毒使い   作:キタノユ

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ep. 41 一蓮(1)

 白木の引き戸が静かに開くと同時に、金木犀の微かな香りがハクロの鼻孔をくすぐった。

 香りが強いため医院敷地内での植樹は避けているので、風に乗って遠くから運ばれてきたらしい。

 

「朱鷺殿、ご気分は……え」

 室内に一歩を踏み出しかけて、ハクロは足を止めた。

 

 寝台にて身を起こして、窓際に上半身をもたれさせた体勢で、手元の冊子に視線を落としている朱鷺がいる。

 寝台の枕元に並ぶ小さい卓の上に、外された顔布が折り畳んで置かれていた。

 

「おかげ……さま、で」

 か細い声と、微笑が返ってくる。

 栗鼠を彷彿とさせるつぶらな瞳が、ハクロに向いた。

 痩せて顔の輪郭や首元に線が浮き出ているが、瞳や鼻筋に造形の美しさが見える。

 

「特師の前では……もう……必要が無い……かな……と」

「光栄な事です」

 それが、その時のハクロにできた精一杯の応えだった。

 

「そちらは、シユウ二師の旅のしおりですな」

 朱鷺が膝の上に置いていていたのは、シユウが受付に預けたもの。

 

「しおり……ふふ」

 子どもの遠足のような言葉の響きに、朱鷺の肩が小さく揺れた。何回も読み返しているのだろう、頁の端の折れ跡や、紙の皺が目に入る。

 

「本日は一つ、朗報をお持ちしましたぞ」

 ハクロは手にした真新しい冊子を、頁を開いた状態で朱鷺の手元に置いた。

 

 それは、法軍の薬品目録の改訂版。

 今期、新たに登録が認められた品が掲載されている。

 

「こちら、シユウ二師の名が」

 言うが早いか、朱鷺の両手が冊子を掴み上げた。

 

「……」

 未だに消えない好奇心の灯った瞳で、紙面を見つめる横顔に、ハクロはこみ上げかけた感情を押し殺す。

 

「今回も、親切仕様ですな」

 誤魔化すように努めて明るい声で、ハクロは小卓上の水差しから湯呑へ白湯を注いだ。

 

「予防薬、浄化薬も組みとなっていて、獅子以上であれば他の技能師でも調合できるように調合法にも工夫がなされている」

 

「……一蓮(いちれん)

 朱鷺の渇いた唇が、毒薬名を読み上げる。

 

「今回の名づけも、可愛らしい。少し、喉を湿らせましょうか」

 白湯が三口分ほど注がれた小さな湯呑を口元に近づけると、朱鷺の細い指が添えられた。

 一口、二口と嚥下した事を確認して、ハクロは湯呑を卓上の盆に戻す。

 

「……ハクロ特師」

「はい」

 朱鷺の黒い瞳が、ハクロを上向いた。

 

「私……あの子には……死んでも顔を……見せるつもりは……ありません……」

「朱鷺殿……」

 

 窓から吹き込んだ風が運んできた金木犀の香りが、いっそう強く揺蕩った。

 

 

 一週間後。

 キョウは再び、猪牙と共に、長室にいた。

 

「よく休めたかな」

 旅支度を終えた面々を前に、長は笑みを見せた。

 

 長室に参上したのは、キョウ、猪牙、諜報部特務隊――チョウトクからの上士三名。

 

 外廊下へと続く扉の脇に立つ門番達は、物々しい様子を横目で伺う。

 

 一週間。

 それはキョウが下士となって法軍に身を置くようになってから、最も長い「休暇」となった。

 

 ただ、青に連絡をとろうと式を飛ばしても音沙汰がなく。同じく一時帰還しているはずのシユウにも連絡が取れず。数少ない友人たちは皆それぞれ任務や業務に忙しい。

 

 体を鈍らせる訳にもいかず、結局は自己鍛錬で一週間を費やして貴重な休暇は終わってしまい、後で猪牙に「お前ぇ寂しい奴だな」と揶揄われたのは、余談である。

 

「前回も話した通り、君たちに赴いてもらいたいのは、狼の背骨の、蒼狼領側に築かれた要塞の「視察」だ」

「視察……」

 誰かの呟きが漏れた。

 

