毒使い   作:キタノユ

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ep. 46 黒い眼(6)

「な、なんだ……!?」

「ご心配なく」

 

 是枝の上ずった声に応えてから、青は符を握った手を黒睡蓮の表面に押し当てた。毒符の効能を重ね掛けして、閉じ込めた黒靄の抵抗を抑え込む。

 不穏な軋み音を鳴らしながら、黒睡蓮は白黒の点滅を弱めていった。

 

 その様子を見つめ「……そうか」と呟いてから、

「簡単には破られません」

 と、まだ不安げな是枝へ改めて頷いてみせ、次に紅鶴へ視線をやった。

 

「失礼する」

 青からの目配せを受けた紅鶴が陽乃へ手を伸ばし、手首を掴んで手前に引く。

 やつれ果てた体はいとも簡単に、つんのめって紅鶴の懐に倒れ込んだ。

 

「――っあ……!」

 掠れて引き攣った悲鳴が上がった。

 紅鶴が陽乃の手を開かせて薬入れを奪い取り、青へ手渡した。

 

「返してちょうだい! お願い、殺さないで!」

 枯れた声で喚きながら、陽乃は痩せて骨張った腕を青の手にある薬入れへ伸ばした。

 肩を抑える紅鶴の手から抜け出そうと踠《もが》く。

 

「その子たちだけは、どうか助けて!」

「……?」

 

 懇願の言葉に違和感を覚え、一同が眉を顰めた。

 半狂乱になりながら幾度と「緋炎」「灯里」の名が叫ばれる。

 

「出流さん……!」

 落ち窪んだ陽乃の眼が、出流に向いた。

 

「ほら、あの子たちが緋炎と灯里よ。出流さんと同じ、兄妹のきょうだいなの。お願い、あの子たちを助けて……!」

「え……」

 

 助けを求められて出流は、困惑して背中を引きかけた。陽乃から姿を隠すように、青が出流の前へ踏み出す。

 

「緋炎と灯里が、彼女の子の名か」

「――はい。兄と妹のきょうだいなのだとか……」

 

 そこに存在しない幼子たちの姿が、陽乃の目には映っているようだ。唇を震わせ目を血走らせた顔相から、虚言とも言い難い。

 

 我が子らと引き裂かれた時の記憶と、我が子の死を突きつけられた記憶が混同して、幻覚となっている可能性もあった。

 

 陽乃が取り乱す様子を横目で気にしながら、青は薬入れを眺める。

 中に幼子の指が仕込まれていたと是枝は証言していたが、今は蓋が閉じられていた。

 指先で押し上げようにも、蓋と本体の繋ぎ目が黒い糊で塗り固められている。

 

 裏面には大きく炬の元・篝州長家の紋らしき紋様が金で箔押しされていた。

 かつての護衛任務の際にも目にした、陽乃の白馬の鞍や荷物のあちこちに、刺繍や刻印がなされていた意匠と同じものだ。

 

 金の箔押しの一部が禿げていて、上塗りの漆も削れて容器の素材である乳白色が露出していた。

 指で撫でてみると細かな凹凸のあるざらりとした感触で、動物の骨か角のようだ。

 

 漆の上塗りの下から別の紋様の一部が見え隠れしている。

 正円の一部と、正円の中央から引かれたと思われる直線が数本。

 

 陽乃の体から摘出した呪具と、自爆した獣血人が遺した呪具に刻まれたものと同じ、正円の中に五方向へ放射する日足の紋の一部に見えた。

 

「……やはりか」

 さほど驚きはせず、青は苦無を逆手に握り、片手に持った薬入れ目掛けて刃を振り下ろす。

 

「やめてぇええ!!」

 陽乃の絶叫と共に、黒い閃光が走った。

 

「っ!」

 硬い反発が指から手首の骨にかけて響いて痺れが走る。

 

 薬入れに突き立てたはずの苦無の刃先が、米粒一つ分ほど届かない手前で硬直した。見えない鋼鉄に遮られているかのようだ。

 柄を握る利き手は震え、甲から腕にかけて血管が浮き出ているが、刃先はびくともしない。

 

(ふた)が……」

 目の前で、薬入れの蓋を封じている黒い糊が徐々に溶け出した。

 

