蟲之区で「高位職能師の特権」に関する資料をかき集めて写した後、青は森の小屋へ来ていた。
「師匠、ただいま」
履物を手早く脱ぎ捨てて、鞄を置いて居間に上がり、任務用の外套を脱いで壁にかけ、覆面と額当てを取り外し、棚に立てかけた黒い面の前に向かう。
獅子の銀板が装着された手甲を、面の前に畳んで置いた。
森が運ぶ春風が戸口から流れてきて、黒い鬼豹の仮面を撫でていく。
青は一つ大きく息を吸って、吐き、気持ちを整えた。
「師匠。今日で二十歳を迎えました。それから…獅子の位を拝命いたしました」
いつもよりも畏まった、大人ぶった口ぶりで、格好をつけてみる。
蒔絵の獣模様が、心なしか微笑んでるように見えた。
「最近また、身長も伸びたんだ」
棚に近寄り、頭上に手をかざして、棚の何段目あたりの高さかを確認する。青の記憶にある藍鬼と、ほぼ変わらない目線になったはずだ。
「トウジュにはほぼ追いついたけど、峡谷上士にはどうしても負けるんだ。頭半分差くらいにはなったけど」
他愛もない事を語りかけながら、青は棚の資料を物色する。血液を用いた薬や術など、血判通行書の手がかりになりそうな記述を探すが、効力範囲に関する記述を見つける事はできなかった。
蟲之区の資料でも「術者の死亡により効力が失われる」との記載にとどまっていた。
「こればっかりは、実験のしようが無いしな」
青に出来る事は、事実を記録しておくくらいだ。小屋を引き継いだ時から書き溜めている控え帳に手早く書き記す。
それが終わると床に放ったままの鞄を手繰り寄せ、蟲之区で集めてきた資料の写しを文机に広げて整理を始めた。
森の小屋にしばしの間、紙が触れ合う音だけが流れる。
「ん……」
どれだけ時間が経過したか。
人里から森へ帰ったムクドリの声に混じり、青の聴覚が微かな異音をとらえた。
「何……?」
粗く文机上の紙をまとめて文箱へ突っ込んで、棚へ押し込む。鞄の側に置いた刃物差しと道具入れの革帯を掴み、手早に装着する。
小屋を出て森を見渡し、空を見上げる。日の入り間近の空が薄紅に暮れかけていた。
西の方角から流れる違和感を追って、進んだ。
「妖か」
久々に感じた、妖の気配。
だがこの一帯を縄張りにしている巨大猪とは異なる気と臭いが混在している。
「血……」
気配を追って進むうちに、人の気配と血の匂いが現れる。沢に近づくにつれ水音も大きくなるが、同時に獣臭も増した。
「!」
木々が途切れてぽっかりと森に開けた草地、青と反対側の木々の狭間から転がり出る人影。
そちらへ青が駆け寄ろうとした直後、逃げてきた人影の背後の木々が薙ぎ倒され、妖獣の巨体が出現した。
「妖獣……!」
背が灰、腹が白色、長い鍵爪を持った山犬。
南の森周辺では見かけないはずの種類だ。
「という事は」
縄張りからよそ者を排除しようとヌシが現れるはず。
青の予測は正しく、巨大山犬の横っ腹へ新たな巨影が突進した。南の森を縄張りとしている三つ目の巨大猪だ。
「きゃ!!」
二頭の巨獣の激突に巻き込まれた人影が、短い悲鳴をあげて倒れ、地に転がる。
「水神……長蛇」
駆け寄りながら、青の右手から術が発動。毒々しい濁った濃緑の水流が、二頭の獣の足元へ絡みつく。強粘着水が、妖獣らの重量のある体から動きを封じた。
「こちらへ」
生じた隙に、倒れた人物の体に手を回して抱き上げる。法軍の腕章を身に着けた、若い女だ。
「あ……ありが……」
妖獣らから十分に距離をとったところでいったん女の体を草地に横たえる。