「そこで「調査」してきて欲しい事は、こちらに記載してある」

 長が取り出したのは、一枚の封筒。

 長印で封がされていた。

 

「これは、現地で開いて欲しい」

「ここではご説明いただけないのですか?」

 

 ますます理解ができない、と不安による不満が混在した声が、チョウトク側から出る。

 

「公平な目で見て欲しいのでね」

「……」

 キョウと猪牙は目を見合わせる。

 

 機密の多い任務を請け負ってきた事も多々あるが、今回はまるで謎解きのようだ。

 

「必要なものはこちらで揃えた。入ってくれ」

 長が扉の向こう側へ声をかけると、門番により開かれた扉の向こうから、淡い花色の人影が現れた。

 

「薬術、龍の位、蓮華。参りました」

 その名の通り、蓮華色に薄染めした外套を羽織った蓮華が、包みを乗せた盆を手に室内へ進む。

 盆の上には、小さな包みが五つ。

 そして大きな包みが一つ。

 

「こちら、目録を元に、私が責任を持って調合した薬剤です。本日から、朝、昼、晩、食前食後空腹問いませんので、必ず一日に三回、服用してください」

 

 蓮華が小さな包みを各人に一つずつ、手渡していく。

 包みには龍の判が押されていた。

 

「何の薬なのでしょうか」

 龍の判に疑いの余地はないが、見知らぬ薬を服用できるほど、みな神経が図太くはない。

 

「予防薬です」

「何やら蒼狼方面では、疫病が流行っているらしいと聞いたのでね」

 

 長の言葉の意味を、キョウたちは後に知る事となる。

 

 

 転送陣を使い、翡翠の陣守村を出て、一行は猪牙の先導で蒼狼領を目指した。

 

 狼の背骨を通行する事はできないので、渇いた不毛の地を北側へ大きく迂回しながら、半月をかけて狼の背骨出口付近へ辿り着く。

 

 渇いた大地と、蒼の大地、その境に、その要塞は聳えていた。

 

 背骨の先で待ち構えていた要塞街は、その名の通り街全体が要塞と化していた。

 鉄壁で囲まれ、入り口はたった一つ、正面の関門のみ。

 

 その周囲は、当然警備が厚い事を予想して、日が落ちるのを待ち、二組に別れて要塞の東西から内部へ侵入を試みる。

 

 キョウは猪牙と共に東から侵入した。

 しばし二人は様子を窺うために侵入した場所から動かず、ただひたすら周囲に目を凝らした。

 

 夜間の隠密任務とあって、全身を黒に統一した装備で、建造物が作り出す闇に紛れる。

 

 異変は、すぐに発覚した。

 

「何だ……」

 侵入に成功した直後、くんくんと鼻をならし猪牙が呟いた。

 顔の半分を隠していた覆面を指先で下げて、キョウもそれに倣う。

 

 異臭。

 

 僅かに漂う、微かな臭い。

 その臭いの不吉さにキョウは眉をひそめた。

 

「腐敗臭、か?」

 すぐには動かず、キョウは腰を落としたまま周囲を見渡す。

 

 木々の隙間をぬって明かりがともる向こうの様子を窺おうとする。

 と、その時、

 

「?」

 すぐ足元に気配を感じてキョウは顔を向けた。

 

「どうした」

 と前方に膝をついて木の影に身を隠している猪牙が振り向いた。

 キョウのすぐ足元を、一匹の鼠が通りすぎていったのだ。

 

「鼠か。脅かすなよ」

 猪牙の足元にも、小さな鼠が土孔から姿を現し、目の前を横切り、明かりに誘われるようにして林の向こうへと駆けて行ってしまった。

 

 木霊のように、辺りで鼠が駆けぬけ草が揺れる音が続く。

 

 キョウは腰を浮かして立ち上がる。

 すぐ側の大木に背を預け、身を隠しながら明かりがともる方を窺う。

 

「妙な……」

「何?」

「鼠が多い」

「そういえばそうだな」

 猪牙も、その場で腰を上げた。

 

 鉄壁で囲まれた要塞。壁に沿って侵入者を遮る掘、毒草帯などが仕掛けてあった。

 外から鼠一匹さえ侵入を許さないような防御設備にも関わらず、鼠の侵入は防げないものとしても、数が多いように思えた。

 

