森をさまよっていた少年の名は青(せい)。
青を妖獣から救った仮面の男は、藍鬼(らんき)と名乗った。
「ひとまずここで一晩休め。明るくなったら森を出る」
藍鬼は青を、森の中の
月光を拒むかの岩壁に、ぽっかりと黒い
湿った夜風に
「……」
青の足が縫い止められたように止まる。すがるように手を伸ばし、藍鬼の下衣の布地を指先で手繰り寄せるように握りしめた。
「!」
不意にかかった重みに、藍鬼もまた歩みを止めた。腰元の小さな気配を見下ろす。
しばらく、重苦しい沈黙が二人の間に降りた。
「何もいない」
やがて、仮面の奥から低く声がして、「入るぞ」と大きな
入り口の引き戸を引く時に、歪んだ桟と戸がかみ合わず、ガタガタと立て付けの悪い音がする。藍鬼が力任せに引いてようやく戸が全開し、長く閉じ込められていた夜の冷気が、二人の頬を撫でた。底知れぬ洞窟のような闇が口を開け、かろうじて視認できるのは、入り口の踏み固められた土間だけだ。
「青、お前の姓……名字は?」
問いかけながら、藍鬼は暗渠へ足を踏み入れた。指先に灯した火を行燈に移すと、闇に室内の輪郭が浮かび上がる。
「……ミョウジ?」
藍鬼の影を追うように、青も恐る恐る土間へ片足を踏み出す。
揺らめく灯りに照らし出されたのは、六畳ほどの狭小な空間だった。四方の壁は背の高い木棚で埋め尽くされ、棚板には、背表紙の擦り切れた書物や、葉や蔓がはみ出た木箱が詰め込まれていた。
「分からないのか」
首を傾げる青の反応に、藍鬼は嘆息ひとつ
やがて目が薄暗さに馴染んでくると、突き当たりに黒い板戸が浮かび上がった。奥にもう一部屋あるようだ。
「お前、いつから旅をしていた」
「ずっと」
あっけらかんとした様子で、青は短く答える。
物心がついた頃から、記憶にあるのは母との旅。
どこから来て、どこへ行く旅なのか。
母の出自、父親という存在――無知であることに、何も疑問を持たなかった。
「――そうか」
青の無知な返答すべてに対し、藍鬼はそう応えた。
こうした境遇の子どもが、珍しいわけでもない。
「手当をしてやる。そこに座れ」
藍鬼は、狭い土間に立ったままの青を、床板が張られた居間へ上がらせた。
促されるまま、青は部屋の真ん中に置かれた踏み台に腰掛ける。
粗末な外観とは裏腹に、室内は掃き清められ、清潔さを保っていた。カビ臭さもない。
「おじ……藍鬼さんは森に住んでるの?」
「ここはただの作業小屋だ」
おじさんこと藍鬼は、本やモノで埋め尽くされた壁面棚の前に立つ。
棚は経年で
興味深げに眺める青の前で、藍鬼は小瓶や木箱を棚から取り出した。
それらを、青の前に並べていく。
「お家は他にあるってこと?」
「ああ」
一通りの道具や薬品を揃えて、藍鬼は青の前に腰を下ろした。
まずは、最も目立つ足首の傷を診はじめる。
脚絆を外し、血で汚れたサラシを取り外しにかかった。
「お家があるところは、『ナギノクニ』っていうところ?」
「そうだ。俺は凪の国民で、この森も凪の領地内だ」
藍鬼は自らの左腕に装着した革帯を示した。
それは刃物差しでもあり
「母さまは、凪之国に行きたかったのかな……」
母が何の目的で、どこへ向かっていたのか、青には分からない。
どこへ行く、という青の問いに、ただ母は「青が幸せになれる場所よ」とだけ答えていた。
言葉にした途端、胸の奥に残っていた痛みが、堰を切ったように広がった。
膝上に乗せていた青の手が、
小さな丸い甲に、涙の粒がぱたりと、雨に似た音をたてて落ちた。
一粒ごとに、母親の記憶がこぼれていくようだ。
「……」
手当をする藍鬼の手が止まる気配はない。
ただ狭い小屋の中で藍鬼が作業をする音――小瓶が触れ、布が擦れ合う微かな音だけが流れた。
静寂を終わらせたのは、青だった。
「……ねぇ、藍鬼さん」
ぐずぐずと鼻をすする音と、呼吸を整えようとする浅い咳が続く。
「……そのお面、いつも着けてるの?」
泣き腫らした瞳が、仮面を覗き込んだ。
「……黒い猫……? 何の動物なの?」
「
藍鬼の態度は、変わらなかった。
「家の中なのに、外さないの?」
妖獣と戦っている最中も、戦いを終えた後も、そして小屋の中でも、藍鬼は終始、仮面を外さない。