女は疲労困憊な様子で、完全に脱力した体から辛うじて吐息のような声が絞り出された。
動きを封じられた妖獣らの元へ駆け戻り、
「……っふ」
青は腰の刃物差しから両手で針を引き抜いて握りこみ、獣に向けて放つ。
一本は猪の三つ目の中央へ、一本目は山犬の眉間に命中した。
『ギャォッ!』
『ブゴッ!』
二頭分の断末魔と共に白煙が立ち昇る。粘着質な泥水が撥ねる音をたてて、妖獣たちの体は毒水に沈んで動かなくなった。
「……よし、と」
すぐさま青は負傷者へ駆け寄る。
女は法軍の腕章を身に着けており、腕章の刻印から階級は中士と見られる。法軍の戦闘服と思われるいで立ちだが、あまり巷で目にする事のない、密着性の高い超軽装だ。一部の布地は迷彩色となっている。
「隠密任務用の戦闘服か……聞こえますか、分かりますか?」
声をかけて意識の有無を確認する。
反応はない。気を失っていた。
顔面は擦り傷や泥汚れで人相が判別できない。
全身数か所で布地や防具が破れ、覗く肌も血や泥で汚れていた。たった今、付着したものばかりではない。
「……仕方ない」
躊躇する時間は短かった。
青は怪我人の体をうつ伏せに半回転させ、両脇に手を差し入れ、抱き上げる。右腕を自分の首の後ろに回して上半身を肩に乗せて、担ぎ上げた。
*
完全に意識を手放した人間の体は重たい。
中士を担いで小屋へ戻り、居間に寝床を作って横たえさせた。
ここからは「医療士」としての大月青の仕事だ。中士の顔や体の汚れを拭い落としていき、外から見えている傷、呼吸、顔色を確認する。
「脈が速いし、熱が上がってきた」
医院での癖で、一つ一つを口に出しながら指差し確認をしていく。
「失礼します」
これも癖で一言添えて、首と胸元を開き服を弛め、傷や妖瘴の有無を確認する。
「背中……?」
自己手当であろう、上半身を斜めと横に粗く巻かれたサラシ。背中から血液の滲みが確認できた。刃物でサラシを切って傷を確認していく。血の匂いの正体はこれだ。
「化膿した様子は……なし。妖瘴も無し」
中士をうつ伏せに寝かせ、傷を避けて腰から下に肌掛布団を掛ける。
「水を汲んできます」
誰にともなく言い残し、青は立ち上がって水桶を手に外へ出る。川へ向かう前に軒先で立ち止まり、道具袋から液体の入った薬瓶を取り出した。
玄関周りを中心に、液体を小屋周辺へ撒いていく。任務の野営地でも行う「獣除け」だ。
森は逢魔が刻を迎えている。怪我人の血の臭いを嗅ぎつけられないとも限らない。
足早に沢へ向かい、手早く沢の流れで手ぬぐいを洗って絞り、最後に桶を水で満たす。
「医院へ式鳥は飛ばさない方が良いんだろうな」
隠密任務用の戦闘服を纏っているという事は、極秘任務を請け負っている可能性も高い。幸い、致命傷になりそうな重篤な傷は見当たらなかった。まずは意識が戻るのを待ち、本人の口から事情を聞く必要がある。
「化膿止めの補充を作って……」
水を満たした桶を片手に、日が落ちて暗くなりかけた沢から小屋までの道のりを進む。
と、
「いやぁああ!」
小屋の方から、悲鳴。
「!」
戸口手前に桶を置いて青は土間へ駆け込んだ。
灯りのない小屋の中、壁際で体を丸くして震える影が見える。
「いや! 来るな!」
中士は何度も「いや」と「来ないで」を繰り返していた。片手を突き出し、藻掻くように空気を掻いている。
その手の先には、棚に立て掛けた黒い鬼豹の仮面。対面の格子窓から差す薄明かりを受けて不気味に闇に浮かんで見える。
