毒使い   作:キタノユ

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ep.17 初任務

 裏山で術の練習をしていた少女の名は、日野あさぎ。年は九歳。

 

 念のため保健室へ連れて行ったものの、到着する頃には傷がすべて完治していた。

 気になることは山ほどある。

 しかし、下手に問い詰めて、赴任初日から女子生徒に怪しまれるのは避けたい。

 

 昨日は、好奇心を必死に抑え込んだのは言うまでもない。

 

「日野あさぎちゃん? ああ、双子のお兄ちゃんが有名なのよね」

 

 翌日の昼休み。

 青とつゆりの元同級生二人は、中庭で弁当を広げていた。

 

 保健士としての仕事第一号となった記念すべき生徒。

 その話の流れで、青が少女の名前を口にしたところだった。

 

「双子なんだ?」

「そうよ。日野家って、歴代の上士や特士を多く輩出している名家なの。そういう意味では、トウジュの家も同じね」

 

 つゆりの情報通ぶりは、今も健在のようだ。

 

 ちなみに、トウジュは中等課程の途中で飛び級し、青たちより一年早く下士になっている。季節の便りによれば、日々任務に追われているらしい。

 

「あさぎちゃんの双子のお兄ちゃん、よぎり君は有名よ。何度か飛び級していて、近々また飛び級して下士になるんじゃないかって噂」

「妹のあさぎちゃんは?」

 

 あの特異な体質は、周知の事実なのだろうか。

 そんな意図での問いだったが、

 

「あさぎちゃんは、普通の子よ。飛び級とかはないけど、元気で、ハキハキした子」

 

 つゆりの答えに、青が期待していた事実は含まれていなかった。

 あさぎ本人に関する追加の情報は得られず、その後、つゆりの話題は他の子どもたちへと移っていった。

 

 

 つゆりと昼食を共にした二日目の保健士勤務を終え、青はいったん軍の提供する寮へ帰宅した後、蟲之区へと向かった。

 

 大月青としてではなく、シユウとして。

 

 医療従事者用の制服を脱ぎ、法軍人が一般的に着用する支給の黒服に袖を通す。腕章だけを装着した軽装に、鼻から下半分を覆う軍支給の覆面をつけた。さらに、目元を少し隠すための額当て付き鉢巻を深く締める。

 

 そして最後に、狼の手甲《てっこう》を装着した。

 

「……暑い」

 

 顔を隠す不快感は否めないが、仕方ない。慣れない格好のせいか、自分が不審者になったような気恥ずかしさもあり、足早に蟲之区へ駆け込んだ。

 

 しかし、着いてみれば、自分と同じように顔を隠した者がちらほらと見受けられる。

 さりげなく手元を盗み見ると、どれも真新しい狼の紋章が光っていた。

 

 青は周囲を見渡し、自分と年齢が近そうな背格好の狼を探す。

 工房へ移動すると、端の作業台に並ぶ十代と思しき二人組が目に入った。

 手元では、黒い布に何かを縫い付けている。

 

「あの、作業中すみません」

 声をかけると、二人は同時に顔を上げた。

 

 一人は、体格と身長から見て女だろう。

 青と同じ装いに、淡い山吹色の首巻を加えている。

 長い黒髪を低い位置で結び、その留め紐も山吹色だった。

 目元は完全に覆われ、表情はうかがえない。露出した唇には薄く紅が引かれている。

 

 もう一人、縫い物をしていたのは男。

 露出した目元は切れ長で、鼻と口元は覆面で隠されていた。

 青よりも若干、年上に見える。

 

「どうしたの?」

 応じたのは女の方だった。

 柔らかな声音。青を年下と判断しているのだろう。

 

「僕、シユウと言います。まだ新米で……皆さん、どうやって顔を隠しているのか聞きたくて」

「え?」

 

 男女が顔を見合わせ、それから青に視線を戻し、

 

