毒使い   作:キタノユ

29 / 119
ep.25 蟲之勉強会

 夜が明け、負傷者を運びながら慎重に帰路を進むことさらに一日。

 

 一色上士が隊長を務める匪賊殲滅(ひぞくせんめつ)任務隊が都の大門へ帰還すると、例によって式鳥の通報を受けた医療班がすでに待機していた。

 

 それぞれの負傷者を医療班へ引き渡し、見送る。

 そして最後に、隊長から一同へ労いの言葉がかけられ、解散号令をもって任務は幕を下ろした。

 

「朱鷺一師、シユウ君」

 解散後も大門前の広場に残る隊員たちの間を抜け、蓮華(れんげ)が青(せい)と朱鷺(とき)のもとへ駆け寄る。

 

「蓮華二師」

「今回の任務、手を貸してくださって、本当に助かりました」

 蓮華がお辞儀をするのと同時に、白い外套(がいとう)がふわりと風になびいた。

 

「いいえ……二師は、さすがの手腕……でした」

 朱鷺の面がこくりと斜めに頷く。

 ふふっ と、紅をひいた蓮華の唇がわずかにほころんだ。

 

「シユウ君もありがとう。良い仕事したわね」

「え」

 

 虚(きょ)を突かれ、青の肩がびくりと揺れる。

 本人の頭には反省点ばかりが駆け巡っており、まさか褒められるとは思いもしなかった。

 

「私も一師のマネして、シユウ君みたいに若くて可愛い男の子を付けたくなっちゃった」

「え」

「……」

「また任務で一緒になれたら嬉しいわ。では、一師、失礼します! またお会いしましょう」

 

 青と朱鷺、それぞれに微笑みを向けると、蓮華は軽やかに踵を返す。

 白い外套の背に背負った鞄の膨(ふく)らみは、往路と比べて薄くなっていた。

 

「顔見えないから……可愛いかどうか、分からないのに……」

「そこですか」

 二人の毒術師は並んで、蓮華の背を見送った。

 

 大門前広場は、まだ賑(にぎ)やかだった。

 

 女子隊員たちは、別れを惜しむように子狐たちに頬ずりし、楠野は「いいかげんにしろ」と迷惑そうな顔をする。

 その隣で、一色が苦笑いを浮かべていた。

 

「さて……私たちも……そろそろ解散、しましょ」

 朱鷺の面が、おもむろに青を向いた。

 

「あの、一師――」

「シユウ君」

 

 別れる前に礼を言おうと口を開いた青の声を、朱鷺が遮る。

 いつもよりも少し、声が低い。

 

「は、はい」

 青の背筋が無意識に伸びた。

 

「君には……まだ、伝えたいことがある……だから――またね」

 

 そう言い残し、朱鷺の外套が翻(ひるがえ)る。

 裏地の淡桃色が、一瞬、視界を横切った。

 

「え、それって……一師!」

 呼び止めようとしたときにはもう遅く、辺りを見渡しても、朱鷺の姿はどこにもなかった。

 

「『またね』ってことは……?」

 青はその場に立ち尽くす。

 

 ――二度目を見た子はいなかったわね。

 

 蓮華の言葉が脳裏をよぎる。

 

「認めてくれた、のかな……?」

 嬉しい。

 全身に巡っていた、ぬるい疲労感が、その瞬間、すべて押し流された。

 

「次に会うまでに、訊(き)きたいこと全部まとめとこ!」

 そうと決まれば、脱力している暇はない。

 

「よし!」

 気合を入れ直し、青は駆け出した。

 

*

 

 法軍寮に荷物を置き、簡単に風呂を済ませ、着替えを終えた青が向かった先は――蟲之区。

 

 資料室の窓際に並ぶ机の一つに腰を下ろし、手帳を開く。

 白紙の頁へ、思い浮かぶことを片っ端から書き出していった。

 

 調合で行き詰まっている点、製薬のコツ、新薬案の構想、毒を応用した罠や符・式の研究。

 この数ヶ月間、任務や蟲之区での独学を通して蓄積された疑問や構想を、現時点で毒術の最高峰にいる存在へ ぶつけるべきこととして整理していく。

 

 大月青として一度。

 シユウとして一度。

 

 計二度、朱鷺の手腕を目にした機会の中で、青が最も興味をそそられたのは、毒と神通術を組み合わせた応用力 だった。

 

 それぞれ異なる術を使い、朱鷺は毒を効果的に活用していた。

 対して青ができるのは、せいぜい根の瘤(こぶ)に毒を仕込むことくらい。

 

「何か……そこに僕の糸口がある気がするんだよな……」

 