「大丈夫、落ち着いて下さい」
青は居間へ上がり、蹴散らされた掛布を拾い上げた。丸まって震える中士の元へ歩み寄り、上半身が裸の肩へ掛布を着せる。
「やだ、離せ! あいつが!」
「大丈夫、ここは安全です」
尚も暴れる中士の肩と背中へ、掛布の上から手を回してさすった。
高熱のために悪夢でも見たのだろう。混濁した意識の中で薄闇に浮かぶ仮面を見て、化け物と錯覚したようだ。
「私は凪の医療士です」
「え…?」
医療士、の単語に安心したのか、腕の中の中士は急に大人しくなった。
「驚かせてすみません。あれは飾ってあるだけで」
ほら、と片手に炎を灯して棚側を照らしてやる。
「かざり……?」
幾分も呼吸が落ち着いてきた様子で、中士は棚の方へ前のめりになり目を凝らしていた。
炎に照らされた女の面相は若く、青の同世代にも見える。肩ほどまでの長さの髪の一部を、根付けのような小さな髪留めで束ねている。
「……ここ、は?」
中士の視線が小屋の中を見渡し、青の顔に向き、自らの上半身が裸の体へ辿り着く。
「……ぎゃぁあ!」
唐突に子犬の悲鳴のような叫び声を上げた中士の拳が、顎下から襲いくる。
「いっ!」
間一髪で避けて青は体を仰け反らせる。間髪入れず今度は脚が飛んで来た。
「いや、違、背中に傷が」
拳、脚、膝の攻撃を受け流しながら青の手が掛布を掴み取り、
「落ちついて下さい、怪我が悪化してしまう」
中士の頭から被せて敷布団の上に抑え込んだ。キョウとの体術訓練がこんな形で役立つとは、思わなかった。
「離せー!」
ぎゃーぎゃーと布団の下から、中士のくぐもった怒声が聞こえてくる。
「大丈夫ですから」
手負いの犬か猫をなだめている気分だ。
青はただ、中士が落ち着くのを待つしかない。死線からの生還や血に酔う事で、我を失って興奮状態になるのは、仕方が無い事なのだ。
「私は三葉医院の医療士で、位は准士、名を大月青と言います」
「准……士……?」
抑え込む青の手の下の抵抗が、弱まった。
獅子に上がると同時に青は、准士に任命されていた。肩書を振りかざす事は青にとって不本意ではあるが、絶対的な職位差を示す事で相手の目を覚まさせる効果が見込める事があるのも事実。
「三葉医院、の……本当……に?」
弛めた青の手から、ゆっくりと中士の腕と体がすり抜け、布団がむくりと起き上がる。蓑笠から顔を出すように、布団の間から汗に濡れた顔が覗いた。
「こちらを」
青は火を入れた行灯と共に、中士の前に折り畳んだ腕章を差し出す。三葉医院勤務時に着用する、医療士用の腕章だ。総合職位である准士とわかる刻印と、医療従事者と分かる刻印が施されているものだ。これも今日、支給されたばかりの物なのだが。
「……も……」
腕章を見つめる中士の顔から、汗が引いていく。
「申し訳ありませんんん! とんだご無礼を!」
上半身が裸である事を忘れて、中士は両手を突き出して床に伏せた。掛布がどこかへ飛んでいく。
「……あー……不安にさせてすみません、そんなつもりではなく」
掛布を拾って中士の体にかけてやり、青は腕章を回収した。恐る恐るといった様子で中士が顔を上げる。迷子の猫のような患者へ、青は柔らかく微笑みかけた。
「私に、治療をさせてもらえませんか」
「……お……お願い、しま……」
ようやく中士は頷き、
「……す……」
ぱたりとその場に倒れ伏せた。
*
「また少し上がったか……」
居間に敷いた布団で眠る中士の額に、青は片手を翳す。
