負傷者数名。
そして、護衛対象は心神喪失の状態。
任務の続行は不可能と判断され、護衛隊はいったん凪へ引き返すこととなった。
式鳥を飛ばし、道中で救護隊と合流する手はずだ。
陽乃は栗毛の馬上で、すっかり萎れた様子だった。
大人しく手綱を預け、檀弓に握らせている。
白馬の埋葬と荷物の移し替えを終え、動けない玄野准士はキョウが背負った。
「……私とシユウ佳師は……あれを検分したいので……残ります」
朱鷺が指し示すのは、蜥蜴の遺骸。
毒術師二人は、ここで護衛隊と別れることになった。
「お二人がいなければ、状況はさらに悲惨なものになっていただろう。感謝する」
最後にアザミが深々と頭を下げ、他の士官たちもそれに倣う。
十分すぎるほどの感謝を受け、かえって恐縮した青は、つられるように何度も頭を下げた。
一方、朱鷺は「いいえ……」と呟きながら、ゆるく左右に揺れている。
「マジで助かった! またな!」
トウジュは、シユウを同世代と見なしたのか、友人に向けるような気さくな笑顔を向けた。
「こちらこそ、榊中士。お大事に」
「おう!」
青の笑顔は覆面の下に隠れていたが、トウジュにはしっかりと伝わったようだった。
「……」
前方を見据え、護衛隊の面々から顔をそむけていた陽乃が、一瞬だけ背後を振り返った。
「よそ見をなさると、危のうございます」
そっと声をかけた檀弓に、陽乃は無言のまま前を向き直る。
拗ねているのか、その横顔にはどこか不機嫌な色が滲んでいた。
姫の侍女というのも大変な役目だ――青が檀弓にわずかな同情を覚えた、その時。
「……?」
ふと、馬上の姫を見上げる檀弓の横顔が、微かにほくそ笑んだように見えた。
気のせいだろうか。
青が瞬きをした直後には、檀弓はすでに手元へと視線を落とし、静かに俯いていた。
「では、失礼する」
「お気をつけて」
複雑な事情を抱えた主従を伴い、護衛隊は凪へと向かい、ゆっくりと引き返していった。
「大丈夫でしょうか……」
護衛隊の姿が見えなくなるまで見送り、青は隣に立つ朱鷺へと問いかけた。
「何が……」
「峡谷上士が罰せられないかと」
事情がどうであれ、他国の要人の娘を脅し、暴言を吐いたのだ。
「大丈夫でしょ……ついでに言うなら……全部……無かったことに……なる」
「ええ?! 全部、あの狂言のこともですか?」
陽乃が狂言を企てたであろうことも。
侍女が賊をけしかけたと証言したことも。
その結果、護衛隊に軽微ならざる被害が出たとしても。
事実の検証と国家間の問題に発展させる代償を天秤にかければ、自ずとどう収めるのが現実的かは、明白だった。
「小娘の児戯を……いちいち国同士の問題にしてたら……キリない……でしょ」
「そういう、ものですか……」
青は納得しかねる表情で、唇を噛み締めるる。
そんな弟子の未熟な反応をよそに、朱鷺は静かに毒蜥蜴の死骸へと歩み寄った。
「そういうもの、よ……政治って。法軍人は基本……捨て駒、なんだもの」
「そんな」
「みんな…分かってる……そうでなければ……いけないって」
朱鷺は取り出した苦無の刃先で、毒蜥蜴の腸を弄っている。
毒液を溜める器官を探しているのだろう。
「……だからこそ……」
懐から空きの硝子瓶を取り出し、蜥蜴から摘出した何かをそっと入れた。
「あの場で……あれが言えた峡谷上士は……良い指導者になると思う、わ……」
「……キョウさん……」
覆面の下で、青は静かにその名を呟いた。
乾いた風が通り過ぎる。
頭の中に積もった埃が、すっと飛んでいったような気がした。
自らの立場が危うくなることを厭わず、仲間や部下のために感情を露わにし、苦言を放った。