「まだ、知る必要はない」
「……ふうん」
薄暗い森や室内で、よく転ばずに動けるな、などと青は内心で感心する。顔に見られたくない傷があるのか、それとも
「エンシン・ヘキと、サンって、どういう意味?」
代わりに継いだのは、新たな問い。
「ん?」
急な話題転換に少し面食らったようだが、藍鬼の手当ては止まらなかった。
「術を使う時に、言ってたでしょ」
それは、藍鬼が妖獣を
青は無知だが、記憶力は確かであった。
「エンシンは炎の神、ヘキは壁、サンは散る、だ」
「それってジンツウジュツって言うんだよね?」
「神通術について誰かに聞いたのか」
「水の術を使った人は見たよ」
足首の手当を受けながら、青は旅の道中で出会った術の使い手について語った。
「スイジンって言ってたから、水の神様って意味だったんだね。他にも風とか土とか光とか闇もあって、七つの神様の力を借りる術なんだって、おば……ち、違った『キレイなお姉さん』って言えって言われたんだった、キレイなお姉さんが言ってた」
「っん……そ、そうだな」
ガキに「おば」ちゃん呼ばわりされた名も知らぬ女を思いやって、失笑を抑え込みつつも、藍鬼の手元は淀みなく動く。
薬草から作った薬を手のひら大に切ったサラシに塗布し、青の細い足首の傷に重ねた。草の青臭さも、薬臭さもなく、傷に触れてもまったく染みない。
「……その薬は何からできてるの?」
青が腰を屈めて足首、藍鬼の手元を覗き込む。
「お前が手当てしていたのと同じ、ヨモギだ」
「本当? じゃあ母さまが教えてくれた通りだった」
思わず嬉しくなり、青の足がぶらぶらと揺れる。
「動くな」
と藍鬼に短く窘められた。
「これ、全部おじ……
たしなめられたことなど、気にも留めていない。
とりわけ興味を
「勝手に触るなよ。劇薬や猛毒もある」
「毒もあるの?? あの真っ黒なのとか、真っ赤なのとかそうなの??」
小さな指が示す先に、ヘドロのようにどろりと重そうな黒い液体が入った瓶と、乾いた血のような赤黒い色に満たされた瓶が並んでいた。
藍鬼はちらりと棚の方へ視線を走らせると、微かな舌打ちを漏らした。すぐに腰を上げて、色水の瓶の中から数個を選び取ると、奥の戸を開けた。
開かれた奥の空間は、四畳ほどの狭い物置であった。
積み重ねられた
藍鬼は手にした薬瓶を、奥の葛篭の蓋を開けて仕舞い込んだ。
隠し終えるとすぐに戸を閉め、板張りの居間へと戻り、手当の続きに入る。
「奥には絶対に入るなよ。触ったり吸い込んだら死んじまうものもある」
「さっきの妖獣を倒したやつみたいに?」
青は肩を小さく震わせ、
「分かった」
と、真剣な顔で頷いた。
足首の次は、妖獣の放った衝撃波で負った切り傷の手当だ。
藍鬼は青の手を取り、手首のサラシをゆっくりと解いた。
作業を眺めながら、青は問いかけを続けた。
「神通術って、どうしたら使えるようになるの」
「使えるようになりたいのか」
青は細い首を大きく上下に動かして応える。
「そうか」とだけ
「腹、見せてみろ」
最後に藍鬼は青の上着の裾を捲り上げる。
「……っ!」
刹那、仮面の奥で藍鬼が息を呑んだ。
三ツ目猪が発した衝撃波が腹部の布を裂き、青の脇腹にも薄い
「……妖瘴が残っている……お前……何も感じないのか」
「ヨ―ショー? なあに?」
きょとんと首を傾げる幼子へ、藍鬼は諦めたようにため息をつく。
気を取り直したように、藍鬼の手が腰の道具入れへ伸び、何かを引き抜いた。
人差し指と中指に挟まれているのは、長方形の紙片。
墨で文字が書かれている。
「妖獣や妖魔の呪いや毒のようなものだ」
「ど、毒なの??」
「毒」の一言に、青の顔から血の気が引いた。
毒が
「解呪」
短い言葉と共に、藍鬼は指に挟んだ紙片を
紙片の文字列が淡く発光したかと思うと蒼い炎に包まれ、藍鬼の
「あ、あれ??」
背中を丸めて青は自分の腹部を覗き込む。へそあたりで何かが弾けた気がしたが、痛みはまるで感じなかった。
紙片と炎、ついでに腹部の黒ずみも
「今、今のは、何?」
不安を浮かべる青の目前で藍鬼が握った手を上向きに開くと、手のひらに微量の黒い粉末がこびりついていた。