「……」

 木の影に姿を隠しながら、二人は徐々に明かりのともる要塞中央にむかって移動していく。

 

 やはり、足元には鼠、鼠、鼠。

 

 林を抜け、要塞街の中心に入る。建物の影に身を潜めつつ、中心にそびえる城塞を目指した。要塞街の様子は、栄えた城下町とさほど変わらない街の作りだった。

 

 格子状に張り巡らされた路は、敵に方向感覚を失わせる為のものだ。

 己の記憶力と方向感覚を頼りに、二人は建物をかいくぐりながら進む。

 

 先ほど林の中で嗅ぎつけた異臭が、歩を進めるごとに強さを増している。

 

 明らかにそれは、腐敗臭。

 悪寒が背筋を走った。

 

「酷ぇ臭いだ……」

 最悪の推論をあえて口にせず、猪牙は呟いた。

 あまりの刺激臭の強さに、覆面の上から鼻をつまむ。

 

「何でこんなにすんなりと」

 要塞街であるなら、警備等の武装した人間をそこかしこに配置しているはずだ。

 気配を探り、僅かな臭いや足音を聞きつけ、侵入者を捕らえるべく動き出していてもおかしくはない。

 

 長屋の影に身を潜め、一旦キョウは足を止めてその場に腰を落とす。

 そのすぐ横に、猪牙も身を潜めた。

 

「静かだな」

 そのすぐ足元を、また鼠が走っていった。

 

「静かすぎる」

 赤く不気味な幾つもの目が、夜闇の中に光る。

 

 まさか?

 突如キョウは中刀を手に、立ちあがった。

 

「!?」

 いぶかしがる猪牙が制止する暇もなくキョウは刀を長屋の扉、錠部分に突き立てた。

 

「何やってんだ!」

「中を調べます」

「調べるって、騒ぎに……」

 猪牙が止めようと手を伸ばすが、あっさりと錠前を壊したキョウは長屋の中に入り込んで行った。

 

「……変だ」

 こんな騒音を出しても誰も駆けつける様子がない。

 さすがの猪牙もこれを異常であると認め、キョウの後を追って長屋に侵入した。

 

 廊下を走りぬけ、キョウはその先に見えた大襖に手をかけた。

 そして一気に開く。

 

 竹を割ったような音が響き、襖は両側に吸いこまれるようにして開いた。

 同時に、中に溜まっていた凄まじい異臭が空気を求めて一気に放出される。

 

「うっ」

 あまりの刺激臭にキョウは顔を背ける。

 覆面がまったく機能していない。

 

 長屋の中は暗い。

 襖の向こうも、闇に包まれていた。

 夜目が利くとはいえ、目を開けているのも苦痛に思える。

 

 後から追いついた猪牙も、思わず「げっ」と顔をしかめて後ずさりする。

 

「玉」

 キョウは指先に炎を灯した。

 襖の向こうの光景が、ぼんやりと浮かび上がる。

 

「なっ……!?!」

 先に声を上げたのは、猪牙だった。キョウの背後から、悲鳴に近い息を喉の奥から吐きだす。

 

「これは……」

 キョウもしばし現状理解に苦しんだ。

 灯を少し高く上げて、一歩部屋の中に足を踏みいれる。

 

 そこは、寝室。

 五組の布団がしかれていた。

 部屋の装飾や広さからして、女中の休憩室といったところか。

 その五組の布団それぞれに、一人ずつ人間が横たわっていた。

 

 否、人間だったモノが。

 正確には、布団の中で腐乱した死体が五体、そこにあったのだ。

 

「……!」

 その場から駆けだした猪牙が、隣室につながる襖を開けた。そして同じく指先に火を灯して中を窺う。

 

「どうですか」

 というキョウの声に、

「全滅だな……」

 と低い声が返った。

 

 死体を目にする事には慣れている。

 だが、腐乱し異臭を放つそれは、戦いの専門家であろうとも見ていて良い気分である筈がない。

 

 次の襖、その次の襖、どこを開いても、そこにあるのは死体。

 比較的腐乱が進んでいないものもあり、側によって調べてみる。外傷の跡は見うけられない。

 

「これ……疫病か……?」

 覆面の下から、キョウが呟いた。

 