興奮して暴れた事もあってか、額からこめかみにかけて汗が玉になって浮かんでおり、頬も紅潮している。
水で濡らした手ぬぐいで患者の汗を拭いながら、青は格子窓を見上げた。陽はすっかり落ちており、夜鳴きの虫が活動を始めている。
「今晩は泊まってもらうしか無さそうだな」
一晩眠れば、都へ帰還するだけの体力は戻るであろう。明朝にもし目を覚ましたならば、何か少しでも食べさせてから、化膿止めや抗炎症薬を服用させ、包帯を取り替え――と、明日の治療手順を脳裏で整理しながら、ふと思う。
「師匠と同じ事してる?」
まさに十五年前、青は森で藍鬼に救われ、ここに連れてこられて手当を受け、一晩を過ごした。
朝食に出された塩味しかしない川魚が、この上なく美味に感じたのは今でも記憶に鮮明だ。
「――ふ」
一人で薄ら笑いをしている自分にも、可笑しくなってくる。中士が目を覚ますまで資料の整理でもしていようと、棚に向きかけると、
「う……ん……」
うなされた声。
「……めん、なさ……ぃ」
掠れた声が、何度も誰かに詫びている。
熱に浮かされて悪夢を見ているようだ。
首を振って、額に乗せた濡れ手拭いが落ちる。
「大丈夫」
手拭いを戻す代わりに、青は手のひらを中士の額に当てた。目を閉じ、手のひらで患者の体温を感じ取る。
水術の澪や地術の主根の要領で、熱を辿って意識を入り込ませると、奥底で淀んだ黒いしこりが瞼の裏に映る。それを掬い掴み取る感覚を疑似的に思い起こした。
「ふー……」
深い呼吸と共に青は中士に添えていた手で空気を握りつぶす。
目を開き、手のひらを開く、解呪のように黒い煤は無い。だが中士の顔色を見ると、汗が引き、呼吸も落ち着き始めている。
悪夢から解放されたように、寝顔も穏やかになっていた。
「良かった」
これが「青の解呪が丁寧」であると評価される所以である。
通常の解呪や解毒は薬剤や薬剤符の効力そのものによる、表層的な治癒法だ。
そのため瘴種(しょうしゅ)のように内側に入り込んだ妖瘴や、すでに血に入り込み全身を巡った毒については解毒の限界がある。
「これ」が何なのか、青にも分からない。いつからできるようになったのか、忘れてしまった。ふとした思いつきからだったように思う。
「ん……」
薄っすらと、中士の瞼が持ちあがった。
「気分はどうですか」
声に反応して、黒い瞳孔が青を向いた。
「私……」
体を起こそうとするのを、青の手が介助する。
白湯を勧めると、よほど渇いていたのか、椀一杯分をあっという間に飲み干してしまった。
空の椀を両手で持った姿勢のまま、しばらく中士は呆然と前方を見つめている。しばし沈黙が落ちて、小屋の外から夜の番人鳥たちの声だけが遠くに流れた。
「ご迷惑を……おかけしまして」
落ち着きを取り戻したようで、中士は椀を枕元の盆に戻すと、青へ向き直って姿勢を正した。
「東雲暁(しののめ あき)と申します。位は中士。諜報部、特務隊に所属しています」
つい先ほどまで暴れていたとは思えないほど、今は落ち着き払っている。
「諜特……」
凪の諜報活動を一手に担う、法軍諜報部。
諜報部の特務隊―略して諜特、通称「チョウトク」は、隠密任務の専門家集団だ。
任務の特性上、術力よりも体術や体力等の身体能力が高い精鋭が揃っていると聞く。
「ここに来た経緯を、覚えていますか?」
「はい。助けていただきまして……ありがとうございます」
「任務帰りだったのですか」