わずかに仮面の
「薬剤符を使った解毒の術だ。毒や呪いを取り除く」
「それって、何の紙?」
「薬剤符は薬の効能を閉じ込めた札。解毒法は色々あるが、今のは毒術の応用だ」
「毒術は毒を消せるんだ……じゃあ炎の術は、敵の炎を消せるの?」
「え……?」
初めて、藍鬼は返答に詰まった。
答えがないわけではない。ただ、五歳にも満たぬ子どもが、あまりに本質的な問いを口にしたことに、不意を突かれた。
「――できない。神通術は、神頼み……神から借りる力だ。別の術者がその力を取り消すことはできない。打ち消すには、属性……種類が違う、もっと強い術をぶつけるしかない。例えば炎術なら、それよりも強い風や水を……とかな」
「……毒術と神通術って、全然違うものなの?」
「ああ」
「じゃあ、毒術って、何の神様の力なの?」
「……」
立て続けに投げかけられる青の問いに、藍鬼は沈黙した。
目の前の子どもの、非凡な頭の回転の速さに、驚かされる。
つい先ほどまで初歩的な炎術に驚いていたはずの子どもが、術の根本的な違いを直感的に見抜いている。
年齢にそぐわぬ聡さに、藍鬼の胸中で名もつかぬ感情が芽吹きかけていた。
知識こそ浅いが、素直で物怖じしない。それこそが資質だった。
そして森で妖獣と対峙したとき、青は敵の急所を見極め、
体系的な教育を受けさせれば、こいつはいずれ、化ける――
「……夜が明けたら、ここを出る」
藍鬼は青の問いには答えず、手を止めた。傷の手当はもう済んでいる。
「凪の役場へ連れて行ってやる」
藍鬼は立ち上がり、道具を手早く片付けると、棚の隙間へ押し込んだ。
「藍鬼さん?」
質問しすぎて、怒らせてしまったのだろうか。
青は当惑して、ただその動きを目で追った。
「そこを頼れば、国が、お前を保護してくれるだろう」
「ホゴ?」
「助けてくれるってことだ」
国には、難民や孤児を支える仕組みがある。住む場所、仕事、生活の手助け、そして教育も。
棚から離れた藍鬼は、再び青の前に膝をつき、目線を合わせた。
「青、学校へ行きたいか」
ぽかんとした幼い顔へ、
「術や、戦い方を教えてくれる」
と言葉を変えた。
「行きたい!」
首が千切れんばかりに、青は大きく何度も頷いた。
「そうか」
青の目には、鬼豹の仮面の
*
どこからか流れてきた冷たい風に身震いし、薄い掛け布団の中で体を丸める。
「………!」
二呼吸ほど
小屋の戸口は開け放たれ、朝陽が狭い室内を照らし、白光に舞う
「起きたか」
戸口に影が差し、長身が土間へ踏み込む。
昨夜と同じ黒ずくめの衣服に、黒い鬼豹の仮面と、同じいでたち。
だが明るい場所で見ると、印象が変わる。
仮面の
「くっそーー! カオが見れなかった〜……」
「残念だったな」
布団の上で足をばたつかせ、あからさまに落胆する幼い少年を軽くいなしてから、藍鬼は両手に抱えた竹籠を
ひとつの籠には数尾の魚。もう片方には子どもの拳ほどの赤い果実がいくつか入っていた。
「傷はどうだ」
「う、うん……」
藍鬼に促され、青は布団から這い出る。
袖や裾をめくると、サラシがどこも乱れず白いままだ。痛みも熱も感じない。
「痛くなくなってる、ありがとう! あ」
青の腹が空腹を思い出して、盛大な音を鳴らした。
「味付けは調合用の塩ぐらいしか無いが」
と前置きして、藍鬼は魚を手に取る。切っ先が削られた竹串を無造作に突き刺して掲げ、空いた手に小さな火球を発現させた。魚をひと撫で、ふた撫ですると、ほどよく皮に焦げ目がついて、湯気が立ち始める。
「うわぁあ、便利だね」
ぽかんと口を開ける青の前に、魚の塩焼きと赤い果実を並べた皿が置かれる。
「それ食って薬を飲んだら出発するぞ」
言われるや否や、青の手が魚を引っ掴む。
恐怖と傷の痛みから解放された安堵が、幼い体に生への渇望を取り戻させた。
藍鬼が棚から薬を取り出し振り返るまでの僅かな間に、皿の中はすっかり空になっていた。
「食欲が戻ったなら問題ないな」
満足げに、黒い仮面が小さく頷く。空になった皿に黒い
「抗炎症薬だ。飲め」
「コーエンショー……?」
「傷が悪くならないようにする薬だ」
「わ、わかった……」
