「峡谷上士!」
トウジュの声。
「!」
振り返ると、キョウの目前に迫る大蜥蜴の大口。
「くっ!」
「きゃぁ!」
キョウは咄嗟に陽乃を抱きかかえ、横へ飛ぶ。
飛びかかった大蜥蜴は目標を見失い――白馬の横腹に食らいついた。
「ヒヒィィン!!」
白馬が断末魔の悲鳴をあげ、そのまま横倒しに倒れる。激しく藻掻く四肢は、次第に動きを止めた。
「あれは……」
朱鷺が呟き、腰を上げる。
「馬を……見て……」
龍の手甲が、息絶えた白馬を指した。
土に横たわる白い腹には、大蜥蜴に食いちぎられた噛み跡。
引きつって伸びた頸。
上唇も下唇も捲れ、歯が剥き出しに。
口角からは、泡が漏れ出していた。
「毒……!? あれって、外来種ですね」
「シユウ君……行く……よ」
唐突に朱鷺が立ち上がり、藪から土道へと踏み出す。
「はい!」
青も後を追った。
「ひぃぇえぇええっ!!」
「何なんだよこりゃぁあ!!」
真っ二つになった仲間を置き去りにし、生き残った賊たちは 蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
だが、五頭の大蜥蜴は賊に見向きもせず、キョウへと牙を剥いた。
いや、正確には――陽乃へ。
肥厚した表皮に覆われた分厚い体躯。その巨体に似合わぬ速度で、五頭同時に地を這い
「いやぁっ!」
陽乃は悲鳴を上げ、キョウにしがみついた。
「風神……!」
陽乃を抱えたまま、キョウは風術で宙空へと逃れる。
だが大蜥蜴らも、尾を
「なっ……!」
意表を突かれ、キョウの瞳が大きく見開かれた。
「天嶮!」
地上から、トウジュの地術が発動。隆起した土と岩が杭となり、大蜥蜴たちを跳ね飛ばした。
「いいぞ、榊!」
部下の手柄を褒め、アザミが一頭に向け苦無を投げつける。
しかし硬質な鱗に弾かれた。
「急所を狙わなければ意味がない、か」
即座にそう悟る。
「そいつは炬之国の固有種で、猛毒持ちです!」
「!?」
面々が、青の声に振り返った。
「少しでも爪か牙が掠ったら退いて下さい!」
「助言感謝する!」
アザミが即座に応じる。
「助かるわ……私……大声出せないから……」
「大声は任せてください」
朱鷺と青は、栗毛馬の足元にしゃがみ込む侍女・檀弓のもとへ向かう。
「助太刀感謝です!」
毒術師二人と交代する形で、女子中士二人が武器を抜き、前へと進み出た。
「ひっ……」
蹲っていた檀弓が顔を上げ、朱鷺の異質な出で立ちに一瞬、肩を震わせる。
「大丈夫……私達は……凪の、毒術師……」
朱鷺が傍らにしゃがみ込み、侍女の顔色を覗き込む。
「ねえ……あなたって……」
その言葉を遮るように――
「グギャッ」
潰れた悲鳴が、重なった。
口から刀を串刺しにされた大蜥蜴が、アザミの足元に転がる。
「よし……まず一匹……口は弱いみたいだ」
動かなくなった大蜥蜴から刀を引き抜き、アザミは顔を上げる。残り四頭の大蜥蜴が、なおも執拗に陽乃を狙い、這いずり、飛びかかろうとしていた。
「きゃああ!!」
「風壁!」
キョウは悲鳴を上げる陽乃を片手で抱え、空いた片手を振り抜き風術を発動する。
風の壁が展開し、大蜥蜴たちを弾き返す――が、蜥蜴たちは体を撓らせ、尾を巧みに使い、何度でも体勢を立て直して襲いかかる。その巨体に似合わぬ俊敏さだ。
陽乃を抱え、しがみつかれた状態では、さすがのキョウも十分に戦えない。
「そいつは俺が!」
キョウへ飛びかかろうとした一頭の上から、准士が飛びかかった。
「雷神……」
雷術の唱えに応じ、組んだ両手を包む雷土が閃光の鉾と化す。
「蒼槍!」
両足で大蜥蜴の頭を踏みつけると同時に、両手を頸へと振り下ろした。
氷を砕くような音がつんざく。
