまま、高枝へ飛び移る。
「わ、わ!?」
感じたことのない感覚に慌てふためき、少年は手足をバタつかせた。
男の片腕は少年の体を鉄枷のごとく固定していて、びくともしなかった。
三ツ目猪は、獲物を逃した苛立ちに狂って大樹の根元へと突っ込んでくる。
「あぶ、危ない!」
樹が倒される――
少年の警告など意に介さず、男は空いた右手に何かを握り込むと、揺れる枝から再び虚空へと身を躍らせた。
直後、猪の鼻が大樹をへし折り、薙ぎ払う。
猪の巨躯を飛び越える途中、男の右腕が
ブゴッ
悲鳴とも嘶きともつかない、短い鳴き音。
男の着地と同時に、妖獣の巨体はその場へ沈んだ。
「え……? いたっ!」
「お前は動くなよ」
男は荷物でも置くような手つきで少年を草地へ転がり下ろすと、物言わぬ肉塊となった猪へ近づいていく。
「え……、え……?」
男の背中の向こう、ピクリとも動かない巨体を、少年は呆然と見つめた。
「な、なんで……?」
何が起きて、何故終わったのか。
理解の
「そいつ、し、死んだ、の……?」
円形に森が薙ぎ払われ、禿げ上がった跡地。
ぽっかりと
光の中に立つ男の装いは、闇に溶ける黒一色だった。
左腕、腰、
両手は黒い
「元々この辺りを荒らしていた奴だった。ちょうど良い」
男がゆっくりと振り返る。
月明かりに
「ひっ!」
少年は喉を引きつらせ、後ずさる。
鬼か、あるいは獣か。
漆塗りの黒い面には、金や銀の繊細な
剛毛に手を伸ばし、絡まっていた薄い
「これはお前の物か」
「それ……、母さまの!」
鬼面の恐怖も忘れ、少年は飛び起きるように立ち上がった。
男の手から布を引ったくり、その場にうずくまって、顔を埋める。
土と獣の臭いの中に、微かに残る、懐かしい匂い。
「母さまは、こいつに……く、喰われたのかな……」
「……」
震える幼い背中にかけられる言葉はなかった。
男は沈黙をもって肯定し、静かに別の問いを投げかける。
「お前、どこの子だ」
「……え?」
涙に濡れた顔を上げ、少年は首を傾げた。
「ここは
「ゴシンツウソ……ナギ?」
「……難民の孤児か」
呪文のように単語を
「お前の母さまはどこへ行くと言っていたんだ」
「森の向こうにお国があるって……」
男は「そうか」とだけ応え、布切れを抱きしめる少年の全身を観察した。
その視線が、不恰好に包帯が巻かれた足首で止まる。
「それ、自分で手当をしたのか。ヨモギか」
「ど、どうして分かるの」
「匂いでな」
少年はただ、目を丸くした。
さきほどから起きている事象に、思考が追いつかない。
妖獣の襲撃、母の死、仮面の男の不可思議な力。
そして自分が今、見知らぬ森で天涯孤独になってしまったという事実。
「……ふむ」
茫然自失の少年をよそに、男は妖獣の死骸を検分し始めていた。
猪の額から小刀を引き抜き、刃先と傷口を交互に眺める。
「――これは……」
低く唸り、肩越しに少年を見やった。
「お前、……いや……」
何かを言いかけて、飲み込む。
「よく分かったな」
再び少年から顔を逸らし、男は猪の小山を見上げた。
「え?」
「急所だ」
黒い手甲の手が、猪の額を指し示す。
見開かれたまま光を失った三つの目。
その真ん中の眉間に、深々と刃が突き立っていた跡がある。
「キュウショ?」
またもや小首を傾げる少年に、男は「何も教わっていないのか」と呆れを
「こいつにとって、最も脆《もろ》い部分だ。……なんでここに、コレを刺した」
コレ、と男は、少年が投げた小刀を指先でくるりと回してみせた。
「石がそこに当たった時に、イノシシがものすごく怒ったの……」
幾分か声音を和らげた男に対し、少年はたどたどしく答える。
「だ、だから僕、そこが痛いところなのかなと思って、思いっきり投げたんだ!」
「……」
男の手が止まった。
仮面の奥の瞳が、値踏みするように少年を見据えている。
「ね、ねえ、おじさん」
沈黙に耐えかねて、今度は少年が問いかけた。
「どうやってあの妖獣を倒したの……? 火の術じゃなかったよね?」
「よく見ていたな」
男は猪の後ろ首付近を探り、何かを引き抜いた。
月明かりの下、キラリと鋭く光るもの。
「これだ」
少年の前に差し出されたのは、銀色の細く長い針。
「これ、だけで?」
「触るな」
無邪気に伸ばしかけた少年の手を、男は素早く制した。
指先で
「毒だ」
「毒……」
伸ばしかけた少年の手が、脱力したように下がった。
「毒だけで、あんなおっきな奴を、倒せちゃうの……?」
疲労と恐怖で濁っていた少年の瞳に、新たな光が宿る。
「ね、ねえ、おじさん、妖獣を殺す毒って、どんな――」
「
少年の問いを遮り、男は自らの名を明かした。
そして口をぽかんと開けたままの少年に、尋ね返す。
「お前、名前は」
「
これが、青と師の出会いだった。