第四部 序 〜 ep. 42 冬凪の龍
その瞬間を、生涯忘れることはない。
まるで彼岸花のようだった。
彼の肩から首筋にかけて斜めに長く深く走った線から、
大量の血飛沫が宙に散った。
瞬間、悟った。
分かってしまった。
彼の死を。
抵抗も力も失った体が血花を散らしながら、
割れた仮面と共に背中から地に落ちていく様を見ていることしかできず、
そこからの記憶は曖昧であるが、
ただ「藍鬼」と喉が裂けるほどに叫んだことは覚えている。
砂塵か、靄か、瘴気か――
霞がかかった空気の向こうから近づく影よりも速く、
地に投げ出され、血だまりに横たわる彼の体に駆け寄った。
仮面が剥がれた彼の容姿がどのような造形であったかなどと、覚えはない。
空虚を見つめる開ききった瞳孔だけが、記憶に焼き付いた。
無我夢中で彼の両手甲を剥ぎ取り、
対の龍を抱いて踵を返した。
影は、追っては来なかった。
振り返らず走った。
茫然自失のホタルを鼓舞し、宥め、時に励まされながら、共に東を目指した。
生還する事だけを考えた。
祖国の領地へ足を踏み入れた頃にようやく、
彼を想い悼む思考を取り戻した。
ひとしきり彼を失った事実に絶望し、
悲嘆に暮れてから、
次に思い浮かんだのは幼い少年の顔だった。
長、上層部、技能師のお歴々よりも、
少年へどの面を下げて彼の死を伝え、詫びれば良いのか、
何一つ思い浮かばなかった。
できた事といえば、
ひれ伏して許しを請う事だけだった。
少年は涙を見せなかった。
少年は誰を責めることも、恨むこともしなかった。
少年はあらゆる感情を閉じ込めた
*
――様
――ロ様
「ハクロ様」
「!」
至近距離から名前を呼ばれ、ハクロは仮面の下で目を開けた。
眠っているつもりはなかったが、白昼夢を見ていたようだ。
顔を上げる前に、仮面の下に指を差し入れて目元の雫を拭った。
目の前に、前髪と肩までの黒髪をまっすぐに切りそろえた少女が首を傾げ、ハクロの面を覗き込んでいる。
赤みが仄かに香る
「し、失礼した……」
「お待たせして堪忍です。山吹のおばあちゃんはこっちです」
子どもらしい声と言葉に促され、ハクロは籐椅子から立ち上がった。
小さな平屋の客間から出て、一度、玄関から外へ出る。
少女に導かれて家屋沿いにぐるりと半周すると裏庭は雑木林となっていて、池の中島に小さな
月のような丸窓の向こうに、小さく丸い人影が見える。
ここは凪より離れた、名もなき隠れ里。
ハクロは長より命じられ、この場所を独り、訪れた。
毒術の神麟に書状を渡すために。
支子色の太鼓橋を進んで中島へ渡ると、
「回り込んで入っておいで」
と庵の主の声がした。
言われるまま壁沿いを東回りに歩く。
開け放たれた東側の格子戸の向こう、室内の真ん中に置かれた火鉢の側に腰掛ける、老女の姿があった。
山吹色の長衣の上に、深藍の綿入れを羽織っていて、頭と顔の半分を隠す同色の御高祖頭巾と、口元を隠す襟巻きが、上半身を覆っている。
影が丸く見えたのは、着膨れのせいであった。
老女の名は山吹、位は神麟。
凪之国、毒術師の元麒麟である。
「お初にお目にかかります。薬術が麒麟の位、ハクロと申します」
頭を下げようとしたハクロへ、
「お入りなさい。そこでは景色が楽しめないよ」
老女は長衣の袖で手招きする。
火鉢の側にはもう一つ、籐椅子が置かれていた。
誘われるがままに空席の前に進み振り向くと、四角く切り取られた空間の向こうに、借景まで明瞭に映す冬の水鏡が広がっていた。
「これは……美しい」
自然と、妖鳥の仮面の下から感嘆の吐息が漏れる。
「はい」
景観に見惚れるハクロの前に、山吹色の袖が差し出された。
「――はい?」
「お使いに来たのだろう?」
「あ」
ハクロは懐から平たい絹の包みを取り出す。