雷の鉾は硬質な皮膚を裂き、皮下の肉を貫き、顎下まで突き通った。
「――離れて!」
青の叫び。
「――え……っ」
反射的に、准士が飛び退こうと体を逸らした――その瞬間。
大蜥蜴の喉から吻にかけてが膨張し、破裂した。
「っぐあ!」
黒ずんだ緑の液体が噴き出し、飛散――液体をまともに浴びた准士が、地面に倒れ込んだ。そこへ、別の大蜥蜴が口を開け、襲いかかる。
「させねぇよ!!」
駆け込んだトウジュの刀が、准士に喰らいつこうとする口吻に突き刺さった。
「業火球!」
続けて炎術を咥内へ叩き込む。
「ゴァ”ッ!」
悲鳴か燃焼音か――黒焦げた大蜥蜴が、ひっくり返って動きを止めた。
「玄野准士……!」
「手当は任せて下さい!」
倒れた准士へ駆け寄ろうとするトウジュを制し、青が割り込んだ。
「すまねぇ、頼んだ!」
トウジュの声を背に受けながら、青は准士の側に膝をつく。道具入れから取り出した符を、准士の首筋に押し当てた。
「……解呪」
符の文字が青白く発光し、青の手中で強く瞬く。
「っつ……!」
手の平を焦がすような熱。
毒が、強い。
両手を重ね、気を手元に集中させた。
光を握りつぶす。
ジュッ……
掌中で符が燃え落ちる音がした。
そっと開くと――焦げた掌と、いつもより嵩の多い黒煤が残った。
「退避させます! 准士を動かしても大丈夫でしょうか……?」
女子中士たちが駆け寄る。
青の頷きを確認すると、意識のない准士の上半身と下半身をそれぞれ支え、持ち上げた。
「玄野准士……」
准士が手当をされている様子を見て、キョウは短く安堵の息を吐く。
大蜥蜴は、残り三頭。
「皮下は柔らかいって訳だな」
准士が串刺しにして仕留めた大蜥蜴の遺骸を一瞥し、アザミは地を蹴った。
「峡谷君、そこを動かないで」
キョウの前に立ちふさがり、陽乃を狙い迫る大蜥蜴に向けて手を翳す。
「地神……」
目を瞑り、一呼吸。
精神統一。
「針地獄!」
刮目とともに術が発動――襲い来る大蜥蜴の足元から、剣山のごとく鋭利な土の針が数十本突き出た。土針は大蜥蜴の腹から頭部にかけてを貫く。
串刺しにされた蜥蜴は、そのまま動かなくなった。
「即死なら自爆はしないらしい」
アザミの怜悧な瞳は、始終揺らぐことがない。
「お見事です、先輩」
「残り二匹なら――」
大蜥蜴が丸太のような尾をしならせ、土の針山を薙ぎ崩した。
仲間の死骸を踏みつけ、尚も陽乃を狙い、二頭が同時に飛びかかる。
「――いけるか?」
「はい」
アザミの目配せにキョウは肯き、陽乃をアザミに押し付けた。
「峡谷様?!」
不満げな姫の声を背中で聞き流す。
「炎神……」
キョウは自由になった両手に意識を集中させた。
「煉獄柱!」
次の瞬間、獄炎が視界を覆い尽くして二頭の大蜥蜴を巻き込み、柱となって立ち昇った。
炎の中でのたうつ黒い影が揺れる。
キョウの両手が強く握られると同時に――紅蓮が燐火の色、蒼へと変わった。
凄まじい術力。
文字通りの、強火力だ。
「凄……」
離れた場所で准士の手当をしている青ですら、皮膚に炙るような熱を感じるほどに。
「もういいだろう」
アザミの呼びかけに応じ、キョウが手を下ろす。
瞬く間に、蒼い炎柱は消失した。
残ったのは、黒く変色した一帯の土。
そこに影絵のように焼きついた、二頭分の大蜥蜴の「影」だけ。
「すっげ」
静寂の中に、トウジュの素直な呟きが転がる。
「……はぁ……」
渓谷の道に転がる三頭の大蜥蜴の死体、そして二頭の焦げ跡を前に、キョウは深いため息を零した。そして、すぐに踵を返し、手当を受ける准士のもとへ駆けた。
「玄野准士の容態は」
「死ぬことは……ない……」
朱鷺の診断に、キョウは再び 「良かった、本当に……」 と深く息を吐く。