 手のひらの上で、蓋が生き物のごとく自ずと開き始める。半液体の黒いヘドロが僅かに開いた容器の隙間から漏れ出て、空気に触れると共にまるで意思が生まれたかのようにうねった。

 

「わ、またかよ!」

 焦燥(しょうそう)辟易(へきえき)が混在した是枝の声と対照的に、青は無言で薬入れから漏れ出る黒い(うみ)を眺めていた。

 

 術のからくりが理解できれば、恐れる事はない。

 

 あの呪具は陽乃の憎悪を糧に呪力を増幅させ、子どもたちへの情愛を養分に蜥蜴を孕《はら》む。

 陽乃に子どもたちの幻覚を見せているのも、思念を引き出すため呪具に仕組まれた卑劣な術法であろう。

 

「……一師?」

 不自然に冷静な青の様子に訝しげな様子の紅鶴が見守る中、

 

「大丈夫だ」

 青は空いた手に符を握らせ、薬入れを置いた手のひらへ互い違いに重ねた――途端、手のひらの中で白黒の閃光が弾ける。

 

「つっ……!」

 火に放り込まれた栗のように、塞いだ手の中で熱が暴れた。

 青は奥歯を噛み締め、瞳を閉じる。

 意識を全集中させて呪具の中へ中へと解呪薬を染み渡らせるにつれ、腐敗した死骸のように手のひらの中で膨張の感触が伝わった。

 

「――解呪!」

 

 一喝で唱えを吐き出すと共に、青は両手の平同士を固く結んだ。

 ぐしゃり、と不快な感触がして全ての指という指の間から勢いよく膿かヘドロか、黒い半液体が溢れて押し出され、青の覆面や衣服を汚す。

 

「ひッ」

 陽乃が喉を引き攣らせた。

 彼女の目には今、何が映っているのか。

 

 結んだ両手を体から遠ざけた位置で、青は少しずつ両手を開いた。

 硬い音がして、足元に薬入れが落ちる。

 

 手のひらから溢れてこぼれかけていた黒い膿は、空気に触れて間も無く乾ききり、地面に落ちる前に砂となって風にかき消えた。

 

 ざらついた音がした方を見やると、凝固(ぎょうこ)した巨大な黒睡蓮(すいれん)までもが、天から地にかけて重力に従って崩れ、こちらも風に攫われ空気に解けて行く。

 

 青は足元に落ちた薬入れを拾い上げた。

 容器の中身は空となり、こびりついていた黒い糊も消えていた。

 

 指先で蓋を閉じてみると傷と歪みによって完全に閉まらず、開き切った蓋が錆びた金属の蝶番によってかろうじて容器と繋がっている状態だ。

 

 薬入れは、呪具としての力を完全に失っていた。

 

「あぁ……」

 嘆く声に振り返ると、紅鶴の足元で陽乃がへたり込んでいる。

 

「あの子たちが……消えてしまった……」

 土に腰を落としたまま、枯れ木のような手を宙に彷徨わせる。

 ちょうど、幼い子の目線の高さで。

 

「あ」

 向かい合う是枝が表情を曇らせた。

 

 近づく複数の気配に青が振り向くと、村の北側へ避難していた炬の難民たちが寄り集まっていた。

 その中の数人が、廃屋から掘り起こしてきたのだろうか、先が欠けた(くわ)(すき)など壊れかけの農具を手にしている。

 

「今度こそ、その女を成敗するのじゃ!」

「凪の法軍人さんたちの手は煩わせねぇ、俺たちで片付ける!」

「そこをどいてちょうだい! 旦那の仇を打たせておくれ!」

 

 農具を振りかざす難民たちの背後に「殺せ!」「また化け物が出てくる前に!」と次々と難民たちが加わっていく。

 

「待て、凪でこれ以上の余計な殺生はまかりならん!」

 恐怖から解放された安堵感から気が大きくなっている人々に、是枝の制止の声は届かない。

 青たちを押しのけて、背後で茫然自失に蹲る陽乃へ今にも農具を振り下ろさんとするばかりの勢いだ。

 

「もう! みんなせっかく手当したのに傷が開くでしょ!」

「みなさん、おち、おちおち落ち着いて下さい!」

 

 樵場から誘導を終えた蓮華や鹿花も加わって野次馬を引き剥がしにかかるが、戦闘に不向きな二人は容易くおしくらまんじゅうの外側に押し出されてしまう。

 