その瞬間、傍らで見ていた青でさえ、胸がすく思いがした。
命を賭して戦ったトウジュたちにとっては、なおさらだろう。
あの場で上士があの行動を取ったことで、下の者は手出しも口出しもできなくなった。
結果として、それが陽乃と侍女を守ることにもつながったのだ。
「やっぱり、さすがだな。あの人は」
青は護衛隊が戻っていった道を振り返る。
改めてキョウとの格の違いを思い知らされながらも、気分は驚くほど晴れやかだった。
「……何やら……感慨に浸ってるところ……ごめんだけど……」
「あ……はい! すみません!」
背後から朱鷺に声をかけられ、青は跳ねるように振り返った。
そう言われると、急に気恥ずかしさがこみ上げる。
朱鷺は血塗れの臓器片らしきものが入った小瓶を陽光にかざし、満足げに頷いていた。
「この間の任務で……話しそびれたこと……今……いい?」
「はい! ぜひお願いします!」
青は背筋を伸ばし、真剣な面持ちで応じた。
「……あれについて」
龍の手甲を纏った指先が示すのは、剃刀尾蜥蜴の黒焦げ死骸の山。
朱鷺が水術と毒で蜥蜴の動きを封じ、キョウが雷術で炭化させた。
その名残がまだ、黒煙を燻らせている。
「シユウ君、前に……神通術が不得手だって……言ってたよね」
物騒な小瓶を懐に仕舞うと、朱鷺は慎重に、ゆっくりと、立ち上がった。
急に動くと目眩がするからだ。
「は、はい……覚えて、います」
確かにあの日、打ち明けた。
術の制御こそできるが、術力が足りず、火力が出せない。
そのため、実戦では役に立たない、と。
「夜襲戦で私たちがやったことは……毒の補助に、神通術を使うことだった……」
賊の夜襲に備え、毒を地中や樹木に忍ばせ、起爆の手段として水術や地術を用いた。
「でも、さっきのは逆。神通術の補助に、毒を使った……ということ……」
「逆……」
青は息を呑んだ。
頭の中で、鍵が回るような感覚がした。
「玉も長蛇も……そもそもの威力が弱い術……でも、その水が……逆飛泉のような劇薬だったら……?」
「……」
「風術の鎌鼬に……痺れ毒の鯱脅(しゃちおど)しや、血液凝固を阻害する朧紅(おぼろべに)が混ざっていたら……? 地術の天劔や針地獄が……ただの土ではなく、病葉(わくらば)によって毒の腐泥と化していたら……?」
鯱脅し、朧紅、病葉。
いずれも、凪の毒術師が生み出し、法軍の間で広く用いられている毒薬だ。
「それ、は……」
「ただじゃ済まない……でしょ……?」
「……」
言葉を失くし、ただ頷くばかりの若き毒術師へ。
朱鷺は、最も伝えるべき言葉を手向けた。
「毒は、火力になる」
「火力……」
それは、術力不足に悩み続けてきた青が、ずっと求めていた「力」そのものだった。
「単純な話」
朱鷺は外套の中から小さな薬瓶を取り出し、青へと差し出す。
「術者自身が作った毒の方が、術との馴染みがいい……。だから君が自分で強力な毒を生み出せるようになれば、それだけ術の火力が上がるってこと……。毒の種類が増えれば、術の種類も増えるってこと……」
同じ水術の「玉」でも、そこに異なる毒を加えれば、それは「別物の術」だ。
「術、罠、式、幻術。それと掛け合わせる毒の数。何通りの組み合わせがあると思う? 計算したことないけど」
いつの間にか、朱鷺の息切れも、声の掠れも消えていた。
「……たくさん、ということだけは」
「ただ、強力な毒薬を多く作り出せればいいというわけでもないの」
朱鷺は言葉を継ぐ。
「神通術と毒という「異物」同士を掛け合わせるには、正確に術を制御できなければならない……」
術の制御が不得手な者が、下手に毒を組み合わせようとすれば、自ら毒を被り、大惨事を招くだけだ。