心からの安堵の吐息だった。
「けど……任務続行は……厳しいわ」
朱鷺の進言を受け、キョウは先輩上士のアザミを振り返る。
「先輩、この後のことを――」
そこへ、
「峡谷様!」
アザミの腕を振りほどき、陽乃がキョウのもとへ駆け寄った。
「恐ろしゅうございました……!」
さめざめとした声で、キョウの腕にしがみつく。
中士三人は、「ようやるわ」と言わんばかりの顔で姫様劇場を眺めていた。
「怖い思いをなさいましたね」
またも塗り固めたような微笑を浮かべ、キョウは優しく姫の背中に手を添えた。
「峡谷さ……」
「どうぞ、こちらでしばしお休みください」
背中をやんわりと押され、陽乃は受け流されるように栗毛馬の足元に座り込む侍女・檀弓の側へと押しやられた。
「先輩、救護班を呼ぶか、引き返すかですが」
面白くなさそうな顔の陽乃に背を向け、キョウは改めてアザミに向き直った。
都までの距離を考えれば、引き返すのも悪手ではない。
しかし、今回は非戦闘員が二名おり、移動速度が制限される。
「そうだな……救護班へ式を飛ばして待つか……」
隊長のアザミが結論に至りかけた、そのとき、
「ダメ」
朱鷺の声が割り込んだ。
皆の視線が、一斉に朱鷺へ向けられる。
「ここは危ない……引き返すか……とにかく、ここを離れた方が……いい」
長い嘴が、辺り一帯をぐるりと見渡した。
「なあに? あの蝙蝠のようなお方」
「お嬢様……」
栗毛馬の足元で待機する、陽乃と檀弓主従の呑気な会話が聞こえる。
側で警護にあたる中士たちは、やれやれといった顔を見合わせた。
シューッ……
――間欠泉のような強い噴射音が、風に乗って届く。
「?」
皆、一斉に口を噤んだ。
最初の一音を皮切りに、爬虫類が器官を震わせる音が、左右から蝉の声のように重なり始める。
「……古暮、黒川中士は馬と後方を護って」
「しょ、承知!」
中士二人へ手早く指示を送り、アザミ、キョウ、トウジュの三人は武器に手をかけ、左右の藪や森へと鋭く視線を巡らせる。
青も朱鷺の隣で、周囲の気配を探った。
「やっぱり……呼び寄せてしまった……みたい」
朱鷺の仮面の嘴が、谷の稜線をなぞるようにわずかに揺れる。
谷を吹き抜ける風に乗り、呼吸とも鳴き声ともつかない空気音の合唱が、確実に近づいてくる。
「シユウ君。数、分かる……?」
「たくさん、という事だけは」
青の苦笑いに、朱鷺の面が「私も」と頷く。
「来たぞ、構えろ!」
アザミの警告。
朱鷺の予測通り、それは現れた。
道の先、背後、片脇の藪。
緑がかった表皮に覆われた四つ足の生物たちが、次々と姿を現す。
「また大蜥蜴か」
毒の大蜥蜴よりは小ぶりだが、それでも胴だけで若牛ほどの大きさと太さがある。
加えて特徴的なのは、胴よりも長い剃刀のような尾。
そして何より――数が多い。
「こいつらの唾液は痺れ毒です。吐き出してくることもあるので注意を。それから、尾の鱗が攻撃時に剃刀のように変化します」
「了解!」
「助かる」
青の助言に、トウジュが威勢よく応じ、上士二人も深く頷く。
かつて蟲之区で、体よりも大きな図鑑を貪り読んで諳んじていた知識が、今ここで生きた。
「峡谷君は東側と北側、榊君は後ろを頼む」
「承知!」
アザミが手早く指示を出す。
「峡谷上士、ちょっと」
飛び出そうとするキョウの背中を、朱鷺が呼び止めた。
「……朱鷺一師?」
肩越しに振り向いたキョウの目に、外套の内側から手を掲げる朱鷺の姿が映る。
「一師?」
隣に立つ青も、疑問符を浮かべた。
朱鷺の指先に握られているのは、小さな小瓶。
短い試験管状の薬品入れだ。
「シユウ君……よく、見ていて……」
短く呟くと、器用に指先で硝子管の蓋を弾いた。