 長屋を出て、二人は城塞を目指す。

 中心部に近づくほどに、死体は路上にまで見られるようになった。

 

 武装した警備兵だろうか、槍を手にしたまま倒れて死んでいた。

 

 城塞内部へと続く門付近まで辿りつくが、やはり門周辺には警備の人間がいる気配もなく、城も、明かりは見うけられるが、不気味なほどの静けさを漂わせていた。

 

 

 約束の時間。

 チョウトク三人も姿を現し五人が集結した。

 

「一体、ここはどうなってるんだ?」

 一人が吐き捨てる。

 尚も漂う死臭に、時おりむせる。

 

――何やら蒼狼方面では、疫病が流行っているらしい

 

「疫病……?」

 長の言葉を、キョウが繰り返した。

 チョウトク達は肩を震わせる。

 

「死体に外傷はなかった。だとすれば凄まじい感染力と死亡率の疫病が猛威を振るった……と?」

「鼠……」

 キョウが肯く。

 

「おそらく鼠が菌を運んできたんだろうな」

「でも要塞街の外は……? 一番近い所にあった村でも、なんとも無かったぜ?」

「この密閉された要塞街だからこそ、疫病は外には漏れなかったんだろう」

「じゃあ要塞内で、疫病が発生したとして…鼠はどこから来たんだ?」

 

「……」

 そこでキョウは手を口元に当てて、しばし思案する。

 誰もが、原因を探ろうと沈黙。

 

 この状況に似た光景を、かつてキョウは目にした事があった。

 

「……朱鷺一師の村落としと同じ……」

 賊が根城にしていた村や砦を、毒物を用いて殲滅させる。

 

 それが更に規模を大きくしたものが、今、目の前に広がる地獄。

 

「まさか二師……」

「心当たりが?」

 焦れたようにチョウトクたちがキョウの顔色をうかがう。

 

「確証はないが、毒術師の仕事である可能性もある」

「それなら、なぜ長はその事をご説明下さらないのでしょう…?」

 

「原因はともかく早いとこ任務を済まそうぜ。気味が悪ぃし」

 猪牙の言葉にチョウトクの面々は大きく頷く。

 

「あの時手渡された薬って、この為だったんだな」

「ああ、薬術師の龍が調合したっていう」

「長のお墨付きってなら、心配するこたぁねぇか」

「……」

 

 猪牙の暢気な結論に、再びその場に静寂が走った。

 

 いかに龍の判入りとしても、それでも恐怖が拭いきれないのは本音だ。

 

 城の裏門を取り囲む城壁の裾元にうずくまるように集まる木の葉の黒い影が五つ。

 

「とにかく、ここまで来たからにゃ、ちゃちゃっと仕事を終わらせるぞ」

 

 猪牙が懐から封筒を取り出す。

 長に「現地で開封するように」と言われていたものだ。術がかけられていて、道中で開く事はできない仕組みになっている。

 

 中には縦長に折り畳まれた紙が一枚。

 そこに、任務内容が箇条書きで書かれていた。

 

「蒼狼領の要塞における調査を命ず。左記を調査すべし。一つ、要塞の軍備規模。二つ、死亡者数。三つ、死亡が確認できた要人の金印を押収。尚、生存者が確認できた場合は、その人数を記録し、事前に配布した薬剤を用いて「始末」すべし」

 

「……」

「……」

「ずいぶんと刺激的な調査だこと」

 静寂の中、チョウトクの紅一点が、苦笑と共に呟いた。

 

 見上げれば、空へ向かって聳え立つ城がある。

 いつまでもここで話し込んでいるわけにはいかない。

 与えられた任務を果たす事だけが、今の彼らに長から与えられた使命である。

 

「任務内容の記憶は終わったか?」

 猪牙の問いかけに、全員が頷いた。

 

 と同時に、各々が苦無や刀を抜く。

 

「ここからは個人行動だ。西門、北裏門、火薬庫の敷地から続く東陽門…」

 各々が侵入、調査する方向を、猪牙が割り振った。

 

 黒い闇の中に幾つも浮かぶ灯り。

 それを目印に、各々は頷く。

 

「では」

 キョウが刀の刃先を、差し出した。

 

 そこに、皆が各々、武器の刃先をつき合わせる。

 チリン、と風鈴に似た音がした。

 