「君の場合……あれを、見て」
朱鷺の手が、南を指した。
そこには、青が殲滅した剃刀蜥蜴の死骸が累々と転がっている。
「一発で、この完成度で成功させた子を、私は他に知らない」
一言を発するごとに、朱鷺の声は次第に力を帯びていった。
「一師……」
まるで別人のように淀みがなく、力強い朱鷺の言葉――青は圧倒されながらも、胸の奥から湧き上がる興奮と熱を感じていた。
毒は火力になる。
朱鷺のその一言が、まるで闇を裂く光のように、青の視界を開いた。
「シユウ君」
朱鷺面の奥に覗く瞳が、真っ直ぐに青を見据える。
一歩、また一歩と、朱鷺面の嘴が静かに迫った。
「君は、麒麟を目指す気がある?」
朱鷺の問いかけが終わるか終わらないかのうちに——
「っはい!」
条件反射だった。
青は、弾かれたように大きく声を張り上げる。
「……早……」
迷いも躊躇もない即答に、朱鷺は一瞬、呆気に取られて硬直する。
これほど迷いのない返答が返ってくるとは——朱鷺の嘴が、ぶるりと震えた。
「――ならば」
龍の銀板が縫い付けられた手甲から伸びる細い指が、青の胸元を突く。
「
「双道……」
青は額当ての影の下で瞬きを繰り返した。
技能師を分類する、三つの型――
毒術道において――
錬道は、毒や薬剤の生成、創造に秀でた者。
戦道は、毒を取り入れた戦いに秀でた者。
そして双道は、その両方を兼ね備えた者。
「禍地特師……そして藍鬼一師は……双道の毒術師の双璧だった」
「……」
青の脳裏に、藍鬼の姿が浮かぶ。
神通術を自在に操り、戦闘全般に長け、その名で登録された毒薬や薬剤を軍の目録でいくつも見かけた。
毒術や薬術にとどまらず、式、罠、幻術――多岐にわたる知識と技術を備えた者。
双道の毒術師。
すなわち、それは藍鬼のような存在を指す――青に残る師の記憶の断片が、一本の線としてつながった。
「あ、あの、一師! 僕は何から――」
「二年」
今度は朱鷺の力強い声が、青の語尾を断ち切った。
「え……?」
「まず二年以内に、軍の薬品目録・序、応、稀までの毒薬之章を術に応用できるように訓練すること」
新たな「課題」が、朱鷺の口から告げられた。
「目録の毒薬はすべて、諳んじて作れるようにすること。一年以内に序、応、稀まで。それができたら、目録には載っていない私の処方を伝授してあげる」
「い、一師の処方を?!」
覆面の下で、青の声が弾む。
つまり――
「狼と虎のうちは、ひたすら経験を積み、鍛錬を重ねること。新薬の開発なんてものは、後回し。まずはとにかく実績を作ること」
一節ごとに、朱鷺の指が脈を打つように、青の胸元を叩く。
「体力づくりや体術も決して怠らないで。針、千本、苦無は、寝ていても扱えるようになりなさい」
「一師……」
青はただ、朱鷺の気迫に圧倒される。
その感覚は、どこか懐かしい驚きにも似ていた。
「私と、四年で獅子を目指す。どう、やる? やらない?」
「やりますっ! お願いします!」
胸元を叩く朱鷺の手を握り、青は力強く声を張った
――それは、朱鷺が青を「弟子」と定めた瞬間だった。
*
朱鷺が若手の毒術師を任務に指名する際、必ず投げかける問いがある。
「麒麟を目指す気はあるか」
返ってくる答えは、十中八九――
「恐れ多い」
「麒麟抹殺が条件なんて到底無理」
そう口にした者に、朱鷺が二度目を与えることはなかった。
また、大口を叩きながらも実力や努力が伴わないと見なした者も、同様に切り捨てた。
迷いなく即答し、なおかつ可能性を感じさせたのは、シユウが初めてだった。
シユウは神通術に必要な気の力こそ強くはなく、むしろ平均を下回る。