「水神……玉(ぎょく)」
唱えに応じ、硝子管を満たしていた液体が重力に逆らい管の外へと吹き出す。
それは空中で拳大の玉となり、浮かび上がった。
「長蛇」
続けて二つ目の術が発動。
朱鷺の掌から流れ出た水流が巨大な蛇となり、宙空に輪を描く。
次の瞬間、蛇が球状の液体を呑み込み――透明だった水流が、瞬く間に苔むした濃緑へと変色した。
「術と……毒薬が混ざった……?!」
「行っておいで……」
朱鷺が手を軽く振ると、それに応じるように濃緑の水流が奔る。東側の藪から現れた大蜥蜴の群れを目掛け、緑の濁流が広範囲に降り注いだ。
「水が……!」
群れを呑み込んだ濁水は、強い粘着性を持つ半液体へと変質。
大蜥蜴らを包み込み、動きを鈍らせた。
「なるほど……お見事」
キョウはにっとほくそ笑み、前へと踏み出した。
「雷神、轟雷!」
低い姿勢から、両掌に発生させた雷術を前方へ放つ。
蒼い電流が鞭のごとく光速で疾走り、強粘着の濁水へと突き刺さる。導電した雷が液体を浴びた全ての大蜥蜴へ通電した。
ゴボゴボと激しく煮立つ毒液――たちまち、十数頭の大蜥蜴が一斉に炭化した。
「よし!」
珍しく吠えるように声を上げ、キョウが拳を握る。
「うわ……すごい!」
戦いの最中であることを忘れ、青も思わず感嘆の声をあげた。
簡易な水術が、朱鷺の毒の一手によって幾倍にも効力を増したのだ。
「一師! 今のはどうやっ――」
「はい……シユウ君も」
興奮してはしゃぐ青の手元に、薬瓶が押し付けられた。
「え」
「……やって……みて」
「え」
「……私ほら……もう体力が……」
クラクラする、と朱鷺が萎んだホオズキのように小さくなる。
「やります、やります!」
虚弱体質詐欺に騙されている気がしないでもないが、今は考えている暇はない。
やるしかない。
青は小瓶を受け取り、後方で大蜥蜴と対峙するトウジュの背へと振り向いた。
トウジュは得意の炎術で大蜥蜴たちを牽制し、怯ませながら一頭ずつ仕留めている。
だが、如何せん数が多い。
一瞬でも調子を狂わせれば、命を落としかねなかった。
――トウジュの力になりたい。
「……ふぅ……」
青は深く息を吐き出した。
「水神、玉」
青の唱えに応じ、小瓶の液体が宙で美しい球体となる。
「長蛇」
続けて二つ目の術を唱えた。
現れた水流が蛇のごとく青の片腕を纏い、うねり、膨張する。
「混ざれ……」
術と毒薬の融合。
それがもたらす成果を、強く思い描く。
青の生み出した水蛇が、空中の玉を呑み込む。
無色だった水蛇が、徐々に緑へと変色し始めた。
そのさなか――
「やべ……っ!」
トウジュの詰まった呻きが響く。
「!?」
青の目は、大蜥蜴の剃刀の尾がトウジュの脚を掠める瞬間を捉えた。
ぱっと、宙に紅が散る。
「くっ!」
転びかけたトウジュが、無事な脚で体勢を立て直そうとする――が、力が入らない。
膝が折れ、そのまま地面へと倒れ込んだ。麻痺毒の凄まじい速効性。
動かなくなった獲物を目掛け、大蜥蜴が一斉に動き出した。
「榊君!」
女子中士たちの悲鳴が上がる。
「トウジュ!」
青の叫びに呼応するように、水蛇の色が、突如として漆黒に変色した。
「え……?!」
見守っていた朱鷺が、弾かれるように身を乗り出す。
青の腕をまとう黒い水蛇は、ぐつぐつと瘴気を滾(たぎ)らせた。まるで煮え立つ泥の海から生まれ出たよう。
「見たことない……あんな……!」
朱鷺の嘴が、細かく震える。
「いけ……!」
青が腕を振り下ろした。
大蛇のごとく口を開いた漆黒の濁流が奔る。粘着性を帯びた質量のある液体が、大蜥蜴の群れを呑み込んだ。
「榊君!」
女子中士二人が倒れたトウジュのもとへ駆け寄り、左右から肩を担ぎ上げる。
