毒使い   作:キタノユ

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ep.24 夜戦

 夜襲に備えた作戦が両上士から指示され、各自が準備に動く中、二人の毒術師は薄闇の中にいた。

 

「あれ、何してるんだ」

 行き交う中士や准士たちが、ふと足を止める。

「隊長の命で罠を張ってるらしい」

 

 視線の先では、若い毒術師が地面に()うように両手をつき、じっと動かない。隣には、外套に全身を包んだ朱鷺(とき)面の毒術師が不気味に佇み、その様子を見守っていた。

 

「五か所目、できました。確認をお願いします」

 地面から手を離し、青が顔を上げる。入れ替わるように、朱鷺が静かに片手をついた。

 

 しばしの静寂の後、

 

「はい、良いでしょう……」

 朱鷺が頷き、手を離して数歩移動する。

 

「次は……あの辺り」

「分かりました」

 藪を指さすと、青が素早く応じた。

 同じように数歩進み、再び地面に両手を沿える。

 

 それを繰り返すこと十回――やがて、青の顔にわずかな疲労の色が滲んできた。

 

「うん……大丈夫……これで、誘導罠は……完成」

「良かった……ご確認ありがとうございました!」

 

 朱鷺の頷きを確認し、青は深く安堵の息を吐いた。

 指示に沿って正確な位置に毒罠を仕掛けなければならず、一箇所ずつ朱鷺の確認を挟む作業は、まるで試験を受けているような緊張感を伴っていた。

 

「一師、次は何を」

「こっち……」

 

 黒いホオズキの後を追い、青は歩を進める。

 やがて、老いた巨木にたどり着いた。

 乾き、ひび割れた木の皮が(うろこ)のように幹を覆い、風雪(ふうせつ)に耐えてきた年月を物語っている。

 

 成人数人が手を回しても抱えきれぬほどの太い幹の前で、朱鷺は立ち止まった。

 視線を高枝へ向ける。

 天へと手を広げた腕のように、太枝が四方八方へ伸びていた。

 

「い……」

 呼びかけかけて、青は言葉を呑んだ。

 

 老木を見上げたままの朱鷺を、ただ静かに見守る。

 聞こえぬ声で対話を交わしているかのように、微風が二人の間をそよいだ。

 

 やがて、風が止まる。

 

 朱鷺の外套(がいとう)の中から差し出された手には、透明な液体を(たた)えた硝子瓶《がらすびん》。

 蓋を開け、一振りすると、液体が宙へと迸る。

 

「水神……玉」

 朱鷺が仮面の下で小さく唱えた。

 飛沫はまるで意思を宿したかのように寄り集まり、やがて水の球を形作る。

 

紅雨(こうう)

 低く(ささや)きながら、朱鷺が幹にそっと手を添える。

 次の瞬間、水の球は老木へと吸い込まれるように消えた。

 

「?!」

 青は慌てて幹に手を添え、目を閉じる。

 掌に意識を集中させると、樹の内側を流れる水の動きが見えるように感じられた。

 

 朱鷺が流し込んだ液体は、幹を巡り、枝へと抜け、樹冠(じゅかん)隅々(すみずみ)まで広がっていく。

 

「これで……よし」

「一師、今の液体は?」

鯱脅(しゃちおど)し……」

 凪の法軍で一般的に用いられる、強い痺れ毒の名だった。

 

「一師、用意できましたよ~」

 

 声に振り返ると、蓮華が盆を手に立っていた。

 盆の上には、猪口(ちょこ)や湯呑みが総員分並べられ、いくつかは伏せられている。

 

「どれでもいいので、一杯飲んでください。シユウ君もね」

「いただきます……」

 朱鷺はためらうことなく盆に手を伸ばし、背を向けると、静かに杯を(あお)った。

 

「私が作った防毒薬だから、信用していいわよ」

「も、もちろんです。頂戴します」

 