だが、その弱点を補うべく制御力を磨き、着実に成果を上げていた。
年齢に見合わぬ豊富な知識を持ち、知識欲も旺盛。
賊との夜襲戦では、戦況を見極める目と度胸を示していた。
運動能力も悪くはない。骨格や手足の成長を見れば、身体的な伸びしろも十分に見込めた。
何よりの長所は、その素直な性格。
これまで彼を指導した師たちにとって、さぞ扱いやすい弟子であっただろう。
そして――シユウという可能性に賭け、育てたいと思わせる何かがあった。
それでもなお、
「四年で獅子を目指す」
それは、あまりに非常識な目標だ。
四年後のシユウは、二十歳そこそこだろうか。
この計算を重ねれば、龍への昇格を果たし、麒麟奪還任務の権利を得るのは二十代半ばとなる。
師道の本質は、低年齢化を是としない。
年月を積み重ね、道を研鑽し、成熟を「
歴代の麒麟昇格者の平均年齢は、おおむね四十前後。
かつて、毒術において禍地と藍鬼が台頭し、いずれに麒麟を継がせるかと論じられた際も、二十八、九という年齢が「若すぎるか否か」と上層部や技能職位管理官たちの間で議論を呼んだと聞く。
だが、今の毒術は
一刻も早く、次なる麒麟奪還の候補者が現れることを、誰もが待ちわびていた。
麒麟が凪から奪われて、すでに十年。
もし禍地が存命のうちに奪還を果たせなければ、麒麟の継承は断たれ、凪における毒術の麒麟の意義と権威は、一度、完全に失われることとなる。
国は公に毒術の麒麟の喪失を宣言し、新たな麒麟を立てる運びとなるだろう。
それは凪の毒術のみならず、技能師全般にとっての、歴史的不名誉にほかならなかった。
*
「私と、四年で獅子を目指す。どう、やる? やらない?」
「やりますっ! お願いします!」
「……っ!」
詰め寄るシユウの凄みに、朱鷺は息を呑んだ。
可能性を感じ、熱と勢いのままに若者を煽った。
だが、これほどまでに前のめりに即答されると、ふと、もう一人の冷静な自分が問いかけてくる。
自らの身勝手な願いのために、目の前の若者を犠牲にしようとしているのではないか。
「……」
朱鷺は、その場にしゃがみ込んだ。
「一師?!」
慌ててシユウが駆け寄る。
「……喋りすぎて……疲れちゃった……」
気が途切れた瞬間、眩暈が襲う。
こんなにも多くの言葉を口にしたのは、一体いつ以来だっただろうか。
「一師、日陰に移動しましょう」
「大丈夫……それより」
慌てるシユウの手を、朱鷺はやんわりとほどき、代わりに空の小瓶を数本、突き出した。
「残りの素材……集めてきて……」
「――はい」
苦笑しながら小瓶を受け取ったシユウは、まだ朱鷺が手をつけていない毒蜥蜴の死骸へと向かう。
「ごめんね……ちょっと聞いてほしい昔話があるから……体力……温存したくて……」
「ぜひ、聞きたいです」
シユウは千本を取り出し、蜥蜴の体を検分しながらも、その身を朱鷺のほうへと傾けていた。
「十年くらい……前……かな」
深く息を吸い、数度呼吸を整えると、朱鷺はおもむろに語りはじめた。
――十年前。
まだ昇格したばかりの虎であった朱鷺は、妖虫討伐隊の解呪役として任務に就いていた。
本来は害虫駆除程度の、難易度の低い任務――短期間のうちに帰還できるはずだった。
「隊長を務めたあやめ上士は……よく任務でご一緒し、お世話になった方で……その頃、ちょうど日野家に嫁がれたばかりだった」
「日野……有名な名家ですね」
シユウは手を止め、顔を上げる。
「あやめ隊長は、その任務を最後に……退役することが決まっていて……」
名家に嫁いだ以上、世継ぎの出産と育成が期待されるのは必然だった。