「……はい」
「お仲間は?」
「……」
「単独でしたか」
「……」
「それでしたら、もう少し休ん……東雲中士?」
途中で黙り込んでしまった東雲に気づき、青は俯いてしまった顔を覗く。
「わ……私以外は……私だけが……」
「……」
それだけで、状況を理解するのに十分だった。
「それは……お辛い事を訊いてしまいましたね」
青は東雲中士の瞳から視線を外す。
空になった椀を手に取り、土瓶から白湯を注いでまた盆に戻した。
任務での殉職は幾度と遭遇したとて、胸が痛む。慣れる事はない。
青の視線は無意識に、棚の鬼豹の面を向いていた。
チイ チイチイ チチチチ
「?」
小屋の外から、式鳥の声がした。
「見てきます。獣除けを撒いたので、中に入ってこれないのかも」
青は戸口から顔を出す。小屋から少し離れた木の枝に、見慣れない色と形の鳥が止まっていた。鳴き声も「チチチチ チチチチ」と小刻みで、珍しい拍を打つ。
「どこから来た?」
青が木に近づいた後ろから、
「その鳥は――」
戸口から東雲中士も外に出てきた。
瞬間、
「!?」
頬に冷たい風を感じて青は咄嗟にその場で背を屈めた。頭上スレスレに鋭い蹴りが掠める。
「ヤロウ!!」
怒声と共に間髪入れずに、今度は下から膝が飛んできた。それも咄嗟に上背を反らせて避ける。
「な、に……っ!?」
一言を発する猶予も許さず、次々と拳や蹴りが襲い来る。
「てめぇよくも!!」
「ぃっ!」
怒りすら感じる鋭い攻撃の連続を寸で避け、どうにかして距離を取ろうと試みるが、相手は決して間合いを取らせようとしない。
「やめて! その人は敵じゃない!」
小屋の戸口から東雲中士の叫ぶ声。
という事は、諜報部の人間か。
「ぐっ!」
こめかみから頭を鷲掴みにされて、地面に叩きつけられた。一瞬、視界が暗くなりかけ、肩にも激痛が走る。
「うちの子を傷モノにしやがって!」
「え??」
上から圧し掛かられる。
「あの、何か誤解を」
「どこに誤解があるってんだ!!」
「やめてってば!」
小屋の方から東雲中士が、懸命に覚束ない足取りで止めに入ろうとする気配を感じる。
薄暗い森の小屋。
女の方は満身創痍、しかも裸の上半身に男物の上衣を羽織らされ。
そして若い男、つまり青。
「あー……」
誤解を招く条件が、完璧に揃ってしまっている。
「許さねぇ!!」
「つ……!」
怒りで完全に感情が沸騰した男が、青の腕を捩じり上げた。誤解で利き腕を折られてはたまったものではない。
「……ふっ……!」
青は、地面に倒された際に咄嗟に口に含んだ小石を男の眼を狙って吹き撃った。吹き矢の要領だ。
「うっ!」
目つぶしに男の気が逸れた隙に、掴まれた腕を外して逆に男の腕を掴む。そして男の前腕内側――点穴を強く押し込んだ。
「ぁいだだだだだだだ!!」
悲鳴をあげて悶える男の下から青が抜け出ようとすると、
「いでぇよ! っのヤロウ!!」
逆上した男が青の体を強く押し戻す。
両者の間に一歩半の間が空いた。
「!」
青の目が、男の結ばれた片袖を見た。
隻腕。
男の無事なもう片方の手が、腰の中刀に伸びる。
「待って!」
新たな若い声が、割り込んだ。
青の目前に閃いた黒鋼が、止まる。
「!」
一瞬、時間が止まったよう。
中腰の青に向かって、上から中刀を振り下ろさんとする男。
その手首を横から掴んで止めた人影。
「……あさちゃん?」
我に返った男の目が、自分の手首を掴んだ人影を向く。
男に「あさちゃん」と呼ばれたのは、