「ご武運を」

 

 風に掻き消える声と共に、五つの影は闇夜に消えた。

 

 

 火薬庫から城の内部に侵入したのは、キョウ。

 闇に溶ける黒い装束が、音もなく移動する。

 

 五重塔の構築となっている城の作り。

 二階の縁へ飛び上がり、内蔵へと続く障子を開き、そこから侵入し、人一人がやっと通れるだけの廊下に出た。

 

 壁には、灯りが一定間隔おきに点っている。

 床が軋まぬよう、壁を背にして一歩一歩を踏み出す。毛先にまで神経をめぐらせて気配を探りながら。

 

 静かだ。

 内蔵の扉が続く狭い廊下から、本廊下に出る。

 

 ぎしり……

 奥廊下から、板張り廊下の軋む音。

 

 生き残りか。

 キョウは曲がり角の壁に背を付け息を潜める。

 

 刀を逆手に構え、目の前にかざす。

 白い刃渡りを鏡に、廊下の向こうから歩いてくる人影を映す。

 

 影で明確には見えないが、どうやら警備兵らしき装備服をまとった人物らしかった。

 

「………」

 もう片手に苦無を握ると、キョウは人影が近づいて来るのを待った。

 

 だが、様子がおかしい。

 

 聞き耳を立てるが、足取りが奏でる軋み音が不規則でぎこちない。覚束ない様子。しかも人影が近づくにつれ、荒い息遣いと苦しげなうめき声も漏れ出してくる。

 

 あと一歩。

 人影が、曲がり角に差し掛かる。キョウは音をたてずに飛び出し人影の背後に廻ると、刃を首筋に突きつけて背後から羽交い絞めに捕らえた。

 

「動くな」

 低く、短く切った言葉を、腕の中に捕らえた人物に刃と共に突きつける。

 

「な……何奴……っ!」

 大した抵抗もせず、男は荒い息の下で声を上げた。

 男の腕を捕らえている手に力を入れて、キョウはその問いには答えず短く言った。

 

「ここの要塞街は一体どうなっている」

「とぼけるな……下劣な(いぬ)どもが……」

 

 男の顔が映る位置に灯りの下に移動させると、土色に変色した男の顔がそこにある。

 覆面の下から刹那、キョウは出す言葉をなくす。

 

 キョウより一回り体躯の良い男だが、筋肉は弛緩し、血の気は失せ、意識があるとはいえまるで生ける屍のようだ。

 

「……っごふ……」

 突然男は咳き込み、力が失われてがくりと首が折れた。その口端から、白い泡が幾重にも重なって吐き出されている。

 

「なっ」

 キョウが男を放すと、その体は重力に逆らうことなく膝をつき、床に伏した。

 一歩下がったところで、キョウがそれを見下ろす。

 

「ただの病ではないな」

 足元で男が激しく咳をした。ごぼりと水が沸くような音と共に、床が赤く染まり始める。男が、酷く吐血したのだ。そして体が痙攣する。

 

「………」

 なすすべなく、苦無を握ったままのキョウの足元で、男はそのまま死に到った。

 

「くっ……」

 舌打ちを皮切りに、もはや隠密など忘れてキョウは廊下を駆け出した。誰も足音を聞きつけて姿を現わそうとしない。

 

 手あたり次第に襖を開けて中を確認すると、そこには死んでいった男と同じ色に皮膚が変色した者たちの遺体。

 兵と思われる男たちや、女中、春女らしき女たちの姿もあった。

 

 キョウは更に襖を開け、廊下を走り抜け、最上階を目指す。

 一つ、部屋に入る度、転がる死体に出くわす。

 

「やはり城の中も……」

 城内を突き進みながら、キョウは死体の数を数えていった。

 

 

「随分と派手な動き方をしたようだな」

 最上階にたどり着くと、既にそこで金印を物色していた猪牙が呆れ顔でキョウを迎えた。

 

 その傍らにはすでに果てた要人らしき者達の死体も、殉職するように並んで転がっていた。

 

「隠密も何も……」

 キョウの苦い顔に、猪牙も苦笑で応える。

 