「きゃっ!」

 難民の誰かの手が、陽乃の髪を掴んで輪から引き摺り出した。複数の手が背中を押さえつけて陽乃の体を土に引き倒す。

 そこへ、頭ごと首を叩き潰すつもりか、男が鋤を振り上げた。

 葦火の処刑場の再現とばかりに。

 

「やめろ!!」

 青、紅鶴、是枝、出流それぞれが暴挙を止めようと動きかけた。

 

 そこへ、

 

 キュイィィィ……

 

 天に大鳥の声が甲高く響く。

 

 その刹那、誰もが動きを止めて、空を仰いだ。

 太陽を覆い隠す紅の翼が、小競り合いを物見遊するように旋回している。

 

「あれは……炬紅(きょこう)鳥だ!」

 難民たちが一斉に鳥の名を言い当てる。

 

 鮮やかな紅色の羽を纏った大鳥は二度、三度と呼笛のような声で鳴いて、村の中央に降り立った。孔雀ほどの大きさの紅鳥は、静かに羽を畳む。

 

「炬紅鳥という事は……」

 紅の羽、嘴、瞳を持つ鳥の向こう、北の街道側から新たな人影が姿を現した。

 臙脂を基調とした揃いの装束に、色違いの帯縞や飾り筋が袖口や襟に施されている。

 

 炬之国の法軍人たちだ。

 

「その者の身は、我らが引き受ける」

 先頭を歩く代表者の男が、唖然と立ち尽くす自国民たちの前を通り過ぎ、青たち凪の面々へ視線を一巡した後、唯一の技能師ではない、上士の腕章を身につける是枝に目を止めて、歩み寄った。

 

「凪之国の皆々様には、我が国での騒動に関して多大なご迷惑をおかけした」

 細身ではあるものの上背のある男は、恭しく是枝はじめ凪の面々に礼を向ける。

 

「篝州に新たな長が立った。近いうちに新州侯より御国はじめ各神通祖国へ、公に謝意を表明することとなりましょう」

 

 丁寧ながら、相手に言葉を挟ませる猶予を与えない圧力が否めない。

 

 炬の法軍人は手早く一通りの儀礼を済ませると、土に塗れた陽乃の姿を見やって、侮蔑が混在した憐憫を口端に浮かべた。

 

「――お連れしろ」

 そして背後に並ぶ数人の部下の列へ(あご)(すく)うと、最後列に隠れていた、深臙脂(えんじ)色の外套に身を包んだ小柄な人影が列をはみ出した。

 

 頭から被っていた頭巾に指をかけておろすと、艶やかな闇色の髪の毛が現れる。

 檀弓だった。

 

「!」

 青は覆面の下で驚きを噛み殺す。

 

「陽乃様……!」

 黒髪の侍女は身につけていた外套を脱いで、土に膝と手をついて俯く主人の細い肩へ掛けた。

 

「ああ……お可哀想に……お探し申し上げました」

「……ま……ゆ、み……」

 

 外套越しに抱き寄せられて、ようやく陽乃は顔を上げる。

 腐葉色の濁った目が、微笑む侍女を見上げた。

 

「はい。檀弓は、いつも陽乃様のお側におります」

 檀弓の黒い瞳が弓状に細められる。

 

 青はそれが、いつか見た妖獏の目のようだと感じた。

 

 

 全てはほんの小さな我儘(わがまま)だった。

 

 陽乃が覚えている最初の我儘は、四歳の頃。お気に入りの人形が壊れた時だ。

 人形は、黒髪の毛糸と黒い瞳の宝石が美しい、父親の異国土産だった。

 いつも一緒に寝て、一緒に着せ替えやままごと遊びもした。姉妹がいない陽乃にとって、姉のような存在だった。

 

 陽乃が新しい人形をねだったその翌月のこと、父親は陽乃に新しい侍女を連れてきた。

 黒髪と黒い瞳の、三つ年上の少女で、名を檀弓《まゆみ》といった。

 

 以来、檀弓はお気に入りの人形さながらに、常に陽乃の側にいた。

 

 

 次に記憶に残っている小さな我儘は、州都で熱病が流行った時期の事。

 幼かった陽乃も罹患(りかん)して高熱に()せったが栄養状態も良かった事から、順調に回復した。

 

 だけど陽乃には、不満があった。

 