「あははははは!」

 突然、笑い出した。

 静かな工房に、響き渡る笑い声。

 二人はしばらく腹を抱えて笑い続けた。

 

「あの……」

 戸惑う青。

 

「わ、悪い、悪い……」

 ようやく息を整えた男が、手を伸ばして青の肩を軽く叩いた。

 

「俺たちもちょうどその話をしてたんだ」

 男は、縫い物作業をしていた手元の布を持ち上げる。

 

「初任務の前に何とかしないとって、ここに来て作業してたら、こいつが声をかけてきてさ」

「こいつ」と言いながら、男は隣の女を指した。

 

「そうしてたら、君が来たってわけ」

 今度は、女が「君」と言いながら青を指す。

 

 男の務め名は庵《いおり》。武具工の狼。

 女の務め名は要《かなめ》。幻術の狼。

 

 年齢については暗黙の了解で触れなかったが、雰囲気や体格から、自然と庵、要、青の順に落ち着いた。

 

「シユウ君、毒術なの? 珍しいんじゃない?」

 青が名乗ると、要は庵へ目配せしながら同意を求めるような視線を送る。

 

「そうなのか?」

 庵は手元で縫い物を続けたまま、特に関心を示さない。

 

「だってほら、毒は麒麟が不在だし」

 困難が目に見えている道を選ぶ者は少ない。要はそう言った。

 

「麒麟がいないって、なんで?」

 驚いて顔を上げるが、庵の手は止まらない。

 

「なんで知らないのよ」

 要の唇が、不満げに尖った。

 

「時々いるわよね。自分のことしか見えてない人って」

 呆れたように言いながらも、要は事情を説明してくれた。

 話を聞いた庵は、心底驚いた様子で「知らなかった」と呟き、切れ長の瞳を丸くする。

 

「大変だな。何か困ったら相談しろよ?」

 そんな庵の反応が、青にはむしろ新鮮だった。

 

 この八年間、技能資格の界隈で青が耳にしてきたのは、毒術師に対する悪評ばかりだったのだから。

 

「だから、顔をどうやって隠すかで困ってるって言ってたじゃないの」

「そうだったな」

 庵は切れ長の瞳を細め、手に持っていた布を広げた。

 

「幻術を仕込んだらどうかって、要と話してたところだったんだ」

「幻術を……仕込む?」

 言葉の意味が飲み込めず、青が首を傾げる。

 

「見てな」

 庵は広げた布を頭に被った。

 額に当たる部分の裏側には薄い板が貼り付けられているようで、そこだけ質感が固い。

 

「俺の顔、どう見える?」

「どうって……」

 目深に被った布の影が庵の目元を覆い、鼻と口元は覆面で隠されている。

 ほぼ顔全体が見えない状態だ。

 

 それを伝えると、

 

「その影が幻術なんだ。俺からは視界良好なんだけどな」

「え!?」

 左右どこから見ても、屈んで下から覗き込んでも、庵の目は影に覆われたまま。

 庵自身が首を動かしても、影はまるで固定されたかのように揺るがなかった。

 

「で、外すと——ほら、普通に」

 額の布に指をかけ、軽く持ち上げると、涼やかな瞳が現れた。

 

「要が、この板の部分に幻術を封じたんだ。体に触れていれば自然と気が伝わって幻術が発動し、影を作り出す」

「なるほど!」

 青が感嘆の声を上げると、庵は続けた。

 

「上位の技能師になると、仮面全体を幻術で作り出して維持できる人もいるらしい。でも、それじゃ気を食い過ぎる。少ない気でどうにかならないか考えて……これで十分だろってな」

「すごい、大発明じゃないですか!」

「だろ?」

 目を輝かせて興奮する青の反応に、庵も満更ではなさそうだった。

 

「もっと研究して、使いやすく改良していこうと思ってさ」

「しょうがないから付き合ってやってるってわけ」

 