黒い泥に包まれ凝固する大蜥蜴の群れから、トウジュを引き離した。
それを見届け――
「炎神……玉」
青が三つ目の術を発動させる。
玉は、子どもが初めて習う基本の術。
だが、それで十分だった。
小さな火球が、黒い汚泥の表面に触れた――瞬間、爆発したように火柱が上がった。
辺りが橙色に照らされる。
「やった……か?」
青は炎の熱が起こす火の粉混じりの風を浴びながら、脱力したように呆然と結果を眺めた。
「っ! トウジュ……」
我に返り、トウジュが運ばれた後衛へと踵を返す。
栗毛色の馬の足元では、すでに朱鷺がトウジュの手当に当たっていた。
脚の怪我の治療と痺れ毒の解毒は速やかに完了し、妖瘴の影響も無かったのは幸いだった。
「っくしょー、峡谷上士みたいに……カッコよくいかねーなー……」
手当を受けながら、少し痺れの残るぎこちない口調で、トウジュはいつもの軽口を飛ばしながら笑う。
「百年早いっつーの」
憎まれ口を叩きながらも、女子中士の二人の面持ちは、泣き出しそうにも見えた。
「ご無事で……良かったです」
駆けつけた青も、心の底から安堵の息を吐いた。
「……」
生々しい手当の様子に、さすがの陽乃も大人しくなり、青白んだ面持ちで黙り込んでいた。
侍女の檀弓は、始終俯いたまま、主人の隣に座り込んでいる。
「上士のお二人は」
まだ大蜥蜴の群れが残っていたはずだと、青が顔を上げる。
「心配いらねーよ。もう終わるっしょ」
上半身を起こしたトウジュが笑う。
その言葉通り。
北西側から、凄まじい轟音が響いた。
次の瞬間、竜巻が発生。
風術だ。
離れた場所にいるにもかかわらず、皮膚や衣服が切り裂かれそうな鋭い風圧だ。砂埃と砂利が巻き上がり、目を開けていられない。中士二人と青が怪我人たちを庇いながら、風が収まるのを待った。
「……なんとか、片付いたな」
風が鎮まり、術の余韻が漂う中、アザミの声が近づいてきた。
「先輩、すぐ手当を」
キョウの声が続く。
二人の背後、渓谷の狭間には、大蜥蜴の死骸が散乱していた。
後方へ引き揚げてきたアザミの左腕には、裂傷が走っている。
飛散した血液が腕ばかりか、衣服の胸元や顔にもこびりついていた。
「やむを得ず血触媒を使用した。手当を頼みたい」
キョウが代わりに説明し、朱鷺と青へ頭を下げる。
「も、もちろんです!」
「大丈夫……」
気を消耗したアザミを日陰に座らせ、朱鷺と青で手当を施した。
「これ……良かったら……貧血予防……」
朱鷺が薬瓶をアザミへ差し出す。瓶の札には獅子の押印と、蓮華の署名が押されていた。
「私じゃなくて……薬術師の獅子が作った……栄養剤だから……安全……」
「誰も疑いませんって……」
その風体のせいで、怪しい薬と勘違いされることが多いのだろう。朱鷺の説明が回りくどくなっているのが、青には少しおかしかった。
「ありがたい」
アザミは表情を変えず、躊躇なく液体をあおった。
*
「まずは……一段落して良かった」
面々を見渡し、キョウは安堵の笑みと共に頷いた。
そして、
「陽乃様」
顔色の冴えない姫のもとへ歩み寄り、片膝をつく。
「お怪我がなくて、何よりです」
端正な微笑と、柔らかな声音。
「峡谷様……」
強張っていた陽乃の表情が、ほころんだ。
「あの毒の大蜥蜴」
微笑を固めたまま、キョウは言葉を続けた。
「炬之国の固有種だそうです」
肩越しに、キョウの視線が死骸を一瞥する。
「後から現れた凪の大蜥蜴の大群は、よそ者である炬の大蜥蜴を排除しようと、臭いと気配に釣られて集まってきたのでしょう。妖獣には排斥本能がありますから。となれば、炬の毒蜥蜴はどこからやってきたのか……?」
「……峡谷様……?」
陽乃は顔が、再び曇る。