 青が神通術を不得手とすることを見抜いた藍鬼は、彼に術の「火力」ではなく「制御」によって効果を発揮することを教えた。

 

 この意識付けによって、青の術は発動速度が向上し、連続発動数が増加、異属性術の連続発動の成功率も格段に上がった。

 

 しかし――それだけでは、ただ器用なだけで、現場や戦場では決定打にならない。

 

「……また後で考えよう」

 

 思考が行き詰まり、青は手帳を閉じる。

 そして、蟲之区へ足を運んだもう一つの目的へと意識を切り替えた。

 

「シシグニ」について。

 そして、凪の国外の国々について。

 

 書架を散策し、地理・歴史に関する資料や書物が並ぶ棚を見上げる。

 目ぼしい背表紙を見つけ、上棚へ手を伸ばしたその瞬間――

 

「これ?」

 後ろから伸びた手が、青の手を軽々と越え、分厚い本を引き出した。

 

「……あ、はい、ありがとうございます、え」

 

 背後の気配を振り返る。

 まず視界に飛び込んできたのは、晴天の澄んだ天色の髪と瞳。

 

「キョウ……峡谷上士」

 そう呼びかけながら、青は思わず息を呑む。

 

 そこに立っていたのは、キョウさんこと、峡谷豺狼(きょうこく・さいろう)だった。

 

「や。ケガはもう平気?」

「おかげさまでもう大丈夫です」

 

 高い位置にある端整(たんせい)な顔へ、青は笑みを向ける。

 

「良かった。本、他には?」

 天色の視線が、棚の上部を示す。

 同じ男として、体躯(からだ)の造りの差にほんの少し嫉妬を覚えつつ――

 

「では、その両隣の本と、右端の三冊と……あとこの上下巻もついでにお願いします」

 素直に、親切に甘えることにした。

 

「助かりました、ここに来るといつも脚立が必要だから」

「大月君、昔は体より本の方が大きかったよね」

 懐かしそうに微笑みながら、キョウは軽々と大判の図鑑を片手に重ねていく。

 

「ハハハ」

 青は乾いた笑いで応えた。

 

「身長の割に手と足が大きいって三葉先生にも言われたので、五、六年後には追いつく予定です」

「っははは」

 

 児戯(じぎ)めいた負け惜しみに、キョウは思わず笑いを漏らす。

 

「それって、犬とか猫の話なんじゃないの」

「僕のささやかな希望を打ち砕かないでください」

「ゴメンね」

 二人分の失笑が、静かな資料室に重なる。

 

 ――お互いに、冗談なんて久しぶりに口にした。

 

 笑ったことで、頭や肩を締め付けていたような 緊張感がふっと解れた気がする。

 

「ここ、良いかな。相談したいことがあって」

 そう言いながら、キョウの指が青の席の向かいを示す。

 

「僕に……ですか? もちろんです」

 意外だったが、断る理由はなかった。

 

 ふと周囲に目をやると、遠巻きに何人かの士官がこちらを気にしていた。

 十中八九、彼らの視線の先にあるのは――キョウだ。

 

 法軍内において、天才と名高い男。彼を知る者は多い。

 だが、そんな外野の気配など気にもとめず、キョウの視線は机に積まれた本に向けられていた。

 

「資料の顔ぶれを見ると、世界地理とか、外つ国について調べようとしてる?」

「はい」

 図星だった。

 

「凪の外について知りたくなって」

「俺も」

 キョウは青の向かいに腰を下ろし、「ただ」と言いながら机の上の一冊を手に取る。

 

「俺、あまり学校に行かなかったから、勉強のしかたが分からなくて」

 適当に頁をめくり、指で文字の羅列(られつ)をなぞる。

 

「任務の資料や地図なら記憶術で叩き込めるけど……自分が知りたいことを、どう学べばいいか分からなくてさ。大月君に会えたらいいなと思ってここに来たら、ちょうど見かけたってわけ」

「僕に……」

 

 意外な申し出に、青は目を丸くする。

 キョウは七歳から下士として身を立てている。彼が学校教育を経験した年月は、二年にも満たなかったのだ。

 

「昔、大月君がおっきな図鑑を抱えて、食らいつくように文字を読んでた姿が印象に残ってる」

 頁をなぞっていたキョウの指が、ぴたりと止まる。

 

「この子は戦ってるんだなって思った」

 向かいの席から、天色の瞳がまっすぐに青を見据えていた。

 

「戦ってる……?」

 青は黒曜の瞳を瞬かせた。

 

 そんなことを言われたのは初めてだったが、妙に腑(ふ)に落ちる表現でもある。

 知識の吸収に貪欲(どんよく)で、追い立てられるように毎日、本を読んでいたのだから。

 