「あ、あさぎ……ちゃん……!?」
日野家の双子の妹、あさぎ。
「やっぱり大月先生!」
四年前と同じ、やや赤茶けた頭髪をおさげに結わえた、だけど少しだけ大人びた懐かしい顔が、最後に会った時と同じ笑顔を咲かせた。
*
場所を小屋の居間へ移して。
「すまんんん!! 姪っ子の命の恩人にとんだ狼藉を!!」
「誤解を招く行動をしたのはこちらですし、顔をあげて下さい」
打って変わって床に額を擦り付けて平謝りの中年の男を宥めるのに、青は必死になっていた。
男は諜報部の准士で、名を東雲天陽(しののめ・てんよう)と名乗った。言葉通り、東雲暁中士の叔父だ。謝罪の仕方がそっくりなのは、血のつながりが関係あるのだろうか。
小屋近辺へ跳んできた式鳥は、帰還が遅い姪っ子を心配した叔父が飛ばしたものだった。鳥の後を追って森へ来てみれば、満身創痍の姪と若い男が小屋から姿を現したものだから、頭に血が上った――というわけだ。
「それにしても、何であさぎちゃんがここに?」
話題を切り替える意図も含め、青は数年ぶりに再会したあさぎへ声を向けた。天陽の後ろで大人しく座っていたあさぎが「はい!」と首を伸ばす。
「先生、私いまチョウトクの訓練に参加してるの!」
「こら! あさちゃん、言葉遣い!」
天陽に窘められて「はーい」とあさぎは笑って肩を縮めた。そのやり取りから、あさぎの言葉が真実であると分かる。
「大丈夫ですよ。彼女がまだ初等学校時代に知り合ったものですから」
改めてあさぎの出で立ちを見やる。
あの頃と同じ淡桃色の刺繍が施された装束に、今は体術訓練用の手甲と脚絆を装着している。身長が伸びて、装束の袖や裾から覗く手足も幾分か筋肉質になっていた。
そして相変わらず、肌には傷一つ無い。
あさぎの体質を、チョウトクの面々は知っているのだろうか。
「重ね重ね申し訳ない。オレはこの子の教官をしてるんだが、これも経験と思って同行させていたんだ」
「そうだったんですね。あさぎちゃん、チョウトクの訓練生だなんてすごいよ」
法軍において、身体、運動能力に特化した精鋭が集うと言われている「チョウトク」。確かに持久力面において、あさぎであれば、引けを取らないだろう。
あさぎが自ら門を叩いたのか、それとも諜報部側から引き抜きがあったのかは分からないが、後者である可能性も高そうだ。
「ふふ」
かつての保健士の先生に褒められて、あさぎは嬉しそうに白い歯を見せた。
「天陽センセイは、オジサンだけどすごく強いの」
「うん。分かるよ」
オジサンだけどは余計だが、と思いつつ。
腕の点穴を突いても即座に反撃してきたのが、青の記憶に天陽の他は、キョウしかいない。それに、隻腕を思わせない戦いぶり。
天陽も「オジサンだけど、は余計だ!」と言いつつ嬉しそうではある。
「いやあ、もう年だし、今ではすっかり半引退して窓際の内勤だがね」
叔父の豪快な笑い声を聞きながら、あさぎの隣で東雲中士は静かに苦笑していた。
「ところで、大月センセイ」
笑みの形に細められた天陽の目が、青を通り越して背後へ向いた。
「あの仮面は、鬼豹かな」
「――え」
言われた通り、青の背後は棚。藍鬼の仮面が立てかけてある。
鬼豹は伝承上の神獣で、遠い異国の地では妖として実在するとも言われているが、少なくとも凪では知名度が低いはずだ。
「オレはその仮面をしていた人物を、よく知っていてね」
「!」
声に出しかけて、青は息を呑み込む。