 青も(なら)い、手早く飲み干した。

 無味無臭で喉に引っかかることもなく、すっと馴染む。思いのほか飲みやすい。

 後でコツを聞いてみようと考えながら、空になった杯を盆に戻した。

 

 薬術師や毒術師は、任務において常に解毒薬と防毒薬を携行する。

 法軍には汎用的な薬も存在するが、高位の毒術師や薬術師を任務に伴う最大の利点は、そうした一般薬ではなく、高品質かつ任務に適した特製薬が提供されることにある。

 

「二人が罠に精通しているおかげで助かったって、隊長たちが話していましたよ」

 蓮華は傍らの老木を見上げながら、柔らかく言った。

 

「そう……それは良かった……」

 朱鷺の面が、ちらりと青を見やる。

 三人の間を生温い微風がそよぎ、白い外套の裾をゆるやかに揺らした。

 

「おかげで、予定よりも早く帰還できそうです」

 紅を引いた唇が、冗談まじりな微笑みを形作る。

 

「では、また後ほど」

 盆を手に軽やかに踵を返し、蓮華は天幕の方へと戻っていった。

 

 

 

 夏を迎えようとする季節にも、森の夜の闇はなお深い。

 (かすみ)がかった月明かりが木々の隙間を縫い、野営地をぼんやりと照らしていた。

 

 天幕はいくつかの焚火を囲むように点在し、火の前には交代制の見張り番がついている。

 中士二人と准士一名が、時おり小声で言葉を交わしていた。

 

 一見、平穏に見える夜営の様子を見下ろせる杉の高枝に、朱鷺と青の二人は身を潜めている。

 

 本当に夜襲はあるのだろうか――

 隊長、副隊長の読み通りならば、まもなく敵が動くはず。

 

 初めて迎える状況に、青は落ち着かず眼下へ視線を散らした。

 

「シユウ君……は、神通術……得意、なの……?」

 夜の鳥の声に紛れるように、朱鷺の微かな声が青の耳に届いた。

 

「え、術、ですか?」

 唐突な問いかけに驚き、あやうく手を滑らせそうになる。

 

「いえ……僕は、神通術全般が不得手(ふえて)なんです」

 小さく苦笑を漏らしながら答えた。

 質問の意図は分からないが、誤魔化したところで見透かされるのは目に見えている。

 

「そう……? 毒罠では……うまく……使えてたけど……」

 長い(くちばし)がわずかに動き、狭い枝影の中で青の顔に触れそうになる。

 二人が身を潜めるには、あまりにも枝が細すぎた。

 

「本当ですか! ……あ、ありがとうございます」

 思わず声が弾み、青は覆面の上から慌てて口元を押さえた。

 今は作戦遂行中なのだから、浮かれている場合ではない。

 

「でも、神通術自体の術力、火力は弱いんです」

 肩をすくめ、声を潜める。

 

 学校時代、級友たちに比べて術の修得が遅かったこと。

 今でこそ基本的な神通術は扱えるものの、実戦ではほとんど役に立たないこと。

 嘘偽(うそいつわ)りなく、青はありのままを語った。

 

「ふうん……なるほど……ね」

 朱鷺の面が、まっすぐに青を見据えていた。

 

「……?」

「……あのね、」

 朱鷺が口を開きかけた、

 

 その瞬間――

 

「うわっ!」

 野営地から上がった隊員の叫びと、激しい水音がその言葉を掻き消した。

 

「!?」

 次の瞬間、辺り一帯が闇に沈む。

 

 野営地を照らしていた焚き火が、森の闇に潜んでいた何者かによって一斉に掻き消された。

 暗闇の中、野営地の内外から複数の影が(うごめ)き、足音が入り乱れる。

 

「ぎゃっ!!」

 藪の奥で、野太い悲鳴が響いた。

 

「うがっ、ぁあ!」

「ぐあっああ!」

 

 続けざまに、各所から断末魔が上がる。

 青の隣で、朱鷺が低く呟いた。

 