 庵と要の掛け合いを、青は羨望《せんぼう》の眼差しで見つめた。

 武具工師の発想力と、幻術師の応用力——その融合を、目の前で体感したのだから。

 

「あの、僕も参加させてもらえませんか」

 気がつけば、作業台に身を乗り出していた。

 

「例えばですけど……その、幻術を封じた物質に呪毒を仕込めば、敵に壊されにくくしたり、術の影響を受けにくくしたりできるかもしれません」

 

「毒術って、そんなこともできるの?」

「面白いね」

 

 それから数時間。

 三人の若き狼が、食事も忘れて工房に籠もる姿が、蟲之区の管理官たちに目撃されたという。

 

 毒術師シユウに初任務の依頼が舞い込んだのは、それから三日後のことだった。

 

 

 法軍人にとって、任務は何よりも優先される。

 

 本職が内勤の非戦闘員であろうと

 親の葬儀であろうと

 妻の出産予定日であろうと

 子の記念日であろうと

 

 本人が健康であり、五体満足(ごたいまんぞく)である限り、任務の通知は容赦なく届く。

 

 時間も、場所も、選ばない。

 式鳥は、いつでもどこへでも飛んでくるのだ。

 

 ゆえに、青が医院での勤務中に式が来たとしても、

 

「すみません、三葉先生。任務の式が……」

「任務? いってらっしゃい! 帰還予定は式でも飛ばして知らせてね」

 

 その一言で、何の障壁もなく抜け出せるのだ。

 

 

 毒術師シユウに割り当てられた任務は、妖虫討伐隊への同行。

 

 都の北部に広がる北溟(ほくめい)地方、その奥深くに広がる黒ノ森で、人里における妖虫の目撃情報が相次いでいた。

 

 そんな折、小さな限界集落がひとつ、壊滅したという。

 次に狙われるのは、近隣の村かもしれない。

 被害が拡大する前に、討滅隊を展開し、待ち伏せる。それが今回の作戦だった。

 

「鉢巻と覆面の用意、間に合ってよかった」

 集合時間前、青は藍鬼の小屋へ立ち寄り、支度を整えた。

 庵と要に作ってもらった幻術仕込みの鉢巻を目深に締め、軍支給の覆面で口元と鼻を覆う。

 

「僕は解呪要員ってわけか」

 技能師は、任務の内容から己の役割を推測し、あらゆる事態を想定して準備を整えるもの。それは、ハクロの正弟子だった頃、任務帯同の中で学んだ教訓だった。

 

 妖獣(虫)・妖魔討伐任務には、必ず解呪役の同行が求められる。

 妖瘴《ようしょう》を浴びる危険性が極めて高いためだ。

 

 小規模な妖討伐任務は日常茶飯事であり、新米の薬術師や毒術師に回ってくる案件も尽きることがない。

 

 集合時間は昼九ツ(正午)。

 夜に現れるという妖獣を待ち伏せるため、夕刻前には目的地へ到着する予定だった。

 

 北の大門前から出立した一隊は、青を含め四人。

 隊長を務める上士一名、

 中士二名、

 そして毒術師の青。

 

 小規模な妖獣討伐任務としては、標準的な編成である。

 

 大門前の転送陣を使い、黒ノ森の入口にある陣守村へと飛ぶ。そこから先は徒歩で森の奥へと進むことになる。

 

 目的地は、壊滅した限界集落の近隣にある村。

 そこを拠点とし、妖虫を待ち伏せるか、あるいは先手を打って討つか。

 その判断は、隊長に委ねられていた。

 

 風術による高速移動と、気力・体力の温存のための徒歩を交互に繰り返しながら、一隊は進む。

 

 山裾一面に広がる鬱蒼《うっそう》とした森。

 生い茂る木々は枝や蔓を絡ませ合い、陽も、月も、星の光さえも遮っている、故に「黒」と名付けられ、恐れられていた。

 