捲って中身を取り出そうとする前に、山吹色の袖が風呂敷ごとお使い品を強引に受け取っていった。
「せっかちですまないね」
行動と言葉に反して、穏やかでゆったりとした声。
「薬膳茶だよ。温まるからお飲み」
火鉢にかけた土瓶からは白い湯気が立ち上り、ハクロの右手側に置かれた小卓の上には空の湯呑みと茶菓子が置かれている。
思いがけない神麟の気安さに少しの驚きを覚えながら、ハクロは遠慮なく土瓶に手を伸ばした。
老女――神麟、名は
「この字は……
山吹の独言が、茶を湯呑みにそそぐ音と共に、ハクロの耳に流れてきた。
「朱鷺殿を、ご存知なのですね」
「少しばかり説教したことがあるだけさ」
手指を覆い隠す山吹色の袖が、器用に書状を開いていく。
「筆の流れが散らかる悪字癖は治らなかったんだねぇ。逝ってしまったと風の噂で聞いたけれど……」
語尾が憂愁に掠れて消える。
看取ったのは自分であるとハクロが言葉に出せないまま、しばし溶けた朝霜の露が土を打つ音だけが続いた。
「……この婆に何の遺言かと思ったら」
衣擦れと共に、書状が畳まれる音。
「ひよっこに会ってやって欲しいのだと」
「先日、新たに龍の位を授かった者です」
「龍だろうと、ひよっこならトカゲの子だよ」
独特な
「朱鷺殿の弟子です」
「そうらしいね」
書状は山吹色の袖袋へ差し込まれ、書状を包んでいた絹布は、ハクロの手元へたたんで返された。
「
「大変に熱心で有望な若者だと、私は思います」
さりげないハクロの推挽《すいばん》を受け流し、神麟は水鏡に映る冬の
「知っているよ。ひよっこを龍に推挙したのは、わたしだから」
「――は、んぐ」
ハクロは強引に口を閉じた。
驚きと同時に、薬膳茶の強烈な香りで咽そうになっていた。
「長からお伺いが来たのさ。背中を押して欲しかっただけだろうがね」
技能師の昇格の可否を議決するにあたり、鶴の一声を持つ長からの相談が度々、各職の神麒・神麟のもとに舞い込んでくるという。
「わたしがここで閑居安穏な隠居生活を楽しんでいると思っていたのかい」
「そんな滅相なことは……」
「上がった」龍や麒麟は、前線や任務の現場から退く代わりに、後任育成の使命を担っている。
「それで、彼にはお会いに……?」
下から窺う視線を送るハクロを、山吹は「いいや」と一蹴した。
「ハクロ特師。お前さんや、朱鷺、藍鬼、禍地にはあって、ひよっこに足りないものは……明らかであろう?」
唐突に名指しされ、思案に硬直したハクロの湯呑みに、山吹は更に茶を注ぐ。
「あのひよっ子は、自らの首を絞めてしまったねぇ。さて、どうなることやら」
「……ぅ、う?」
山吹の言葉と、湯呑みの水面から立ち昇る主張が強い香り。
ハクロはまたひとり、
*
凪之国の冬は、心地よく乾いた晴天が続く。
特に都は、嶮山の峰々が雪雲を遮り、降雪が少ない。時おり吹き付ける冷たい乾風を除けば概ね過ごしやすく、この季節を好む民は多い。
冬晴れのある日。
蟲之区の一角で、シユウの姿が目撃された。
資料室区画の中央で螺旋を描く書架を通り抜けた先の、窓に面して規則正しく並ぶ机、その席の一つに座り資料の紙束と睨み合っている。
「一師だ……」
「え、どなた?」
書架の影から二つの影が窓側を覗いていた。
一人は頭巾、一人は支給品の覆面を身に着けている。
「毒術のシユウ一師」
「ああ…、あの「幻の珍獣」と言われてる?」
「しーっ!」
学校を卒業したてのような若い二人の技能師が、声をひそめながらも、小動物がじゃれ合うように体を押し合いへし合いしていた。
その後ろから、長い影が書架と技能師たちの間をすり抜けようとしている。
「後ろ、ごめんね」
高い位置から降る、低い声。
「す、すみません」
「申し訳ありません」
慌てて技能師達が道を空けた脇を、長身がすり抜けた。
「一師」
しなやかな後ろ姿が、シユウに声をかけながら窓際の席へ進む。
