森を歩き続けたこと、二刻と少し。
深い緑が途切れ、踏み固められた
道の両脇には獣除けの
門の両側には槍を手にした衛兵が一人ずつ、鋭い眼光を光らせている。
揃いの肩当てと胸当て、そして左腕には国章の入った腕章。正規の軍人だ。
「止まれ!」
若い門衛が、緊張を
黄土色の
腰の刀に手をかけ、詰め寄ろうとする若者を、
「待て。……その
年長の門衛が慌てて制し、前に出た。
「これは、失礼いたしました」
警戒を解き、年長者が深々と藍鬼へ頭を下げる。若者は戸惑いながらも、上官に倣《なら》って姿勢を正した。
「森で保護した。都まで送り届けたい」
「迷子でございますか。承知いたしました。……開門!」
年長者の号令が飛び、若者が大急ぎで門の内側へ合図を送る。ずぅん、と重い音を立てて
「うわあ……」
門の向こうに広がる景色に、
四方を石垣で囲み、東西南北に門を構えたその村は、整然と区画された田畑と、こぢんまりとした
小さいながらも、人の営みの温かさが満ちている。
「行くぞ」
「う、うん」
先を行く藍鬼の背を追い、青も村へと足を踏み入れた。門の内側に控えていた数名の衛兵が、通り過ぎる黒い仮面を目だけで追っている。
入口の広場には、一軒の茶屋が出迎えるように建っていた。
「おや、どうしたんですセンセイ。子連れとは珍しい」
軒先を掃き清めていた初老の男が、藍鬼の姿を認めるや、
「迷子を拾った」
「おやおや」
「青。そこで少し待っていろ」
藍鬼は店の軒先に置かれた竹の長椅子を指し示し、早足で村の奥へ向かっていった。
「こ、こんにちは……」
取り残された青は、店主にぺこりと頭を下げ、言われるまま縁台へちょこんと座った。急に緊張が解けたせいか、喉の渇きを覚え、腰の水筒に手を伸ばす。
「大変だったねぇ。でも、運が良かったよ。拾ってくれたのが、あのセンセイで」
「あらあら、センセイのお連れかい?」
店の奥から、割烹着《かっぽうぎ》姿の
「何か食べるかい?」
返事を待たずに奥へ引っ込むと、すぐに串団子を載せた皿を持って戻ってくる。
よそ者の子供が珍しいのか、それとも「センセイ」の連れだからか、一人、また一人と村人が集まってくる。
鍬《くわ》を担いだ農夫や、籠を背負った女たち。麻の着物を着崩した質素ななりだが、どの顔も陽だまりのように穏やかだ。
「センセイって?」
青は団子を頬張りながら、素朴な疑問を口にした。
「よく薬を作ってくれたり、ケガや病気を看てくれるのよ。だから、みんな親しみを込めてそう呼んでるのさ」
「ここいらの森は、薬になる草も多いが、毒虫も多いからねぇ。センセイが森へ入るついでに、いい薬を置いてってくれるんだ。命の恩人だよ」
気がつけば一人、また一人と村人が輪に加わる。
口々に語られる言葉には、藍鬼への混じりっ気のない感謝と尊敬が滲《にじ》んでいた。
「何の騒ぎだ」
不意に、低い声が降ってきた。
いつの間にか戻ってきた藍鬼に気づき、村人たちが慌てて道を開ける。
「準備ができた。それを食ったら行くぞ」
「まあまあ、センセイ。ボウズ、ゆっくりお食べよ」
青が団子を頬張っている間が好機とばかりに、村人たちは藍鬼を取り囲んだ。
腰の痛みが引いただの、子供の熱が下がっただの、報告と感謝の雨あられ。
対して藍鬼は、仮面の下で「そうか」「ああ」と、愛想のない相槌《あいづち》を返すばかりだ。
それでも村人たちは、そのぶっきらぼうな態度や、
一方で。遠巻きに見ている衛兵たちの眼差しは、明らかに色が異なっていた。
敬意はある。だが、それは腫れ物に触れるような、あるいは抜身の刃物を見るような、緊張を孕んだもの。彼らは藍鬼を「センセイ」とは呼ばない。