「毒術のエラい御仁さ。何度か一緒になったが、おかげでかなり任務が楽になったし、命を救われた事だって何回もある」
「……」
何を意図して天陽がこの話を始めたのか掴めず、青は肯定も問いかけもせず、静かに耳を傾けた。
「だからオレも兄貴も命を賭けたし、後悔もしとらん」
天陽の、肘で袖を縛った左腕がわずかに持ち上がった。
肘から下を失った天陽の腕を見つめて、青はハクロの言葉を思い出していた。
曰く、藍鬼の麒麟奪還任務には諜報部が関わっていた。禍地が凪を出奔してから藍鬼が任務に旅立つまでの間、諜報部が禍地の行方を追い続けていたのだ。
十五年も前のこと。
若き日の天陽が、禍地捜索任務に何かしら関わっていたと考えるのは、都合が良すぎるだろうか。
「大月センセイ?」
「……あ……すみません、失礼を」
肘から下を失った天陽の左腕を見つめていた自分に気づき、青は狼狽えて顔を上げる。そこには微笑む形に目を細めた、天陽の面持ちがあった。
「大月センセイに会えて良かった。会っておいて良かった」
「それは……?」
「姪っ子を、暁を助けてくれて感謝する」
そして再び、天陽は片手をついて頭を深く下げる。呼吸を合わせるように、東雲中士も黙礼。
「……」
あさぎは正座して背をただし、静かに大人たちを見つめていた。
*
村まで送ろうという青の申し出を断り、諜報部の三人は小屋を後にした。
暁をあさぎが背負い、天陽が片手に炎を灯して周囲を警戒しながら先導する。
「大月センセイ」は、姿が見えなくなるまで戸口で見送っていた。
「あさちゃん、ごめんね……重いでしょ」
「大丈夫!気にしちゃダメだよ」
後輩の無害な笑顔に、東雲中士は安堵混じりの苦笑を漏らした。こういう時は、あさぎの明るさに救われる。
数ヶ月前から諜報部の訓練生となったあさぎの純真な振る舞いに、当初は「これだからお嬢さん育ちは」と揶揄する声に同調しかけた事もあった。今はそんな自分を恥じている。
「三葉医院の大月センセイ、か」
獣道を踏み分けて先導する天陽の背中から、独り言が流れてきた。
「評判通りのイイ男だったな、アキ」
「……殴りかかったくせに」
「あれはしょうがないだろうが」
「叔父さんのせいで、しばらく三葉医院には行けない……」
「悪かったって」
そんな叔父と姪の他愛のないケンカが、夜の森の眠りを妨げる。獣道の両側から、小動物たちが逃げ去る音が連続した。
「ふふふ」
あさぎの不敵な笑いが横切る。
「大月先生は学校の保健士だった時も、人気者だったよ」
優しくて、丁寧で、怪我人の気持ちに寄り添ってくれる「保健士の先生」を、悪く言う人はいなかった。
「ほぉ、その頃から評判の良いセンセイだったってわけか」
三葉医院の評判―若いが腕の良い丁寧な医療士がいると、諜報部員間においても耳にした事がある。
「うん。私も大好きな先生」
「いいなあ。私が学校にいた時も大月先生だったら良かったのに」
「大月先生ってアキちゃんと同い年くらいだよ?」
「え!? 私、何で覚えてないんだろう……級が違ったのかも……」
深い闇が降りた夜の森とは思えない、華やいだ女子談義を背中で聞きながら、
「ほぉ~????」
天陽は苦虫を嚙み潰した顔をしていた。
自慢げな笑顔の教え子と、珍しく男の話に花を咲かせる姪っ子。
父親の代わりの気分でいた天陽としては、複雑な心境が拭えない。
「あのセンセイか……一師が保護した噂のガキってのは」
静かな呟きは、夜鳴き鳥の警戒音と、湿った風に掻き消された。