「峡谷上士」とシユウが顔を上げた。
「峡谷豺狼上士…!?」
書架の影に身を隠した二人の技能師は、意外な二人の思わぬ会合の場に出くわすという希少な状況に色めき立つ。
観察を続行する二人の視界に、机を挟んで向き合う二人が爆笑している様子が映った。ところどころ「珍獣」「幻」という単語が聞こえてくるので、どうやら技能師二人がしていた噂話を、峡谷上士がシユウ本人へ告げ口したようだ。
シユウの「幻の珍獣」呼ばわりには理由がある。
獅子の位へ昇格した頃からシユウの名は、本人の預かり知らぬ所で若手や下位の毒術師たちの間で音に聞こえていた。
だが獅子への昇格後に間もなくシユウは外つ国への長期任務に旅立ち、稀に帰還した際にも公に姿を現す事なく、何処かに身を潜めている事が多い。
気がつけば毒薬目録にその名が増えており、あまつさえ単独で要塞陥落任務を成功させたとの武勇伝も流れてくるなど、名を目や耳にするものの、本人の姿はほぼ都で目撃される事がない。
結果、陰でついたあだ名が「幻の珍獣」という訳である。
そこから、峡谷上士が何やら小声で報告をしている様子で一方的にしゃべり続け、合間にシユウが頷き返しているうちに半刻ほどが経過した。
次にシユウが手元の紙資料をいくつか手にとりながら、二回ほど首を傾げる。反して峡谷上士はどこか楽しそうだ。両者間の雰囲気の変化から、本題は終わって雑談に転じているようだ。
「あのお二人が仲良しだなんて知らなかったぁ」
「楽しそう。何の話してんだろう」
若手技能師の二人は物珍しい光景に目を見張りながら、同時に耳を澄ませた。
雑談の時間は長くは続かず、間もなく峡谷上士が席を立つ。去り際にシユウを振り返り「また式を飛ばすよ」と告げ、シユウが「冬の間は凪周辺にいるので」と返し、その場はお開きとなった。
峡谷上士は往路と反対側の通路へと抜けて、資料区を去る。残ったシユウは再び紙束と向き合いはじめた。
「すごいなぁ、やっぱり優秀な人同士で仲良くなるんだね」
頭巾の技能師は「かっこいい~」と、まるで舞台に見惚れるようにはしゃいでいる。
一方で、
「大変だ…」
覆面の技能師は、ただ事ならない様子で背をただし、直後に踵を返して出口側へ書架から抜け出した。
「え、ど、どうしたの??」
きょとんとする頭巾の技能師の声が、その背を追いかける。
「……?」
書架側から聞こえる騒音に、シユウがふと顔を向けた事に二人とも気が付かないまま、再び一帯は静寂の中に落ち着いた。
「冬の間は凪にいる」
この何気なく発したシユウの一言がこの年の冬、凪の毒術師道界隈を騒がせる事になるとは、本人が気が付く由もない。
*
「……?」
書架側から聞こえた物音へ顔を向け、何事も異変が無い事を確認してから、青は再び手元の資料束へ視線を落とした。
それは、この一年以内に虎以下の毒術師が携わった任務報告書の写し。
お偉方からの「自分の事で手一杯」という非難が思いのほか胸に応えていた。
省みれば、高位とされる獅子に昇格して以降、若手や後輩に目を向ける余裕を持てずに、特権を自分のためにしか活用していなかったのだ。
師たちにあって、自分に足りないものの一つ。それは後進指導、すなわち毒術師道の持続性と発展への貢献である。
こうして資料を眺めていると、改めて気付かされる。
知っている下位や若手の毒術師の名前がほぼ、無い。
「下の人脈が皆無って、僕サイテーでは……」
青はひとり落ち込むが、不可抗力な面もある。
毒術師が人材不足である事や、青が若くして短期のうちに昇格を繰り返してきたために、同列や下位との交流を育む以前に上との繋がりが増えた事、その高位の間でも明らかに年少である青自身が常に下っ端の立ち位置であった事、等々。
上だけを見て進み続け、ふと頂点手前に辿り着いて辺りを見渡すと、そこには誰もいなかった――。