青は指で摘み上げた黒い丸薬を見つめてしばらくためらった後、意を決して口に放り込む。
「……苦くない……」
見た目に反して、無味無臭だった。
薬を飲み終えた青が、ぎこちない手つきで身支度を整えている脇を通り抜け、藍鬼は居間の奥の部屋へ姿を消す。
青が
麻と革で作られた
「お前の荷物だ。中に、お前の道具袋に入っていた物と……お前の母さまの着物が入っている」
持っていけ、と差し出された袋を受け取るや、青はすぐに中を覗き込む。まず目に入ったのは、淡い
「母さまの……あ」
丁寧に畳まれた母の着物を取り出す。その下には、青が昨晩まで腰に巻いていた道具袋。そのさらに下、まるで着物と道具袋で隠すように、小さい布袋や小瓶がいくつも鞄の底に敷き詰められていた。
「うわあ、たくさん入ってる……」
青は小袋や小瓶を一つ一つ手にとっては、しげしげと眺める。
「予備の薬や痛み止めだ。あとは
青が顔を上げると、黒い仮面は目線を外して横を向く。
「いいの?」
「……余っただけだ。腐らせるよりはマシ。それだけのことだ」
「ありがとう!」
藍鬼に抱きつこうとしたが避けられ、そのまま青は土間へ転がり落ちるのであった。
*
小屋から出たところで、藍鬼は振り返った。
片手で空中に図形のようなものを描き、小さく何かを呟く。すると、目の前の小屋がかき消えた。
「え!?」
最初から小屋などなかったかのように、目の前に見えるのは、岩壁に穿たれた小さな洞と小川だけ。
「幻術だ。隠しているだけで、小屋はそこに『ある』。毒術と同じで、これも神通術とは系統が違うものだ」
「いま僕が質問しようとしたのに」
「お前の傾向と対策はもう分かった」
森の小道を行く、大小ふたつの影。
青は昨晩から身に着けている薄い
一方の藍鬼も、昨晩と装いに大きな違いはない。だが、陽光の下で並んで歩くと、気が付く点がいくつかあった。
黒い手甲が手首を覆い隠し、甲当て部分には獣らしき模様が彫られた銀板がはまっていた。蛇か
腰に巻かれた革帯に道具袋が吊るされている他、背、腰、腕と、体のあちこちに刃物を差す革帯が巻かれていて、小刀、千本、苦無だろうか、どれも鋭く研がれている。うっかり触れたら、青の指など簡単に飛びそうだ。
軽装に見えて、隙がない。
藍鬼の武装の物々しさとは対照的に、太陽の下にある森は、昨夜とまったく異なる平穏な姿を見せていた。
「森を抜けるまで、どれくらいかかるの?」
眩いほどの木漏れ日があちこちで瞬き、風は穏やかだ。夜に
「二刻半も歩けば、陣守の村に着く」
「ジンモリの村?」
「行けば分かる」
青は空を見上げた。木々の密度が高すぎて遠景がまったく見えず、森を抜けるまでの距離感がまったく掴めない。
昨晩もし妖獣に遭遇しなかったとしても、永遠に森を彷徨って餓死していたかもしれなかった。
むしろ襲われたことが不幸中の幸いだったとも思える。
こうして、救い人に出逢えたのだから。
「……なんだ?」
視線に気づいたのか、鬼豹の仮面が斜め下の青を見た。
「学校って、どんな勉強ができるの」
「いろいろ、だ。凪之国で生きて行くために必要なことは、一通りな」
神通術や体術、言葉、算術、国のこと、そして世界――。
凪之国で生きていくため、それはすなわち、国への忠誠と引き換えに生活が保障されることを意味する。
だが、藍鬼の口から、その説明がなされることはなかった。
「毒術も、教えてくれるの?」
「基礎的な部分はな」
「藍鬼さんみたいになれる?」
「……」
「僕、藍鬼さんに教えてほしいな、毒や薬のこと」
黒豹の仮面が前方へ視線を戻した。
「……学校の成績が良かったら、考えてやる」
「本当!? じゃあ、僕のおシショーになってくれる?」
飛び跳ねたはずみで、麻袋の中で小瓶が音を立てた。
「変な言葉は知っているんだな……」
頭上から小さいため息が零れる。
下から見上げると、仮面の隙間から見え隠れする口元が、青の目には微かに笑っているように見えた。
「お前は、『麒麟』になれるかもしれない」
「キリン?」
「良き毒術師になれる、という意味だ」
「藍鬼さんみたいにってこと!?」
「……どうだろうな」
麒麟。
その言葉が持つ重みを青が知るのは、まだ先の話となる。