「さっきも、果し状でも書いてるのかなって勢いで書き物してたから、いつ声をかけようか待ってたんだよね」

 

 射抜くようなキョウの目が、ふっと笑みの形に細められる。

 張り詰めかけた空気が、緩んだ。

 

「い、いつでも声をかけて下されば良かったのに」

 

 無意識に止めていた息を吐き出し、青も席につく。

 手元の本を一冊手に取りながら、視線を戻した。

 

「俺が声をかけると、いつも驚かしちゃうでしょ」

「……あ~……」

 

 思い出すのは、初めて蟲之区で出会ったときのこと。

 薬包(やくほう)作業に集中していたところへ、至近距離からキョウに声をかけられ――

 その瞬間、「きれいなお姉さん」だと思い込んだのだった。

 

「集中すると、いつも周りが見えなくなってしまって……」

 苦笑しつつ、青は話を切り替える。

 

「それにしても、峡谷上士はどうして外(と)つ国について学ぼうと?」

 苦い記憶を押しのけ、本題へと踏み込む。

 

「凪の外での任務が増えてきたからってのが第一かな」

「国外任務……」

 

 法軍人が国外へ出向く任務には、いくつか種類がある。

 

 要人や商人の護衛。

 国抜けをした者の追跡、抹殺。

 軍事力を持たない国への戦闘能力の提供――例えば、他国間の戦への部隊派遣。

 

 国内問題から外交的要件まで幅広く、その多くが高難度かつ長期任務となる。

 

 青の胸をよぎるのは、藍鬼の姿。

 

 ――長い任務に出ることになった

 

 そう言い残し、彼は戻らなかった。

 

「大月君?」

「あ……すみません」

 キョウの声で、青ははっと我に返る。

 

 誤魔化すように、手元の本の表紙を開いた。

 タイトルは「世界地理概要」。

 巻頭には、折り込まれた世界地図が広がっている。

 

「勉強のやり方といっても、僕も特にコツがあるわけではないのですが」

 

 青の学び方は単純だった。

 取捨選択(しゅしゃせんたく)に悩むより、片端から本を読んで頭に入れる。

 その時にすべてを理解できなくてもいい。

 後の経験が、情報を知識へと昇華してくれる。

 

「初等学校の恩師は、話し合ったり教え合ったりすると、興味が広がり記憶に残る、とおっしゃっていました」

 小松先生の指導方針だった。

 

 学校ではトウジュやつゆりと共に宿題をし、試験勉強をした。

 話しているうちに興味が生まれ、しばしば脱線もしたが――その時間が、何よりも楽しかった。

 

「へぇ、一緒に、ね」

 まだピンときていない様子のキョウの前に、青は世界地図を広げた。

 

 とはいえ、この世界地図は 不完全だ。

 辺境や国交のない国や地域は白紙のまま。

 

 諜報部が作成した軍用地図であれば、より詳細な情報が記載されている。

 だが、今の段階ではこの情報量で十分だろう。

 

「例えば……今、興味のある国名や地名って、この中に見当たりますか?」

「んー、そうだな……」

 

 会話のきっかけは、こうだ。

 二人は地図を指しながら話し合い、本や資料を広げ、疑問を記録し、さらに深掘りしていく。

 

 それを、ひたすら繰り返した。

 

*

 

 その過程で、青は「シシグニ」についていくつかのことを知った。

 

 シシグニは「獅子國」と記すが、「獣ノ國」と表されることもある。その名のとおり、獣血人や獣人、半獣人が人口の大半を占める。

 

 凪之国や神通祖国とは異なり、「古國」と呼ばれる国々が存在し、獅子國もその一つに数えられる。

 

 古國とは、神通術とは異なる古来固有の術法や力を有する国々の総称である。近年、五大国との国交を深める国もあれば、依然として独立独歩を貫く国もある。

 

 キョウいわく、「国外任務が増えてきた」という言葉には、彼自身の実績向上に伴う任務の拡大という側面だけでなく、五大国が神通祖国以外との国交を一部推進しつつあるという外交的背景も含まれていた。

 

 諜報部の資料の一片によれば、獅子國は古國に分類される国々の中でも特に歴史が深い、まさしく旧国と呼ぶべき存在である。国を統(す)べる血族を頂点とした専制政治が敷かれ、厳格な階層社会が形成されている。長きにわたる歴史の中で、幾度となく内紛(ないふん)が勃発(ぼっぱつ)し、そのたびに制圧と統一を繰り返してきたという。

 

