「師匠!」
弾む息と共に、青が
土埃が舞う入り口の向こう、薄暗い居間の中心に、その背中は、いた。
「戸は静かに開けろ」
藍鬼は青の方を振り向くこともせず、淡々と身支度を整えている。
いつもの、闇に溶ける漆黒の半袖装束。
無駄な装飾を削ぎ落としたその戦衣の上から、使い込まれた革帯を腰と二の腕にきつく巻き締める。
革帯の刃物差しには、針や苦無を手際よく差し込んでいく。
足元には、すでに口を縛った麻の道具袋が置かれていた。
「お前も来るか」
「行く! お仕事? どこに行くの?」
頬を紅潮させ、青は土間で落ち着きなく飛び跳ねた。
藍鬼は道具袋を片手に持ち上げると、青の背中を大きな手でそっと押し出し、戸を閉める。
鬱蒼と茂る森の獣道を抜け、師の歩幅に合わせて懸命に足を動かすこと半刻。
視界が開けた先に見えてきたのは、陣守村だ。
「都に戻るの?」
横を歩く藍鬼を見上げ、青が問う。
「いや」
藍鬼は短く否定する。
「今日の仕事場は、ここだ」
村に入ると、集会場を兼ねた広場に村人たちが集っていた。
その人垣の前に、村人たちと異なるいでたちの二つの人影が佇んでいた。
いずれも、面で顔を隠した技能師たちだ。
一人は、十代の後半らしき青年。
もう一人は、青年よりは若い少女。
鮮やかな
「藍鬼一師でいらっしゃいますか」
生成り色の青年が、静かに一歩を踏み出した。
藍鬼が無言で頷くと、二人は示し合わせたように背筋を正し、礼をする。
「ご一緒できて光栄です。毒術師、狼の位、
青年の面の奥から響く声は、穏やかで理知的だった。
「薬術師、狼の位、
少女の方は対照的に、若葉のように瑞々しく、ハキハキとした声を張り上げる。
対照的な若手の二人組だ。
「毒術師、龍の位、藍鬼だ」
藍鬼は短く名乗って挨拶に代えた。
今日の藍鬼の「仕事」は、二人の若手技能師たちが開く『薬草・毒草教室』の監督だという。
「お教室?」
「これも技能師にとって、重要な責務の一つだ」
「セキム?」
青がオウム返しに呟くと、藍鬼は少しだけ迷い、簡潔な言葉を選び直した。
「やるべきこと、大事な仕事のことだ」
広場には、日焼けした顔の村人たちが
その中心に里薺と蓮華が立っていた。
青は藍鬼の脚に隠れるようにして、村人たちの最後列からその様子を覗き見た。
「薬草・毒草教室」と銘打たれたそれは、村人たちの生活に根ざした知恵の伝授であった。
「――ですので、こちらの『岩血草』は煎じて飲めば腹痛に効きますが、似ているこちらの『赤鬼灯』は、根に毒があります。見分け方は、葉の裏の毛羽立ちです」
蓮華が二株の草を掲げて見せると、村の女衆が熱心に頷き、書きとっていく者もいる。
薬術師の蓮華は、身近な薬草を使った健康茶の淹れ方や、子供の急な発熱に効く湿布の作り方などを、ハキハキとした声と愛嬌のある身振りで伝える。
時おり笑いも起こり、その明るい雰囲気が村人たちの関心を惹きつけていた。
対して里薺が担うのは、主に害獣への注意喚起だ。生成り色の袖を捲り、沈着な口調で語る。
「今年の長雨の影響で、森の湿気が増しています。それに伴い、床下や畑に
村人たちが「そうなんだよ」と不安そうにざわめく中、里薺は手元の袋から、青く固い木の実を取り出した。
「そこで役立つのが、この『エゴノキの実』です。こいつを石ですり潰し、水を加えてみてください」
里薺が手元の器で実演して見せると、透明な水がたちまち白く濁り、ブクブクと細かな泡が溢れ出した。
「このように激しく発泡します。この泡水に含まれる成分は、粘膜を持つ生き物にとって劇薬となります。家の周りに撒いておけば、蛞蝓を寄せ付けません」
村人たちの間で「それなら簡単にできそうだ」「ありがたい」と声が上がる。