 臥っている間、みな陽乃に優しかった。忙しい父も兄たちも、仕事や学業よりも陽乃の見舞いを優先してくれたのに。またひとりぼっちになってしまう。

 

 陽乃は嘘をついた。

 頭が痛い。お腹が痛い。苦しい。痛い。

 

 檀弓が酷く心配して、父や兄たちへ泣きながら訴えた。

 このままではお嬢様が死んでしまいます、と。

 

 すると翌日から、入れ替わり立ち替わりに大勢の医者が陽乃の部屋を訪れるようになった。

 とうに元気になっているのに、苦くて不味い粉薬や薬湯をたくさん出された。

 州中から集めてきた高価な秘薬や特効薬だというが、陽乃にとっては不要なものだ。

 大人たちの目を盗んでこっそり捨てた。

 

 その年、大勢の子どもたちが死んだ。

 使用人たちの中にも子を亡くした者が少なくなかったようだが、その事実が陽乃の耳に入る事はなかった。

 

 

 陽乃が十代になった頃、初めて父に連れられて異国――凪之国を訪問、そこで初めて「一目惚れ」を経験した。

 

 相手は同世代の見目麗しい青年士官で、名を峡谷豺狼といった。

 峡谷青年へ一目逢いたさに、父にねだって何度と凪への外交旅に随行した。

 社交の場で身につけるのだと言い訳して、豪奢な装束や煌びやかな宝石をいくつも(あつら)えさせた。

 

 ただ恋する青年へ、精一杯にめかし込んだ自分を見せたい、それだけの乙女心だ。

 

 檀弓は陽乃の恋を一生懸命になって応援した。

「いつも一番素敵なお嬢様をお見せしませんと」

 と、父や兄たちや使用人たちに陽乃の要望を伝えた。

 

 陽乃の度重なる遊覧旅の準備に、使用人たちは忙殺された。

 無理な旅程の連続に加えて、贅沢品を積んだ豪華絢爛な運搬旅団は賊らにとって格好の標的だった。

 

 死傷した人足の数は両手でも数えられなかったほどだが、その事実が陽乃の耳に入る事はなかった。

 

 

 陽乃の淡い初恋は、父が一方的にもたらした婚約話に打ち砕かれた。

 檀弓からの情報によれば、相手は葦火群の商都一の資産家当主であり、父親ほどの年齢の男であるという。

 

 檀弓は心から悲しみ、陽乃へ同情を寄せた。

「お可哀想なお嬢様……お嬢様のような可憐な方には、峡谷様のようなお方こそお似合いですのに」

 と。

 檀弓の慰めは、陽乃を心地よくさせた。

 

「峡谷様がわたくしを賊から救って下さったら、お父様もお許し下さるかしら」

 それは、ほんの児戯に等しい空想ごとだった。

 悪漢から守ってくれる麗しの君――恋する少女が誰でも夢見る程度の御伽話――のはずだった。

 

「檀弓にお任せください」

 御伽話の作戦は、結果的に凪の護衛隊の数名に重軽傷者を出して終わった。

 

 父の州侯が炬の長を通じて凪之国へ謝意を表すため、幾人かの官吏や使用人たちの管理不行き届きを咎め減給や配置転換等の処分を下した。

 

 出世の道を断たれ自ら命を絶った官吏がいたり、路頭に迷いのたれ死んだ使用人がいたそうだが、その事実が陽乃の耳に入る事はなかった。

 

 

 陽乃の我儘は常に他愛もなく、はじまりは小さなもので、檀弓はどこまでも忠実だった。

 

「檀弓は、いつも陽乃様のお側におります」

「お嬢様は何も悪くありません」

「お嬢様、何か欲しいものはありますか?」

 

 それが檀弓の、口癖だ。

 陽乃の小さな我儘を現実に変える、まるで魔法の言葉だ。

 

 

 陽乃が葦火に嫁いでからも、それは変わらなかった。

 

 社交の場で官吏の妻が身につけている、家宝だという髪飾りが目に留まった。西方の異国で採取される純度の高い翡翠石が用いられている。

 

「ね、檀弓。あのお飾り、素敵ね」

「本当に。きっと奥様にお似合いです」

 

 何気なく口にしてからしばらく後、髪飾りは陽乃の元にあった。

 