「シユウ君は、新人なんですか?」

 炎術で片手に灯を灯し、先頭を歩く隊長の上士が、青に声をかけた。

 

 中肉中背、三十前後。

 相手が誰であれ、口調は変わらない。

 初対面の時から、穏やかな佇まいが印象的な人物だった。

 

「はい、一色隊長。この春からです」

 任務に同行する技能職は、大抵、隊列の最後尾や端につくものだ。

 

 技能職の下っ端は、準備・補助・後片付け役として扱われ、戦闘要員としての頭数には数えられないことが多い。

 だからこそ、隊長自ら気にかけてくれるのは珍しいことだった。

 

「毒術って、あれだろ。麒麟を取り逃がしたっていう……」

「あ~、前代未聞だって聞いたぞ」

 前を歩く中士二人が、肩越しに青を一瞥し、小馬鹿にしたように苦笑し合う。

 

 まだ体の線が細く、身長も伸びきっていない青を、「ガキ」扱いするのは、ある意味当然だった。

 

 法軍で重視されるのは、「戦える者」。

 高位の技能職ならともかく、位の低い技能職が戦力として期待されることは、ほとんどないのだから。

 

「……」

 流れてくる中士同士の戯言を、青は聞き流す。

 この手の陰口には、とうに慣れていた。

 

 その時。

 

「し……」

 隊長が足を止め、振り返る。

 中士二人は、その様子に気づき、「私語失礼しました」と小声で口を噤んだ。

 

 上官が足を止めた。

 それに伴い、一隊全体も動きを止める。

 

 一色隊長が、辺りを見回した。

 中士たちは、頭上に疑問符を浮かべながら上官の行動を見守る。

 青も隊長に倣い、五感を研ぎ澄ませた。

 

 静かだ。

 

 初めて足を踏み入れる場所とはいえ、それでも違和感がある。

 森の深さに反して、生き物の気配が少なすぎる。

 

「急ごう」

 一言だけ残し、隊長は踵を返すと同時に風を呼び、木々の枝を伝い跳んだ。

 

 何かが起こる。

 

 青も、慌てて後を追った。

 

 目的の村には、予定より一刻以上早く到着した。

 しかし、そこで一行を待ち構えていたのは——惨状だった。

 

「な、これは……!」

 隊長が思わず声を漏らす。

 

 森を切り拓いた空間に築かれた人里。

 その人道のあちこちに散乱する、「人だったもの」の残骸。

 

 血だまり。

 引きちぎられた臓腑(ぞうふ)

 食い散らかされた痕跡(こんせき)

 

「遅かったのか……」

「そんなはずは」

 

 妖獣や妖虫は、人を喰らって一度満腹になれば、しばらくは狩りを行わない。

 それが、これまでの通説だった。

 

 その習性ゆえ、太古の昔には定期的に生贄を差し出し、妖を鎮める慣習さえあったという。

 

「隊長、奴は村をまるごと食い尽くした後です。そんな大食漢(たいしょくかん)な妖虫が存在するのでしょうか」

「ということは、亜種(あしゅ)がいるのか……あるいは、複数……?」

 

 中士と隊長が辺りを検分している間、青も一軒ずつ民家を回った。

 茅葺《かやぶき》の質素な家屋の多くは半壊、もしくは全壊している。

 その中に、食べカスのように散らばる遺体。

 

 村全体を包む血と脂の混じった悪臭に、さすがの青も眩暈を覚えそうになる。

 

「?」

 積み上げられた石垣沿いの道をたどると、村の奥のわずかな高台に社と祠《ほこら》が見えた。

 

 祀られているのは、氏神のようだ。

 黒ノ森にふさわしい漆黒の鳥居が、社とともに破壊されずに残っている。

 

「……ここは無事なんだ」

 鳥居の手前に立つ碑に目を向ける。

 風化した石に刻まれた文字を、指でなぞるように読む。

 