「すごいなぁ……」
藍鬼の足元で、青の独り言がこぼれ落ちた。
はじめは脚の後ろに隠れるようにしていたが、いつの間にか身を乗り出している。
一通りの説明が終わると、里薺と蓮華が「何か困りごとは?」と問いかける。
待っていましたとばかりに、村人たちの手が次々と挙がった。
「お二人さん、ちょっと聞いてくだせえ」
最前列にいた老人が、下衣の裾を捲り上げた。
「先月から酷く腫れちまってな。『冷やし苔』をすり潰して塗ったら、一度は引いたんだが……それから忘れた頃にまた赤く腫れ上がっちまって、繰り返してるんだ」
蓮華が患部を覗き込み、眉を寄せる。
「腫れの色が、少し紫がかっていますね。冷やし苔は確かに、熱を取るのには良いですが……」
そこへ、里薺が言葉を継いだ。
「おそらく、腫れの原因は『水
「ひぃ、卵だって?」
青ざめる老人を、里薺が穏やかに宥める。
「薬を塗るのを止めて、患部を熱めのお湯で濡らした湿布で温めましょう。水蚤はちょっとした熱にも弱いのです」
次は割烹着を着た婦人が手を挙げた。
「あのう、裏山で採れる『苦わらび』のことなんだけどね。ちゃんと
「おばちゃん、灰汁抜きには何を使ってる?」
蓮華が優しく問いかけると、婦人は「いつも通り、
「最近、薪にする木を変えなかった?」
「ああ……そういえば、川向こうの『
「それが原因です! 逆にワラビの毒素を固めてしまうの。樫の木の灰に戻せば、また美味しく食べられるようになるわよ」
そうだったのか、と村人たちが感心したようにどよめき、あちこちで「ありがてえ」「助かった」と安堵の声が漏れる。
日常の些細な不調、生活に潜む見えない毒。
それらを紐解き、解決策を示す二人の若き技能師は、村人たちにとってまさに守り神のように映っているようだ。
それは、幼い青にとっても、同じだった。
「ギノウシって、凄いんだね。何でも知ってるんだね!」
青は興奮に頬を上気させ、キラキラと輝く瞳で藍鬼を見上げた。
「あの二人は、きっと大成する」
藍鬼の視線は、仮面の奥から二人の若手へと注がれたまま。ぽつりと、独り言が落ちる。
「タイセイ?」
「立派な技能師に成長する、ということだ」
途端、青はぷくっと頬を膨らませた。
師の関心が、自分以外の誰かに向けられたことが、幼心に面白くないのだ。
「僕とどっちがタイセイすると思う?」
わかりやすい、幼子の嫉妬。
仮面の奥から、「ふっ」と微かな吐息が漏れた。
大きな手が、青の頭に置かれる。
「全ては、お前の頑張り次第だ」
「がんばるもん。絶対がんばる!」
青は師の手のひらに頭を押し付けるようにして、意地っぱりに宣言した。
*
陣守村で目にした光景は、青の胸に火を灯した。
青は、ますます学びに没頭した。
目標は、「毒術資格の三級」と「薬術資格の三級」の同時取得。
学校での授業に真剣に取り組んだ後、霽月院に戻ると図書室に籠る。
夜は寝台の隅、窓から差し込む月明かりと手元の小さな灯火だけを頼りに、借りてきた書物を膝の上で広げた。
眠気が襲えば太股をつねり、文字が霞めば目を擦る。
藍鬼の小屋を訪れる日は、実践学習だ。
ある日も青は、西陽が差し込む土間で薬研を抱え、乾燥した根を挽いていた。
「……ふわっ……ぁ……」
手元の作業に集中しようとするが、時おり、舟を漕ぐように頭が揺れた。
「……おい」
居間の方から、影が落ちる。
低く、咎めるような声が近づいた。
「っぁ……!」
びくりと肩を震わせて顔を上げると、作業の手を止めた藍鬼が、仁王立ちで青を見下ろしていた。
「ご、ごめんなさいっ」
「顔色が悪い」
「え?」
仮面の奥の瞳が、青の様子を冷ややかに観察している。