「城の中もほぼ全滅だ」

「お陰で、ここまで来るのが楽でしたよ」

「たった五人で出向けと言った長の御意向がよく分かったぜ」

「そうですね。生き残った奴も、ほぼ死んでたようなものでした」

「下士や新米にやらせても良かったんじゃねーか、この任務」

 

 と皮肉を続けて、猪牙は探し当てた金印を、持参した絹袋に収めていく。

 

 遅れて、チョウトクの三人も順次やってきた。各々、押収を命じられていた金印を手にしている。

 

 公の証人や取引に重要な役割を持つ金印。

 どの国も、要人や重臣等はこうした各々の意匠でその名が彫られた特殊な印を持っているものだ。

 戦後処理を行う際には、身分証明の役に立つ。

 

「生きてるやつなんて見かけなかったぞ…」

「そうだな……街がまるごと死に絶えたような…気味が悪い。女や子どもまで……いや」

 

 チョウトクの一人が「ガキは見てないか」と首を傾げた。

 

「まだ調査できていない場所はありそうか?」

 五人以外には最早、鼠の気配しか感じられない城内の最上階。

 それぞれの調査内容を、この任務の隊長である猪牙が取りまとめる。

 

 それぞれの報告を聞く中で、

「一人、足りないかもしれんな」

 金印の名前を確認していた猪牙が呟いた。

 

「彫られている役職名に、北、南、西があるんだが、東が無い」

 

 キョウは格子窓から外を覗く。

 要塞の構造は東西南北に凸型で、それぞれの区域の管理を担う人物がいるのであろうと想像がつく。

 

「俺が見てきます」

「頼んだ」

 

 頷いて、キョウは東の棟に向かった。

 

「あら、月夜の天気雨」

 背後でチョウトクの紅一点の声。

 つられてキョウも窓の外を見ると、灰色の雲に見え隠れする朧月が照らす天に、驟雨(しゅうう)が白糸を描き始めていた。

 

 潜入任務において雨は音、匂い、気配を消してくれる味方になるが、今この状況では無用なものだ。

 それよりも、雨後の湿気でますます腐敗臭が酷くなる事の方が気がかりである。

 

「それは勘弁だな……」

 無意識に、キョウは足を速めていた。

 

 

 東棟は、武器庫がある一帯だ。

 キョウは刀を片手に忍び歩く。

 部屋の構造を記憶に刻みながら、からくりが仕掛けてある事を予測し、慎重に気配を消して歩を進める。

 

 武器庫の奥に進むと、軍務室と思われる部屋の前に出くわした。

 扉に背を付け、中の気配を窺う。

 扉の向こうに人の気配は無い。

 

 いてもどうせ屍になっているだろう。

 と考えながら、キョウは音をたてずに引き戸を開けた。その僅かな隙間から体を横にしてすり抜けて内に入る。

 

 軍部施設内は至る所に隠し部屋など、からくりが施してある。隠し部屋の中で蟄死の可能性もある。

 

 キョウはまるで茶室のような小さな部屋に滑りこんだ。

 四方の壁は群略図や軍務地図で埋められている。

 他には小さな格子窓。

 出入り口は見当たらない。

 

 微かな空気の流れを読めば、隠された奥部屋への入り口の場所が見えてくる。

 仕掛け鍵を静かに外し、隠し扉から奥へと続く細長い廊下に出た。

 

 足音と気配を消し、更に奥に見える扉を目指す。

 

「死臭……」

 ここに出て急に強くなる腐敗臭。

 臭いを防ぐのにあまり役にたっていない覆面の下で、キョウは息を止める。

 

 武器を仕舞い、壁を背にして扉脇で足を止めた。

 念の為に中の気配を探る。

 

 生の気配は、無い。

 

 とっ……と片足のつま先で床を蹴ると、キョウは扉に体当たりして破り、薄暗い室内に転がるように踏み込んだ。

 

 瞬間、キョウの視界に、黒い人影が目に入った。

 

 その影は、二つ。

 横たわる大柄な人影と、そしてその傍らにしゃがみ込むもう一つの影。

 

 しゃがみ込んでいた影は、キョウが踏み込むと同時に、弾かれるように振り向いた。

 

「!」

「っ誰だ!」

 

 短く怒鳴り、キョウは影に飛び掛かる。中途半端な体勢だった人影が腰を上げかけた所で、キョウが上から押さえ込んだ。

 