その眼差しの正体が「
「お団子、ありがとう!」
「あいよ。達者でな」
茶屋の夫婦に手を振り、青は藍鬼と共に村の中央通りを歩き出した。
石畳の両脇には、
「あれは?」
「凪之国を
学校へ行けば、そうした国の成り立ちや神話も学べるという。青の胸は、まだ見ぬ学び舎への期待で膨らんだ。
やがて、村の最奥に鎮座する小さなお堂の前へたどり着く。ここもまた、数名の兵によって厳重に警備されていた。
「これは……何?」
兵が開けた扉の奥を覗き込み、青は首を傾げた。
藍鬼の小屋のような生活感はない。ただの空っぽの空間だ。床一面に幾何学模様が刻み込まれている。
「転送陣だ。術を用いて、遠く離れた別の陣へと一瞬で移動する」
「そっか! だから、陣守の村っていうんだ」
合点がいった青の横で、藍鬼が兵の一人に「頼む」と短く告げた。
兵は緊張した面持ちで「ハッ」と応え、床の模様の前へ進み出る。祝詞《のりと》のような詠唱と共に手を触れると、薄暗い堂内で、床の紋様が淡い燐光《りんこう》を放ち始めた。
「どうぞ」
促《うなが》され、藍鬼が陣の中央へ立つ。
「――
「……う」
瞬間、床の輝きが爆発し、視界が真っ白に弾けた。
光の濁流に世界が塗り潰され、足元の感覚が消失する。
たまらず青は固く目を
「慣れないうちはそうなる」
着いたぞ、と藍鬼の声。
恐る恐る目を開くと、そこにはまた、がらんどうな堂内の景色があった。先ほどまでいた兵の姿はない。
堂の扉も村のものとは異なって、開け放たれている。その向こうに見える景色も、長閑な村落ではなかった。
どこか違う場所に来たのだと、肌が理解した。
堂の出口に背を向けていた門衛が、転送された二人組に気づいて肩越しに振り返るも、一瞥しただけで興味なさげに視線を戻す。
「うわぁ……」
一歩外へ踏み出した途端、青の視界いっぱいに、圧倒的な色彩と質量が押し寄せた。
森よりも高くそびえる石壁。
その内側に密集する、二重、三重の
遠景の中央には、天を
青たちが転送された堂は、
白い石畳の道の左手には、外界へ続く重厚な櫓門。
右手の門には、水路をまたぐ橋がかけられ、
人と荷車や荷馬車の往来が川のように続いていて、それらは色とりどりの屋根と、まばゆい旗が
「跳ぶぞ」
「へ――」
路地の先を覗こうと背伸びをした青の体が、ふわりと持ち上げられた。藍鬼の腕が、がっしりと胴を掴む。
次の瞬間、内臓が持ち上がるような浮遊感が襲った。
「――ふぁあああ!」
気づけば、青は七重の塔の最上階と、同じ目線にいた。
藍鬼に抱えられ、宙を駆けているのだ。
襟や袖が風に
視界いっぱいに、眼下で都の全景が広がった。
剣山を
そこから放射状に広がる街並みは、まるで巨大な
蒼、紅、緑、紫、金茶、白、黒――区画ごとに屋根の色が塗り分けられ、それらを結ぶ白い石畳が、無数の格子模様を描き出している。
網目のように巡らされた水路は、朝陽を反射して、きらきらと光の帯となって流れていた。
それらを包み込む厚い城壁の外には、見渡す限りの緑の農地。
村でも、町でもない。
これが、
青の乏しい知識でも、ここが国の中心なのだと理解できた。
「これが、凪のくに……」
母さまが目指していた、約束の場所。
壮大さに圧倒され、口を開けて見惚れていた青だったが、
「う、わ……ぁっ!」
唐突に重力が戻り、落下が始まった。
風の壁に叩きつけられ、呼吸ができない。
色彩が流れる帯となり、耳元で風切り音が悲鳴を上げる。
二度、三度と跳躍を繰り返し、目を回しかけたところで――トン、と軽い衝撃と共に足が床についた。
「着いたぞ」
「う……ぅ〜……」
手を放された途端によろめき、青は