「きちんと寝ているのか」
指摘され、青は慌てて自分の両頬をペチペチと叩いた。
「うん、大丈夫だよ! なんともないもん。これくらい、平気」
青は努めて明るく声を張り上げ、再び薬研の棒を握りしめる。
「帰れ」
「やだ!」
青は薬研の縁を指で掴んでしがみつき、首を横に振る。
「まだ終わってない!」
頑として譲らない青に、仮面の底から、ふぅ……と短く鋭い呼気が漏れ、次の瞬間、青の手から薬研が強引に引き抜かれた。
「あ!」
抗議の声を上げる間もなく、空いた手首を大きな手が掴む。
「行くぞ」
「まっ、待ってよ!」
青は足を突っ張って抵抗を試みるが、敵うはずもない。
ずりずりと引きずられ、小屋の外へと連れ出される。
結局その日は抵抗も虚しく、青は藍鬼に手を引かれたまま陣守村まで強制連行され、都行きの転送陣に押し込められることとなった。
*
翌日、懲りない弟子は再び陣守村の土を踏んでいた。
青は帳面と筆を握りしめ、村の中を歩き回った。
畑仕事をする村人がいれば駆け寄り、井戸端会議をする女衆がいればその輪に混ざる。
「おじさん、腰が痛いの? 雨の日は特に?」
「赤ちゃんの夜泣きが止まらないの?」
「最近、目が霞んで針仕事ができない?」
五歳の子供が背伸びをして御用聞きをして回る様子に、村人たちは目を細め、ぽつりぽつりと悩みを打ち明ける。青はその一つ一つを、帳面に書き留めた。
「おばあちゃん、起き上がれないの?」
「ああ、ここんとこ、身体が怠いらしくてな。のぼせたり、眩暈がしたりして、食欲もないんだ」
老婆の息子の話を、青は神妙な顔つきで書き記した。
「おばあちゃん」は、青が藍鬼につれられ初めて村に来た際、団子を食べさせてくれた女房だ。それからも、青の顔を見るたびに美味しいお菓子をくれる。
「おばあちゃん、心配だな……」
青は、藍鬼の小屋へ急いだ。家主は不在であったが、家を隠す幻術を解く手形は預かっている。教わった通りに結界を解き、戸を開ける。
静まり返った小屋の中、青は床に帳面を広げた。
悩み事、困りごとは多いけれど、やはり一番気になったのは、具合が悪くて寝たきりのおばあちゃんだ。
「精がつく、何か特別な薬が作れたら……」
青の独り言に重なって、小屋の軒先を小雨が叩く音が響いた。
「そういえば!」
青はハッと顔を上げた。
藍鬼や、薬草教室の技能師たちも言っていた。
今年は雨が多い。
そういう年は森の気が澱みやすいが、逆に湿気を養分にして、稀有な植物が生えることもある。
「茸、たくさん生えてる場所があったっけ」
藍鬼に連れられて行ったことがある森の奥、水脈が交わる湿地帯。
あそこならば、この長雨を吸って『水月茸』が生えているかもしれない。
滋養強壮に特効がある霊茸で、藍鬼も数年に一度、目にしたことがあるくらいだと言っていた。
「見つけられたら、おばあちゃんが元気になるかも!」
青はすぐさま立ち上がり、道具袋を肩に掛け、小雨が振る森へと駆け出した。
意気揚々と雨煙る森を駆ける青は、知らなかった。
その茸が放つ芳醇な香気と魔力が、人間だけでなく、水に潜む妖獣をも引き寄せてしまうことを。
*
鬱蒼とした木々を抜け、窪地に出た。
「うわぁ、きれい」
曇天に覆われた薄暗い森の中で、その一角だけが、青白く発光している。
池を取り囲んで群生する茸が、小さな森を作り出していた。
その中にただ一つ、大人の掌ほどの大きさの傘を持つ個体の茸があった。
透き通った傘が、小雨を弾いて七色の燐光を放っている。
「あった! 水月茸だ!」
青は歓声を上げ、腐葉土に足を取られながら駆け寄った。
指先が、傘を滑る雫に届きかけた、その時だった。
ゴボッ。
池から、重く、粘着質な音が響いた。