 その少し前にとある官吏一家が取り潰しとなっていた。

 要因の一つに官吏の妻が不貞を働いたという噂が囁かれているが、真偽は定かではない。

 没収された財産の中に鬼灯(ほおずき)の実ほどの大きさの翡翠石を贅沢にあしらった髪飾りもあった。

 

 だが、その事実が陽乃の耳に入る事はなかった。

 

 

 嫁いで一年と少しが経過し、子を宿す兆しが見えずに焦りを覚え始めていた頃。社交の場において他家のご内儀たちの懐妊報告が続いた。

 

「陽乃様はまだお若いのですから。焦りはお体に障りますわ」

「そうですよ。お綺麗でいらして羨ましい限りですわ。わたくしなんてすっかり、太ってしまって」

 

 励ましの言葉をくれるご婦人方が、みな福々と幸せそうに見えた。

 

「また御義母様に嫌味を言われてしまったわ」

 夫の母親に他のご内儀と比べられたと、檀弓に鬱憤を吐き出した。

「まあ……、奥様とどなたかを比べる事など意味がありませんのに」

 

 それから間もなくして、幾人かの商家や官吏の内儀が立て続けに子流れした。

 予後が悪く、もしくは心を病んで自らと、子の後を追うように命を落とした者もいて、待望の跡継ぎを失った機に階段を転がり落ちるかのごとく没落していった家もあった。

 

 だが、その事実が陽乃の耳に入る事はなかった。

 

 

 その後、陽乃は無事に跡継ぎとなる男児、続いて珠のような女児をもうけた。

 陽乃の懐妊が判明するたび、檀弓のはしゃぎようは子どものようだった。

 

「旦那様や大奥様に、盛大なお祝いをしていただかなければなりませんね!」

 と、懐妊、出産後のお披露目など、事あるごとに祝いの宴が開かれた。

 

 出席者の中には、子や妻を亡くした者達も多く含まれていた。

 

 だが、その事実が陽乃の耳に入る事はなかった。

 

 

 陽乃が嫁いで二年も経つ頃、葦火にはある飛語が流れ始めた。

 

 州都から葦火に嫁入りした蜥蜴女が、葦火に毒の火種を撒き散らしている、と。

 

 だが、その事実が陽乃の耳に入る事はなかった。 

 

 陽乃がそれらの事実に気がついたのは、罵詈雑言の石礫を浴びるためだけの名ばかり裁判で、有罪判決を受け、死刑を言い渡された時だった。

 

 処刑を待つ間に過ごした、朽ちかけの土蔵に設けられた座敷牢。格子を挟んで檀弓と内と外で向き合った。

 

 檀弓が格子の中に手を伸ばして陽乃の髪をとかし、手拭いで体を拭き、時に看守の目を盗んで菓子を渡すなど、処刑前日まで陽乃の世話を焼いた。

 

 外側に向けられた観音開きの小窓は常に開け放たれていて、土蔵の内部は冬の冷気が吹き込む寒々しく土臭い空間だった。

 

「陽乃様は、何も悪くありません」

 やはり檀弓の言葉は変わらなかったが、この時はじめて、陽乃は首を横に振った。

 

「何も知ろうとしなかった、(わたくし)が悪いの……」

 檀弓の黒い瞳が、おや、と小さな驚きに丸くなった。

 

「何を仰いますか。それより、何か欲しいものはございますか?」

「何も」と陽乃は俯いた。

「子どもたちと、檀弓と……静かに暮らせたら……それで」

 

 小さな苦笑と共に、ひび割れた唇から溢れたのは、もう二度と叶うことはないと分かりきった「小さな我儘」だった。

 

「……陽乃様……」

 それが、陽乃が処刑台に上がる前に、二人が交わした最後の会話だった。

 

 処刑台に引き上げられた陽乃は、まるで温い泥水に浸かっているような感覚の中にいた。

 

 刑台を囲む群衆の声は不透明に篭っていて、のっぺらぼうな案山子が風に揺れている。

 

 何も感じず、恐怖も湧いてこなかった。

 

 首切り台までのほんの数歩、白木のささくれが素足に刺さって痛みを感じた――瞬間、音の洪水が聴覚に流れ込んで、のっぺらぼう達が並ぶその中に、黒髪と黒い瞳を見つけた。

 

 檀弓の黒い眼はいつも、陽乃を見ていた。

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