「いい感じ……」

 

 闇の中、悲鳴の連鎖は緩やかに蛇行しながら、確実に近づいていた。

 青が朱鷺の指示で仕掛けた罠を踏み、避けようとした賊たちは、知らぬ間に導かれていく。

 

 行き着いた先、そこに待ち構えているのは――

 

「炎神、紅気(こうき)!」

 

 楠野の号令が響いた。

 次の瞬間、炎の帯が暗闇に巨大な半円を描く。

 

 照らし出されたのは、巨大な老木を中心に広がる剥《は》げ地。

 そして、そこに追い込まれた二十数人の黒装束の賊たちの姿。

 

「!!」

「しまった……!」

 

 おびき寄せられたことに気づき、幾人かが踵を返す。

 

「地神、蠢動(しゅんどう)

 地に両手を添えた一色が、低く唱えた。

 刹那(せつな)、大地が揺れ、賊たちの足元が激しく波打つ。

 

 地の蠢きは巨大な老木の根から幹を伝い、(こずえ)へと波及(はきゅう)した。

 葉脈(ようみゃく)の隅々にまで巡らされた毒が、一斉に放出される。

 

「ぐっ……!」

「な、体が……!」

 

 まるで時が歪んだかのようだった。

 

 老木が放った痺れ薬を吸い込んだ賊たちの足が、手が、体が――次々に動きを止める。

 その場に崩れ落ちる者、赤子のように這いずる者、辛うじて耐えながらも鈍く動く者――

 毒への耐性によって、反応は様々だった。

 

「殺れ!」

 一色、楠野両上士の号令が響く。

 

 身を潜めていた准士や中士たちが一斉に飛び出し、動きの鈍った賊たちを次々と仕留めていった。

 

「うわぁ……お見事です」

 高枝から眼下を見下ろしながら、青はただ感嘆(かんたん)の息を漏らすしかなかった。

 

 雲類鷲(うるわし)中士ら三人の嗅覚は正確で、隊長らの判断は的確。

 そして、朱鷺と蓮華の薬の効果は覿面(てきめん)だった。

 

「すごいですね、一師(いっし)、いてっ!」

 頬を紅潮(こうちょう)させ、朱鷺を振り向いた瞬間、黒い(くちばし)でこめかみを小突かれる。

 

「まだ……」

 面の奥から、鈍く光る眼差しが青を射抜いた。

 

「頭目が……まだよ……」

 朱鷺の言葉が正しいと、証明されることになる。

 

「クソッ!」

 前衛の壊滅を目の当たりにし、賊の後衛がじりじりと退き始める。

 一人が背を向けると、連鎖的に我も我もと逃げ出そうとした。

 取り逃がすものかと、中士や准士たちが即座に追いすがる。

 

「!」

「ぐあっ!」

 

 突如、稲穂色の風が横切った。

 

 霞が取り払われた月光の下、賊数人と追跡していた中士や准士を巻き込み、木々と藪が横薙ぎに吹き飛ばされる。

 

 粉塵と木片が舞い上がり、辺りに煙幕が広がる中――その向こうから、金色の獣が姿を現した。

 

「あれは……!」

 

 その場にいた誰もが、思わず空を仰ぎ、動きを止める。

 高枝の上で身を乗り出した青を、朱鷺が「危ない」とばかりに襟を掴んだ。

 

(かしら)!」

 賊たちの声が震える。

 

 そこに立つのは、大狐。

 その巨体は、かつて青が森で遭遇した猪の妖獣を彷彿とさせた。

 

 月光を受け、稲穂色の毛並みが金色に輝く。

 しなやかな四肢(しし)に鋭利な爪、天を射る耳。

 そして、巨体よりもなお目を引くのは、その後ろにたなびく巨大な尾だった。

 

「でけぇ……!」

「狐の妖獣か?」

 

 誰かの声に、小毬(こまり)中士が即座に応じる。

「いいえ」

 彼女の目が、金色の影を鋭く射抜く。

「尾が単一です。あれは妖狐(ようこ)ではありません」

 