「ヒト……ゴク、ウ……人身御供(ひとみごくう)……慰霊……?」

 

 不吉な文字列に顔をしかめつつ、青は鳥居をくぐり、石段を駆け上がる。

 たどり着いたのは、人の手で土が均された境内らしき空間。

 

「……何だろう」

 その中央に、黄褐色(おうかっしょく)楕円形(だえんけい)の物体が転がっていた。

 

 青は片手に苦無を握りながら、慎重に歩を進める。

 物体の大きさは、大人の男がようやく抱えられるほど。米俵に近い。

 もう一方の手に、小さな炎を灯し、さらに近づく。

 

 中央に、ひび割れ。

 

 灯りを近づけると、それが何かの繊維でできていることに気づいた。

 

 まるで、糸をより集めた繭のような。

 

卵嚢(らんのう)……!?」

 青は弾かれるように踵を返した。

 石段の上から、村全体が見渡せる。

 

 村を探索する隊長と中士二人。

 その上方を取り囲む、無数の赤い眼、眼、眼——

 

「上です!」

 叫ぶと同時に、青は苦無を投げ放った。

 黒鋼の刃が、中士の頭上で光る赤い眼に突き刺さる。

 白い煙が上がった。

 

『ギャアアアアアアア!』

 

 老婆の悲鳴のような、耳をつんざく絶叫。

 次の瞬間、中士の足元へ何かが落下した。

 

「いっ!?」

 それは、犬ほどの大きさの、人面蜘蛛《じんめんぐも》。

 

 青の苦無が突き刺さった老婆の顔面は、断末魔(だんまつま)の形相を浮かべたまま硬直している。

 そこから伸びるのは、蜘蛛の体と無数の足。

 

「避けろ!」

 隊長の声が響く。

 三人が一斉に飛びのく。

 

 直後、上空から、無数の蜘蛛が降り注いだ。

 隊長たちは、間一髪で木の枝へ飛び移る。

 

 上から見下ろす光景は、異様だった。

 二十、三十はいるだろうか。

 人面を背負った蜘蛛たちが、地を()うようにひしめき合っている。

 

「地神……針地獄!」

 木の上から、隊長が術を唱えた。

 

 ざわり。

 

 村中の木々が一斉にざわめく。

 枝という枝が、蛇のように(うごめ)き始めた。

 

 隊長が右手を一振りすると、それを号令とするようにしなった枝々が、地を()う人面蜘蛛へ次々と突き刺さる。

 

 老若男女の断末魔が連続する。

 中には、地から突き出た根に貫かれ、串刺しとなる蜘蛛もいた。

 

「う……わ……」

 

 石段の上からその光景を見ていた青は、覆面の下で奥歯を噛み締めた。

 思わず耳を塞ぎかけるが、堪える。

 

「これだけの数の人面蜘蛛が、どこから……」

 

 隊長が周囲を警戒しながら、木の上から飛び降りた。

 青は石段を降りかけた位置から、声をかける。

 

「隊長」

「シユウ君、無事でしたか」

「石段を登ったところに、孵化(うか)した蜘蛛の卵嚢がありました」

 

 卵嚢。それは、複数の卵を包む袋。

 親蜘蛛が糸を紡ぎ、繭状にして守るものだ。

 

「隊長、嫌なことを思いついちまったんですが……」

 中士の一人が顔色を青くしながら、串刺しとなった人面蜘蛛たちを見やった。

 

「まさか……あの蜘蛛の顔、この村の人たちなんじゃ……」

「喰った対象になり替わる妖魔もいると聞きますし……ありえますね」

 

 隊長の表情には変化がない。

 それでも、目の奥に苦い色が滲む。

 

「卵があるということは……」

 青の低い呟きに、三人の上官が一斉に視線を向けた。

 

「……親蜘蛛は?」

「!」

 