 青がこの記述を目にしたとき、凪へ逃げ延びた三人の中士たちや、賊の頭目が置かれていた逼迫(ひっぱく)した実情の一端を、わずかながら理解できたような気がした。

 

「何年か前、任務で一緒になった下士が『シシグニ』出身だと言っていたけど……このことだったのか」

 

 キョウもまた、資料の文字列を天色(あまいろ)の瞳で追いながら、思うところがあるのか、何度か深く息を吐いた。

 

「この資料によると、獣血人は姿を変化させることができるみたいだけど……あの任務のときは、特にそういう様子はなかったな。俺が気づかなかっただけかもしれないけど」

「あまり大っぴらにしたくなかったのかもしれませんね」

 

 おそらくは、隊長が誰であるかの違いなのだろう――青はそう思った。

 

 賊殲滅任務では、元訓練所の教官である楠野がいた。

 だからこそ、獣血人の中士たちは、その力を存分に発揮できたのだ。

 

 こうして互いにさまざまな話を交わしながら進めた「勉強会」は、あっという間に時間が過ぎていった。

 気づけば、窓の外の空の色がすっかり変わっている。

 

「――あ、いつの間に」

 先に我に返ったのは、キョウだった。

 

「申し訳ない。俺、明日は早朝から任務が入ってるから、そろそろ」

「本当だ……すみません、遅くまで引き止めちゃって」

 

 青も顔を上げ、外を見やる。

 いつの間にか夜が深まり、机の上はすっかり散らかっていた。

 その光景に、思わず苦笑する。

 

「後片付けは僕がするので、先にお帰りください」

「いやいや。片付けるまでがお勉強、でしょ」

「あはは」

 

 昔、小松先生に言われた「帰宅するまでが任務です」という言葉を思い出し、青は吹き出した。

 今日は、いつになく笑う回数が多かった気がする。

 

「今日はありがとう。勉強になったし、楽しかった」

 書籍を巻数順に重ねながら、キョウは満足げに笑った。

 

「こちらこそ。貴重な任務のお話など聞かせていただいて」

 青の言葉は、お世辞でもご機嫌取りでもない。

 実際に、楽しかった。

 

 法軍人として経験の浅い青にとって、任務経験豊富なキョウの語る体験談はどれも新鮮で、興味をそそられるものばかりだった。

 

 キョウは「勉強のしかたが分からない」と謙遜(けんそん)していたが、その頭の回転の速さには目を見張るものがあった。ついていこうと必死だったせいか、気がつけば喉がひどく渇いている。

 

「僕はまだまだ経験不足だなって、感じます」

「……あのさ」

 

 重ねた本を持ち上げたキョウの瞳が、また真っ直ぐに青を捉えていた。

 

「初めて会った時のこと、覚えてる? 工房で」

「そう、でしたね」

 

 知らず知らずのうちに、青の上半身がわずかに後ろへ引く。

 

 キョウの眼光には、独特の力があると青は思う。

 幼い頃、きれいなお姉さんだと勘違いしていた時も、同じだった。

 見惚れるというより、まるで蛇に呑み込まれる寸前のカエルのような心地。

 

 もし敵として対峙したなら――一瞬でも想像しただけで、背筋が凍る。

 

「友達のために、飲みやすい味の薬を作ってたよね。お菓子みたいな味の」

 苦い薬が苦手だと言っていたつゆりのために、甘い飲み薬を調合していたときの話だ。

「よく覚えてますね。きなこ味でした」

 

 ――痛かったり苦しいときに、それ以上の嫌な思いなんてしたくない

 ――心がこもってると伝わるだけで、それだけで嬉しい

 

 あの日、三葉泰(みつば・たい)医師――タイに反論したキョウの言葉が、脳裏をよぎる。

 

 あの頃のキョウはすでに下士として任務に就いていた。

 幾度も任務中の怪我や病気に苦しみ、その経験が素直な言葉となって口をついたのだろう。

 

「大月君は、その頃と今も変わってない」

「え?」

「いつも一生懸命でさ。俺は、そういう人を尊敬するし――好きだよ」

 

 最後に、泰然とした微笑みを浮かべると、キョウは本の山を抱え、くるりと踵を返した。

 

 瞳を丸くする青の視線を背に感じながら、キョウは書架へ向かった。

 

 彼にとっても、それはお世辞でも慰めでもなかった。

 

 実際、三葉医院に運び込まれたことのある任務仲間の間で、青の評判はすこぶる良い。

 

 解呪は完璧で、影響が一切残らない。

 何事にも丁寧に対応し、処置にあたる。

 そして、傾聴(けいちょう)の姿勢――。

 