 小毬の言葉通り、雲のように巨大な尾は一本。

 妖獣に分類される狐は、通常、二又以上の尾を持つ。

 九又ともなれば、それは妖魔に類される存在となる。

 

『敵前逃亡は許さぬ!』

 

 咆哮(ほうこう)ではなく、狐が発したのは 人の言葉 だった。

 その声は衝撃波となって鼓膜を震わせ、空気を揺るがす。

 

 散り散りになりかけていた賊たちは、一瞬にして体を硬直させ、その場に釘付けになった。

 

「ウ……ぐ……」

 黒装束の隙間から覗く瞳は、どれも虚ろで、意思の光を宿していない。

 

「やはり……! 獣血の……」

 目端を顰めた雲類鷲が駆け出した。

 地を蹴るや否や、その身は大鷲へと変じ、一直線に大狐の眼前へ飛来する。

 

 狙いを逸らせた隙に、熊へと姿を変えた檜前が負傷者を踏みつけようとする大狐の片足に体当たりし、そのまま喰らいついた。

 

『ギャァア!』

 

 女の悲鳴のような甲高い咆哮が響く。

 怒りに満ちた大狐が地団太を踏んだ。

 

 その足踏みの隙を()(くぐ)り、ネズミが素早く駆け抜ける。

 小毬中士へと姿を戻した彼女が、倒れた中士を素早く担ぎ上げた。

 

 同じく人間の姿へ戻った雲類鷲も、気を失った准士を背負い、大狐の足元から離脱するべく駆ける。

 

「もういいぞ!」

 

 二人の合図を受け、檜前も人の姿へ戻った。

 風術を駆使し、一瞬で身を翻し、大狐の鋭い爪を逃れる。

 

『グゥ……ッ! まさか、他にも同胞がいたとは……』

 月光を受けた狐の瞳が、鋭く金色に光った。

 

「俺たちも、シシグニの出の者だ」

 檜前は負傷者を背負った二人を庇いながら、大狐と対峙する。

 

同胞(どうほう)のよしみとは言わないが……投降する気はないか」

『フン……ずいぶんとご立派な家畜になったこと』

 

 嘲るように吐き捨て、大狐は巨大な尾を振る。

 一振りするごとに、大木が破裂し、岩が砕け散った。

 

「凪之国法軍上士、楠野だ」

 砂利や木片が混じる荒々しい風を避けつつ、楠野が前に出る。

 負傷者を背負った雲類鷲と小毬は、後方へと下がった。

 

「楠野教官……」

 三人の元教え子へ「任せろ」と短く告げ、楠野は大狐を見上げる。

 

「お前が頭か。()つ国より凪へ流れ、法軍に身を寄せていたのだろう」

 大狐の口吻(こうふん)が歪み、白い牙が(きし)んだ。

「何故抜けた。それほどの力があれば、立身できたろうに」

 

『法軍の人間が、それをほざくか!』

 怒声とともに、再び尾が地を叩く。

 根こそぎ抉られた木や岩が、猛然と襲いかかった。

 

「龍の巣」

 楠野が巻き起こした風の幕が、襲い来る木々や岩をことごとく粉砕する。

 

『アタシを女狐と(そし)り、(さげす)んだのはオマエ達だ!』

 悲鳴のような怒号が轟いた。

 その声を号令に、動きを止めていた賊たちが一斉に武器を抜き、突撃を開始する。

 

 その背後――稲穂色の毛並みが跳躍し、夜空を覆い、月明かりを遮った。

 

「来るぞ!」

 楠野の号令が響く。

 

 凪隊も迎え討つべく、隊長の指示で扇状の陣形を敷いた。

 

蓮華(れんげ)二師の補助を……」

 戦いが動き出した直後、朱鷺(とき)が高枝から身を躍らせる。

 