「おそらくは賊どもが、毒蜥蜴を封じた呪具を持っていたのでしょう」
賊たちは「熱い」と悶え、黒煙に包まれ、大蜥蜴へと変貌した。
それが彼らの本意とは思えないが。
「不思議ですね……凪のゴロツキごときが、なぜ炬の毒蜥蜴へと変化する術(すべ)を得たのか……」
「わ、わたくしは知りません!」
キョウの、微笑を塗り固めた追及に耐えかね、陽乃が声を上げた。
「あんな蜥蜴のことは、何も!」
「蜥蜴のこと『は』?」
「!」
さっと陽乃の顔色が青ざめる。
嘘をつけない性分なのだろう。
「では、賊のこと『は』何かご存知なのですね?」
キョウが上半身を傾け、陽乃へ顔を近づける。
「わ、わたくしは……」
陽乃は顔を逸らし、俯いた。
あの薄氷色の瞳に見据えられれば、誰でも呑み込まれてしまう。
そこへ――
「わ……私、です」
か細い声が、横から割って入った。
侍女の檀弓だ。
「私の、私の独断で……お嬢様は何も……」
戦いの間、怯えて震えていた侍女が、今も懸命に声を絞り出している。
「私が噂を流しました……」
凪の都の場末の歓楽街でゴロツキを捕まえ、
「金持ちの娘が少数の護衛で国境の渓谷を抜ける」
「荷には売れば大金になるシロモノを積んでいる」
そう吹き込み、賊を扇動した。
さらに、炬の呪術師から譲り受けた呪具を渡していたという。
「あんなに恐ろしいものだとは知らず……酷い事を……」
黒髪の侍女は、地に両手をついた。
「全て私がやった事です。罰を受けるべきは、私だけ……!」
「檀弓……」
陽乃が伏せた侍女の肩に、そっと手を添える。
その瞳と唇が、安堵に緩んだのを、青は見た。
きっとキョウも、気付いただろう。
「何のために侍女の貴女がそんな事を?」
キョウの問いに、侍女は顔を伏せたまま、声を震わせて答えた。
「お嬢様が、ご不憫で……」
護衛隊の面々が、驚いた顔を見合わせる。
女子中士の二人に至っては、侍女がワガママなお嬢様に耐えかね、暗殺計画でも立てたのかと考えていたほどだった。
「お嬢様には近々、ご結婚される予定の方が……ですが、それは――」
「お父様が勝手に決めたことですの!」
檀弓の言葉尻を、陽乃の声が撥ね退けた。
「私はずっと峡谷様のことが……顔も知らぬ豪商との結婚なんていや!!」
キョウの腕にすがって、訴える。
「賊から救って下さったとあれば、お父様も峡谷様をお認めになるわ!」
――なるほど。
場の全員が、腑に落ちた。
檀弓は「自分の独断」と言ったが、発端は陽乃の企てた狂言。
今は責任を侍女に押し付けようとしているのが、あまりに明白だった。
「よく分かりました、陽乃様」
キョウの瞳が、微笑む形に細められる。
「峡谷様……!」
陽乃の顔が綻ぶ。だが――次の瞬間、キョウの表情が、無へと落ちた。
右手が腰の刀を抜く。
「きゃっ!」
左手で陽乃の襟を掴み、そのまま地へと押し倒した。
「峡谷上士!?」
「何して……!」
士官たちが驚愕する中、キョウは逆手に握った刀を陽乃に向け、突き下ろした。
ザクッ
刃先は陽乃の頬の真横へ突き立つ。
黄紅葉の髪が、風に舞った。
「ひっ……っぃ」
陽乃の喉が引き攣る。
「峡谷君……!」
アザミが止めに入ろうとしたが、動けなかった。
殺気に気圧され、思わず身が引く。
「貴女のお立場は察します。ですが……」
喉の奥から絞り出すような低い声。
陽乃の耳元で、刃が土を抉る。
「どんな理由であれ、俺の仲間を危険に晒したことは許さない」
低く押し殺した声には、底知れぬ怒りが滲んでいた。
震えながら怯える陽乃を前にしても、キョウの目に一片の同情の色もない。
「……ぁ……、たくし……、は……」
炬之国の姫はただ、目の前の捕食者に見据えられ、震えるしかなかった。