見上げれば、満ちた月は天辺に達しようとしていた。
つい先ほどまでの晴夜がいつのまにか、縮れた雲が月の周囲を漂い始めている。
「一雨くるかもしれません」
要塞の南側、森の入口の大樹の下から、青は空を覗き見た。
「悪ぃな……手伝ってやれなくて」
幹に凭れて顔色を悪くしているのは、黒鉄。
蒼狼へとどめを刺すために、血触媒を使っていたのだ。そうでなくとも、その直前に痛撃を受けて高所から落下していたのだから、満身創痍、疲労困憊であるのは仕方が無い。
「いいえ、黒鉄さんはここで安静に。手当は一通りできましたが、気力体力ともに激しく消耗していますから。狛さんは付き添ってあげてください」
「シユウ殿はどうするのだ。もう、時間が……」
黒鉄の側から立ち上がりかけた狛も、枝葉の間から天を見やった。
「いずれにしろ、今からでは子どもたちを運び出すのは間に合いません」
青の代替策はこうだ。
青が単体で要塞内に潜入し、子どもたちが幽閉されている棟へ向かう。
入口および周辺に幻術をかけ、チョウトクたちをやり過ごし、彼らが立ち去ってから、子どもたちを運び出すというもの。
技能師の同期、幻術師の要と友人になれた幸運を、青は改めて噛み締めた。
「理解した。その調査隊が去ったら、我も要塞内へ向かう」
狛と手はずを確認し、青は森を抜ける。
遠ざかり、壁の向こうへ消えていった青の背中を見送った狛と黒鉄は、長い溜息と共に顔を見合わせた。
「本当に……東の術式や技術は……優秀なのだな……」
「いや。あいつが有能なんだ」
怖いぐらいに。
そう付け加えて、黒鉄はゆっくりと呼吸しながら目を瞑った。
「そう……そうだな。その通りだ」
狛は森から望む、要塞外壁手前の平地を眺める。
黒鉄がとどめを刺した蒼狼の遺骸も、不気味な魔物の卵のような水泡も、毒沼の跡も、きれいに消え去っていた。
まるで初めから、何も起きていなかったかのように。
壁と外郭壁をくぐり、青は要塞の敷地内へ侵入した。
式を通じてではなく実際に自らの目で確認するのは初めてだ。
「チチッ」
「お、っと」
足元を野ネズミが数匹、駆け抜けた。
二日前に誘き寄せた鼠がまだ敷地内に残っている。
子どもたちが幽閉された東棟を目指しながら、青は生存者が残っていないかを気配と目で確認していった。
「急がないと……」
真上に登り切ろうとしている月を仰ぎ、青は足を速める。
東西南北の十字構造になっている要塞の正面、南棟から入った。建造物内に入っても人の気配はせず、だが念のため慎重を期して、隠密行動の手引通りに気配と足音を消しながら、狭い廊下を進んだ。
「!」
遠くで、物音がした。
息を止め、風に乗って届く音へ耳を澄ます。
硬い物で、何かを壊す音だ。
東側から聞こえる。
「チョウトクが到着したんだ……!」
窓から覗く天に、満月が灰雲の隙間に見え隠れしていた。
じきに雨が降るだろう。
雨は音と気配を消してくれる。
今の青には都合が良かった。
確実に近づくチョウトクの気配に追われるように、青は東棟へ走る。
東棟には武器庫があり、軍務室や軍評定を行う会議室等が続く。
東棟は軍務に特化しているとあって、隠し部屋やからくり部屋も多い。
チョウトクが下手な罠にかかるとは考え難いが、深入りして危険を侵すマネもしないであろう。
子どもたちを隠すには、良い条件が揃っていた。
「仕掛け鍵か……」
隠し扉を抜けて、茶室のような小さな部屋に入る。
その壁の一部が更に隠し扉になっているのだ。
焦る気持ちを飲み込んで、慎重に鍵を解く。
隠し扉を閉めて、内側から仕掛け鍵を掛けた。
更に奥へと続く細長い廊下を通り、奥の扉を開ける。
「っ!」
薄暗い部屋の中、床に横たわる大柄な人影があった。
思わず悲鳴を漏らしそうになる。
臭いや肌の色から、すでに死んでいる事は明白だ。
身にまとっている衣から、高位の官吏であろう事が分かる。
男の死骸に触れないように室内を移動し、青は壁の隠し扉に手をかけた。
回し扉になっていて、辛うじて人が一人通り抜けられるほどにしか開かないようになっている。
身体を滑り込ませて中に入ると、再び細長い廊下が続き、その奥は急に開けた空間になる。
十二畳ほどの広間の手前に、格子状の仕切りがはめ込まれていて、まるで座敷牢だ。
ただ、その格子さえなければ室内のあつらえは旅宿のように整えられていて、取り替えたばかりであろう真新しい畳が敷かれ、十人ほどの子どもたちはその上に引かれた布団にそれぞれ寝かされている。