「はい!」

 (せい)も後を追い、老木の影に身を潜める蓮華のもとへ駆けた。

 そこには負傷した凪隊員たちが次々と運ばれてきている。

 

「手伝う……わ……」

「一師! あ~ありがたいです!」

 顔を上げた蓮華の声には、疲労感と安堵が入り混じっていた。

 すぐ側には、先ほど大狐に吹き飛ばされた者たちの他、さらに二名が岩影に(もた)れ、ぐったりとしている。

 

「僕、薬術の甲を持っています!」

「本当!? 助かるわ、シユウ君、その子をお願い!」

 

 蓮華の指示を受け、青は岩に凭れた中士のもとへ膝をつく。

 肩から脇腹にかけて深い裂傷が走り、肩当ては衝撃で外れたのか、近くに転がっていた。

 

「そこに置いてあるものは自由に使ってね」

 

 蓮華の背負っていた鞄が、木陰(こかげ)に口を開いたまま置かれている。

 中には薬品や医療道具がぎっしり詰まっていた。

 青はその中から、化膿止めと止血効果のある傷薬を選ぶ。

 瓶には獅子の判と蓮華の署名が記されていた。

 

 一方、朱鷺は隣で横たえられた中士の止血処置を進めている。

 脇腹に開いた傷口を手際よく塞ぎながら、迅速に治療を施していた。

 多くの毒術師は薬術の、逆に薬術師は毒術の「甲」まで取得している場合が多い。

 

「うわっ……!」

 

 突然、拳大の石礫(いしつぶて)がいくつも頭上を通過した。

 青は思わず肩を縮める。

 

「結界を張ってあるから大丈夫、治療に集中して!」

 蓮華の早口の叱責(しっせき)が飛ぶ。

 

「は、はい……!」

 すぐ近くで悲鳴が上がろうと、術が爆発する音が響こうと、大狐の咆哮(ほうこう)(とどろ)こうと――蓮華はただ、手元の患部に目を向け、処置を続ける。

 朱鷺もまた、戦場の喧騒(けんそう)には目もくれず、黙々と、淡々と、治療に専念していた。

 

 青が一人目の応急処置を終えようとしていた、その時――

 

「きゃあ!」

 

 戦場から悲鳴が上がった。

 

 顔を上げると、小毬中士の体が宙に弾き飛ばされるのが見えた。

 小柄な体が土に叩きつけられ、横たわったまま動かない。

 

 周囲に彼女を救出できる者は――いない。

 

「!」

 考えるより先に、青の体が動いていた。

 

「しっかりしてください……!」

 地に転がる小毬の側へ膝をつき、手早く脇に腕を差し込み、抱え上げようとする。

 

「っ!!」

 その頭上へ、巨大な影が覆いかぶさった。

 大狐の前足が振り上げられ、血に塗れた鈎爪(かぎづめ)が青を目掛けて振り下ろされる。

 

「くっ!」

 青は小毬を担ぎ上げ、横へ跳んだ。爪は衣の裾を掠め、土を深く抉る。

 その刹那、再び振り上げられる爪。

 

「間に合わな……!」

 青は咄嗟に、小毬の体を庇うように抱きしめた。

 

「伏せろ!」

 鋭い声とともに、大柄な人影が青の前に立ちはだかる。

 一瞬にして、その姿は壁のような(ヒグマ)へと変わった。

 

 肉を抉る音と、重たい水音が響く。

 

『グゥウウウ……!』

 獣の、苦悶(くもん)のうめき声。

 

檜前(ひのくま)!!」

 誰かの叫びが重なる。

 

 羆は、大狐の鈎爪を腹に埋めたまま、両腕でその前足をがっちりと抱え込んでいた。

 

『この……離……っ!』

 大狐がもがく。だが、羆の腕がそれを許さない。前足を固定されたまま、大狐は動きを止めた。

 

「風神……」

 その隙を、百戦錬磨の上士は見逃さない。

 