 いち早く察知したのは、隊長だった。

 目の前に立つ中士二人へ、肩と背中で体当たりする。

 

 直後、真下の土が突き破られ、巨大な鍵爪が薙ぎ払った。

 血の飛沫(しぶき)が、中空に軌跡を描く。

 

「隊長!」

 中士の一人が、背中から落ちかけた隊長の体を咄嗟に受け止める。

 

 次の瞬間、巨大な鍵爪の足に続き、岩や土を弾き飛ばしながらそれが姿を現した。

 巨大な蜘蛛。

 だが、青がこれまでに見たことのある「巨大化した蜘蛛」ではない。

 

 八つの目の代わりに、八つの人面が生えていた。

 

「炎神……」

 もう一人の中士が、術を唱える。

 

「鬼火!」

 放たれた火の玉が、人面蜘蛛に直撃した。

 

『イヤアアアァアア!』

 

 甲高い女の悲鳴が響く。

 炎に焼かれ、顔のひとつが崩れ落ちる。

 

 だが蜘蛛は止まらない。

 なおも巨大な鍵爪の足を振り上げる。

 中士の一人が、倒れた隊長の体を肩に担ぎ、後方へ跳ぶ。

 もう一人が素早く抜刀し、迫る鍵爪を弾き返すと同時に、刃を顔のひとつへ突き立てた。

 

 今度は——

 

『ァ”ア”ア”ア”ア”ア”!』

 

 赤子の泣き叫ぶ声。

 貫かれた顔が、ゆっくりと萎れていく。

 

「クソ……!」

 それでも蜘蛛は動きを止めない。

 血の臭いを追うように、隊長を背負う中士の後を追っている。

 

「……もしかして……」

 青は石段の上から身を躍らせ、隊長を抱えた中士の前に降り立った。

 

「伏せてください!」

「!」

 

 刀を構えていた中士が即座に身を屈める。

 同時に、青は両腕の革帯に差した針を引き抜き、素早く投擲した。

 右手に三本、左手に三本。

 鋭く放たれた毒針が、残る六つの人面の眉間へ次々と突き立つ。

 

『ギャァアアアィヤア”ア”ア”!』

 

 得も言われぬ断末魔が響く。

 六つの顔が白煙を上げ、爛《ただ》れ落ちた。

 剣山のように尖った跗節を持つ鍵爪の足が戦慄(わなな)くように震え、動きが止まる。

 

「やったか……?」

 中士が安堵の声を漏らした、その瞬間——爛れた表皮が弾け飛び、巨大な老女の顔が浮かび上がった。

 

『ヨクモ……ヨクモ……食ロウテヤル!』

 

「え……!?」

「うわああ!」

 

 質量のある泡が弾けるような音とともに、老婆の顔が牙を剥き、青たちへと迫る。

 

『食ロウテヤル”ゥ”ウ”ウ”ウ”!』

 

 蜘蛛は確かに、人の言葉を発した。

 

「地神、天劔(てんけん)!」

 隊長の声。

 唱えに応じて地が震えた。

 

 次の瞬間。

 老婆の顔を、真下から杭が貫通する。

 杭はそのまま天へと突き上がり、衝撃で土や石が舞い散る。

 緑の体液が天高く噴き出し、老女の悲鳴が響いた。

 

「隊長?!」

 振り返ると、隊長は中士に支えられながらも、すでに体を起こしていた。

 血に塗れた両手を重ね、地へと押し込む。

 

奈落(ならく)!」

 手の動きと、続く言霊に呼応し、杭が崩れる。

 蜘蛛の足元が瓦解し、陥没。

 その巨体は、闇の底へ吸い込まれるように落ちていった。

 

「今だ……炎神!」

 前に立っていた中士が、すかさず穴の縁へと駆け寄る。

 

「豪火球!」

 ありったけの気を込め、巨大な炎を顕現させた。

 両手を頭上に振りかぶり、奈落へと投げ落とす。

 