さらに、任務の出立直前、彼女が懐妊していたことも判明していたという。
しかし、彼らが赴いた地で待っていたのは、地獄だった。
偶然出くわしたのは、特級任務を請け負った凪の小隊――名だたる特士や上士、高位の技能師で構成された精鋭部隊。
その彼らが、任務で消耗しきった隙を狙い、他国の反乱分子が暗殺部隊を差し向けたのだった。
戦場は、瞬く間に修羅場と化した。
「ま~、見事に私たちの隊は巻き込まれてしまって……壊滅よ……」
若手の虎であった朱鷺に、成す術などなかった。
敵は暗殺部隊とあって、強力な毒術を操り、さらには妖魔までも使役していた。
辛うじて凪の精鋭部隊がねじ伏せたものの、その戦火の中で朱鷺の隊は蹂躙され、隊長であるあやめは、まともに猛毒と妖瘴を浴びてしまった。
「その特務隊には……藍鬼一師や、薬術の……今は麒麟になられたハクロ特師がいらして……」
「……え」
誰の名に反応したのか――シユウの肩が、大きく震えた。
覆面越しであっても、その動揺は手に取るように分かった。
「おかげで、あやめ隊長は辛うじて命を取り留めたけど……」
しかし、その後に聞いた噂は、あまりにも残酷だった。
あやめは全身を毒に侵されながらも、双子を出産した。
だが、後遺症により身体は爛れ、腐り落ち、数年のうちに死に至ったという。
世間では、日野家に生まれた忌み子の呪いだという醜聞が流布された。
「この間……偶然、あやめ隊長の娘を……見かけたのよね」
炬の国との国境付近、滴の森にて。
そこで出会った少女は、生まれながらにして驚異的な治癒体質を持っていた。
――あれは決して、忌み子などではない。
「……」
シユウは振り返ったまま、微動だにしなかった。
沈黙の時間が流れる。
そしてようやく、遠慮がちに口を開いた。
「何故その話を、僕に……」
シユウの語尾をかき消すように、渓谷を乾いた強風が吹き抜ける。
「……覚えておいてほしかったから……かな……」
砂埃を巻き上げる風が、朱鷺の外套を激しくはためかせた。
翻る裾の裏地には、桃花の刺繍が施されており、薄桃色が一瞬、ちらりと覗く。
「手……止まってる……」
「は、はい」
促され、我に返るようにシユウは視線を蜥蜴へ戻した。
探り当てた器官を千本の先で引っ掛け、慎重に持ち上げると、空き瓶へと収める。
「あの……」
瓶の蓋を締めると同時に、シユウは顔だけを振り返った。
「その……一師はその時……」
額当ての陰に隠れてはいるが、シユウの視線が、外套に包まれた朱鷺の全身をなぞっているのが分かる。
何を言いたいのか、察しがついた。
「……ご想像に、お任せするわ……」
冗談めかして首を傾げて答えると――
「……」
シユウは困ったように口を噤み、視線を落とした。
失言を気に病んでいるのだろう。
覆面をしていても、感情が滲み出る癖は、いずれ矯正しなければならない。
「早いとこ終わらせて……引き上げましょ……」
手を止めていたシユウを促し、残る空き瓶を埋めるよう指示を出す。
吹き晒しの大蜥蜴の死骸に、渓谷からの風が運ぶ埃と砂利が、薄く降り積もりはじめていた。
*
小娘の
シユウと別れた後、ある場所へと直行する。
七つに分かれた都の区画の一つ、「白月区」。
その片隅、乳白色の石垣を抜け、簡素な
朱鷺の気配を察知し、石造りの玄関に案内人の女が姿を現した。
白を基調とした医療従事者の制服を
「朱鷺一師、どうぞ。任務からご帰還されたばかりですか?」
黒い外套の表面に付着した砂埃に気づき、女は丁寧に刷毛を手に取ると、払い落とし始めた。
朱鷺が人前で外套を脱げない事情を、彼女はよく理解しているのだ。
「ちょうど、特師もいらしたところです」