「三日月鎌!」

 楠野の風術が発動。

 巨大な風鎌が唸りを上げ、大狐の前足を切断した。

 

『ギャァアアアアァア!』

 

 大狐の絶叫が、戦場に響き渡る。

 黄金色の体が仰け反り、のたうち、四散する血雨が辺りを染めた。

 

 その中、切り落とされた前足を抱えたまま、羆の体が青の足元へ横倒しに落ちる。

 

「檜前中士!」

 青の眼前で、羆は人間の姿へと戻る。

 そこにあったのは、腹から血を流し倒れた 檜前の姿だった。

 

「これでトドメ……!」

 楠野の腕が振り下ろされる。風鎌が唸り、大狐の胴を抉った。

 前胸から腹にかけての白い毛が、瞬く間に深紅へと染まる。

 

『グ……ウ……』

 血と呻きを吐きながら、稲穂色の体が月夜に跳ねる。

 白光の中、その姿が霞のように薄れ――現れたのは、一人の女だった。

 

 稲穂色の長い髪。

 髪色と同じ、稲穂色と白を基調に、朱色の縁取りが施された装束。

 それらは赤黒く血に濡れ、闇に揺れていた。

 

「く……」

 

 腹を押さえ、全身で呼吸を繰り返しながらも、女はなお鋭い眼光を上士たちに向ける。

 しかし、致命傷であることは誰の目にも明らかだった。

 

 周囲には、賊たちの遺骸が散乱している。

 一色や准士らの手によって戦闘は収束し、生存者はいない。

 

 勝敗は決していた。

 

「あ……アタシが……」

 

 血の混じった咳を零しながら、女は呟くように言葉を吐き捨てる。

 

「九尾に生まれて……いれば……妖狐のチカラがあれば……」

 

 上士二人は無言で、その言葉を聞いていた。

 

「シシグニにも……この国、にも……」

 

 ごぼり

 

 ひときわ大きな水音が響き、女の口から赤黒い血溜まりが吐き出される。

 その体が揺らぎ、力尽きたかと思われた瞬間、地を蹴った女の姿が、ひと回り小さな狐 へと変わる。

 

 片腕を失った狐は身を翻し、暗闇へ溶け込むように森の藪へと飛び込んだ。

 

「逃げた!」

雲類鷲(うるわし)! 追え!」

「承知」

 楠野の命を受け、オオワシが夜空へと舞い上がる。

 

「一色隊と技能師班はここに残って負傷者の手当を頼んだ」

「分かった」

「残りの動ける奴はついてこい!」

 

 言うが早いか、楠野は狐の後を追って駆け出す。

 その背を追い、准士二名と中士数名が続いた。

 

「負傷者を天幕へ。野営地の火を入れ直せ!」

 楠野が去るや否や、一色が即座に動き、面々へ具体的な指示を投げかける。

 

「シユウ君、シユウ君!」

 肩を揺さぶられ、青は我に返った。

 

「は……はい、あれ……僕……」

 眼の前に、蓮華の顔。

 

 青は血まみれの小毬を抱えたまま、足元に倒れた檜前と、大狐が流した血に塗れ、呆然と座り込んでいた。

 

「動ける? 怪我人を天幕へ運ばないと」

 

 蓮華の声には、一切の動揺がなかった。

 その冷静な響きに、青の中に残る浮遊感がかすかに揺らぐ。

 

「わか……分かりました……!」

 なんとか声を絞り出し、青は震える体を無理やりに立ち上がらせた。

 

 

 それからの青は、ただただ必死だった。

 蓮華(れんげ)朱鷺(とき)の指示に応え、従い、動き続ける。

 

 小毬(こまり)中士は数か所の打撲と骨折。

 同様の負傷者が二名。

 その他、刀傷を負った者が数名。

 

 そして――最も重傷だったのは、檜前(ひのくま)中士。

 腹に穴を開けられていたが、致命傷には至らなかった。

 