手すりの内側、朱塗りの柱が並ぶ廊下では、忙しなさげな大人たちが行き交っている。いずれも
空から降ってきた二人組に驚いた者もいたが、誰も騒ぎ立てず、一瞥だけくれて通り過ぎて行く。日常茶飯事なのだろうか。
「ついてこい」
藍鬼の背を追い、青も回廊へ足を踏み入れた。
「あ……」
ここでも、だ。
すれ違う人々の、藍鬼へ向ける視線が、村の門衛たちと同じ色をしている。
畏怖《いふ》と警戒。
そして、「関わりたくない」という、見えない壁。
子連れであることに首を傾げる者もいて、声をかけてくる者は一人もいなかった。
長い廊下の突き当たりに、大人四人が並べそうな巨大な扉が現れた。
両脇には直立不動の衛兵。足元には藤色に
一目で、特別な場所だと分かる。
「約束はとりつけてある」
藍鬼が短く告げると、衛兵は
遠慮なく踏み込む藍鬼の影に隠れるようにして、青も恐る恐る室内へ滑り込む。
中は、回廊の厳しい空気が嘘のように、穏やかで静かだった。
正面の壁は総硝子張りとなっており、都の全景が
中央には巨大な執務机。だだっ広い部屋だが、殺風景には感じない。壁一面を埋め尽くす書架と、その前に
部屋の
「やあ。この間の賊の討伐、大成功だったようで」
部屋の主は、手にした書物から目を離さぬまま、らんきへ背中越しに
「報告は聞いているよ。相変わらずの手際だね――おや?」
いつもと違う気配に気づいたのか。主はゆっくりと振り返り、藍鬼の足元に隠れる幼な子を認め、目を丸くした。
「何だ。お前にそんな大きな子がいたとは」
本を置き、泰然とした所作で立ち上がる。
年の頃は
穏やかで理知的な顔立ちは、仮面の藍鬼よりもずっと親しみやすい「おじちゃん」に見えた。
「難民孤児だ。保護してやってほしい」
藍鬼の手が、青の肩に置かれる。
「どういう風の吹き回しだね。わざわざ私のところへ来るなんて。陣守の村の駐屯兵に託せば済んだ話だろう」
「……」
男の含みのある問いに、藍鬼は沈黙で応えた。
そこへ、
「おじちゃんは誰ですか?」
青の無邪気な問いが、無言を断ち切った。
「おじちゃんはね、凪之国の長を務めている。君がこの国で暮らせるようにする人だよ」
微笑みを残して、長は立ち上がった。
「学校の手続きは、すでに進めさせている。入学は五つの年の春からだけど、不明なら次の春からでも良いね。ちょうど来月だ」
青の頭上で、大人同士の会話が交わされる。
「孤児院にも空きはあって、今日からでも入れるが、どうする?」
「頼んだ」
長へ引き渡すように、藍鬼の手が青の背中を軽く押した。青は慌てて振り返り、黒い袖をギュッと掴む。
「お師匠といっしょには暮らせないの?」
「え」
仮面の下から、くぐもった反応。
困らせていることは分かっている。
けれど、この手を離せば二度と会えない気がして、青は指に力を込めた。
「ほう……」
長が、面白がるような声をあげる。
「はは、ずいぶんと懐かれたな。お師匠だって? 弟子をとったのか」
「いや、それは――」
「約束したもん」
言い淀《よど》む藍鬼を
「お前はキリンになれるって、お師匠、言ったよね」
「……麒麟?」
長の瞳から笑みが消え、鋭い光が宿る。藍鬼を見つめ、次に青を見やり、再び藍鬼へと戻る。
値踏みするような、探るような視線。
視線を受けた仮面の横顔は、口を噤んだまま、動かなかった。
言ってはいけないことを、口にしてしまったのだろうか。
青はただ、大人たちの無言の会話を見上げることしかできなかった。
「……なるほど」
やがて、長の口元に再び薄い笑みが戻った。
「しっかり学びなさい」
別れは、
長室を訪れた文官の女に手を引かれ、部屋を出るその瞬間まで、黒い仮面がついに振り返ることはなかった。