「朱鷺一師もこうやって、僕を見つけてくれたんだよな」
何から始めれば良いのか当惑していたところ、まずは師を模倣してみる事にした、というのが今だ。
時機が好い事に、西方開拓任務においてはしばらく青が出張る必要性は無さそうである。
豺狼が蟲之区へ青を訪ねてきたのもそのお達しを伝えるためだった。
蒼狼ノ國は――
狼の背骨を睨む要塞が機能不全、東との交渉役を担っていた高官が死んだ事で、以東政略が頓挫している状態が続いている。
凪の長の目論見通り、時間稼ぎに成功していた。
白狼ノ國は――
蒼狼が停滞している隙に白狼王は、凪へ使者を送った。長に宛てた書状を携えて翡翠の陣守村を訪ねたのは、白狼王の十五子、狩莅。そして二十五子の、狛。使者が王の実子とあり、白狼側の真摯さがうかがえるものであった。
書状は速やかに長の手に渡り、上層部で精査中である。
白兎ノ國は――
獣鬼隊との関係性の構築を任されている菊野上士からの報告によれば、獣鬼隊と共に白兎及び周辺国での妖討伐は順調で、徐々に鏡花や子どもたちとの信頼関係を築く中、神通術を用いる上位組織の存在は確実であり、幾人かの強力な神通術の使い手が幹部に存在しているようである、というところまで聞き出せていた。
こちらは当面、活動を継続していくようだ。
といったように、折しも各方面が経過観察もしくは現状維持の状態である。
また、北回り経路地――白兎以北、以西の気候特性や風土は元来が厳冬で、極寒気候に不慣れな凪の法軍人らに冬季の経路開拓は得策ではない。
以上が、豺狼から告げられた報告だ。
こうした状況から当面、毒術師シユウには凪周辺に留まるよう、上層部より指示が出されたのである。
そして話は、青の手元にある大量の任務報告書の束に戻る。
凪に留まる冬の間は、朱鷺のように指名権を行使し、凪周辺での高難易度任務へ若手を帯同してみようかと考えたのだが、
「……選べない……」
束の半分ほどまで目を通したところで、青は机に突っ伏した。
未だに己の未熟さに苛まれる日々であるというのに、どうして人を選ぶなどとおこがましい事ができようか。
「だいたい「珍獣」に指名されて嬉しいのかな」
顔をあげて姿勢を正し、寒々とした枯れ庭を映す窓を眺める。思い起こすのは、初めて朱鷺に指名された日のこと。
素性を見破られたのかもしれない、という恐怖が先んじたものの、次に湧き上がったのは高揚感だった。
新米狼から見れば遥か高みにいる、龍の位を持つ存在の目に留まった。
まずその事実だけでも身震いを覚えるものだ。
任務で再会した薬術の蓮華二師(当時)から「二度目は無い」と焚きつけられた時は、一度で飽きられてたまるかと躍起になったものだった。
「……」
視線を窓の外から、手元に戻す。机の上に置かれた手の甲に光る、龍の紋章が目に入る。
「……龍に価値がある…か」
幼い頃に耳にした藍鬼の言葉に、今は強い共感を覚える。
神獣への畏怖になぞらえて、傲りへの戒めとし、初心と謙虚さを忘れない心の在り方を表すもの。
その裏には、高位が持つ至重な価値が持つ重責、しがらみから心を保つ意味もあるのではと、青は思う。
「そうだ。望まれているのは、僕じゃない。この龍の位」
そう考えれば、心が軽くなった。
改めて資料をめくる手を動かし始める。
狼の場合は解呪役として任務同行して可も不可もない評価である事が大半で、虎となれば戦闘補助や遺骸処理、毒罠の設置などで貢献度は上がってくる。
「任務との出逢いも、ご縁と運次第ってところがあるしなぁ…」
評価だけの統計をとって判断するのも、一概に正解とは言えない。
朱鷺のようにとにかく数を打って行くのも正解の一つであろう。
「良いこと思いついた!」
頭をよぎったひらめきを形にすべく、青は白紙を手繰り寄せた。