(ヒグマ)に変化したことが、生死の分かれ目だった」

 蓮華の見立ては、的確だった。

 

「も……申し訳、ありませんでした。僕が余計なことをしたために……」

「ん?」

 

 疲労と罪悪感が入り混じり、青の声は掠れ、震えていた。

 檜前の容態を報告しに来た新米毒術師に、一色隊長はふっと柔らかい苦笑を向ける。

 

「君がああしなかったら、小毬中士は死んでいたと思いますよ。誰も間に合っていなかった」

「でも、檜前中士が……」

「檜前中士だから、生き残った。あの時は、あれが最善だったんです」

 

 報告ご苦労、と優しく労われ、青は居たたまれなくなる。

 深く頭を下げ、その場を立ち去った。

 

 治療用の天幕に戻ると、隅で蓮華が膝を抱えて仮眠をとっていた。

 代わりに朱鷺が、静かに負傷者たちの様子を見回っている。

 

「おかえり……楠野隊は……戻ってきた?」

 

 朱鷺の面がゆるやかに青を振り返る。

 顔全体が覆われているため、表情を読み解くことはできないが、疲労の色は見えない。

 虚弱(きょじゃく)体質かと思いきや、技能師三人の中で最も平常を保っているようにすら見える。

 

「いえ、まだのようです」

 所在なく、青は朱鷺から一歩離れ、天幕の出口側へ立った。

 負傷者たちに視線を巡らせる。

 

 誰もが、呼吸を落ち着かせていた。

 

 蓮華の薬と手当の妙。

 そして、薬術や医療の心得を持つ毒術師が二名居合わせたこと――それが彼らの幸運 だったと言えよう。

 

「そう」

 少しの沈黙が落ちる。

 

「……あの」

「……あのね」

 二人が同時に口を開いた。

 

 朱鷺に「お先にどうぞ」と促され、またわずかな間が空く。

 青は小さな吐息を漏らし、静かに言葉を紡いだ。

 

「すみません、色々と考えたり、思い出してしまって……まだ、まとまっていないんですが……」

 

 だが、吐き出さずにはいられなかった。

 誰かに聞いてほしかった。

 

「思い出す?」

「……あの狐の頭は、居場所が欲しかったのかなと、考えていて」

 

 ――九尾に生まれていれば 妖狐のチカラがあれば

 ――シシグニにも この国にも

 

 思い出されるのは、大狐が最後に呟いた言葉。

 どのような経緯で祖国を離れ、凪へ流れ着いたのか、青には知る由もない。

 

 だが、一つだけ確かなことがある。

 

 青、小毬(こまり)雲類鷲(うるわし)、檜前。

 同じように凪へ流れ着いた彼らには、良き出会い があり、居場所 があった。

 

「何故あの人は、逃げ出さなければいけなかったんだろうと」

 

 ――アタシを女狐と(そし)り、(さげす)んだのはオマエ達

 

 それは、彼女の 悲痛な心の叫び だった。

 

「僕は本当に、恵まれていたのだなと……あ」

 ふと、自らの素性に関わることを口走ってしまったことに気づく。

 青は覆面の上から口元に手を当てた。

 

「……そう」

 朱鷺にとって、その一言だけで 概ねの事情を察する ことは容易だった。

「私たちは……五大国以外を、知らなさ過ぎる、の」

 

 天幕内の行灯が静かに揺れる。

 薄闇に映る 梟のような影 も、それに合わせて揺らいだ。

 

 世界には、神通術を基礎とする五つの神通祖国と二つの里の他に、神通術に依らない独自の力や秩序を持つ国、勢力、人種が数多く存在しているという。

 

「知らなすぎる……確かに、そうですね」

 青が記憶する限り、初等学校や中等過程では、凪の外界について学ぶ機会は少なかった。

 

 そして、気が付く。

 自分は、凪の外から流れ着いた過去について、一度も疑問を抱かずに生きてきた。

 

 全てを理解するには、幼すぎた。

 生きること、学ぶことに精一杯だった。

 そうした言い訳もできる。

 