「ぅわっ!」

 背中と肩をしこたま打った人影は、小さく声を漏らした。

 

 相手も覆面をしているらしく、くぐもった声。

 キョウと同じく黒装束に包まれた人影。

 その喉元を掴み床に張り付ける。

 

 相手はキョウの下から逃れようと体を捩る。キョウはそれを押さえ込むのが精一杯だ。組み合う内、キョウの覆面が解れ、銀髪が乱れてあらわになる。

 

「……?」

 キョウは違和感を覚えた。

 

 相手には、こちらを傷つけるつもりが無いように感じる。

 見れば腰に苦無や小刀等の刃物を装着している様だが、引き抜こうとする様子がない。

 

 腕を抑えつけたり離されたりを繰り返し、両者は床の上でのたうつ様にもみ合った。

 

「く……っ!」

 床に肩を打ち付ける音と共に、下になっていた影が声を漏らした。

 

「誰だ! こんなところで何を」

 必死に抑え込もうと苦戦するキョウが短く吐き捨てる。

 

 相手の片手首を掴んだ瞬間、窓からさす僅かな光が何かに反射して煌めいた。

 

 掴んだ手首の甲に光る、銀板。

 そこに彫られている獣――獅子。

 

「え……」

 勢いのまま膝を使い、相手の腹部を蹴る。

 

「ぅっ……! ごほ……」

 咳き込む相手の隙をつき、渾身の力で上から叩きつけるように相手の体を床に縫いつけた。

 すかさず右手を伸ばし相手の覆面を剥ぎ取る。

 

「あっ……」

 しまった、とばかりに相手は短い声を漏らす。

 

 ほぼ同時に、格子窓の向こうから、一瞬だが、雲に見え隠れする朧月光が射した。

 

 キョウの銀髪が闇に浮かぶ。

 そしてキョウに組み伏せられる下、闇の中に微かに見えたのは、

 

 黒髪と、黒い瞳。

 

「……っえ!?」

 キョウは吸う息と共に短く叫んだ。

 

 ほぼ同時に、

「キョウさ……っ!」

 と、ひどく狼狽した人影の声。

 

 雲が一瞬退き、旗が翻るほどの刹那に白い月光が差し込んだ。

 

「何、……!?」

 明らかになった人影の素顔に、キョウは声を上げた。

 

「大月君……!」

 眼を見開く銀髪の下で、黒髪が月光に照らされている。

 

 キョウにとって馴染み深い、だがここにいるはずのない顔――大月青だった。

 

「く……っ!」

 怯み、押さえつけるキョウの腕から力が抜けた。

 

 隙を見逃さずキョウの腕を振り切り、青――の顔をした男、はキョウの胸元を突き押してすり抜けていった。

 

「待っ、何でだ!」

 男は床に転がる遺体の傍から何かを拾い上げると、キョウが入ってきた扉側から廊下に転がり出た。

 

 拾い上げた何か、それは、

「クソッ……! 金印を!?」

 すぐさま体を起こし、キョウは後を追う。

 

 狭い廊下を突き抜け、男は尚もキョウに背を向けて走る。

 

 その背中を狙って苦無を手にしたところで、キョウは躊躇する。

 

 何故。

 何故ここに青が。

 似ている別人なのか。

 

 否定と肯定が何度もキョウの思考を巡回する。

 武器庫廊下を抜け、本廊下に出る。

 長い金屏廊下の先は突き当たり。

 そこから右に折れている。

 

「何奴!」

 ともう一つ人影が現れ、逃げる影に切りかかって地を蹴った。

 チョウトクの一人だった。

 騒ぎを聞きつけて様子を見に来たのだ。

 

「ぅわっ!」

 逃げる影は、突如飛び出してきた新たな追っ手に、声を上げて足を止めた。

 

「斬るな!」

 とキョウ。

 

「!」

 だが勢いを止められず、刀は振り下ろされた。

 

「くっ!」

 その刃から逃れ、黒髪の男は左手の屏風窓を突き破り、城外へ飛び出して行った。

 

 すかさずチョウトクの男は窓を切り捨て外の様子を伺う。

「とり逃がしたか……っ!」

 

「俺が追う」

 

 躊躇うことなく、キョウは破れた窓から外に飛び出した。

 

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