 その動きに呼応するように、天から墜ちる火球のごとく、炎が奈落の底へと降り注いだ。

 燃え盛る業火が、もがく蜘蛛を包み込む。

 

「……すごい……」

 青は、地獄の釜のような光景を、ただ唖然(あぜん)と見守るしかなかった。

 

 炎の中で(うごめ)いていた蜘蛛の脚は、やがて動きを止め、炎が引いた後には炭と化した遺骸だけが残った。

 

「おい、毒術の!」

 中士に呼ばれ、青は我に返った。

 

 振り返ると、隊長が地に座り込んでいた。

 上半身を中士に支えられ、肩当てと胸当てが裂け、脇腹まで深い裂傷(れっしょう)が続いている。

 

(ひで)妖瘴(ようしょう)が……」

 中士の言葉通り、傷口を中心に隊長の上半身へ黒ずんだ(あざ)が広がっていた。

 

「は……、は……、っ……」

 

 苦しげな呼吸。

 胸が、大きく上下している。

 

「妖瘴を喰らった上に、あんな大技を使ったもんだから……気がだいぶ削られてる」

「一色隊長、分かりますか?」

 

 意識が朦朧《もうろう》としているのか、呼びかけにも応じない。

 その姿は、かつて見た藍鬼の状態を彷彿(ほうふつ)とさせた。

 

「いま、解呪を」

 言いながら、青は腰の道具袋から符を取り出した。

 解毒薬を封じた薬剤符。

 

 符を隊長の傷口に当て、指先に意識を集中させる。

 

解呪(かいじゅ)

 短い言葉とともに、青は符を患部に押し当てた。

 紙片の文字列が淡く発光し、蒼く発火する。その炎を手のひらで包み込むように握り込んだ。

 

 抵抗なく、炎は消失。

 そっと手を開く。

 黒い粉末が、手のひらにこびりついていた。

 

 わずかに覆面をずらし、青は静かに息を吹きかける。

 粉末は、空気に紛れるように掻き消えた。

 

 

 隊長の傷の応急処置を終えた後、中士の一人が隊長を担ぎ、四人は数刻かけて黒ノ森を抜けた。

 

 飛ばした式からの連絡を受け、医療班が転送陣を使い、陣守村で待機していた。

 隊長を引き渡し、これで任務は完了。

 

「任務報告は俺らがしておく」

 運ばれていく隊長を見送ってから、中士二人は青を振り返る。

 

「今日は悪かった。ガキみてぇなこと言って」

「え?」

 

 青がぽかんとしていると、中士二人は「忘れてんじゃねぇよ」と笑った。

 

「お前がいなかったら、全滅してたかもしれん」

「助かった。今日一番の武功はお前だって、報告しとくからな」

「え、いえ、そんな! 皆さんの方こそ……」

 

 目の前で目撃した上士と中士の術の連携。むしろ、惚れ惚れしたのは青の方だった。

 

 覆面や額当てがなければ、どれほど自分が興奮で頬を紅潮(こうちょう)させているかが分かるのに。

 そう思うと、少しもどかしい。

 

「また任務で遇ったらヨロシクなー!」

 先輩二人は手を振り、去っていった。

 

 壊滅した二つの小村。

 そこにはかつて、長らく妖に人身御供を捧げる風習があった。

 

 村で見かけた氏神を祀る社は、かつて人身御供として命を奪われた村人たちの霊を鎮めるためのもの。

 

 しかし。何のきっかけか、無念を遺した魂が怨嗟の権化となり、村を襲った。

 

 中士からの報告を受けた法軍は後日、壊滅した村へ小隊を派遣。

 蜘蛛の死骸の処理、社の整備、そして村人たちの弔いを行った。

 

 青にとって、毒術師シユウとしての初めての単独任務。

 黒ノ森の妖虫、人面蜘蛛討伐任務は、こうして成功に終わった。

 

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