 だが――

 

 今、同じように外つ国から流れてきた者たちの生に触れ、青の興味は初めて己の過去へと向かった。

 

 母はなぜ、幼い自分を連れ旅をしていたのか。

 そして、なぜ凪へ向かったのか。

 

「楠野隊が戻ったぞ!」

 

 天幕の外から、声が響く。

 

「え」

 膝に伏せていた顔を上げ、蓮華が立ち上がる。

 

「行きましょう……」

 青、朱鷺、蓮華の三人が天幕を出ると、野営地の中央、焚き火の前にはすでに帰還した楠野隊と、それを迎える面々の姿があった。

 

「お前、それ……」

 一色が最初に発した言葉が、それだった。

 周囲の者たちも顔を見合わせ、場がにわかにざわめく。

 

 何事かと、青たちも駆け寄った。

 

「拾った」

 そう短く答えた楠野の腕には、二匹の子狐 が抱かれていた。

 

「あの狐は、こいつらの側で死んでいたよ」

「夜襲を仕掛けてきたのは……この子たちのためか……」

「かもな」

 

 子狐たちは、楠野の腕の中でおとなしく身を寄せ合い、

 丸い木の実のような瞳で、覗き込んでくる凪隊の面々をじっと見つめていた。

 

 まだ、母親の死を理解できていないのだろう。

 

 楠野隊の報告によれば――

 狐を追跡し、賊の根城と思われる砦へとたどり着いたが、賊の姿はすでに一人も残っていなかった。

 

 砦の最も奥まった小さな部屋で、片足を失った母狐が、二匹の子狐を護るようにして死んでいた。

 

「その子らは、獣血人ということになるのだろうか」

「おそらく」

 一色の問いに答えたのは、雲類鷲だった。

 

「成長すれば、人の姿になるすべを覚えるはずです」

「そういうものなのか」

 

 一色がなるほど、と頷く。

 同調するように、周囲の凪隊員たちの間にも合点の空気が広がった。

 

「その子らは、どうなさるので?」

 総員を代弁するように、准士が尋ねる。

 楠野は腕に抱いた子狐たちを見下ろし、丸い瞳を覗き込んだ。

「そうだな……凪に連れ帰って、孤児院に入れるか、どこか里子に出すか……」

 

「あの」

 控えめな声が上がった。

 

 手を挙げたのは、最後尾から様子を見ていた青だった。

 

 その場の視線が、一斉に青へと向けられる。

 両隣の蓮華と朱鷺からも、「何事か」という問いかけるような視線を感じた。

 

「シユウ佳師?」

 一色が青に発言を促す。

 

「す、すみません……霽月院(せいげついん)……をご検討されてはどう、かと」

 青が育った、都にある孤児院の名だった。

 

「霽月院?」

「長直下の管轄にある孤児院か」

 

 特別な事情を持つ子供や、長の許可を得た者のみが入ることを許される場所。

 

「出過ぎたことを、すみません……」

 場の空気に気圧され、手を引きかけたその時――

 

「そうですね」

 一色の肯定が返った。

 

「獣血人は凪では希少な存在。私たちで長に掛け合ってみます」

「俺もか」

 さりげなく巻き込まれた楠野が肩をすくめる。

 

 だが、訓練所で獣血人三名の担当教官だった経歴が訴求力になることは、彼自身も理解していた。

 短く息をつき、潔く頷く。

 

「クア……」

 大人たちの会話をよそに、子狐たちは揃って大あくびをした。

 そのまま楠野の腕の中で、ゆっくりと瞼を閉じていく。

 

「可愛い~!」

 女子隊員たちの声が、ふわりと野営地に広がった。

 

「提案をありがとう、シユウ佳師」

「あ……ありがとうございます……!」

 

 隊長と副隊長の決断に、青は心底から安堵する。

 

 ――あの子たちは、きっと、居場所を見つけられる。

 

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