「三葉の姉御、美人だけど荒っぽくて怖ぇからさ~。こっちが弱ってるときに、ああいう丁寧に扱ってくれる医療士がいると泣けてくるんだよ。あれが女の子なら満点なんだが」

「俺は三葉の姉御に発破(はっぱ)かけられると、かえって気合入るけどな」

「なんだその性癖」

「テメェこそ」

 

 任務先の野営地では、酒を呑む野郎たちが「どこの病院の誰が優しい」「美人だ」などと下世話な話に興じることが度々ある。

 そんな中、青の名が三葉医師の比較対象として頻繁に挙がっていた。

 

 それだけではない。

 尊敬する先輩や上官からも、「三葉医院に腕の良い若い医療士がいる」として、青の名を耳にしたことがある。

 

 思いがけずあちこちで「大月医療士」の名を聞くうちに、蟲之区での懐かしい記憶が蘇ってきたのだった。

 

 国外任務が増えたのを機に、世界地理や歴史を学ぼうと思い立ったのも、頭の片隅に青の存在があったからだと言える。

 本と向き合う姿はまるで戦いを挑むようで、それほど印象的だった。

 

「もっと、自信を、持てば、いいのに」

 分厚い図鑑を一冊ずつ棚に戻しながら、独り言を区切るように吐き出す。

 

 青は任務経験の差を引け目に感じているようだが、それは単に内勤と外勤の勤務形態の違いにすぎない。

 自嘲する必要など、どこにもない。

 

 戦いを専業とする法軍人の中には、内勤者や後方支援を軽視する者もいるが、それこそが恥ずべきことだ。

 

「そういえば……」

 書架の間を移動しながら、もう一つの記憶が蘇る。

 

 国抜け斡旋(あっせん)組織の殲滅任務――滴(したたり)の森にて。

 青と少女が都へ送り届けられた後、朱鷺から聞かされた話だ。

 

 青は少女を護るため、命を張って戦ったという。賊二人を仕留めたのは、毒針だった。

 

 十年近く前、南の森――行方不明になった青の捜索任務で目撃した光景が、滴の森での出来事と重なる。

 

 三日間も飲まず喰わずで衰弱していたはずの幼い青が、一人で妖獣を倒した。

 その時も、使われていたのは毒針だった。

 

「……今度、そのあたりも聞いてみるか」

 

 本や資料をすべて書架へ戻し、席へ戻ると、ちょうど青も机上の筆記用具や紙類を片し終えたところだった。

 

「片付けさせてしまって、すみません」

「良かったら、また声かけてもいいかな」

 

 キョウの申し出に、青は「え」と心底驚いたように口を開けた。

 

「何だか学校みたいで楽しくてさ」

 

 任務と訓練と休息を繰り返す日々の中で、活字に没頭し、議論を交わす時間も悪くない。

 キョウは心からそう思った。

 

「はい、ぜひ!」

 

 破顔《はがん》した青の声が弾む。

 任務しか知らない自分との会話を楽しんでもらえたのなら、それだけで十分だ。

 キョウは心の隅で、ほっと安堵を覚えた。

 

「良かった」

 そう頷いた直後、「あ」と何かを思い出す。

 

「……とか言ったけど、次にここへ来れるのがいつになるか分からないんだよな。明日から、国外へ。長い任務に出ることになったから――」

「え……」

 

 青の面持ちが、見る間に曇るのが分かった。

 

 気を悪くしたのかと焦ったが、そうではない。

 まるで何か、心の琴線に触れてしまったかのような反応だった。

 

「……どうした?」

「……」

 

 反応が鈍い。

 

 今日はこれで二度目だ。

 

 一度目は、国外任務が増えたと話したとき。

 二度目の今は、国外へ長期任務に赴くと伝えたとき。

 

 青の瞳が揺れている。

 それは心配しているというより、誰かを思い出している目だった。

 まるで自分を通して、過去の誰かを見ているような――。

 

「大月君?」

 上半身を傾け、机越しに手を伸ばして青の肩を軽く叩いた。

 

「あ、いえ……すみません。式、承知しました」

 

 ようやく青の瞳が「キョウ」を認識し、ぎこちなく微笑む。

 

「長期任務……ご武、お気をつけて」

 明らかに「ご武運を」と言いかけ、言葉を切る。

 

 ――誰か大切な人を、殉職で亡くしたのだろうか。

 

 国外への長期任務とはいえ、要人警護のため数度往復するだけで、危険度は低い。

 だが――今、それを口にするのは違う気がした。

 

「ありがとう。じゃ、また」

 

 心の傷に触れることを恐れ、青の異変に気づかないふりをする。

 キョウは軽く手を振り、背を向け、そのまま蟲之区を後にした。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。