「……」
苦無で鍵を壊して格子仕切りの中へ入る。
子どもたちの布団を一人ずつ捲り、寝顔、体温、肌の手触り、呼吸を確認した。
仮死状態のため呼吸は弱いが、顔色や唇の色は悪くない。全員が無傷だ。
「……良かった……」
深く安堵の息を吐き、青は再び格子をくぐって部屋を出る。
慎重に扉を閉めて、そこに要から提供されている幻術符を押し当てた。
「隠」
一声唱えると、扉の継ぎ目が完全に消え失せる。
更にこの幻術には人の意識を逸らす効力もあり、そこに存在しないもの、として認識されるようになる。
凪の森の、藍鬼の小屋に使われている幻術も、同類のものだ。
「とりあえず……間に合った……」
術を掛け終えて、青は溜息を飲み込んだ。
あとはチョウトクと鉢合わせないように外へ出るか、もしくはこの部屋にも幻術をかけて身を潜めていれば良い。
廊下の外の気配を探ろうと振り向きかけた時、
「……」
足元に、青は僅かに光る何かを見た。
窓から差し込む、微かな月光が揺れている。
外は風が吹き始めていて、雲が流れているのだろう。
振り返って片膝をつき、青はその「光る何か」に手を伸ばした。
指先に当たる、硬い感触。
小さな布袋に入れられた何かは、男の死体の腰布あたりから解けて床に転がっていた。
指先で袋を捲ってみると、硬質な四角いそれは――
「金印……」
何かを認識した直後、青は背中が冷たくなるのを感じた。
雲が月を覆い、再び室内は闇に包まれる。
ガタッ
背後で激しい物音がした。
「!?」
肩越しに振り返ると、扉が壊されて人影が転がり込んできた。
「っ誰だ!」
人影が怒鳴る。
青が腰を上げかけたところへ飛びかかられて、床に抑え込まれた。
「ぅわっ!」
背中と肩を強打し、思わず青は小さく声を漏らした。
誰だ。
生存者か。
凪のチョウトクがもうここまで辿り着いたのか。
喉元を掴まれ、床に張り付けられる。
この体術作法は、凪の法軍のもの。
「くっ、ぅ」
相手の下から逃れようと青は懸命に体を捩る。
相手が凪の人間だと分かったからには、武器は使えない。
相手も青を抑え込むのに必死な様子だ。
暗闇の中で闇雲に払った青の手が、相手の覆面か額当てらしき布地を引き剥がす。
腕を抑えつけられたり、離したりを繰り返し、青と相手は床の上でのたうつ様にもみ合った。
「く……っ!」
再び床に肩を打ち付けられ、痛みに青は声を漏らした。
「誰だ! こんなところで何を」
相手が再び怒鳴り声を上げた。
聞き覚えのある声――
逡巡した隙に、片手首を掴まれる。
窓から再び月光が差し込んだ。
「え……」
相手も何かに驚いたようで、間延びした声を漏らす。
「ぅっ……! ごほ……」
もみ合う勢いで、相手の膝が、青の腹を打った。
咳き込む隙を突いて、上から力ずくで腕を抑え込まれて床に叩きつけられる。
正面が無防備になった瞬間、
「あっ……」
相手の手が、青の覆面を掴み取った。
「え……」
闇に、煌めく銀が光った。
格子窓の向こうから、雲に見え隠れする朧月光が射した。
「……っえ!?」
相手も短く叫んだ。
月光が映し出したのは、
「キョウさ……っ!」
峡谷豺狼だった。
「大月君……!」
目の前で、美しい碧の瞳が驚愕に揺れている。
刹那、キョウの腕から力が抜けた。
「く……っ!」
その隙にキョウの腕を振り切り、青はキョウの胸元を突き押して、体の下からすり抜ける。
「待っ、何でだ!」
キョウの声を無視して、青は死体の側に落ちている金印を掴み取り、キョウが入ってきた扉側から廊下に転がり出た。
「クソッ……! 金印を!?」
背後でキョウがそう吐き捨てた声が聞こえた。
起き上がり、追ってくる気配。
それでいい。
青は出せる限りの全速力で廊下を駆ける。
被害状況記録や生存者調査をするにあたり、金印等の身分が分かる証拠品の確認は必須。
金印を囮に、できるだけ子どもたちからキョウを引き離す。
それだけを考えて青は駆けた。
武器庫廊下を抜け、本廊下に出る。
長い金屏廊下の先は突き当たり。
そこから右に折れている。
「何奴!」
新たな人影が現れ、青へ切りかかった。
「ぅわっ!」
青は咄嗟に足を止めた。
「斬るな!」
背後からキョウの声。
目の前の人影は、凪のチョウトク。
「!」
勢いを止められず、刀は振り下ろされた。
「くっ!」
刃から逃れ、青は左手の屏風窓を突き破り、秋雨が降る城外へ飛び出した。