医療士に案内され、朱鷺はいつもの長い廊下を進む。
渡り廊下の先には、小さな東屋のような別館があった。
木の引き戸を開けると、そこは五角形の空間――五面の障子窓の西側から、薄く日の光が差し込んでいる。
まるで幽世のような、現世の気配が遠のいた穏やかな静寂。
その中央に、ひとつの人影があった。
白の長衣を纏い、妖鳥の仮面をつけた男。
高位の医療士のみが許される装束。
「ハクロ特師……少し……ご無沙汰してました」
「ようやく来てくれましたな、朱鷺一師」
朱鷺の挨拶を背に受け、妖鳥の仮面の男――薬術師の麒麟・ハクロは、ゆっくりと振り向いた。
「定期的にいらして下さいとお願いしておりますのに。心配していましたぞ」
その肩書と異貌に似合わぬ気さくさから、「高位技能師には珍しい善人」と称される男であることを、朱鷺も知っていた。
「さあ、どうぞこちらへ」
ハクロは、部屋の中央に置かれた椅子を勧めた。
その脇には診察用の寝台、反対側には小さな棚付きの机がある。
机上には、広げられた書類が幾重にも積まれていた。
ここは軍属の病院。
ただし、一般の兵や市民が利用するものではない。
技能師をはじめ、職務や立場上、素性を公にできない士官のための特別な施設。
歴代の薬術の龍以上の高位者が、施設長を務めるのが慣例であった。
十年前の事件以来、ハクロは朱鷺の健康状態を気にかけていた。
麒麟となった今も、なお特別に自ら検診を行ってくれている。
「それにしても、どういう風の吹き回しで? 最近は何度と文を送ってもいらして下さらなかったのに」
若干の説教を含んだハクロの言葉に、朱鷺は肩を縮め、「それについては失礼を……」と小さく呟く。
「少しでも長生き……しなきゃなって思い始めまして……」
そう言いながら、朱鷺は外套を外し、簡単に畳んで寝台に置いた。
この身を
軽装ながらも軍支給の戦闘服。
女性や若年向けに仕立てられた寸法でさえ、朱鷺の身体には布地が余っていた。
「……それは、よき心がけですな。食事は
服の上から状態を観察したのち、ハクロは朱鷺の腕を取ると、袖を捲る。
「……あまり……」
男の手で容易く掴めるほどに細い二の腕。
そこから手首にかけて、肌の色はまだらに変色していた。
内出血のように紫に滲む部分もあれば、火傷痕のように赤黒く爛れた箇所もある。
それは、長年の戦いが刻みつけた傷痕だった。
「液体しか受け付けない時には、
そう言いながら、ハクロは「失礼を」と一言添え、朱鷺の衣服を開いて身体の状態を確認する。
腕と同様に、肌の大部分は変色し、ところどころ爬虫類の表皮のように
一方で、治癒しきれず爛れ、未だに滲む血が乾くことなく続く箇所もあった。
「……前回よりも治癒が進んでいる箇所が多い。体調が良さそうですな」
ほう、と妖鳥の仮面の向こうから、安堵の吐息が漏れる。
診療録に数行を書き込むと、再び朱鷺へと仮面の視線が向けられた。
「言われてみれば……そう、ですね……」
衣服を整えながら、朱鷺は頷く。
確かに、以前よりも息切れが少なくなっているように思えた。
「何か良きことでも、ありましたか」
「良きこと……」
朱鷺の手が、ふと止まる。
以前よりも、身体を動かすことが、声を出すことが、億劫ではなくなっている。
特に、シユウを相手に何かを伝えようとする時は――。
「良き弟子に出会えたから……ですかね……」
その答えに、ハクロは「ほう」と呟き、妖鳥の仮面の嘴をわずかに揺らして頷いた。
「それは確かに、良きことですな」
「……はい」
障子窓から差し込む、麗らかな陽光。
その柔らかな光の中で、二人の鳥は向かい合い、静かに微笑みを交わした。